こんにちは。連日クソ暑いですねえ。先が見えないのがつらい。我慢のしがいがない。
夏休みでもこう暑くちゃあたいへんでしょうね。わたし的には、映画は食指が動かない。あるときは見たいのがたくさんあるんだけどね、アクション系。
他人にはこんなのがお奨め、林明子原画展。1,000円。コンビニ前売り700円。ちと高い、がオリンピックほどじゃない、開会式30万円。ゼニ勘定で埋もれた政府。銀座松屋で来週いっぱい。
わたしは、冷房の家で絵本を見るのが悪くないかな。ただ、図書館往復が暑いんだよね。
ところで済んだ話ですが、お盆いつまで? と聞かれて何の気なしに「16日まで」と言ってから、あれ、うち(東京)の送り火は爺いが生きてたときは15日にやってたよな、と思い返しネットを見たら、例によってコピペの大群。というより大軍。コピペによると東京は7月16日に送り火をするそうです、ってどこの東京だよ。納得いかずに「東京年中行事」明治44年という本を借りてきました。送り火は7月15日と書いてある。そうだよなあ。
まあいつやったっていいんだけど、あのコピペ軍は大暴力だね。
寿司もいつのまにか1貫は1っ個になっちまったよ。これも江戸時代の本には1貫2個と書いてあるのに。
さてニュース。世間では、タコが高いそうです。タコ焼き屋さん困ってるって。日本人以外、気味悪がって食べなかったタコが、西洋でも米国でも、多量に輸入消費されだしたんだそうで。マグロといいサンマといいイカといい、日本も自分で自分の首を絞めてますな。余計なお世話で「うまいぞ」とか教えて、自分じゃ食えなくなる。何が「日本料理は世界遺産」か。
美味しいもんは他人には隠す。どんな幼児だって知ってるのにね。
観光万歳で富士山も満員、京都に至ってはもうはみ出している。誰が笑ってるのかねえ。それでカジノだとか。菅という売国奴は何をアメリカに借りてるんだね。自民党議員、「カジノが必要なのはもうわかりきってる」などとぶってたぜ。わからねえよ、あほんだら。ほんと不快。
トランプの真似して最高裁判事にアベが送り込んだ山口厚。きっちり反動判決をしてくれましたね。君が代不起立元教員逆転敗訴。いまどきは、就職時にも思想の自由条項が有効だという基本を知らないのかねえ、企業だって厚労省の言うことを表面上は守ってるぜ。当然、タテマエだけど。しかし、なんでネット赤旗(の見出し)は問題にしないんだろう。党派が違うのかねえ。
等々。不愉快なところ、『小池知事は6日の定例会見で「ブロック塀の代わりに日本の木材を使うのも1つの方法ではないか」と述べ』(the page)都立では多摩産材を使うとのこと。おお偉いじゃん、できるかは別にして、口先でブツだけでも偉い。今あるあのお山の杉の木どうにかせんと。ほっといたらどうにもならない。
ガラッと変わって、本題です。
弁証法は、1冊の論で一つの正反合形式である必然性はありません。
以前に申し上げましたように、弁証法は論理の提出形式ですから、その始点は、理論家の主題に合わせた点さえつかんでいれば、対象のどこをとってもよいのです。
あるバラバラであるかのごとき探求対象について、しかし、これらはまとめて提出しないと理解ができない、というものはありますね。けれどもそれは二つに、あるいは三つに分割してまとめても提出しうるのです。
その分割された下位のまとまりについて弁証法を使用する。分割の固まり同士の渡り廊下は、「そして」という接続詞だけ、それでよい。
だって弁証法はただの認識手段だもの。なんの魔術でも崇拝儀式でもないのだよ。「そして」が入ったって、「そして」が入る理由がわかればなんの問題もない。
つまり、ある1テーマについて、正反合、その他の弁証法形式をとるのは当然ですね、対象を分析しようなんて思わないマルキストはそこまでの思考で終わりです。ああ弁証法は偉い、ヘーゲルは偉い、マルクス様はもっと偉い。
しかし、社会科学とはそれでは終われない。彼の扱う対象は、すでに自称理論家の手垢にまみれた社会現象です。このとき、彼がなすべき既存の「理論」への批判と、彼がなすべき社会現象の分析とは次元が違う。ここで、彼の批判と彼の分析との間を取り持つものは単なる「そして」であり、彼の独自分析は弁証法で明らかにされる。そういうことです。当たり前? なにいってやんでえ。
たとえば、「マルクスはこうこう間違っている。そして、本当はこうだ」 というトータルの叙述の場合、前段と後段は「そして」でつながり、新たな解明は弁証法が押さえる。
あるいは「この場合本当はこうだ。そして次に、この部分の本当はこうだ」 という叙述の場合、この二つの「本当」のそれぞれには弁証法があたり、この二つの「本当」が「そして」でつながれる。
