聖霊に逆らう冒涜は赦されません

 「これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。
 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。
 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:24-32)

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 イエスのわざをパリサイ人が「悪霊どものかしらベルゼブルの力」と言い立てたことに対して。
 「涜神恐怖症」という病気があると聞いたことがあるが、そのような方々には上の引用箇所はややつらいかも知れない。

 まず、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」ということ。
 誰が赦すのだろうか。
 神である。
 ただ、それは、イエスの十字架のいけにえが受け入れられた結果、このイエスが復活なされたことが担保としてあってのことだ。
 これ以外による赦しは、ないのだから。
 十字架のいけにえ、というのは、私たちの全ての罪を神の御前になだめるためのいけにえ。
 であるから、復活のイエスを神の力によって信じることができたときに初めて、「赦していただけます」ということを実感できる。

 ではここで、イエスはなぜ「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」と仰るのだろうか。
 大きな理由は、イエスの癒しが悪霊の頭の力を使っていると言うパリサイ人への当てつけだ。
 イエスは仰る。
 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」。
 聖霊の働きによる悪霊の追い出し、それを「悪霊どものかしらベルゼブルの力」とパリサイ人は侮辱する。
 そのように聖霊を冒涜したパリサイ人よ、「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」、文脈を追うと、こういう感じだ。

 また、それ以上に、信じた者に御内住なさる助け主・聖霊を冒涜することなど、できようもない。

 そういうわけで、聖霊という存在自体を恐れる必要は全くない。
(今日の聖書箇所の故に恐れてしまっている人を、数人知っている。)
 いくらかでも、涜神恐怖を取り除くことができればいいのだが。

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