リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学の視座と方法(その1)

2023-03-11 14:26:59 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。眼がかゆいですね。かゆくないか。鼻が出るのは花粉症ですよ、とはいえ、まともな(副作用のない)薬もないのでおすすめもできない。鼻薬って持続すんですかね、当座は効くのは知ってるけど。
 自然界は啓蟄が早かったか、近くの池のカエルたちは卵を残して山に帰ってしまいました。
 人間界は卵320円に達し、5割増しです。こうなると値頃感というのがなくなって、150円の甘塩銀鮭が安く見える。100円の5割増しなのにさ。
 
 ここんとこずっと駄弁ばかりでしたので、本日は久方ぶりにオタクテーマ。
 その前に前座。ささいなニュース。
「イトーヨーカ堂、低迷の理由は「店の2階」にあり 残る100店舗弱に起きる変化」(ITmedia)
 なんでも2階を衣料品売り場にしてたのを、他のスーパーと同じく、テナントにするそうな。
 え~~、そんじゃ私のワイシャツ、細身用ブランドSAVOIA ヨーカドー、買えなくなるじゃん! わたしのような華奢で繊細な体形の人間はどこへ行けというんだ!
 なんて思っちゃったら、退職者の悲しさ、もう、とうに売ってないって。最近は柄シャツをネットで買うから。不幸中の幸いか、、、
 
「なぜ残業代出ない「給特法」教員600人切実な叫び 抜本的に変わるか「合法サービス残業」の行方」(東洋経済)
 なんて話も。教員に残業代が出ないのは「給特法」が悪いってさ。
 ざけんじゃねえよ。てめえらの要求じゃねえか。日教組社会党と日本共産党のきれいごと。わたしゃ高校生だったけどさ。誰も覚えてないと思ってるだろうが、昔の高校生をなめんなよ。
 腹しか立たない。原発福島自治体と一緒だ。
 
 というわけで、一般の方には役に立たないまま、オタクテーマへ。
 2023-02-18 記事で悪罵だけ投げてやめた、視座と理論の関係です。
  
 視座とはもちろん、叙述者がどの立場に立つか、という選択です。
 では立場に立つのは誰か、といえば社会科学上は、なんらかの行為者です。何らかの行為者の立場を叙述者も共有するわけです。それは具体的に生きている個別の行為者であることもあり、抽象化された行為者の集合性のこともあります。
 両者ともに共通なのは、視座とは、その選択された行為者の現実の状況を含んでいる、ということです。社会科学は、マネキン人形を扱っているわけではない。究極的に生きている人間に還元される理論なのです。
 
 この現実の状況とはどんなものか。
 いわゆる5W1Hです。叙述はそもそも伝達事項の集約なのですから、端的に言えば、「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どうした」を含むのです。
 そして、選択したはずの行為者は、ここでも再度選択を迫られる。
 「視座」の意味は、使用者によっていくらでも分かれうる。
 5W1Hを、叙述者がどう焦点化するのか、すべきなのか、が分化する。
 歴史をどう扱うか、場所を複数化して焦点を当てるか、行為者は支配者か人民か、行為主体の目的をどうとらえ、その理由をどうとらえるのか、彼らのどんな行動をとらえるのか。
 これらの一部が声明者の志向に沿って強調され、「視座」と呼ばれます。「一部」は「全部」でもよいのですが、多くの場合、そのいくつかは声明が行われる場で前提とされているので、通常一部です。 
 もっとも社会理論上での「視座」は抽象的議論内での焦点の行方の差異も示します。ある事象が通例「政治」によって叙述されるところを、政治家の性格によって論ずる、といった例です。社会理論上の議論には、生活上の伝達構造がそのまま当てはまることが少ないからですが、要するに、焦点の当て方の違いなのです。
 
