北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

宮城県水産業の復興を祈ります

2011-05-12 23:10:05 | Weblog
 朝九時に仙台市内のホテルを出発して石巻市の漁業共済施設へ向かいます。

 こちらに石巻市や女川町など宮城県内で、これまでに釧路へ水揚げをしてくれていた船主さんたちに集まって頂いてお見舞いを差し上げるということで地元と調整がつきました。

 今日現地に集まって頂いた皆さんは8人。こちらに来られないという方々には後ほど直接お届けもする予定です。

 漁業組合長と私から挨拶をして、それぞれのお見舞い金に加え漁業組合からは組合で作っている美味しい魚の詰め合わせも届けられました。


           【お見舞いとおいしい魚が届けられました】


 集まってくれた船主たちは案外元気でしたが、「8月には漁に行きたいし、行かないと生活が成り立たないのさ」とその思いは切実です。

 漁の準備もしているとのことですが、「船だってもう買う算段をしているし、漁のための資材も流されているから買わないとなんない。サンマだったら今年の夏にはなんとしても漁に出て稼がないと収入にならないから、そうしたいと思っているんです」

 船については、国や県でも支援を考えていて、船主たちが組合を作って新しく造船するか修理をし、組合所有の船にするのであれば費用の2/3は支援をするという政策を考えています。

 実際にはもう漁を止めるという人から船を譲り受けることも多いのだそうですが、個人が買い取るという形には支援はできないというのが公共の立場。【個人資産の獲得】には公的な資金は出せないというのが行政の限界でもあります。

 ひとたび個人資産に公的なお金を入れることを認めると、車や家まで広範な個人資産も対象になって収拾がつかなくなることでしょう。制度と現実の狭間で現場は悩んでいます。


    ※    ※    ※    ※


 お昼頃までに石巻での会合を終えると、集まれなかった方たちを直接訪ねてお見舞いをするために気仙沼方面へ海辺の道路を通ってゆきました。

 さすがに道路だけはがれきが片づけられていて走れるようになっていますが、道路の脇には大量のがれきが今も残されています。石巻市内でも大量のがれきは見られましたが、そこから先の南三陸町へ入るとその惨状のすさまじさには言葉を失いました。










 このあたりはリアス式海岸で狭い沢筋ごとに集落が広がっていたのでしょうが、そのおよそ全てが壊滅状態となっています。南三陸町の役場や、女性職員が防災無線で最後まで避難を呼びかけていた建物もありました。
 
 このあたりは小さな沢ごとに集落があるので、ちょっとした峠を越えると次の沢筋の集落が見えるのですが、まさにどこも集落が壊滅している姿が延々と続いています。

 漁業者の間には「市場も近々再会するつもりだ」という前向きで元気な発言もあるようですが、どこかでそうでも言って自らを鼓舞しないといたたまれないという心情が見て取れます。

 なにしろ市場を作っても、生鮮の状態で送り込む以上の原魚は冷凍施設を作って保存しそれを加工場で加工して市場に出すという供給全体の枠組みが全て破壊されているのです。

 その上怖いのが放射能の風評被害です。宮城県沖ではワカメやカキ、ホタテなどの増養殖事業が生産の主力であるのですが、それらに放射能の風評被害が広がると取っても売れないという状態になりかねません。そのリスクがある土地に再び生産の拠点を作れるのだろうか、それが最大の課題として地域の復興に大きく立ちはだかっています。

 おまけに上下水道を始めとするインフラも壊滅している状況で復興を考えたとしても、多くの住民が亡くなりまた産業がない中でどれだけこの土地に戻るか分からなくては将来の事業計画をつくることができません。


            【高台で助かった家もありますが、町の機能は失われたままです】


    ※    ※    ※    ※

 今回お見舞いで訪ねた船主の方の中にはなんとか家が残った方もいましたが、電気が通ったのが4月29日のことで、いまだに上下水道の復旧はめどが立っていない状態だとおっしゃいます。

 しかしサンマ漁船の皆さんは「なんとか8月には漁に出て釧路に行きたいと思っていますから」と力強くおっしゃってくださいます。

 釧路でも今回のお見舞い以外にも、実際に釧路へ来てくださった方たちへの支援も用意しています。皆さんの元気な姿を釧路でお待ちしています。どうぞお気をつけて!  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北地方のお見舞い旅

