リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学の視点の差異(その2)

2023-03-25 13:45:12 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。桜も満開ですね。わたしなど「待ちに待った」ってやつです。東京地方、今日明日雨といってますが、桜を追いかけて周りのドングリ系の木の若葉も出てきたので、雲に紛れていた白いサクラの花も、緑の背景でようやく引き立ちます。
 みなさまはお変わりなく? 太平洋岸以外はどこも4月の異動の季節に間に合いそうで、いやな異動もちょっと慰められるでしょう。縁起でもない? いや経験上。 
 しかし、春野菜は遠のいて。
 結局フキノトウは当町のスーパーには現れませんでしたので、電車に乗って買いに行ってしまいました。高級のせいか小さくあくがない。山ウドもあくがないし、みんな工場製品なんですかね。せっかく食べやすいのに、わこうどは食べ方を知らないんだろうねえ、、油も小麦粉も高くて天ぷらができないか、、
 
 さて、団次郎さんが亡くなった、と。団時朗ね、MG5。中島みゆきのデビュー当時の元カレ。
 違うと言ってる? 言ってることは知っております。しかし,「その通り」なんていう奴はいないし。これでもうウワサにはならなくなるので記念に言っておこうかと。
 
 ニュース。
 「恵泉女学園大学 ことし最後に学生募集停止 入学者定員割れ続く」(NHK)
 おやおや。東京南部出身者としては残念なものが。有名校の(付属)中高の偏差値が落ちてきたのが響いたんだね、って誰も言わないけど。どっちが「付属」かも余地が残りますが。昔の家庭教師の子、恵泉落ちて欧友にいったんだけど、今となればそのほうがよかったかな。出た学校がなくなるのはさみしいものです。

 次。
「マイナカード取得で給食費や保育料を無償化、岡山・備前市議会で予算と条例可決」(読売新聞オンライン)
 政府の犬ですね。犬なら市民の税金で生きるな、と思いません? ワン!と言って政府からドッグフードを貰えばいい。ほんと、代議士を選んだ備前市民さんたちの耐えがたい恥ずかしさといったら。。
 いや、ただのいやみです。現状、岡山に知り合いいないし。
 地方自治なんていらないと言い続けて40年、実際いらないしょ、ねえもん。
 
 さて今日は先々週の続きのオタク記事。視座の次に視点、て逆だけど。 
 ここでいう「視点」とは、「神の視点」「人間の視点」「鳥の視点」「虫の視点」といった、物事のそもそもの根源にあたる見方のことです。視座は5W1Hといいましたが、視点は取り扱い世界の設定。もう一つ踏み込んでいえば、登場エイジェント(登場人物)の選択のことです。
 視座は、他人から相談を受けたとしてアドバイスもできます。しかし、視点自体は本人の選択によるしかない。「しかない」だけに相談に乗って甲乙を云々するというわけにはいかない。さらに、視座に方法はあるけれども、視点には方法はない、あるいはありすぎるので踏み込めない。
 というレベルの話です。
 
 まずはとっかかりで、今週の図書館本の収穫が、降旗節雄「黒田寛一の〈場所的立場〉『「昭和」マルクス理論・軌跡と弁証』所収、社会評論社、1989.
 このブログでも前扱った黒田の「宇野経済学方法論批判」。意味不明の黒田の独り言が降旗によってきちんと整理されて叙述し直されてるからすごい。そう、おっしゃる通り、そうなんだよね、だから黒田が正しいんだよ、、、ん? んん?
降旗:「わが黒田理論なるものの本質は、なおスターリニズムから科学的立場への移行過程にある過渡的「立場」のイデオロギー的表現にほかならない」と。
 正しい。降旗もどこまでも正しいのだが、反批判になっていないことに気づかないところが可笑しいじゃん。もしかするとエールかもしれないよ、、なわけないが。
 こんなの前にもあったね。
 「そうその通り、君は正しく理解しているのに、それがなんで批判になんかなるのか」と 思ったのが許萬元の武市健人批判でしたが(2020-01-11)、つまりは世の中、視点が違うと何も見えないのと一緒という、若い人には理解出来ないであろう事態があるのね。

 まあ黒田も「これ以上はぼくにはできない」と悲鳴を上げただけなんだけれど、それが、直(ちょく)、よほど大したことだと誤解している特殊世間が悪い。
 のだけれど、しかし、それを引き継げる能力が誰かにあれば、それはよほど大したことだったわけだ。
 あほしか残っていないらしいK派はどうでもいいが、北井一派さんとかいうのには、昔の山口勇のようなシャキッとした若いのはいないかなあ、、わたしの次(々)回本が出来たら大量に買ってほしいものだ。

 ま、今日は視点の話。
 要するに、「資本家世界の視点」と「労働者世界の視点」がある、というわけです。それが「誰にも」わからない。マルクスは左翼だから労働者の視点だと思い込んでいる。いったい資本論のどこに労働者が出てくるんだね。出てくるのは原蓄期の農民くずれだけではないか。黒田も自分で主張しておきながら、自分の言った内容を理解していない。 
 視点の移動は一瞬で終わるから、腰を据えて考えないといけない視座の移動ほど難しい行為ではないけれど、移動の余地がある、という発想が湧くかどうかが、主体性のない人々にはエベレスト登山ほどの至難なのだね。
 たとえば「ウクライナが侵略を受けているんだから、これを助けるのは当然」、と信じ込んでる人間に向かって、家族が兵士に殺されている人間が「ウクライナだって抑圧国家だ」と叫んでも通じるもんじゃない。そんな「平凡な狂信者に」は戦争なんか絶対に回避できないにもかかわらず、一方で大軍拡阻止とかいう気も知れないが。労働者を見ろ、といったら、いや商品化されているから出さなくていいんだ、とかいうに違いない。ただの言い訳。
 元へ戻って、
 人間は個人として、自己の場所的立場からすべての理論を積み上げねばならない。たとえマルクスがなんと言おうと。この場合、サラリーマンたる自分にとって労働者の立場を前提としたら、「資本主義経済の仕組み」という経済世界ではなく、労働者がエイジェントである視点から理論を積み上げねばならない。あるいは百歩譲れば、「資本主義体制の仕組み」という支配者世界の視点から、理論を積み上げねばならない。そうでなければ次に「私」は何をするのかがわからないからだ。せいぜい政治屋どもに、「君は商品化されているから資本家と闘うしかないのだよ」なんて「説得」されてその気になるだけ。ほおら資本論はデマゴギーの諸悪の根源だ。
 ここまでいわれて、自分の視点が資本論のどこかに落ちるとしたら、その人はただの大学教授、あるいは資本家に過ぎない。
 黒寛が自分のデマゴギーを反省もせず、縷々そう言っているので読んでください。大学教授でなければわかるでしょう。
 「そんなこといって、わたしの視点はどこに持っていけばいいんだ?」
 そうだろ? 考えたってそんなこと誰も教えてくれないだろ?
 だから悪口をいっても黒寛が偉いんだよ。たとえ自分は悲鳴を上げただけだってさ。
 読めやしない文章はちゃんと降旗がまとめてくれている。降旗の黒田に沿って進んでいけばいい。それで必要条件は満たしている。
 黒田は暴力教祖だとか反革命だとか、そんなイデオロギーをくっちゃべる暇は、科学従事者の世界ではありえません。社会科学徒には科学徒しか歩いていけない生の道があるのです。
 もっともわたしゃいやだから勝手にするんだけどね。
 
コメント
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