大祭司イエス

 「私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、 ――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
 また、そのためには、 はっきりと誓いがなされています。――彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。
  「主は誓ってこう言われ、
  みこころを変えられることはない。
  『あなたはとこしえに祭司である。』」――
 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。」(ヘブル7:14-22)

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 「大祭司イエス」を、祭司職としての大祭司と対比している。
 メルキゼデクは、創世記に一回出てくる。

 メルキゼデクに等しい祭司は、「肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです」。
 この大祭司は、律法に依拠しなかった。
 肉を戒める律法に、依らなかった。
 なぜか?
 律法という完全な世界は、肉を戒めるという目的のためには無力だと認めたからだろう。
 じっさいにそうだ。律法がその目的を全うしたことはなかった。
 この律法が機能するのは、アダムの肉に気付かせ、そして追い込ませるところまでだ。
 追い込ませてそして救うのが、「さらにすぐれた契約の保証」イエスである。
 「前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、 ――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました」とあるとおりだ。
 「さらにすぐれた希望」というのが、大祭司イエス。

 イエスは、律法によって大祭司になったのではない。
 レビ族ではない。ユダ族だ。
 人の手によって大祭司になってなのではない。
 十字架の死と復活とによって、大祭司となられた。
 これによって、神に近づくための「さらにすぐれた希望」としてのルートが切り開かれた。

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神のあかし

 「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(1ヨハネ5:9-12)

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 人間のあかしとは、どのようなものだろうか。
 どの医者も私の病を治せなかったのに、キノコを食べたら治った。
 A男とB子が夜の六本木で焼き肉つついてたらしい。
 ケータイのメルアドを変えると、ハッピーになった。
 原油の市場取引価格が単位あたり90ドルを突破した。

 こういう類のものは、妥当性(蓋然性)を考慮しつつ信じたり信じなかったり、または話半分にしておけばいい。
 そしてこの人間のあかしというのは、信じたところで人間存在そのものが本質的に変わる類のものではない。
 ここが神のあかしと決定的に違うところだ。「それにまさるものです」とあるが、比較にならないほどの違いがある。
 神のあかしは、人間存在をその根底において覆す。
 具体的には、神のあかしによって「御子を持」ち「いのちを持」つようになる。
 これは品行方正になったり、あるいはいきなり驚喜が訪れたりするという事ではない。
(感覚的なものではない。)
 「いのちを持つ」とは、いのちを持つということだ。
 逆に言えば、それまでいのちが失われて続けていたことに気付きもしなかったということだ。

 「いのち」を与える神のあかしとは、「御子についてあかしされたこと」だという。
 だから焦点は、聖書から「御子について」の「神のあかし」に接することができるかどうかにかかっている。

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肉を持ったイエス

 「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
 教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
 またさらに、
 「わたしは彼に信頼する。」
 またさらに、
 「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」
と言われます。
 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:0-15)

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 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」とあるとおり、人間の血肉をお持ちになってイエスは来られた。
 続いて、「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼ」すため、とある。
 イエスの十字架での死こそが、自身を支配している悪魔からの解放をもたらしたからだ。
(私は「悪魔」という言葉(概念)を「死という力」、「闇という力」というニュアンスで捉えている。)

 その際、イエスは正に「死の苦しみ」を味わったが、死んだ三日後に復活する。
 それは、「多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者(註:イエス)を、多くの苦しみを通して全う」させた神のご計画のためであった。
 イエスが十字架で死んだのは、「多くの人たち」を救うためだ。
 その人間も肉がある以上、その際には正に「死の苦しみ」を味わう。
 だが、それこそイエスが切り開いた救いの道なのだ。

 イエスに肉がなかったならば、こういうことはあり得なかった。

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肉がないイエスの十字架

 「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」(2ヨハネ5-7)

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 さくじつ、「初めから聞いたこと」というタイトルの記事を書いた。
 、「あなたがたを惑わそうとする人たち」がいるので、それをなお確認しよう、そういう旨だ。
 今日の聖書箇所では、ヨハネは「お願い」をしている。
 「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」。
 では彼らこそ、「惑わそうとする人たち」なのだろうか。
 そうである。お願いするのも、もっともだ。

