たましいの牧者

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:22-25)

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 「罪」という日本語はほんとうに厄介だ(英語には、 sin がある)。
 『律法がひとつでも遵守されていなければ、その人は罪人である。』
 聖書において「罪」とはもっぱら、このような意味だ。

 そして私たちは、この神の「律法」を守ることのどこまでもできない罪深い存在である。
 しかしその罪は、十字架のイエスになすりつけられた。
 「ののしられても、ののしり返さ」ない。
 十字架のイエスは、あらゆる罪や悪意をすべて吸収してしまうかのようだ。

 この十字架のイエスは死に、そして復活する。
 復活したというのは、イエスによる罪の処理が認められたということ。
(「神だから」というほど単純だとは、思えない。)
 この復活のイエスを受け入れることができるならば、その人は「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰」ることができたのだ。
 罪赦され、義と認められる。
 今までさまよっていた私たちは、ほんとうの牧者、復活のキリストを見いだすことができる。

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