実を見分けるには長い目で

 「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:15-22)

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 にせ預言者の本質は、「貪欲な狼」、その貪欲さにある。預言者でもなんでもない。
 ところが、「羊のなりをしてやって来る」。
 イエスは、実によって見分けよと仰る。
 ぶどう、いばら、いちじく、あざみ……。
 残念なことに、はじめからこれらのうちのどの実なのかを見分けることができない。
 「最初は羊」だから。
 ただ、その実がなって、見分けることのできる日が来る。
 3年後か5年後か。

 このブログだってそうだ。
 私は毎日、仮説を積み重ね続けているにすぎない。
 3年後、5年後、どうなっているだろうか。
(ただ、ブログなので、貪欲になろうとしてもなりようがないという点では無害かも知れない。)

 さて、貪欲な側も、その貪欲の対象も、「主よ、主よ」と言い天の御国を求めていることには変わりはない。
 「主よ、主よ」と言う頻度が多ければ多いほど、そこのみに踏みとどまってしまい、結局物理的にも「父のみこころ」を行うところからははるか遠ざかってしまうというのは、不思議なことだ。
 「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6:7)も、同じ意味だろう。

 父のみこころというのは、果たして預言、奇蹟また悪霊の追い出しといったことだろうか。
 まずはアダムの肉が罪赦されること(そのためにイエスが受肉した)。
 そして、にせ預言者の誘惑にも遭うことなく、いちにちいちにち課せられたことを淡々とこなしてゆく事のような気がする。
 実で見分ければいいのだが、早急に判断せずに長い目で見れば、実は見分けることができよう。

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完全でありなさい

 「 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

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 イエスがどれだけ律法を厳しく解釈して教えているか、その頂点。

 まず最初に書いてしまうと、天の父と同じ完全さなど、アダムの肉をまとった人間には望むべくもない。
 なにしろ天の父は太陽だ。
 昨日も今日もあしたも、規則正しく全地を照らす。
 全く平等にどんな人にも。
 正しい者にも悪い者にも、また味方にも敵にもその他大勢にも。
 これが神の正しさだ。

 だから、そもそも「敵味方」と区分けしてしまう(差別化して認識する)人間は、その時点で太陽らしさから遠のいてしまう。
 イエスは山上の説教に接する者に、「できるか? このことが、できるか??」と、突き詰め続ける。
 その最果てに、イエスは突きつける。
 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」。
 神と同様であれ。
 律法の究極は、ここに行ってしまう。
 イエスはほんとうに、律法をとことん突き詰めて私たちにぶつけている。
 「神と同様であれ」。
 こたえはもちろん、「できません」だ。

 「神と同様になんて、できません」。
 実はアダムの肉は、このことが分からない。
 何しろアダムの肉は、「あなたがたが神のようになり」と蛇にそそのかされて、善悪の知識の実を食べてしまったアダム達の子孫なのだから(創3:1-7)。
 だから、アダムの肉は律法を試みる。
 できなくても、もう一度やる。
 そうして何度も倒れて、そうして、あの完全さからは自分はどうしても到達できない。
 それくらい、律法に照らして罪深い。
 そのことに気付いたときに、救いが始まる。
 だから律法はよいものであり、イエスがこれをさらに突き詰めて私たちに説かれている。

 このことは、次の連続した3節に集約されている。
 「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:23-25)

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仕返しの自制

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」(マタイ5:38-42)

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 「目」や「歯」を食らわしたやつは、そのことのゆえに「悪い者」なのだ。
(ただ、故意と過失とを見分けることは大前提だ。)
 そして、イエスは仰る。
 「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」。

  『目には目で、歯には歯で。』は、律法の中のひとつ。出エジプト21:24,レビ24:20そして申命記19:21にある。
 イエスはこの律法を、ここでも更に厳格にされた。
 仕返しが許されるのであれば(「目には目を」)、まだ鬱憤も晴らせるかも知れない。
 しかしそれでは、仕返しをする自分は、相手と同様に、悪い者となってしまう。
 相手と同じレベルに堕ちてしまう。
 逆に、仕返しをしないことによって、相手の悪がはっきりと浮かび上がる。
 「目」や「歯」を食らわしたやつは、単にそのことのゆえに「悪い者」なのだ。
 この善悪の判断は、人々が勝手にしていることではなく、絶対的な存在としてのイエスであり神である。
 言い換えると、何もしないことこそ最大の仕返しであるとも言えるかもしれない。相手の絶対的な悪を、いよいよはっきりさせるのだから。
 相手にはこのことが、ジャブのように効いてくる。
 そう考えると、イエスの仰る事というのは、「目」や「歯」をやった人間に対する免責もあわれみも皆無であることからして、やはり律法を厳格解釈したものだと言えよう。
(というより、さらに厳格化した。)

