処罰を受けるイエス

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:39-46)

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 さくじつはヨハネ福音書の十字架についてだった。
 今日は、マタイ福音書の十字架について。

 道行く人々から、イエスはののしられる。
 彼らは、イエスがエルサレムに来たときには「ホサナ」とか言っていた人々だ。
 祭司長達は、勝ち誇る。
 イエスの左右で磔になっている強盗までが、イエスをののしっている。
 イエスは死の間際、世界中からののしられ続けている。

 そればかりではない。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。
 我が父・神までが、イエスをお見捨てになられた。
(あるいは、死ぬ間際のイエスにはそのように感じた。)
 今、イエスは世界中で最も罪深い。
 その罪は、信じる人々の罪を背負ったものだ。
(「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」1ペテロ2:24a)
 イエスはその処罰を、身に染みて味わっている。

 このイエスはまもなく死に、そして復活する。
 この復活のイエスは、多くの人が味わい御自身も体験された無理解、絶望その他そういった類の苦しみをよくご存じだ。
 イエスは、人々が味わうつらさを実体験してご存じの神なのだ。
 この神が、私たちをその罪から解放してくださる。
 前出の1ペテロ書には、続けてこうある。
 「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ2:24)
 いやされるためには、イエスが十字架で味わった苦難を味わうことだろう。罪に死ぬのだから、十字架上の苦しみのイエスと同じようになるはずだ。
(そのことは、アウグスティヌスも内村鑑三も書き残している。)

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