イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
練られた品性
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ4:25-5:5)
---
信仰ある者にとっては、神との平和な関係がある。
これは本来的にありえないことだ。
だから「恵みの平和」とでも言おうか。
すべて、神が与えてくださったものだ。
私たちの罪を贖うためのイエスの十字架も、そして贖われて更に義と認めてくださるイエスの復活も、それからそれらを信じるこころも。
確かに、ありえないはずの神との平和がある。
だからといって世でも平和であるわけではない。
多分、寧ろそれゆえに、世では患難が多いのではなかろうか。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」。
「練られた品性」、忍耐することによって私たちは練られるのである。
練られて、さらにまた、練られる。
それは、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」(1ペテロ1:7)というのと同じだ。
金の純度をどんどん上げていった純金、それよりもすばらしい品性、「練られた品性」。
(ちなみに、口語訳、新共同訳では「練達」と訳されている。)
神との平和にあって、患難の中、練達してゆく。
そして、失望に終わることのない希望、「天の御国」をますます確信するに至るはずだ。
そしてそれはもちろん、神との平和の中にあっての希望の確信である。
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ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ4:25-5:5)
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信仰ある者にとっては、神との平和な関係がある。
これは本来的にありえないことだ。
だから「恵みの平和」とでも言おうか。
すべて、神が与えてくださったものだ。
私たちの罪を贖うためのイエスの十字架も、そして贖われて更に義と認めてくださるイエスの復活も、それからそれらを信じるこころも。
確かに、ありえないはずの神との平和がある。
だからといって世でも平和であるわけではない。
多分、寧ろそれゆえに、世では患難が多いのではなかろうか。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」。
「練られた品性」、忍耐することによって私たちは練られるのである。
練られて、さらにまた、練られる。
それは、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」(1ペテロ1:7)というのと同じだ。
金の純度をどんどん上げていった純金、それよりもすばらしい品性、「練られた品性」。
(ちなみに、口語訳、新共同訳では「練達」と訳されている。)
神との平和にあって、患難の中、練達してゆく。
そして、失望に終わることのない希望、「天の御国」をますます確信するに至るはずだ。
そしてそれはもちろん、神との平和の中にあっての希望の確信である。
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