 左の頬を向ける余力はなくていい。
 2ミリオンも行く体力が残ってなくともいい。
 「目」や「歯」といった悪に、立ち向かって仕返ししようとはしないこと。
 「悪い者に手向かってはいけません」。

 このとき、主の祈りでの中の「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(マタイ6:13)は、強力な祈りとして働いてくれるだろう。

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ラボニ

 「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。
 しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」(ヨハネ20:14-16)

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 「彼女」とは、マグダラのマリヤ。

 彼女の後ろに、ふっと復活のイエスが現れた。
 「しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった」。
 いま、ここにいるのが「イエスであることがわからな」い。
 それも全く。
 マリヤはこのイエスを、園の管理人と思って話しかける。
 ところがイエスが「マリヤ」と声を掛けると、彼女はなんと!気付いて!「ラボニ」とイエスに応える。

 実は復活のイエスは、ごく身近にいらっしゃるのではないだろうか。
 全く気付かないだけで。
 だが、声を掛けていただいたとき、その復活のイエスに気付いて出会うことができる。
 そのイエスの声は、ただ受け身になって待つほかない。

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処罰を受けるイエス

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:39-46)

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 さくじつはヨハネ福音書の十字架についてだった。
 今日は、マタイ福音書の十字架について。

 道行く人々から、イエスはののしられる。
 彼らは、イエスがエルサレムに来たときには「ホサナ」とか言っていた人々だ。
 祭司長達は、勝ち誇る。
 イエスの左右で磔になっている強盗までが、イエスをののしっている。
 イエスは死の間際、世界中からののしられ続けている。

 そればかりではない。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。
 我が父・神までが、イエスをお見捨てになられた。
(あるいは、死ぬ間際のイエスにはそのように感じた。)
 今、イエスは世界中で最も罪深い。
 その罪は、信じる人々の罪を背負ったものだ。
(「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」1ペテロ2:24a)
 イエスはその処罰を、身に染みて味わっている。

 このイエスはまもなく死に、そして復活する。
 この復活のイエスは、多くの人が味わい御自身も体験された無理解、絶望その他そういった類の苦しみをよくご存じだ。
 イエスは、人々が味わうつらさを実体験してご存じの神なのだ。
 この神が、私たちをその罪から解放してくださる。
 前出の1ペテロ書には、続けてこうある。
 「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ2:24)
 いやされるためには、イエスが十字架で味わった苦難を味わうことだろう。罪に死ぬのだから、十字架上の苦しみのイエスと同じようになるはずだ。
(そのことは、アウグスティヌスも内村鑑三も書き残している。)

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 この箇所について、昨年9月22日に「十字架について今思うところ」という記事を書いた(こちら)。
 今読み直すと、お恥ずかしい限りだ。

 さてイエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、内から枯れない水が出ることを保証した。

 そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
 「わたしは渇く。」
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
 人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 だが神は不死なので、あくまでアダムの肉をまとった人間として死に往こうとしている。
 それは、そのアダムの肉を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 そのことによって、人を救い渇きを癒す。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
(イエスの復活は、アダムの肉を処罰してなお生きることの初穂である。)

 神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
 「私は渇く」は、その最たるものだろう。
 だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)

 イエスは、人間の渇きをよくご存じで、その上で今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。

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トマス

 「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。
 戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:24-29)

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 ペテロを初めとする弟子たちの前に復活のイエスが現れたとき、そこにトマスはいなかった。
 トマスは、弟子たちが見たといっても、全く信じようとしない。
 懐疑主義とも言われるトマスのこの姿勢を、私は実にえらいと思う。
 復活のイエスを確かめてもいないのに信じたなどと言う方が、かえって盲信というものだ。
 トマスはまだ、復活のイエスに会っていない。信じられなくて当たり前だ。

 トマスもいるときに、再び復活のイエスが現れる。
 イエスはトマスに、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とお声を掛ける。
 トマスは眼前に見、また声を聞いて、信じる。
 釘の跡やわきをチェックすることなど、放擲してしまう。
(だからトマスは懐疑主義者ではない。)
 イエスに会うことというのは、そのことだけでこのイエスを信じて疑わないだけの確信を、その人に与える。
 そのことを「いのち」と言い換えてもよい。
(回心、新生、よみがえり、……なんでもいい。)

