リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

この世界を自分で考えるということ

2013-06-15 21:57:41 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。東京地方、外は暑いけどまだまだ快適の種類。西日本の方々は大変ですね。の一方、九州まで行くとそうでもないようなのがなんともしっくりこない。
 
 東京もクールビズばやりで、25度しかない昨日、金曜なんかも、数を数えたところ数えるまでもない、自宅から会社まで45分の通勤、ネクタイを見たのは2人でした。自分を除いて。
 わたしなど、いつも自分の仕事仲間に感謝してますが、しかし、こんな風景をみるとがっくりしまさあ。みんな、ころっと変っちゃうんですねえ、おととしまでみんなネクタイしてたのに。まあそういう命令(指令)ですが。そんならおととしだってネクタイ外しゃあいいじゃないか。
 いやもちろん、会社の意向ですから、他の会社もそうでしょうし当然ですが、当然であれば戦後50年のしきたりが2年で変るというのがすごい。(注:私も若かったら外してますが)
 (戦後は68年ですが、1955までは暑いときはネクタイしない、というのが大体持ったほうがいいイメージ。)
 まあそれでも、仕事仲間は正直な人とか、仲間のことを思う人とかばかりで、その点、心が助かりますが。
 (てゆうか、そのどちらでもない人は目に入らない。(いることは気づいている)。)

 さて本日は、ちょっと前、この場にひとこと出した大塚久雄。
 わたしも気が小さいので、批判コメントにはこう書こう、とか思いつつブログを書いているので、その流れ。まあ想定内の批判コメントなどあったためしはありませんが。
 で、これは若い人にはちょっと大事なことだな、と。
 題材は
 大塚久雄、社会科学の方法、岩波書店、1966.
 この中で、人間疎外について触れている項があって、昔からそこそこ有名な箇所です。
 大塚氏は、マルクスの疎外という概念を有用なものといったん受け入れまして、彼氏いわく、
『自然成長的な分業に由来する疎外現象の結果、人間自身の力にほかならぬ社会の生産力が、人間自身から離れ、むしろ対立して、見渡しがたい、さしあたって個個人の力ではどうにもならないような客観的過程として、そうしたものが人間を支配するようになっている。ところで、こうした疎外あるいは物化という状態は、いうまでもなく、人間にとっては自由の喪失にほかなりません。』 しかし、それでは社会の考察には足りないので、ウェーバーの人間行為の概念で補完せよ、と言うわけです。
 貼り付け元、http://d.hatena.ne.jp/rincleuncle/20120414/1334355713(誤字を訂正)

 大学1年のとき読みましたが、その頃は私もすでに経哲やド・イデやその解説本を読んでましたので、「なんじゃこりゃ。通俗だなあ、これじゃ学問の意味ないじゃん」、と思ったものですが。
 その頃人気だったんですかねえ、ちょうど田川建三も雑誌『構造』で大塚のその箇所を取り上げて馬鹿にしてましたが(といっても必ずしも論旨は明快ではなかった)。

 もっとも知らない方には、yahoo検索では、大塚への褒め言葉ばかりでまともな反論もなく、ちょっとくらいの知識ではわかりませんね。お前が書けって、すいませんが今日も手抜きブログ。
 で、ちょっとあったこんな批判は分かりやすいでしょうか。
”大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)では,疎外と物象化とが混同されている。”
(いや、なかなかよく書けた卒論だ、これなら末が楽しみ、と思ったら、どうも中堅教授さんの書き物のような、、、。でも褒めたんだからお気を悪くなさらず。出所はあえて書きません)
 ま、そのまんま。上記のように一緒くたですからね。
 
 というわけで、マルクスの趣旨が大塚のまとめとは違うことは自明なのです。でも、大塚は、そんな自明さを自分で知りつつ、しかし、マルクスがいいたい現実はそんなことだろ、といってふんぞり返っているんですね、ないし、私にはそんな気がします。彼氏、そんな傲慢なところがあるでしょ。そしてそれはあまり間違っていない気がする。
 
 で、若い人にいいたいこと。その1.
 マルクスの規定をいくら並べ直しても、マルクスが解明しようとした「疎外」ないし「物象化」状況というものを押さえてなければ本当に分かったことにはならないだろう。
 というよりも、私なんざ、プチブル・マルクス本人にさえ分かっていなかったと思ってますが、マルクスが「分かろうと思っていた」疎外とは、物象化とは、何か、その現実を押さえてからでなければ、その後の「理論展開」は哲学者の自己満足の論議に終わってしまうだろう、ということをまずはいいたいです。

 要は、社会科学というのは、センダチが何をいったかを論議する場所ではない、自分で現社会を分析、立言化するところだ、ということです。
 まあ、あまりセンダチ本人から離れるのはいいとはいえませんが、「自分はそう読み込んだ」といえば、それはセンダチの名誉でこそあれ、それで書いた本人の評価が落とされる筋合いはない。

 別の視点から「それは違う」というのは構わないが、違うというだけではなんの評価も与えられない。社会科学者は思想家や宗教学者や哲学者ではない。社会科学は文献学ではないのです。彼は現実についてどうなのか、というところを話そうとする。話そうとしない自称理論社会学者などなんの存在価値もない。
 
 という前提のもと、やはり理論上誤謬であっても、大塚のやり方は正しかったのではないか、と思うこの頃です。
 応用理論では、本質規定を述べてもしかたがない。現象面がどうだったか、現在その現象はどうなのか、これからどうなる(どうする)のか、と続かないと意味がない。
 1966年で大塚久雄59歳。やはり、研究者の中高年というのはそういうものですね。

 なんて、実はこの本は大学1年の予備ゼミで間宏先生に読まされたもので、こちらの大塚の無・理論への不満をよそに間先生いわく「本当に分かっている人というのはこのように分かるように書けるのです(君らみたいなマルクスがうんたらなんていう論文は、社会学なんかではない)」とおっしゃったものですが、理屈はそうとして、その理屈(の前半)が大塚の疎外論にも当てはまるというのは最近の認識です。
 さてこれは私のアタマがボケただけなのか、、、
 
 というわけで、若い方にいいたいこと、その2。
 まずは、自分が現実の何を感じて問題意識としているかを明確にする作業を怠ってはならないようです。わたしなんざ親がかりの学生でしたんで、(その頃は)ぜんぜんだめだったですけどね。(もちろんだめはだめなりにメリットもあるわけですが、それはそれ。
 ただ、メリットのないデメリットはない、ということもバランス感覚として覚えておいたほうがいい事実です。) 


コメント
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