リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

虚無に対する主体性(続々)

2019-10-14 15:02:24 | 歴史への視角
 (前回と前々回の続きです) 

 ここまで、宗教もダメ、思想もダメ、だまされるんじゃないよ、と、いかにも述べてきた風です。それでは取り残されて労働者人民は何をしたらいいのか、社会学の勉強でもしろというのか。
 そうではありません。
 私にはネットウヨのリベラル批判からは彼らの歯軋りが聞こえます。「ちくしょう。ちくしょう」と言っている。何をそんなに悔しがっているのか。「誰か助けてくれよお」と確かに聞こえる。わたしは長生きしてるからね。
 述べたように思想が迫るものは「思想を語る彼ら」からの賞賛と優越です。それでよければ私の関知するところではない。彼らの中で仲間として賞賛と優越を得てゆけばよい。
 しかし、それはただで手に入るものではない。その代償は、彼らの気に入る行動です。
 何度も言うようだが、それでよければそれでいいのです。とくに子供たちはそれでいいのでしょう。
 しかし、思春期を過ぎた人間は自己を持ってしまっているものです。年寄りやブルジョワジーの手先である口先男たちに対して、それゆえの「ちくしょう」の言外の罵声のはずです。
 
 「ちくしょう」というこの疎外を満たす満足は、大人になってしまえば、自己から出て行く行動の成就によるもの以外にはない。 
 もちろん、超自我の持ち主のような少数派はどうでもいい。初めから勝手に行動をしているのですから、本人の苦労度のいかんを問わず、一般的に論議するのはムダです。(私のことですが。) 何それの行為をしたからといって心の中の「超自我」が賞賛してくれることもない普通の人間にとって、自己の自由を保障する賞賛と優越は、自己が新たに社会関係を結ぶ平等な、行為共同性を同じくする、そんな人々との間の賞賛と優越しかない。
 すなわち、自分の生理的状況を改善する事実認知と、それとフィットする限りでの新しい人々との共感です。決まりきった修辞で言えば、新しい明日の認知です。
 残念ながら人との認知詳細は、次の瞬間に引き継ぐ。それまで裏切り、裏切られ続けた人々との記憶は、決して行為主体の新しい明日を導きません。現実には導こうとも、人はその認知を拒否します。ですから、相変わらず正義漢面した人間の言など、はなから聞く耳は持たない。これは正義漢の方々には理解不能でしょうが、それは正義漢の方々が社会学を勉強していないせいです。本来、高校で習うことなのですが、優秀な社会学徒は高校教師にならないのでしょうがない。
 それはともかく、「どうせ人間たちなどこんなもんだ」と思ってその日暮らしをしてきた疎外された人々は、新しい未来と新しい人々の間で自分の新しい未来を形作る。この過程の提示が「論理」というものです。「存在するものは合理的だ」などと知ったかぶりをしている人間は、この新しい論理の恐ろしさを知ることはない。そもそも人間は全てです。正義漢だけが理想の人間であったり歴史的主体であったりするものではない。一人の人間は、彼個人の主体において、社会の歴史のトータルなのです。ただ、その前提さえ備わったなら。あるいは、誰かが備えてくれたのなら。
 
 じゃあ、その未来とは何か。その生理的状況の改善とは何か。そこで仲間となる人々とは何か。
 それはとりあえず、論理そのものの問題ではありません。そこから先は私の口を出すところではありません。彼らは私とははなはだしく違う。そこから先は彼ら自身の思うようにすればいい。あるいは彼らの中の先覚者が、率先して広めればよい。
 このように、人間は誰もがトータルです。私は彼らは嫌いですが、しかし、彼らは友達ではないにせよ、「仲間」なのです。マルキストを仲間というのなら、ネット右翼も当然仲間なのです。
 願わくば、歴史の仲間たちが虚無に面してせっかく生を享けた一回限りのその自己を失わぬよう。



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思想に対する主体性(続)

