リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

虚偽意識

2007-09-23 21:19:58 | 上部構造論
 夜9時。首都圏ではあるが田舎の駅の近く。
 通勤帰りの中年男が親子3人ほどのグループを追い抜く。
「、、、きょう、、くりのはいった、ごはん、、たべたんだよ」
 やっとかっと、言葉にする3さいくらいの女の子の声が後ろでする。
(そうなの、栗ごはんね、、、) よかったね、と思う中年男。
「うそつけ」
 冷たく切り捨てる、これは小学生くらいの兄の声。
 
 なんてえやつだ。
 こんなやつとは付き合いたくないぜ。
 中年男は女の子の声を反芻しつつ足を速める、、、
 
 以上、中年男でした。

  ******************************
  
 
 言葉は社会との窓です。人はこれによって、社会での自分の自由を確保しようとします。
 
 およそ抑圧された者の自己回復の第1の工夫は、自分がさらに下位に置かれてしまう他者が現に位置するイメージを切り捨てるところにあります。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 兄ちゃんは、きょうの日能研の点数が悪かったのでしょう。
 そう、たぶん、もともと先の会話は、塾帰りの兄ちゃんを母妹で迎えにいった際の場面なんだと思います。
  
 抑圧された者の第2の工夫は、自分を抑圧者と同じ位置に持っていくイメージを作ることです。
 上に上がりたい人間は、上の人間の言葉を真似をすることで、上の人間になったような気がする、上の人間の言葉を使うことで、上の人間にとっての下位の人間が恐れ入る、かのごとき、気になります。ましてや、自分の仲間など、エラい人間の言葉に刃向かえるわけがありません、と思うんでしょう。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 なぜならそんな言葉は「自分とは関係がない」からです。本当は関係があることは、社会科学を教えてもらわなければどうして知り得るでしょうか。
 こうして、上層者を夢見る言葉は、上層者のウソを受け入れ、かつ、そのことによって、自分を裏切ることになります。
 「社会には競争がなければいけないんだ」
 とりあえず、この言葉によって、ライバルを蹴落とす自分、売り込みに負けてお得意先からすごすごと引き上げる他社の営業を見る自分が正当化されます。
 ”これが自分に返ってくるって? ばかをいえ。おれが首になるのはそんな言葉じゃない。人事部長の一言だ。”
 はい、おっしゃるとおり。
 資本主義は言葉では動かない。
 資本主義は人間の衣食を握っているからです。資本主義に刃向かっては、労働者は生きていけない。
 しかし、衣食の足りた人間は、資本主義に刃向かえる。政治権力者、その他の国家権力関係者には、資本主義は考慮の対象でしかない。

 実は、競争などなくても資本主義社会はやっていける。物など安く売ろうが高く売ろうが、買う人間さえいればよいのです。それでも、製造業で同期で部長になれるのは大卒でも7割しかいないだろうし、金融業なら2割かもしれない。お得意先への納品は1社しか選ばれない。それは結果です。
 競争など資本主義の運動の結果の表現にすぎない。
 じゃあ、なぜ「社会には競争がなければいけないんだ」なんてわざわざいわなければいけないんだ?
 資本主義の環境は国家権力が作成するからです。
 
 今の時代、資本主義経営者からの国家権力への要求は、自国民の生活水準の低下です。売れるものも作れない産業下では、買わないくせに物を買える賃金を得てもらっては困るのです。それでは会社が共倒れる。といって我々である権力者層の収入を削るなんてまっぴらです。そこで会社同士とは違ってもともと友なんかではない下級労働者諸君に犠牲になってもらう。
 とりあえず、今までは年功制なんてものがあったから若年層が犠牲になれ。なに、すぐ、実力制にして中高年をスムーズに貧乏にさせるさ。若い奴のほうが大切だからね。
 ここちょっと、複雑。資本主義は、やっていけるのだけれど、資本主義を管理する人間からすれば、そういう人間行為者をバカにしたことをするのは危険すぎる行為です。人をバカにすると国家権力が変更される。そうすると資本主義まで弾みで殺されるかもしれない。
 
