何を求めているのですか

 「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」
 彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」(ヨハネ1:35-38)

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 イエスの第一声。
 「あなたがたは何を求めているのですか」。

 イエスは、求める者にはお与えになる。次の聖句にあるとおりだ。

 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

 このように、何でもお与え下さる。
 3億円下さい、とか、果てはサタンの力を与えてください、といったものさえ、与えてくださるに違いない。
 なぜかというと、そうするによって、イエスには「求めるもの」を何でも与える力があるということの証明をすることができるからだ。
 それでイエスは、「あなたがたは何を求めているのですか。」と第一声を発したのだろう。
 イエスは例外なしに、求めているものを満たしてくださる。
 五千人の給食は、その一例と言っていいかもしれない。

 ところでイエスはキリスト(救い主)である。
 「救い主」に求めることといったら、救われることでなくてなんだろう。
 罪からの赦しによる救い、「いのち」を得ること。
 これを保ち続けること(参/2ペテロ1:3-10)。
 キリスト・イエス以外の誰が、この求めに応えることができようか。

 3億円は、あるいは誰かが与えてくれるかも知れない。宝くじが当たることによっても、また、自力で荒稼ぎすることが叶ったっていい。
 サタンのことはサタンに頼めば済むだけの話だ。
 そうすると、「キリストでなくては」という願い事というのは、おのずと限られてくる、いや、ひとつだけになるはずだ。
 そのひとつだけのものは無論、キリスト・イエスが約束通りに与えてくださる。

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バステスマのヨハネ

 「彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。
 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
  ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」(ヨハネ1:23-31)

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 彼またはヨハネは、バステスマのヨハネ
 四つの福音書のどれにも登場する。

 バステスマのヨハネの役割は、『主の道をまっすぐにせよ。』と叫ぶこと。
(参/イザヤ40:3)
 つまり、イエスがキリスト(救い主)だということを「明らかに」すること。
 更には、そのためにもっぱら、「水でバプテスマを授け」ることだ。
 そして彼は、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んで、罪を取り除くことによってイエスは多くの人を救うということを明らかにもした。

 バステスマのヨハネのその重要性は、イエスへの道のり、そのはじめをしっかりとつけたことにあると思う。
 イエスをキリストと分かり、そうと公然と言い知らせた世界で最初の人だ。
(分かったというより教えられたのだが。)
 今もなお、『主の道をまっすぐにせよ。』という声は方々にこだましている。

 ちなみに、アウグスティヌスが受洗したのは回心のずっと後である。
(さきほど確認した。)

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ただ、神によって

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 今年もクリスマスが近づいてきて、街や家のあちこちでイルミネーションが見られるようになった。アルファベットが光り輝く。
 " Merry Christmas ! "
 判で押したような光の文字列。
 だがそんな世は、イエスを知らない。
 そのことはここ最近に始まったことではない。
 イエスが世に来られても、世は知らなかった。
 イエスが来られる前、誰もがキリストの到来を待ち望んでいたのにもかかわらずイエスがそれとは分からなかった。
(イエスはそのことを伝えるためにどれだけのことをなさり、仰ったであろうか。)
 「知らない」というよりも、「受け入れなかった」のだ。

 ところが受け入れなかったさ中にあっても、「その名を信じた人々」がいる。
 「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、」信じた人たちだ。
 すなわち、信じようと思って信じたというのではなく、「ただ、神によって生まれ」て信じるに至った。
 血筋は関係がない。
 肉の欲求や人の意欲も、ことイエスを信じると言うことについて、全く関係がない。
 ただあるとき、「ただ、神によって生まれ」る。

 Christmas ! のイルミネーションが世界中の富んだ国々で輝いている昨今。
 そのような中、ある種の苦闘の末に神によって新たに生まれてイエスを知る人が、今日もどこかにいることだろう。

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たましいの牧者

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:22-25)

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 「罪」という日本語はほんとうに厄介だ(英語には、 sin がある)。
 『律法がひとつでも遵守されていなければ、その人は罪人である。』
 聖書において「罪」とはもっぱら、このような意味だ。

 そして私たちは、この神の「律法」を守ることのどこまでもできない罪深い存在である。
 しかしその罪は、十字架のイエスになすりつけられた。
 「ののしられても、ののしり返さ」ない。
 十字架のイエスは、あらゆる罪や悪意をすべて吸収してしまうかのようだ。

 この十字架のイエスは死に、そして復活する。
 復活したというのは、イエスによる罪の処理が認められたということ。
(「神だから」というほど単純だとは、思えない。)
 この復活のイエスを受け入れることができるならば、その人は「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰」ることができたのだ。
 罪赦され、義と認められる。
 今までさまよっていた私たちは、ほんとうの牧者、復活のキリストを見いだすことができる。

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和解

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:17-19)

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 神の和解の手、それが十字架のキリストだ。
 「和解」?
 そう、今までは神とは常に対立関係にあり、神は怒りの内にあられた。
 それは何より、私たちの「違反行為」のためだ。
 「違反行為」そのものが、私たちを責め立て続ける。

 神の愛とは、それにもかからわず私たちと和解しようと試み、その和解をするために、十字架のイエスを送って下さったことだ。
 しかも、「違反行為」の処罰を、このイエスは身代わりに一身に受けられたので、私たちはその処罰を受けなくて済む。

 だから、このキリストのうちに入ったその瞬間、「和解」の世界へと突き進み全てが新しくなる。
 だんだんに、というのではない。これは瞬時に、しかも、全てがだ。
 和解したので、「違反行為」からの責めは、もうない。
 これは、この世の中でやりやすくなるとか、そういうことを意味しない。
(むしろ逆だ。)

 この和解は、例えばパウロが受け入れろと迫って「はい」と応えれば成立する、そんな類のものでは、全くない。そんな人間の働きなど、全く関係がない。
 ではパウロの働きが全く無意味だったかというと、そのようなことは全くない。

 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1コリント1:23-24)

 「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」ことをしてくれたから、2000年後の今もなお、和解のための十字架のキリストを受け取ることが可能なのである。
 今ももちろん、神からの和解の手は差し伸べられ続けている。

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律法について

 「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
 モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。
 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(マルコ7:6-13)

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 「彼ら」、「あなたがた」とは、パリサイ人達のこと。

 彼らは「言い伝え」によって勝手に律法を空文化してしまい、「それ」をたやすく遵守することができるようにしてしまった。
 だがそれは人間の教えにすぎず、神の戒めからは程遠いものである。
 そのように、神の戒め・律法を勝手に都合良く修正してしまう彼らは、神からはるか遠く離れている。

 そのままの形の律法を守り行おうとしても、ある所で必ず壁にぶつかる。
(壁にぶつかるのが嫌だから、勝手に空文化してしまうのだが。)
 イエスが次のように仰るのは、この壁にぶちあたらせて、無力さと罪深さとを深く自覚させるためである。

 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2-3)

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罪人への招待

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)

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 「こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである」。
 「こういう人」というのは、取税人や罪人たち。
 彼らは食物にありつきたくて、イエスに従っていたのだろうか。
 彼らは常日頃、「パリサイ派の律法学者」からさんざん罪人呼ばわりされている。
 自分が罪深いことを深く認識して、その上で救いをイエスに見いだし従っている。

 「パリサイ派の律法学者」は、人の罪や欠点をあげつらうだけあげつらって、自分の罪や欠点は見ようともしない。
 だからたちが悪い。
 彼らがイエスのもとに来ないのは、自分が正しいと思っているからだ。
 そう思っているうちは、けっして「いのち」にあずかることはない。

 イエスが来られたのは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」だ。
 律法を突き詰めてゆくと、「正しい人」になどなれようもないことが、いやがうえにも分かる。
 すると自分は実は非常に罪深い、このことが分かる。
 それが分かったら、おのずとイエスの招待を受けるはずだ。

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鳥が巣を作る野菜

 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13:31-33)

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 「御国」というのは、ある時まではずっと、からし種ほどの小ささ、その存在さえ忘れられているような、それほどまでに徹底的に小さい。
 ないに等しい
 ところが時が来ると、あっという間に、「どの野菜よりも大きくな」るほどにその人の中で大きく膨らむ。
 ほんとうにあっという間だ。

 ちなみに鳥が巣を作るほど大きい野菜など、ない。
 つまり、想像もつかないほど「御国」は大きくなる。
 見えないほど小さかった「御国」は、時が来るとこんなにも膨らむ。

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イエスの兄弟

 「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。
 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:31-35)

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 ただイエスの周りに座っているというだけで、イエスは彼らを「わたしの母、わたしの兄弟たち」と仰る。
 そして「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母」だという。
 そうすると神のみこころを行うというのは、端的に、イエスと共にいる、ということではないだろうか。

 イエスの生みの親や肉の兄弟達は、行動を共にしないばかりか、心配そうにイエスを遠くからみやっているだけで、イエスと共にはいない。

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練られた品性

 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ4:25-5:5)

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 信仰ある者にとっては、神との平和な関係がある。
 これは本来的にありえないことだ。
 だから「恵みの平和」とでも言おうか。
 すべて、神が与えてくださったものだ。
 私たちの罪を贖うためのイエスの十字架も、そして贖われて更に義と認めてくださるイエスの復活も、それからそれらを信じるこころも。

 確かに、ありえないはずの神との平和がある。
 だからといって世でも平和であるわけではない。
 多分、寧ろそれゆえに、世では患難が多いのではなかろうか。
 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」。

 「練られた品性」、忍耐することによって私たちは練られるのである。
 練られて、さらにまた、練られる。
 それは、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」(1ペテロ1:7)というのと同じだ。
 金の純度をどんどん上げていった純金、それよりもすばらしい品性、「練られた品性」。
(ちなみに、口語訳、新共同訳では「練達」と訳されている。)
 神との平和にあって、患難の中、練達してゆく。

 そして、失望に終わることのない希望、「天の御国」をますます確信するに至るはずだ。
 そしてそれはもちろん、神との平和の中にあっての希望の確信である。

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