のろいと自由

 「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。
 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:9-13)

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 律法は、どこまで行っても義とされない、到達点がないという点で、その人をのろわれるべき存在にする。
 だがキリストは、「木」すなわち十字架に架かって自らのろわれるべき存在となられた。
 いかに罪を犯さなかったとはいえ、イエスは人間と同じ肉を持っている。
 そのイエスが肉を処罰するために、十字架に架かるのである。
 だとしたら、私たちの罪深さはどれほどのものであろうか。
 ちなみにその罪は、律法によってあぶりだされる。

 しかし、キリストの十字架によって、自らのろわれるべき存在となられたキリストを信じる私たちは、律法が拘束し続けていたのろわれるべき罪の肉から解放されて、義と認められる。
 律法自体は存在するのだが、その律法からは自由な立場にある。

 その自由は、ただ神の恵みによる。
 神の恵みとは、十字架のキリスト、復活のイエスに出会うということである。

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