 イエスが人として来られたのでなければ、一切は無意味だ。
 「人」とは、神が罪深いアダムの肉、朽ちていずれ死ぬ肉をまとったということを意味する。
 神はこの肉を十字架(最高刑)に架けて処理された、このことこそ、ヨハネに言わせれば神の愛だ。
 そのイエスは、復活する。
 これが、アダムの肉を快復するための、ただ一つの道だ。

 だから、地上に来られたイエスが人間とは異なる「人間ではないイエスが来られた」ということになると、一見ありがたいようで、実は何のありがたみもない。
 「肉がないイエスの十字架」。

 このような惑わしがあると、「初めから聞いたこと」を再確認することの必要性がよくわかる。
 ちなみに昨日引用した聖書箇所には、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。」(1ヨハネ2:27)とある。

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初めから聞いたこと

 「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。
 それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。
 私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。
 あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(1ヨハネ2:24-27)

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 旧約時代、神は預言者を通して次のように仰った。

 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:25-26)

 「新しい心」、「からだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」、こういったものが「いのち」、「永遠のいのち」だ。
 キリストは十字架と復活とによって、その約束を確固たるものとし、また、その約束へと至る道を切り開いた。
 この約束と道の存在とが、「初めから聞いたこと」だ。

 ところが、「あなたがたを惑わそうとする人たち」というのが、おおぜいいる。
 例えばこの世だって、その大きな一つだ。

 「キリストから受けた注ぎの油」が注がれたならば、いっさいが了解され、石の心は肉の心に蘇るだろう。
 そのために、さしあたり「初めから聞いたこと」を再確認してみる。
 そして聖書を、読む。
 どのような立場で書物を読むかによって、その書物の意味は全く異なってくるだろう。だから立場「初めから聞いたこと」の確認は、とても大切だ。

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くびき

 「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:23-30)

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 数々のいやしの奇跡を目の当たりにしたカペナウムの人々は、しかしそれが一体何を意味するのかが全く分からなかった。
 「父を知る者」が現れたのだ。
 目の当たりにした上で分からないのだ。
 知らずに分からなかったソドムの方がよほどましだと、イエスは仰る。
 イエスが仰るには、「父を知る者」は子(イエス)だけではなく、「子が父を知らせようと心に定めた人」だという。

 そこでイエスは呼びかける。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」。
 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」。

 くびきとは、2頭立ての牛で農作業をさせる、そのための道具(だったはず)。
 くびきを2頭の牛の首にかけ、それぞれの牛が引っ張って畑を耕す。
 イエスと共にくびきを引き、日々耕すのだ。
 そのくびきは負いやすく、軽々と引っ張ることができる。
 疲れさせ重荷を負わせるこの世のくびきとは、正反対だ。
 だから、イエスからほんとうに学ぶと、この世にあっても「たましいに安らぎが来」る。

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望み

 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」(ローマ8:18-24)

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 「被造物」とは、人間も含めた全自然というよりも、端的に人間に限定してしまおう。
 「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方による」とあるるが、「服従させた方」とはもちろん神。
 すると、「虚無に服」する被造物とは、善悪の木の実を食したアダム、その子孫としての人間だ。
 アダムの子孫ゆえ、虚無に服している。
 その虚無ゆえ、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」。
 この産みの苦しみをしているのは、「私たちに啓示されようとしている栄光」と書かれているところの「私たち」も同様だ。
 ただ、「栄光」(望みでも光でも、ことばは何でもいい)を待っているので、苦しくてもそれは「取るに足りないもの」と考えることができる。

 では「栄光」とは、なんだろうか。
 「心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 からだの贖い、(神の)子にしていただくことだ。
 ここにいう「からだ」は "body" であり、「肉」( "human being" )ではない。
 文字通り、この肢体だ。
 この肢体が贖われることだ。神の子になることだ。
 だから生きていてこの状態になることは、ない。
 「産みの苦しみ」を、私たちはし続ける。
 しかしこの状態(「栄光」)になることを、「待ち望んでいます」。
 「私たちは、この望みによって救われているのです」。