たとえば資本論のプラン。半分で終わってますね。それはもとから一つにはまとまるはずもないものだけれども、二つの塊にすることはできる。そして前半と後半は「そして」でつながる。
実際、創造的なマルクス主義経済学者によって、後半部分も、その限りで8分がたできてると思いますけどね。問題は、できたところでたいしたことない、ってだけで。資本論が凡百より優れている点はレトリックだからね。わたしなんざ、信者の誰かがきれいなレトリックで後半プランを一つにまとめりゃいいのに、って思いますけどね。ダメなんでしょうね、畏れ多くて。
とまあこれが、いままで古今東西見たこともない、しかし、バカでなければ分かる弁証法の使い方。もちろん今まで世界中で弁証法を云々してきた奴の99%はバカで、残りの1%は分かってても表現手段がなくて消えていった組織下層マルクス主義者諸氏というわけです。ただの良心的理論者のことですね。マルキストは、教条を超える「理論者」なる存在は分派活動として死刑の対象ですから何の表現もできなくて終わるわけです。はい、これ、批判いつでも受け付けますよ。言えるもんなら言ってみろよ。言えやしまい。おまえ自分で何やってきたんだ? 恥ずかしいだろ? 恥ずかしいって言えよ。
いや失礼、下品だね。つい本当のことを。
まあバカなりに生き残っている奴も日本で数人しかいないから相手にしても始まらないし。そもそもこういう悪罵の対象者は、いまじゃヨイヨイや死んだ人間だけですな。
というわけで、創造的な社会学徒である若人の皆様。研究対象である世界は、もちろん複合的なものであります。そうそう本質的な始元など見つかるわけもない。資本論のていたらくでわかるでしょ。ただ、だからといって絶望する必要もない。資本論の名声でわかりますよね。世の中、自分の身の丈にあったことをすればよろしい、
しかし、ついで、自分の確立した理論に不十分な点があれば、その地点からもう一度新しい設定で前進することができる。
まあ若いからその地点は遠くとも、とりあえず、「批判」部分なりの付加部分(こっちはただの形式論理でもよい。要は読んだ人が分かればよい)と「創造部分」とを分ける、ということを頭に置くことをお勧めします。こによってやはり弁証法は、あなたの叙述を支える。
この指摘は絶対、日本で初めてだから。
夏休みでもこう暑くちゃあたいへんでしょうね。わたし的には、映画は食指が動かない。あるときは見たいのがたくさんあるんだけどね、アクション系。
他人にはこんなのがお奨め、林明子原画展。1,000円。コンビニ前売り700円。ちと高い、がオリンピックほどじゃない、開会式30万円。ゼニ勘定で埋もれた政府。銀座松屋で来週いっぱい。
わたしは、冷房の家で絵本を見るのが悪くないかな。ただ、図書館往復が暑いんだよね。
ところで済んだ話ですが、お盆いつまで? と聞かれて何の気なしに「16日まで」と言ってから、あれ、うち(東京)の送り火は爺いが生きてたときは15日にやってたよな、と思い返しネットを見たら、例によってコピペの大群。というより大軍。コピペによると東京は7月16日に送り火をするそうです、ってどこの東京だよ。納得いかずに「東京年中行事」明治44年という本を借りてきました。送り火は7月15日と書いてある。そうだよなあ。
まあいつやったっていいんだけど、あのコピペ軍は大暴力だね。
寿司もいつのまにか1貫は1っ個になっちまったよ。これも江戸時代の本には1貫2個と書いてあるのに。
さてニュース。世間では、タコが高いそうです。タコ焼き屋さん困ってるって。日本人以外、気味悪がって食べなかったタコが、西洋でも米国でも、多量に輸入消費されだしたんだそうで。マグロといいサンマといいイカといい、日本も自分で自分の首を絞めてますな。余計なお世話で「うまいぞ」とか教えて、自分じゃ食えなくなる。何が「日本料理は世界遺産」か。
美味しいもんは他人には隠す。どんな幼児だって知ってるのにね。
観光万歳で富士山も満員、京都に至ってはもうはみ出している。誰が笑ってるのかねえ。それでカジノだとか。菅という売国奴は何をアメリカに借りてるんだね。自民党議員、「カジノが必要なのはもうわかりきってる」などとぶってたぜ。わからねえよ、あほんだら。ほんと不快。
トランプの真似して最高裁判事にアベが送り込んだ山口厚。きっちり反動判決をしてくれましたね。君が代不起立元教員逆転敗訴。いまどきは、就職時にも思想の自由条項が有効だという基本を知らないのかねえ、企業だって厚労省の言うことを表面上は守ってるぜ。当然、タテマエだけど。しかし、なんでネット赤旗(の見出し)は問題にしないんだろう。党派が違うのかねえ。
