舟と浜

 「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
……
 耳のある者は聞きなさい。」
 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:1-3,9-13)

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 「種まきのたとえ」の前後。たとえ自体は省略。

 たとえ話を話すイエスは海辺の舟の上に移ってしまい、そのイエスのたとえ話を聞く群集は浜で立っている。
 群集が浜から舟の方へ行くことは、できない。
 イエスは、その気になれば群集の方に行くだろう。だが、ここでは行かない。
 双方向的ではなく、一方向性なのである。
 なにか見えない特殊な境界のようなものが横たわっているかのようだ。

 「天の御国の奥義を知ることが許されている」者と、「許されてい」ない者。
 「持っている者はさらに与えられて豊かにな」る、そういう者と、「持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」、そういう者。
 この両者を隔てる特殊な境界。「浜」と「舟」。
 実は弟子たちも、群集と同じく後者の側だ。たとえ話が全く分からず、イエスに尋ねる。
 イエスはその弟子たちに仰る。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」。

 ところが、後になってペテロを初めとする弟子たちは、復活のイエスを見、信じること叶い、今まで見えない者であったのが見える者になった。
 聞こえなかったのに聞こえるようになる。
 復活のイエスに会う、というのは、神であられるイエスが特殊な境界をまたがっておいでくださるということだ。
 そのとき目は開き、この特殊な境界は取り払われて、浜から舟へと移動してイエスと共に乗船する。

 復活のイエスは、いつでも戸の外に立って叩いておられる(黙3:20)。
 そのノックが聞こえて戸を開けるならば、この復活のイエスをお迎えすることができる。

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