 「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです」、虚無に服しているこの被造物の望みは、だから「私たち」の望みと何ら変わらない。
 つまり、普遍的な希求なのだろう。
 ただ、虚無に服し続けているか、そこから脱出できたかが違うだけだ。
(ここに言う「虚無」は、世間で言うそれよりもかなり広範な概念だと思う。)
 いいかえると、「栄光」にだけ望みを絞ることができるかどうかの違いだと思う。

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神は愛です

 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
……
 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(1ヨハネ4:8-10,16)

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 私たちに「いのち」を得させてくださったこと、これが「神の愛」だ。
 そのために、御子を「なだめの供え物」としてこの世にお遣わしになった。
 それも、私の求めによってではなく、神の側から手が差し伸べられた。
 だから神の愛は、すばらしい。
 私たちアダムの子孫なぞ、見捨てられた存在であり続けてよかったはずなのだ。
 それをアダム以前の姿に回復させてくださった。

 そのこと、すなわち、イエスの十字架の死と復活、そしてその意味が、神が与えた愛だ。
 幸福感に浸っているときに「神の愛」をいうのは、全く違う。
 幸福感はときに、あるいはしばしば訪れる感情であり好ましいのだが、「いのち」とは全く無関係だ。

 利き腕を事故で失ったとしよう。
 仕事も家事もできないと、あらゆる種類の保護に頼るのか、利き腕ではない方の手(また他の肢体)に可能性を見るのか。
 「いのち」ということは、後者に近い。
 更に言えば、利き腕が癒されるように祈る、というのは、神の愛からは程遠い。
(癒しは「しるし」というやつで、ではなんのための「しるし」なのかということになる。そしてそれは既に成就された。)

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改革

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

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 イエスが弟子たちを派遣する際の説教から。

 イエスは「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来」られた。
 改革だ。
 大改革だ。
 「郵便局」が「郵便事業株式会社」に変わるような、そんな「改革」などではない。
 アダムの肉以来続く人々を改革して、その肉を赦し「いのち」を与える。
 このことのために今、イエスは弟子たちを派遣しようとしている。
 改革だから、「平和」ではなく「剣」なのだ。
 
 「いのち」を頂いた者は、「剣」によって自分のいのちを一度失っている。
 そうして新たに、「いのち」を与えられた。
 彼は、それを得ない世の者との摩擦を余儀なくされる。
 彼は変わってしまったのだ。何も変わっていないのだが。

 もはや彼の方向性は世にあるのではなく、救ってくださったイエスの方にある。
 それで彼は自らの十字架を負って、この「いのち」を与えてくださったイエスに日々付き従う。
 自らの十字架、それはこの世にあって為すべき任務、課題、やること、そういった類ではなかろうかと思う。
(それを「イエスの弟子」というところまで結びつけて良いのかは、まだよくわからない。)

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錨(いかり)

 「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。
 ところが、イエスは眠っておられた。
 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:23-27)

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 イエスと共に、舟に乗っている。
 すると大暴風に見舞われてしまう。
 舟は浸水し、今にも沈みそうだ。

 イエスと共にあっても大暴風があるのは、「楽あれば苦あり」と同様で、この自然界のことわり(理)だろう。
 イエスと共にいれば永遠の天下太平、というのは全く違う。

 大暴風に遭って今にも溺死してしまいそうだ。
 「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」。
 こわがるのも無理はない。人間には生存欲求がある。
 ただ、信仰が「ない」のとは違う。イエスは「薄い」と仰っている。
 神であられるイエス、このお方が全くぶれずに「眠って」いて下されば、そのことが海中深くにしっかり降ろした錨(いかり)になって下さる。
 だからもっぱら、このお方の不変さを信じよう。
 それが大暴風をしのぐ術だ。

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。(ヘブル13:8)

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