2019-10-14 14:53:19 | 歴史への視角
 こんにちは。台風ひどかった。近くでも川の水が溢れたり大雨が低地に溜まったりで浸水。何十年か前の災害状況が再現されています。昔起こったことはまたいつか起こるんだね。危険な堤防。危険な埋立地。昭和まで利用されないで残っていた土地は、戦後にどんな立派なビルが建とうとしゃれた家が建とうと危ない土地。若人は、いくら安くても関わっちゃあいけないな。ニュースの福祉施設の陰には新築住宅も多いと思うぞ。古くから居る周りの人は教えてくれない、というか教えられないからね。自分で情報処理しないと。
 昔、近くの多摩川で堤防の端の家々が一部堤防の不備で流されたことがあって、大学の講義で学校教育論を受けたとき、担当の教師が新築の家を流された当事者だった。自分でルポ記事も出したみたい。と思ったらネットに名前も出てた。横山十四男氏。本職は日本史なんだね。
 多摩川の本堤防も、高さぎりぎりでよく持ちこたえているのが不思議。経験値なのかねえ、これからもっと高くしろっていったら膨大な事業だけれど。山の一つや二つ消えそう。
 まあひどいのだけれど、千葉の安房地方の直撃じゃないというのがせめても。

 それにしても日本の一年は災害ばかり。このままでは本題に行き着けないので、目先を変えなきゃ。今日は体育の日なんだよ、知ってた? これはどうも国家の秘密みたいで、朝日新聞をくまなく見たけれど、第1面の日付欄に一箇所、12ポイント活字で書いてあるだけだった。
 というわけで、ラグビー。ニュース映像だけど、(昨日に限って)かっこいいトライだったですね。ずうっと昔見たラグビーの動作紹介試合みたい。あれ(複数)は自慢できる。ファンの方は地味にお祝いしてやってください。
 
 と日常に戻って、予告の続き。
 「主体性」の問題とは本質的には前回記載のようなものですが、現実ではそれは少し彩られる。
 
 主体的に社会に立ち向かおうとする行為主体は、その手前で立ち止まる。「そんなことやったって無理だ」「何で俺がそんな無駄なことを」。
 これが第2の「主体性問題であり、かつまた、現実には、多くの人間が自己の意思を自分で見つめられるようになった時代に、哲学者・思想家が第1に直面した(であろう)焦燥の状況です。つまり「社会の中で」主体となる姿勢です。
 人は自分さえ生きている限り社会のことを考える必要はない、とはいえます。これが本来の主体、即時的な主体です。にもかかわらず、人は社会の中で、他者を考慮に入れた際、その社会に抗することが求められる、ことが必ずある。これが第2の主体性です。
 正しく言えば社会は、人間に対し、その人間の服従とその人間の決起の2通りを別々に求めてくる。社会は他の人間を介してその要求を行う。支配者の小頭は服従を、運動活動者は決起を。
 これへの対応は、服従を取ろうが決起をとろうが行為主体にとっては主体性であることに変わりはない。文句をいう奴には「勝手なことをいうな。俺が選んだのだ」というものです。
 にもかかわらず、服従はさておき、社会に抗する決起は、これを行為主体が行わなければ社会はどうにもならない、常に要求があるにもかかわらず、常に誰も行わない、究極の対応です。これを社会は「主体性」と呼びます。いわば、社会からの呼びかけです。これは呼びかけであることをみれば分かるように、社会の賞賛と優越を含んだ価値行為です。
 これは「自主的」に似ていますが「自主」に含まれる率先性は期待されていません。ただ、「お願いだからやってくれよ。お前がやらないとどうにもならないんだよ」という問いかけへの対応の要請です。
 他方、服従者は社会にとって主体ではない。自分だけの行為をしても、社会にとっての行為しない主体は石ころと同じです、もちろん支配者も直接の当事者たる支配の小頭も、抵抗しない人間は石ころです。そのままほっておけばよい。もっともこの石ころは自分たちのために果実を生成してくれるわけですが。
 
 この事情が社会科学に、賞賛と優越を伴ってイデオロギーとして侵入するわけです。
 科学にとってその「するための意義」は行為主体にとっての意義です。したがって行為主体が自分のためだけに生きていてもそれは科学にとって差し支えない。科学は彼のために彼の役に立つ立言を提供する。
 この普遍的な事情に、しかし、社会は人間を介して、それ以上のことを他人に要求する。社会科学は、社会のための行為をすれば代わりに賞賛と優越を与えよう、と行為促進のイデオロギーを供給するというわけです。イデオロギーを追加すること自体が悪いわけではないが、その申出自体は科学ではありません。追加はいいが、隠して混ぜてはいけない。たとえば主体性論争とは、戦争推進哲学者からも推進される非科学だ、ということをまず認識しなければならない。が、その認識は行為論的社会学以外にはできない。さて、認識した上で、この要求をほっておくかどうかは、逆に科学の名において拒否できる問題ではなく、行為主体が逃れることのできない対応だ、というわけです。
 
 で、まだ続くから不思議。
 たたみこむように、次は、虚無に対する主体性(続々)。
 
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