 この前提とされている現実について分析がなされ、その分析の再統合がなされる。この段階が弁証法です。弁証法の前に、視座の設定があるのです。
 
 さて、ここからが問題です。
 だれでもわかることだと思うのですが、一連の理論の中では、視座は同一でなければならない。視座を違えたいと思うのは自由ですが、そうすることでそれは「一連の理論」ではなくなる。江戸時代の人間と昭和時代の人間は決して同じではないのです。せっかく築いてきた江戸時代用の諸規定は、登場人物が変わればその全部ないし一部は作り直しです。この事情はソマリアの人間と日本の人間との間でも起こる。当然です。弁証法を理解できない社会理論家にだってわかることだ。 
 
 というわけで「プラン問題」に戻りますよ。こうでした。
1 一般的・抽象的諸規定
2 ブルジョワ社会での諸カテゴリー
3 国家形態におけるブルジョワ社会の総括
4 生産の国際的関係
5 世界市場と恐慌

(それに隈が加えた)
6 世界市場とブルジョワ国家

 ここでは「ブルジョワ社会」の規定性が終わらない間に、「国際的関係」に移ることはできない。ましてや「世界市場」に移ることもできない。
「いやそこは資本論で終わっているから」というならそれを集約してから次へ進まなければならない。いや現実には「続きだ」といえばいいのですが、「どこが続きだ」と問うているわけです。もちろんそもそも資本論では何も終わってやしない。資本論に国家など原蓄期以外には出て来やしない。資本論は2までしかやっていない。ただの政治経済学批判の序説なのです。

 では隈とマルクス等との視座の違いは何か。「だれが」と「なぜ」です。それが理論をまるっきり引っくり返す。行為主体を支配者と捉え、支配者の意向が被支配社会を動かす。難しいことではない。マルキストも実はそう口にしていることです。口にしていたって彼らには自分のしていることがわからないのですが、それは既に「間違い」の範疇であって、視座の問題ではない。彼らの思い込みでは「支配者は資本家」でありそれは誤りの根源(に近いもの)ではありますが、それはマルクスの間違いとはいえ、だからといって追随者が責任から免れるわけではない。そして、これが大事なことなのですが、それは「方法の問題ではない」。

 なおここで、初学者の方には、たとえば「宇野経済学は科学だから、視座の如何を問わず正しいのではないか」という疑問が出るかもしれません。しかし、わたしは視座の違いで真偽や正・不正が変わると言っているのではありません。「視座の違いで明らかにされることが違う」と言っているのです。
 視座が100あれば100全部が正しい。しかし、ある視座について明らかにされることは、その1視座によるしかない。
 複数の理論間で真偽が違うのは、それはどちらかが、あるいは両方が、間違っているのです。視座のせいにされるのは。真偽の理由がごまかされるという意味で、他人にとって迷惑です。
 たとえば、正統派マルクス主義経済学と宇野経済学の間にあるのは視座の違いではない。考えの違いです。そしてそれぞれに間違っている部分があります。
 これに対し、隈の次(々)回作とマルクスの経済学の間にあるのは視座の違いです。隈の政治経済学はもちろん正しいが、だからといってその派生的論理の結果、宇野経済学が間違っているのではない。

 ついでに言えば、正しいからと言ってそこからの派生的論理の結果その理論が科学になるかといえば、そんなことはない。科学には因果連関を将来に適用可能な立言にして表すという使命があるうえ、その立言により一般人民に資するという使命もあるのです。集合性たる一般人民に敵対する資本家に資する議論は、人間の科学ではない。

 さらに追加で初学者と老学者にお教えすれば、ウェーバーが複数の視座を持っていた等のヨタ話には乗らないように。複数といったって経済と精神の2ケです。なんの本質もついていない。一層問題なのは、彼の論は過去の「説明」であって将来に使える「立言」ではない。説明に真も偽もありはしない。ごまかしたほうが勝ち。「そうともいえる」というイデオロギーです。「どんな視座でも正しい」という事実の対偶ともなる「なんでも権力者が言ったものが勝ち」です。

コメント
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