リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

40年前

2012-03-02 20:58:15 | 断片
 こんばんは。東京地方、たしかに2日前は「大雪」でしたが、今日は雨でも氷雨ではなく。
 当家の(視界の)森にはもう木の芽の小さなふくらみが薄茶色の朧になって見えます。

 さて本日は、金曜日ですが更新、題材は昔話。
 森岡清美、ある社会学者の自己形成、ミネルヴァ書房、2012. 図書館さん、お世話さま。
 このひと、家族社会学では有名ですが、まことに逸話のない人で、こんな地味な人が世間様にたいしてなにが自伝かと思ったのですが、社会学会会長をしてたんですね。
 もう88歳なのに、昔のことを微に入り細に入りここまで書けるというのは、記憶力ゼロに近いわたし的にはなかなか勇気が湧きます。

 昔話といえば、本日は奇しくもそこの大学の入学試験で家人と初めて出会って40年目。
 もちろん、ぜんぜん奇しくなくて、明日やあさって書くんじゃ日が合わないので、金曜だけど今日書いてるだけですが。なにしろ10年に1回のことだし。なので、次回更新は次の次の土日。

 で、森岡先生、この人は一種私の先生で、 私などは必修科目で(仕方なく)2回教わりましたが、少人数授業(両方とも学生9名)にもかかわらずなにしろ話をした覚えがない。 そりゃ私も偏屈ですが、他の先生たちや助手の人となら若干でも言葉を交わした記憶はあります。
 それでも「先生」なのは、英語の先生。初級社会学英文購読で、誰かが”reporting” という言葉の訳を「報告」としたら怒られたのを覚えています。
 「報告はreportですね。reportingではありませんね。レポーティングといえば『報告すること』、訳は報告作業です」って。
 ああそうですか、というしかないですが。
 その後もその類の注意が引き続いたので、おかげで英文は細かく読むようになりました。哲学専攻ではありませんので、その後、他の授業で英訳にそうした細かさを求められたことなどなく、結局それが私の先生になってしまいました。じっさい学者の世界ではこれは案外大きいことで。大学院は他の大学に行きましたが、英文購読はじしんまんまん。
 研究者志望の若い人はこういうささいな意味の違いを気にする癖をつけられたほうがいいです。もうちょっと大きくなったとき自信になりますから。

 それにしても、こういうアカデミズムの人たちとはわたしゃ一致点がないなあ、と改めて思うところ。「とは」というより「とも」かもしれませんが。森岡先生も大塚製薬とかに行ってたら人事担当取締役くらいにはなったんでしょう。
 結局、いくら学者が仙人暮らしでも、世間のなかで泳げる人でないと、一流の称号は得られないでしょうね。
 いつも思うのですが、当社私を拾ってくれてありがたいことです


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小生産者の疎外 | トップ | 詩と老人の詩 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

断片」カテゴリの最新記事