ただ、神によって

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 今年もクリスマスが近づいてきて、街や家のあちこちでイルミネーションが見られるようになった。アルファベットが光り輝く。
 " Merry Christmas ! "
 判で押したような光の文字列。
 だがそんな世は、イエスを知らない。
 そのことはここ最近に始まったことではない。
 イエスが世に来られても、世は知らなかった。
 イエスが来られる前、誰もがキリストの到来を待ち望んでいたのにもかかわらずイエスがそれとは分からなかった。
(イエスはそのことを伝えるためにどれだけのことをなさり、仰ったであろうか。)
 「知らない」というよりも、「受け入れなかった」のだ。

 ところが受け入れなかったさ中にあっても、「その名を信じた人々」がいる。
 「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、」信じた人たちだ。
 すなわち、信じようと思って信じたというのではなく、「ただ、神によって生まれ」て信じるに至った。
 血筋は関係がない。
 肉の欲求や人の意欲も、ことイエスを信じると言うことについて、全く関係がない。
 ただあるとき、「ただ、神によって生まれ」る。

 Christmas ! のイルミネーションが世界中の富んだ国々で輝いている昨今。
 そのような中、ある種の苦闘の末に神によって新たに生まれてイエスを知る人が、今日もどこかにいることだろう。

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