こんにちは。ここんとこ良い天気で仕事してるのもったいなくないですか? だいじょぶ、仕事してなくても家にいるのがもったいない。人間そうそうヒマにはなれません。
ところで、天高いなあ、と思ってネットを見ると、例によって知ったか野郎たちが、これは馬が肥えるから匈奴がくるぞ、という警戒の言葉だ、とか。しばらくネット検索したけど、誰一人根拠など知らねえ。え? 書いてあるって? それは中国語。天高く云々は日本語だぜ。日本の誰がどう使ってどんな意味になったかも書けないで「ホントは」云々が聞いて呆れるぜ。ほんとにウザイ奴らだ。ちなみに、私は心底知りません。
と、ご挨拶からおかんむりでも困りますね。論究の結論がきれいに決まらないので、とても不愉快になっております。わたしのは現実論なので、現実に不愉快、という意味ではありますが、そこを止揚できない自分の頭脳も不愉快。まあこんなところへいらっしゃる方は、なに、いつものことだから、と思われるでしょう。
さてそろそろ鍋の季節ですが、一昨日夕方NTVかなんか見てたら、友達4人で鍋屋に来て個々別々の仕立ての鍋汁で、「みんな一緒に」食事ができる、とか。目が悪くて不明でしたが、よく中国の屋台でやってるような、白湯鍋で自分で漬け汁を勝手に作る形式の模様。それで「一緒」ねえ、、、
なんちゅうかほんちゅうか、ってもう40年前?
鍋くらいふつうに突っつきゃあいいじゃん。「選択を選択する」ってゆうのはココロ的に貧しくないかねえ。食べるときに何かを選択する、ということ自体に満足する貧しさ。食べるときは食べるものがおいしかったりまずかったりすればいいんじゃないかい? 人間、右であれ左であれ、次の事態に対応できればそれで何の不満があるのか。食べて、まずい、もう食わん、でいいじゃないか。
ニュースです。「「特定技能」の外国人受け入れ、初年度4万人 省庁試算」(朝日)。自称人手不足に外国人をどんどんいれる、って。
せっかくさあ、あと2、30年で俺らが死んじまえば、若人の明るい適正社会が来るというのにさあ。なぜちょっとも待てないかねえ。おかげで幸せなはずの2、30年後は、「低賃金で日本人民の足を引っ張る外国移民を全員送還しろ」って醜い労働者の争いで渦巻いているであろうさ。低賃金以外に外国人を受け入れる理由なんてないんだからね。わたしゃもういないけど、特に今、天使の風情で賛成している左翼諸君はよく覚えといてね。警告したからね。
もちろん、やる気があれば、今でも「サービス資本」を凍結して、現行の規模で給料を上げて全員雇用をすればいいだけのこと。そんなに給料を払えなければ、余っている資本を回収して国が払えばいい。みんな働くんだから。労働力が足りない、とかいうんなら、足りるまでサービス業を潰せばいい。みんな働くんだから。働けば消費物資は回る。これ人間社会の基本。資本主義社会の基本ではないことまでいわないといけないかね。
さて、ここのところ酔っ払いの言が続いたので(=断片カテゴリー。もっとも最近は昼間に書くので、最終的にはシラフです。昼酒は頭に悪い)、そろそろためになることを。
売買と交換と贈与は、それぞれどこが違うか。社会学カテゴリーじゃない? ノー、アイドント。
みなさまは、授業・講義で売買は交換行為だと習ったかと思われますが、そうではありません(高校生の方は政治経済を選択するように)。
こういうことは習ってない高校生のほうがよくわかるでしょう。
みなさまはお店で交換をしてますか? してないですよね。お店でしてるのはソフトクリームを買っているだけ。購入とは、その本質は消費物資の入手です。その入手に(店員に言われたお金を置いていくという)社会で決められた方法を使うだけであって、人は誰も交換などしていない。