 国家権力の行使によって、世界資本主義の進展を滑らかにさせる。資本主義を安定させつつ自国の労働力を安く売らせる。
 この国家権力の武器がコトバなのです。
 さてはて、課長にさえなれない人間が、正社員にさえなれない人間が、お人好しにも「社会の価値」を体現して「競争」を口にする。いったい、学校でなにを教えて来たのか、、、社会科学を教えろよ。
 
 これが二重に誤った意識、虚偽意識です。

「この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い。」
(戸坂潤)(戸坂潤全集NETさん、ありがとうございます)

 戸坂潤という人は戦前のマルクス主義者です。
 あなたがもしも本当のアナーキストなら、30年前までのマルクス主義者を勉強してください。
 どんな間違った立場であれ、自由を欲した人間の営為は、人民の財産です。



【用語解説】

※「思想」
 他者の行為をそれに準じさせることを意識して他者に発する一連の言葉のこと。
 自分の行為を準じさせるために呟く独り言は思想ではない。それは「倫理」と呼ぶ。
 
 タテマエ上はそれに自分の行為を準じさせているものだが、これを他者に表明し、『マトモな人間ならこうするんだよ、あえてお前にしろとはいわないけどね』と従順強制を潜在的に示しながら発せられる言葉は、「倫理」ではなく「倫理思想」という。

※「イデオロギー」
 思想の核として、共通の様相を呈しているもの。
 思想は人の数だけあっておかしくないが、よく見ると、いやよく見ないでも、生活している人間は、それらの思想をいくつかに分類することができる。
 自民党の人々が発する思想と、共産党の人々が発する思想とは、100万個対40万個ほどもあるが、これは多くの人にとって、1個対1個と把握することもできる。
 この1個と1個は、人によっては20個対4個という分類かもしれないが、いずれにせよ将来を考えながら行動する人間にとって、自分を取り巻く思想には共通の核があり、イデオロギーとは、こうした共通の核のことである。

※「イデオロギー=虚偽意識」
 虚偽意識概念は、マルクスではなくエンゲルスが示したことで、この命題にも訳知り顔で不信感を抱くやつもいる。が、エンゲルスは経済学以外ではアホではない。
 普通の人間にどうやってわかりやすく述べるかで、ペンがすべることがあるだけだ。
 およそ、実践を考えている人間には、人の動きはトータルに見えざるをえないのだ。
 毛沢東しかり。
 だいたい、大衆への普及の文章に、大学の哲学演習のような注釈をつけて、俗流マルクス主義だの何だのとけちをつけ米代を稼ごうとする奴の根性のほうが間違っている。

 あ、これは「理論と実践」のテーマではないね。

※「マルクス主義も虚偽意識だ」
 昔、マルクス主義が物珍しかった時代、マルクス主義政党も一つしかなく、この党派が自分の党派の実践の役に立つものは真理で、それ以外は虚偽意識だ、とぶち上げたものだから当然起こった反論の要旨。
 若い人たちは、オウムやサルのように使ってはいけない。いやオウムもサルも大変頭はよいのだが。 
 もちろんこの反論自体は、思想というものは、自己の行為の将来の自由を表現する以外にない、という一つの側面を表してはいる。マルクス主義政党の個々の思想は、個々の組織的将来を反映しているにすぎない。それはそうだ。
 しかし、元の【イデオロギー=虚偽意識】という立論は、そんなことではなくて、被支配者たる労働者人民が、支配者の言葉をオウムのように使わざるを得ない、という労働者階級が陥っている矛盾を表現したものなのだ。
 マルクス主義は社会で支配的な思想だったことはない。議論を混乱させないように。
 今ではいくつものマルクス主義党派が自分だけは真理だといっているから、どんな人民にも党派性はイデオロギーであることは分かっている。わざわざ本質を曲げる批判をするものではない。


   なお、下記コメントは、検索エンジン用に飼っているだけのものです。くだらないので開かないように。↓
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする