わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 この箇所について、昨年9月22日に「十字架について今思うところ」という記事を書いた(こちら)。
 今読み直すと、お恥ずかしい限りだ。

 さてイエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、内から枯れない水が出ることを保証した。

 そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
 「わたしは渇く。」
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
 人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 だが神は不死なので、あくまでアダムの肉をまとった人間として死に往こうとしている。
 それは、そのアダムの肉を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 そのことによって、人を救い渇きを癒す。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
(イエスの復活は、アダムの肉を処罰してなお生きることの初穂である。)

 神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
 「私は渇く」は、その最たるものだろう。
 だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)

 イエスは、人間の渇きをよくご存じで、その上で今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。

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