お店のほうではどうでしょう。販売とはなんとかしてカネを入手することです。できればやって来たみなさまから強奪するが一番良いのですが、世間では、モノを並べておけばカネが入手されるという仕組みがあるので、皆様の置いたカネをしまってそれに従がっているだけです。
売買を構成する「買い」も「売り」も、両者はそれぞれ全然別のもののことです。ただ、
評論家がこれを「交換」と呼んだ、というだけのことです。
「交換」を確認しましょう。「俺、ポケモンのフシギダネ持ってるんだけどフシギソウと交換しない?」「ああいいよ」。これが交換です。あるものの占有権を合意の上取り替える、人間的な関係行為です。
売買は違います。カネを渡したことにより所有権が移転される、一方的な行為です。したがって、売買には人間がかかわりません。かかわるのは「こいつを殺してそのまま逃げようか」、という行為の障害としてだけの非人間的な行為です。
もっとも、共同体内で行われる交換が尾を引く共同体「間」の売買においては、売買は交換の形式を取ることもあります。「値切り交渉」です。人は相手との「ふれあい」を楽しむために交渉する。しかし、それは本質ではありません。販売の当事物は商品だからです。売れ残りカネに化けなかった「商品」は無価値です。他方、フシギソウの価値は不変です。
他方、目当ての消費物資のない市場は、購入者にとって無価値です。居並ぶ販売人は、ただの「赤の他人」、または通行の障害物にすぎません。他方、友人やフシギダネの価値は不変です。
というわけで、消費物の入手は、場合次第になります。
ある共同体において、ある消費物資の入用は、その占有者が使うか使わないかに存するのみです。この場合、交換における、「その代わりに」の、「その」は論理上存在しません。要らないもんなんだから。「これがウチにないのでください」「わかった、あげる」。それだけのことで交換する「その」は存在しません。
ついで、ある共同体においてある消費物資の作成に専念する者の消費物資の入手は、交換になります。その作成者は共同体で生きていかなくてはなりません。従ってその交換対象はは、その作成者の生活が成立するため(に不足する)消費物資そのものとなります。死なないための交換だからです。他方、その他の共同体成員にとっては、作成者が死んでは、その専念する消費物資は入手できないので、それも当然のこととなります。
さて、では、他の共同体員との取引の場合にはどうでしょう。ここでは本来不要な消費物資の「そのための保管」として、「交換」の物質が成立しています。その目的は交換先物資の入手です。この交換手段が一般化すると、カネとなります。
この例で、ある共同体で他の構成員に渡すものがない人間はどうするか。
人は共同体社会において、必要な消費物資が自分だけでは入手できない場合、他者にその消費物資を要求します。他者は、共同体社会内において、窮乏した他者を助けることが要請され続けているのです。かくて、この際に贈与を行います。
必要な消費物資が常に存在するものでなければ、当人が窮乏していなくともこれは誰かに託さねばなりません。あとで同価値品を「返しても」いいですが、そもそも共同体社会での購入は評論家の言う「贈与」でなされるしかないのです。
この「贈与」は共同体にとって、共同体が存続する限りにおいて必須です。しかして、共同体成員にとって「当然」です。当然ではありますが、この消費物資を渡すかどうかは占有者次第であることも当然です。嫌がらせでもったいぶってちょっとしか渡さないことも可能です。かくて、支配階層は共同体にとって固定化される。名主はどこまでいってもイヤな名主です。
さてところで、これは「贈与」ですか?