 イエスは、見ずに信じる者の幸いを仰っている。
 復活のイエスを「見た」人というのは、トマスも含めた上の弟子たちに限られている。あとは、例外的にパウロ。それ以外にはいない。
 しかしその後、復活のイエスに「お会いして」信じた人は、あまたいる。
 今日も、イエスがお会い下さった幸いな人が、世界のどこかにいることだろう。
 こういった人々は、見ずに信じた人だ。盲信ではない。
 トマスは、見て信じた。
 だがトマスも信じたことには違いないのだから、幸いには違いない。
 そうして私たちには、見ずに信じることの幸いが投げかけられている。

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生きるはキリスト

 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:21-23)

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 「実はそのほうが、はるかにまさっています」。
 この世で一日でも長生きするよりも、「実は」、「世を去ってキリストとともにいる」ことのほうがパウロの願いだという。
 パウロは復活のイエスに間近に会っている(使徒9:3-19)。
 この自分を救ってくださった主イエスと共に過ごし続ける方が、はるかにいいに決まっている。
 それで、世人の思いとは異なり「実は」と書いている。

 ところが、世を去るときというのは神が定めるものだ。
 それまでの間、私たちは、なんらかの「働き」をする。
 ここにいう「働き」とは、「労働」よりもずっと広い。
 極端に言えば、友人に「こんにちは」とほほえみかけるのだって、立派な「働き」に違いない。
 そういった「働き」が結実の日を迎えることは、きわめて多くの人々が実感していることだろう。
(「達成感」や無形の報酬等、種々のものがあると思う。)
 そしてそのような日々をあくまで淡々と過ごすことが「生きることはキリスト」ということだ。
 働いて、一日を終えて、ああ今日一日も守られたなあ、という。
 うちにおられるキリストが導いて下さったことだ。
(「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20より)

 「生きるはキリスト」という人、これは人為的にそうなるものではない。
 パウロのように、復活のキリストがお会い下さるといった恵みが必要になる。

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私たちの国籍は天

 「けれども、私たちの国籍は天にあります。
 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:20-21)

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 このブログでは、今までしばしば「アダムの肉」という語句を用いてきた。
(一番最初に用いた記事は、こちら。)
 私たちは、善悪の知識の実を食してしまったアダム(創3:6-24 ;神は人を園から追放してしまった)の子孫であり、神と人との間には埋めようもない溝が横たわっている。
 そのアダムの肉を持っているので、聖なる神の律法を、どうやっても守り行うことができない。

 そのような状態の人を救うためにキリストは来られ、アダムの肉を処罰する十字架に架かられた。そして復活することにより、その処罰の正当性が確立する。

 上の引用聖句の中で「私たちの卑しいからだ」とあるのは、このアダムの肉と同じ。
 実に、「アダムの肉」をまとった私たちのからだは、卑しい。
 ところがキリストが、十字架に架かって復活したキリストが、この卑しいからだを「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」という。
 つまり、園から追放される以前の状態に戻してくださる。
 善悪の知識の実を食べる前の状態に戻してくださる。

 この回復を確信し、また第一に求めるのであるならば、「私たちの国籍は天」にある。
 負け惜しみや逃避で「私たちの国籍は天」と言っているわけでは、全くない。
 神の国を信じ、受け入れることができるからこそ、「私たちの国籍は天」に置いているのである。

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舟と浜

 「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
……
 耳のある者は聞きなさい。」
 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:1-3,9-13)

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 「種まきのたとえ」の前後。たとえ自体は省略。

 たとえ話を話すイエスは海辺の舟の上に移ってしまい、そのイエスのたとえ話を聞く群集は浜で立っている。
 群集が浜から舟の方へ行くことは、できない。
 イエスは、その気になれば群集の方に行くだろう。だが、ここでは行かない。
 双方向的ではなく、一方向性なのである。
 なにか見えない特殊な境界のようなものが横たわっているかのようだ。

 「天の御国の奥義を知ることが許されている」者と、「許されてい」ない者。
 「持っている者はさらに与えられて豊かにな」る、そういう者と、「持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」、そういう者。
 この両者を隔てる特殊な境界。「浜」と「舟」。
 実は弟子たちも、群集と同じく後者の側だ。たとえ話が全く分からず、イエスに尋ねる。
 イエスはその弟子たちに仰る。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」。

 ところが、後になってペテロを初めとする弟子たちは、復活のイエスを見、信じること叶い、今まで見えない者であったのが見える者になった。
 聞こえなかったのに聞こえるようになる。
 復活のイエスに会う、というのは、神であられるイエスが特殊な境界をまたがっておいでくださるということだ。
 そのとき目は開き、この特殊な境界は取り払われて、浜から舟へと移動してイエスと共に乗船する。

 復活のイエスは、いつでも戸の外に立って叩いておられる(黙3:20)。
 そのノックが聞こえて戸を開けるならば、この復活のイエスをお迎えすることができる。

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