リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

美術における天才とは

2009-05-10 21:15:49 | コーヒーブレイク
 こんばんは。今日もコーヒーブレイクです。
 私の天職が力仕事の壁に入り、そうゆうのは柄になく、ちょっと逃避中。
 
 世の中には天才と呼ばれる人がいまして、まあだいたい「こいつには到底かなわねえな」と思うときに使う。
 だもんで、較べる基準のもてないふつうの場合は一般性のない評価となって、たとえば、たぶん将棋の羽生・谷川の類は天才のようにも思いますが、どうも将棋7段を10年やってるくらいの人をみても天才じゃない気がする。
 なんていうと当の7段の人は「俺のほうが天才で羽生はただの勉強家だ」と言うかもしれない。ちなみに、日本の社会科学では天才が現れたことはありません。
 と、天才論には諸説紛々出るところ。世の中、「技術でのみ上」という判断は、「俺だって頑張ればできるさ」と思いますからね。ほんとはできやしませんが。「努力する才能こそ天才」って、しかし、誰も納得しませんぜ。
 
 ところで、美術・スポーツというのは、われわれ大衆が多少は齧れるだけ、かなり勝手にものが言える分野です。多少できが良くたって差は努力、っていえそうなところですね。

 で、ここんとこ、購読紙、朝日新聞に天才森山大道が出てまして、思うわけですが、
 『あらゆる幻想も思い出も拒否される、芸術家の創出物以外に何ものもない世界を作れる人間』とゆうのが美術上の天才ではないか、と。
 『』カッコ内は、岡本太郎が尾形光琳を賛美して使った言葉ですけどね。ポイントは、「幻想も思い出も拒否される」というところ。言い換えると普通一般の幸せや喜び、その他の感動とは違うものが表されている、という意味で。

 そういう世界ではなくて、芸術家の作った『何かを見て、そこに浸れる世界』は、多くの人が好みますが、だからといってその世界を作れることで天才とはいう気がしない。ルノアールとか奥村土牛とかねえ。

 ピカソも岡本太郎も、若いときの絵は皆がうまいとはいったでしょうが、だからといってその時代の絵は天才の絵とは言われない。少なくとも素人には技術力にしか見えない。
 わけはわからないがなぜかこちらに迫ってくる、そんな表現を生み出したときに、その作者は天才といわれると思います。
 たとえば写真では木村伊兵衛は名手ではあるが天才ではない。
 しかし、土門拳はもしかすると天才かもしれない。
 少なくとも素人にとっては木村はとてもうまい過去の写真家。一方、土門拳は神様に近い。

 同様に森山大道や、40歳以降の叙情を無くしたアラーキーは、天才のようだ。

 本人達は自分の心によって風景を撮っているつもりだ。
 が、実際に写っているのは、他人にとっては風景ではなく、写真家の心で歪んだ現実。それを表した写真家をして、畏敬を込めて天才という。
 じゃあ、植田正治とどっちが偉いか、とか、沢渡朔や藤井秀樹たちとどっちが才能があるか、とか、そういうことをいっているんではなくて、それらの曲がりなりには我々にも真似ができる人々とは違って、天才は別世界の人間のことを指すんだ、ということです。
 才能のある写真家たちはそれぞれに自分の世界を作っている。
 が、それぞれの鑑賞者の心でわかる世界を作る人々は、名写真家であっても天才ではない。
 
 てゆうか、逆にいうと食ってくために天才になるしかないカテゴリーの人がいるってのもホントらしいところがあるっていうかね。金村修みたいなの。


コメント
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