「贈与」という言葉が存在する理由は、現代の権力から離れた生活ができる人(=今となっては一般の人。昔の農村社会では不可能です)にはわかるでしょう。哺乳類は困っていそうな自分より弱いものには食物を与える。これが贈与です。お子さんや姪御さんへの贈り物は、疑いもなく贈与ですね。哺乳類であれば誰でも分かる行為でしょう。もっとも生まれつきの狐やハイエナのことは知りはしませんが。しかしこれ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転です。名主も嫌々自分の食い扶持を飢えた小作人に分けるのは「分けざるを得ない」からです。これを実行しているのは人間1個人ではありますが、しかし、その実態は、「社会」であり、その実質は自分がそれに包含される生産共同体です。そう把握して初めて、やっと社会科学の入り口に入れる。
社会学をやった人は分かると思いますが、世の中、「なんでも贈与」の論者というのがたくさんいるのですね。「すべての相互行為は贈与に通ずる」とかね。自分で思っているのはかまわないが、およそ他人にいう価値などない、評論家以下の文学者の修辞だと思いますが、如何? 誰とは言いませんが。
さらには『「ありがとう」というお礼のことばは表出的な財であるから、タベアナは、お返しの必要のない贈与とするよりは、お礼のことばで返礼される贈与とするほうがよいだろう』なんていう人もいる。いったい、この定言に何の意味があるんだ? 気は確かか? そう思いません? 誰とは言いませんが。って、引用は言わないとまずいか。吉岡政徳氏のタベアナ論についての伊藤幹治氏です。
というわけで、モースやらゴドリエなどがいう、社会に本質的には「贈与に関わる義務」などというものはありません。
若人の読者の方でも、バイトをしたとかの社会経験がある人なら、彼らの言う「義務」など、現代日本社会では決して普遍的ではないことが分かるでしょう。
贈与をめぐる義務などというものは、当然過ぎるほど当然に、すべて社会が作ったものです。さてその社会といえば、「支配社会」なのです。支配者が自分に都合よく確立したものが「贈与」習慣なのであり、「贈与の原則が社会の本質にある」などというのは見事な逆立ちです。そうではなく、支配社会があるからそれに合う形でシステム上の「強制的移転」が贈与形態化(=非金銭売買形態化)しているのです。名主が食い扶持を小作人に与えるのは、秩序維持のシステムの強制であって、小作人の強制ではありませんけどね。
長。
長いついで。月曜の朝日新聞全国版は、おう、これは南部労組の佐久間さんじゃん(頭文字だったけど時がたったので、本名にした)、名前も久しく見ませんでしたが、元気でよかったよかった。わたしなど心が広いから思想信条を越えて安心しちゃうよ。小言じじいがウソつけ? いや心が狭く見えるのはただのモラハラ。こういう原則的な人は元気でいるだけでうれしい。
(p.s. 原則的に闘うって、そのこと自体たいへんなんだよね。今まで味方だったはずのみんな、見限って離れていくし。それをフォローした人々も大変。だから私もうれしいんだよね。わたしゃ戦列外だから関係ないけど。でも戦列外は戦列外でたいへんはたいへんなのさ、生命はかけてなくても、人生はかけてるからね、Sさんとは比べられないけど。ところで君はどうしてるかい? 某派の田中清君。生命賭けてるかい?)
ところで、天高いなあ、と思ってネットを見ると、例によって知ったか野郎たちが、これは馬が肥えるから匈奴がくるぞ、という警戒の言葉だ、とか。しばらくネット検索したけど、誰一人根拠など知らねえ。え? 書いてあるって? それは中国語。天高く云々は日本語だぜ。日本の誰がどう使ってどんな意味になったかも書けないで「ホントは」云々が聞いて呆れるぜ。ほんとにウザイ奴らだ。ちなみに、私は心底知りません。
と、ご挨拶からおかんむりでも困りますね。論究の結論がきれいに決まらないので、とても不愉快になっております。わたしのは現実論なので、現実に不愉快、という意味ではありますが、そこを止揚できない自分の頭脳も不愉快。まあこんなところへいらっしゃる方は、なに、いつものことだから、と思われるでしょう。
さてそろそろ鍋の季節ですが、一昨日夕方NTVかなんか見てたら、友達4人で鍋屋に来て個々別々の仕立ての鍋汁で、「みんな一緒に」食事ができる、とか。目が悪くて不明でしたが、よく中国の屋台でやってるような、白湯鍋で自分で漬け汁を勝手に作る形式の模様。それで「一緒」ねえ、、、
なんちゅうかほんちゅうか、ってもう40年前?