等々。不愉快なところ、『小池知事は6日の定例会見で「ブロック塀の代わりに日本の木材を使うのも1つの方法ではないか」と述べ』(the page)都立では多摩産材を使うとのこと。おお偉いじゃん、できるかは別にして、口先でブツだけでも偉い。今あるあのお山の杉の木どうにかせんと。ほっといたらどうにもならない。
ガラッと変わって、本題です。
弁証法は、1冊の論で一つの正反合形式である必然性はありません。
以前に申し上げましたように、弁証法は論理の提出形式ですから、その始点は、理論家の主題に合わせた点さえつかんでいれば、対象のどこをとってもよいのです。
あるバラバラであるかのごとき探求対象について、しかし、これらはまとめて提出しないと理解ができない、というものはありますね。けれどもそれは二つに、あるいは三つに分割してまとめても提出しうるのです。
その分割された下位のまとまりについて弁証法を使用する。分割の固まり同士の渡り廊下は、「そして」という接続詞だけ、それでよい。
だって弁証法はただの認識手段だもの。なんの魔術でも崇拝儀式でもないのだよ。「そして」が入ったって、「そして」が入る理由がわかればなんの問題もない。
つまり、ある1テーマについて、正反合、その他の弁証法形式をとるのは当然ですね、対象を分析しようなんて思わないマルキストはそこまでの思考で終わりです。ああ弁証法は偉い、ヘーゲルは偉い、マルクス様はもっと偉い。
しかし、社会科学とはそれでは終われない。彼の扱う対象は、すでに自称理論家の手垢にまみれた社会現象です。このとき、彼がなすべき既存の「理論」への批判と、彼がなすべき社会現象の分析とは次元が違う。ここで、彼の批判と彼の分析との間を取り持つものは単なる「そして」であり、彼の独自分析は弁証法で明らかにされる。そういうことです。当たり前? なにいってやんでえ。
たとえば、「マルクスはこうこう間違っている。そして、本当はこうだ」 というトータルの叙述の場合、前段と後段は「そして」でつながり、新たな解明は弁証法が押さえる。
あるいは「この場合本当はこうだ。そして次に、この部分の本当はこうだ」 という叙述の場合、この二つの「本当」のそれぞれには弁証法があたり、この二つの「本当」が「そして」でつながれる。
たとえば資本論のプラン。半分で終わってますね。それはもとから一つにはまとまるはずもないものだけれども、二つの塊にすることはできる。そして前半と後半は「そして」でつながる。
実際、創造的なマルクス主義経済学者によって、後半部分も、その限りで8分がたできてると思いますけどね。問題は、できたところでたいしたことない、ってだけで。資本論が凡百より優れている点はレトリックだからね。わたしなんざ、信者の誰かがきれいなレトリックで後半プランを一つにまとめりゃいいのに、って思いますけどね。ダメなんでしょうね、畏れ多くて。
とまあこれが、いままで古今東西見たこともない、しかし、バカでなければ分かる弁証法の使い方。もちろん今まで世界中で弁証法を云々してきた奴の99%はバカで、残りの1%は分かってても表現手段がなくて消えていった組織下層マルクス主義者諸氏というわけです。ただの良心的理論者のことですね。マルキストは、教条を超える「理論者」なる存在は分派活動として死刑の対象ですから何の表現もできなくて終わるわけです。はい、これ、批判いつでも受け付けますよ。言えるもんなら言ってみろよ。言えやしまい。おまえ自分で何やってきたんだ? 恥ずかしいだろ? 恥ずかしいって言えよ。
いや失礼、下品だね。つい本当のことを。
まあバカなりに生き残っている奴も日本で数人しかいないから相手にしても始まらないし。そもそもこういう悪罵の対象者は、いまじゃヨイヨイや死んだ人間だけですな。
というわけで、創造的な社会学徒である若人の皆様。研究対象である世界は、もちろん複合的なものであります。そうそう本質的な始元など見つかるわけもない。資本論のていたらくでわかるでしょ。ただ、だからといって絶望する必要もない。資本論の名声でわかりますよね。世の中、自分の身の丈にあったことをすればよろしい、
しかし、ついで、自分の確立した理論に不十分な点があれば、その地点からもう一度新しい設定で前進することができる。
まあ若いからその地点は遠くとも、とりあえず、「批判」部分なりの付加部分(こっちはただの形式論理でもよい。要は読んだ人が分かればよい)と「創造部分」とを分ける、ということを頭に置くことをお勧めします。こによってやはり弁証法は、あなたの叙述を支える。
この指摘は絶対、日本で初めてだから。