リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

宗教に対する主体性(正)

2019-10-12 12:59:41 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、右(東)からの風が山地にぶつかってすごい雨。これで風まで来るのは願い下げですね。「願い」って、安房地方を通過していいかといわれるとそれもあんまりで。
 困ったもんです。
 まあ、今日は買い物はありません。
 
 でも、この雨でアレルギー元のカナムグラの花粉も全滅かもしれない、こちらは願いたいものです。花粉ひどくて。
 春にもいいましたが、ぜんぜん効かないアレグラ、まだ10錠以上残っているのでよせばいいのに飲んでみました。が、完璧に効かない。悪化する。ティッシュの山。なんなんだろうねえ。
 それにひきかえエスタックイブは神のよう。1回で1日もつ。ただ、胃が重くなるのね。
 
 さて、ニュース。
 ノーベル化学賞、おめでとうございます。どうもお歳が誤記ではないか、と思いましたが、企業研究者で、若いときの他の幾つもの研究は失敗のし続けで大変苦労したそうな。苦労は髪の色に反映するのね。対して、気を使うと髪の量に反映します。企業研究は命を縮めるということで、大変です。褒めてないのでお名前は略。

 柳家小三治、一昨日の朝日新聞。
 落語を磨き上げるとは「自分や人の生き方に、何をどう感じて生きていくことかってこと」若いもんは「誰かが評価してくれるだろうって期待してやっている。そんなことより自分が何をしたいのかが大事だぞ」とご発言。
 そう思うぞ。小三治だもんな。もう落語家も少なくなってしまった。笑わし屋ばかり。
 
 では、早々に本日のお役立ち情報。本題がつまらないから全体を短く切り上げようと。
 某左翼もののブログをみたら、不用品処分のお役立ち情報が出てました。以下、彼の言。
 「断捨離で埼玉県のG社に不用品処分を依頼 電話で荷物の内容も伝え「軽トラック積み放題」で1万5千円の定額のはずが、当日現場に来てから 3万4千円で冷蔵庫など3点しか引き取れないという。定額じゃないとしても相場の倍。ふざけんな!」「G社に電話 説明を求めたら、会社としての説明は一切なく、『で?どうして欲しいの』と鼻で笑った。」「運送業経験者の友人が、不用品引き取り業者はネット情報は全く信用できない カオスの世界とのこと。比較サイト、口コミサイトも信用できない。電話帳で選んだ方がマシらしい。」
 そうなんだよね、みなさまお気をつけください。左翼だからそれなりに応答できても、女性一人暮らしとかだと悔し涙で支払っちゃうよね。
 そこで、どうしたらよいか。
 1 引越し等の機会であれば、不動産屋に紹介をお願いする。
 2 本気の断捨離で山のように出たら、「仏壇も引き受け、ちゃんと仏壇供養をします」と明言しているところ。これは私の世間知で、「一事が万事」の応用です。
 まあどちらも値段はそれなりでしょうが、儲けようと思えばリスクも出ます。
 
 というわけで、普通の方はまた来週。今週中の次回はつまらないのの続き。
 本題。
  前々回、「労働者の最後に残った自由は感受性」と述べましたところ、絶対理解されないかと思いますので、ちょっと真意を述べておこうかと。
 
 まずは、思想を述べる者なんてなあ、いい加減なものです。左翼思想家とか牧師とか僧侶のことです。やれ主体的に歴史に身を投じろだの、やれあれしちゃいけない、これしちゃいけない、我の教えに背けばその身は滅びるであろうとか。てめえらは安全な場所に居て言いたい放題。かたや労働者人民は「悪」に手を染めない限り生きてはいけない。それでいいといっているわけではなくて、人間のトータルの世界が来るまでは、労働者人民は決して満足できるはずもないのだ、といっております。本当の神仏の民や、プロレタリアートの魂にとって、人生の真理は、言いたい放題の自己満足にではなく、悪に手を染めざるを得ないそのくやしさに、あるのです。
 個人の思考上で作り上げた偉さだけを述べるなら、寺院や教会やセクトのアジトでやっていればいい。自分でカネを稼いで明日を生きなければならない世界の人間は、お布施や寄付金やカンパでのうのうと暮らしている連中のいうことを聞く必要など、かけらもありはしないのです。
 
 人間の主体性とは、すなわちある個人が生を享けて、その生を自分のものとして死んでいく、その意義とは、不労所得者がもてはやす自称善意などには関わらないことは、わざわざ親鸞を持ち出すまでもない。毎日、悪を行わなければならない人間が、ある一瞬に、しかし、溜めに溜めた正義を行うことで決まるのです。もちろん、世の中にはその正義を行うその一瞬前に生を終えることもある。それがどうだというのか。人間の主体性は、そっくりかえった坊主や牧師や思想家の言にあるのではなく、今日は腰を曲げ頭を下げながらも「明日こそ正義を行うんだ」と決意した人間の心の中にあるのです。
 人間にとって、自分の感ずる「意義」とは、何の規定性もないゼロの意義などではない。人は感受性によって将来を見据え、それを実現しようとする自己と、その将来の実現を阻害する「社会」とを認知する。人とは感受性なのです。
 感受性といっても何の規定性もないわけではない。社会の中の感受性とは、人にどうしてやると喜ばれるか、あるいは人にどうすれば自己の威厳が確保できるか、そうした人への賞賛と優越なのです。
 
 すなわち人間は、他人の中で生きることなくして人ではない。
 端的にいえば鉱山奴隷は、ひたすら自己の力を振り絞りこき使われてくたくたのまま明日を迎え、そうしてただ単に堅いパンをかじり濁った水を飲んで若い命を終える。これを人間とよんでいいわけがない。どんな良心的な同情心溢れる宗教家であろうと、ここに主体性があるといってはならない。
 しかし、鉱山奴隷は疑いもなく人間です。
 人間には一瞬の正気の機会がある。岩石を削り運び、いくら死ぬほどに疲れても、翌日の夜明けには、「俺はまた働くのか。ここには家族も友もいないのに」と考え、絶望する。この感受性こそが主体性です。そのときに「奴隷主をぶっ殺してやる」と思わなくとも、その苦渋の感受性の一瞬こそが人なのです。彼は今日死ぬであろうが、そのとき彼は神や仏の前で胸を張って、「俺は死ぬほど生きてきた」と言えるのです。もちろん疎外された支配者が作った神や仏は、自分が無視された人間の事態を認めはしないでしょうが、現実の神や仏は彼を天国や極楽に連れたもうのです。なぜか? もちろん神仏は自分だけの審判や往生のことしか考えない牧師や僧侶よりも偉いからです。神や仏が作ったのは個人ではない。被造物は人間総体であり、自分だけの救いや成仏を考える者の救済は、自己矛盾なのです。
 
 という人間の事情は、行為論的社会学にとって、理論の原点です。
 人間は自己の意思があり、行為は意思の通りに行われる。しかし、その意思どおりに動けばそれで自己の将来を実現できるかといえばそうではない。なぜか? 人間の身体的確保や価値の確保は、社会の論理に従って行われるからです。行為の社会学とは、個人と社会の二元論、ただし規定性でつながった二元論の形態を採る以外には存在できない。
 この社会の拘束性の理論的認識こそ、トータルとしての救いの論理の認識なのです。

 で、「思想に対する主体性(続)」もありまして。「1」と「2」なのに題が変わるブログ。ま、どうせつまらないので後ほど。
 それにしても雨が横殴りになってきて、困った。



コメント
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