鍋くらいふつうに突っつきゃあいいじゃん。「選択を選択する」ってゆうのはココロ的に貧しくないかねえ。食べるときに何かを選択する、ということ自体に満足する貧しさ。食べるときは食べるものがおいしかったりまずかったりすればいいんじゃないかい? 人間、右であれ左であれ、次の事態に対応できればそれで何の不満があるのか。食べて、まずい、もう食わん、でいいじゃないか。
ニュースです。「「特定技能」の外国人受け入れ、初年度4万人 省庁試算」(朝日)。自称人手不足に外国人をどんどんいれる、って。
せっかくさあ、あと2、30年で俺らが死んじまえば、若人の明るい適正社会が来るというのにさあ。なぜちょっとも待てないかねえ。おかげで幸せなはずの2、30年後は、「低賃金で日本人民の足を引っ張る外国移民を全員送還しろ」って醜い労働者の争いで渦巻いているであろうさ。低賃金以外に外国人を受け入れる理由なんてないんだからね。わたしゃもういないけど、特に今、天使の風情で賛成している左翼諸君はよく覚えといてね。警告したからね。
もちろん、やる気があれば、今でも「サービス資本」を凍結して、現行の規模で給料を上げて全員雇用をすればいいだけのこと。そんなに給料を払えなければ、余っている資本を回収して国が払えばいい。みんな働くんだから。労働力が足りない、とかいうんなら、足りるまでサービス業を潰せばいい。みんな働くんだから。働けば消費物資は回る。これ人間社会の基本。資本主義社会の基本ではないことまでいわないといけないかね。
さて、ここのところ酔っ払いの言が続いたので(=断片カテゴリー。もっとも最近は昼間に書くので、最終的にはシラフです。昼酒は頭に悪い)、そろそろためになることを。
売買と交換と贈与は、それぞれどこが違うか。社会学カテゴリーじゃない? ノー、アイドント。
みなさまは、授業・講義で売買は交換行為だと習ったかと思われますが、そうではありません(高校生の方は政治経済を選択するように)。
こういうことは習ってない高校生のほうがよくわかるでしょう。
みなさまはお店で交換をしてますか? してないですよね。お店でしてるのはソフトクリームを買っているだけ。購入とは、その本質は消費物資の入手です。その入手に(店員に言われたお金を置いていくという)社会で決められた方法を使うだけであって、人は誰も交換などしていない。
お店のほうではどうでしょう。販売とはなんとかしてカネを入手することです。できればやって来たみなさまから強奪するが一番良いのですが、世間では、モノを並べておけばカネが入手されるという仕組みがあるので、皆様の置いたカネをしまってそれに従がっているだけです。
売買を構成する「買い」も「売り」も、両者はそれぞれ全然別のもののことです。ただ、
評論家がこれを「交換」と呼んだ、というだけのことです。
「交換」を確認しましょう。「俺、ポケモンのフシギダネ持ってるんだけどフシギソウと交換しない?」「ああいいよ」。これが交換です。あるものの占有権を合意の上取り替える、人間的な関係行為です。
売買は違います。カネを渡したことにより所有権が移転される、一方的な行為です。したがって、売買には人間がかかわりません。かかわるのは「こいつを殺してそのまま逃げようか」、という行為の障害としてだけの非人間的な行為です。
もっとも、共同体内で行われる交換が尾を引く共同体「間」の売買においては、売買は交換の形式を取ることもあります。「値切り交渉」です。人は相手との「ふれあい」を楽しむために交渉する。しかし、それは本質ではありません。販売の当事物は商品だからです。売れ残りカネに化けなかった「商品」は無価値です。他方、フシギソウの価値は不変です。
他方、目当ての消費物資のない市場は、購入者にとって無価値です。居並ぶ販売人は、ただの「赤の他人」、または通行の障害物にすぎません。他方、友人やフシギダネの価値は不変です。
というわけで、消費物の入手は、場合次第になります。
ある共同体において、ある消費物資の入用は、その占有者が使うか使わないかに存するのみです。この場合、交換における、「その代わりに」の、「その」は論理上存在しません。要らないもんなんだから。「これがウチにないのでください」「わかった、あげる」。それだけのことで交換する「その」は存在しません。
ついで、ある共同体においてある消費物資の作成に専念する者の消費物資の入手は、交換になります。その作成者は共同体で生きていかなくてはなりません。従ってその交換対象はは、その作成者の生活が成立するため(に不足する)消費物資そのものとなります。死なないための交換だからです。他方、その他の共同体成員にとっては、作成者が死んでは、その専念する消費物資は入手できないので、それも当然のこととなります。
さて、では、他の共同体員との取引の場合にはどうでしょう。ここでは本来不要な消費物資の「そのための保管」として、「交換」の物質が成立しています。その目的は交換先物資の入手です。この交換手段が一般化すると、カネとなります。
この例で、ある共同体で他の構成員に渡すものがない人間はどうするか。
人は共同体社会において、必要な消費物資が自分だけでは入手できない場合、他者にその消費物資を要求します。他者は、共同体社会内において、窮乏した他者を助けることが要請され続けているのです。かくて、この際に贈与を行います。
必要な消費物資が常に存在するものでなければ、当人が窮乏していなくともこれは誰かに託さねばなりません。あとで同価値品を「返しても」いいですが、そもそも共同体社会での購入は評論家の言う「贈与」でなされるしかないのです。
この「贈与」は共同体にとって、共同体が存続する限りにおいて必須です。しかして、共同体成員にとって「当然」です。当然ではありますが、この消費物資を渡すかどうかは占有者次第であることも当然です。嫌がらせでもったいぶってちょっとしか渡さないことも可能です。かくて、支配階層は共同体にとって固定化される。名主はどこまでいってもイヤな名主です。
さてところで、これは「贈与」ですか?
「贈与」という言葉が存在する理由は、現代の権力から離れた生活ができる人(=今となっては一般の人。昔の農村社会では不可能です)にはわかるでしょう。哺乳類は困っていそうな自分より弱いものには食物を与える。これが贈与です。お子さんや姪御さんへの贈り物は、疑いもなく贈与ですね。哺乳類であれば誰でも分かる行為でしょう。もっとも生まれつきの狐やハイエナのことは知りはしませんが。しかしこれ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転です。名主も嫌々自分の食い扶持を飢えた小作人に分けるのは「分けざるを得ない」からです。これを実行しているのは人間1個人ではありますが、しかし、その実態は、「社会」であり、その実質は自分がそれに包含される生産共同体です。そう把握して初めて、やっと社会科学の入り口に入れる。
社会学をやった人は分かると思いますが、世の中、「なんでも贈与」の論者というのがたくさんいるのですね。「すべての相互行為は贈与に通ずる」とかね。自分で思っているのはかまわないが、およそ他人にいう価値などない、評論家以下の文学者の修辞だと思いますが、如何? 誰とは言いませんが。
さらには『「ありがとう」というお礼のことばは表出的な財であるから、タベアナは、お返しの必要のない贈与とするよりは、お礼のことばで返礼される贈与とするほうがよいだろう』なんていう人もいる。いったい、この定言に何の意味があるんだ? 気は確かか? そう思いません? 誰とは言いませんが。って、引用は言わないとまずいか。吉岡政徳氏のタベアナ論についての伊藤幹治氏です。
というわけで、モースやらゴドリエなどがいう、社会に本質的には「贈与に関わる義務」などというものはありません。
若人の読者の方でも、バイトをしたとかの社会経験がある人なら、彼らの言う「義務」など、現代日本社会では決して普遍的ではないことが分かるでしょう。
贈与をめぐる義務などというものは、当然過ぎるほど当然に、すべて社会が作ったものです。さてその社会といえば、「支配社会」なのです。支配者が自分に都合よく確立したものが「贈与」習慣なのであり、「贈与の原則が社会の本質にある」などというのは見事な逆立ちです。そうではなく、支配社会があるからそれに合う形でシステム上の「強制的移転」が贈与形態化(=非金銭売買形態化)しているのです。名主が食い扶持を小作人に与えるのは、秩序維持のシステムの強制であって、小作人の強制ではありませんけどね。
長。
長いついで。月曜の朝日新聞全国版は、おう、これは南部労組の佐久間さんじゃん(頭文字だったけど時がたったので、本名にした)、名前も久しく見ませんでしたが、元気でよかったよかった。わたしなど心が広いから思想信条を越えて安心しちゃうよ。小言じじいがウソつけ? いや心が狭く見えるのはただのモラハラ。こういう原則的な人は元気でいるだけでうれしい。
(p.s. 原則的に闘うって、そのこと自体たいへんなんだよね。今まで味方だったはずのみんな、見限って離れていくし。それをフォローした人々も大変。だから私もうれしいんだよね。わたしゃ戦列外だから関係ないけど。でも戦列外は戦列外でたいへんはたいへんなのさ、生命はかけてなくても、人生はかけてるからね、Sさんとは比べられないけど。ところで君はどうしてるかい? 某派の田中清君。生命賭けてるかい?)