2011-05-11 23:45:42 | Weblog
 夕方の飛行機で仙台空港へ降り立ちました。

 仙台空港へは海側からの進入で、仙台空港がいかに海に近いかや、空港周辺の津波被害のなども目の当たりにしました。




 海沿いでは松などの防風林が場所によっては根こそぎ削られているのと、残っているものにも塩の影響か赤茶けたものが多く見られました。

 空港は滑走路こそきれいになっているものの、ターミナルビルは復旧が進んでいませんし、ひとたび外へ出るとその周辺ではがれきの山です。

 ターミナルビルでは、機械関係が動いていないておらず、また動かない機材を覆うように壁が作られていてそれらを囲っていて見えないようにしているのが痛々しい限りです。




 空港から仙台市内へはバスで移動しましたが、道路の両側には壊れた自動車とがれきの山、山、山…。一面何もなくなってがれきの山だけがある姿はやはり筆舌に尽くしがたいものがあります。

 仙台手前の名取市では海から内陸部6kmまで津波が押し寄せたと言います。大変な状況です。


    ※    ※    ※    ※


 先発で来ていた漁業組合の幹部の方と明日以降の打ち合わせを兼ねて会食をしました。

 既に何カ所も港を訪れて見舞いをしてきたその方も、「いや、見れば見るほど言葉を失うね…」と力なさげです。

「いろんな人に訊いたけれど、一人ひとりにドラマがあって語り尽くせるものではない。でもやっぱり何人もが『ここまでは来ない』と思ったんだなあ。海から何キロも内陸でもそうやって亡くなっている人が多いんだわ。ホントに紙一重だ…」

「魚市場の関係者でも、『いやあ6月に再会しますよ』と威勢だけはいいんだけれど、市場の建物もない、製氷器もない、冷蔵庫もない、加工場も失われたとあっては、どうやって復興出来るのかの見込みなんか立たないよ。でも口だけでもそう言っていないと心が持たないんじゃないか、とは思ったよ」

 まず明日は石巻漁港をお訪ねして、外来船の皆さんにお見舞いをお伝えする予定になっています。

 伝える言葉もありませんが、とにかく関係者の皆さんの無事を慶びたいと思います。 

 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改革で新しく開かれた議会へ

2011-05-10 23:45:32 | Weblog
 臨時議会の二日目が終わりました。

 前日から持ち越した3つの常任委員会の構成や、各常任委員長・副委員長、監査委員、農業委員などの人事承認案件が粛々と進められ、いよいよ新しい体制が固まりました。

 これに先立って、議場内部も若干の手直しが行われました。

 まず登壇者が発言する台の前にあった書記が座る席は、もう何年も使われていなかったこともあって撤去され、議場内部が広くなった印象です。

 また理事者側の席には市長には専用で、また副市長以下には二人に一つの新品のワイヤレスマイクが置かれています。これは議会改革の一環として、次回6月議会から質疑応答の際に、「一問一答方式」を導入することとしたことに伴う環境整備。

 これまでの議会での一般質問は、持ち時間が一人30分で、第一回目の登壇でいくつかの大きな枠組みを示し、その中で具体的な質問をまとめて行うという形でした。

 理事者側では市長や細かい回答は各部長から、「先ほどお尋ねの…につきましては…」と、やはりまとめてお答えする、ということで、質問と回答が離れていてつっこんだやりとりになりにくいという意見がありました。

 そうした事を受けて、議会側で改革の一環として個別の質問に対して、理事者側も自席ですぐに個別に答えるという「一問一答方式」も取れる、ということにしたものです。

 また同時に質問の趣旨がはかりかねる場合などは理事者側からも議長の許可を得て反問ができるということも加わりました。

 ただし「一問一答制」は選択制で、従来型の登壇して朗々と演説を行うスタイルで質問をすることも可能となっています。なにしろ初めての試みなので、どういう形になるかはこれから経験を重ねてゆく中で改善がなされてゆくことでしょう。


      ※     ※     ※     ※     ※


 今回の議会改革では、議員定数を34人から28人へと6名も削減したことに加えて、常任委員会も4つあったものを3つへと再編し、より効率的な議会運営へと舵が切られました。

 議会の皆様に敬意を表するとともに、様々な改革を通じてよりわかりやすくより市民の関心が得られるような議論ができるよう努力してゆきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇室は日本の背骨だと思う

2011-05-09 23:49:31 | Weblog
 市議会議員選挙後最初の臨時市議会が開会。大きな議題は議会人事で、議長、副議長、各委員会の委員長などが今日と明日の二日間の会期で決められることとなる。

 朝十時からの開会予定も、会派同士の調整による方向性が見えないうちは開かれず開会は午後にずれ込みました。

 まず今日のところで調整がついたのは議長のK議員と副議長にT議員のお二方。議長・副議長選挙の結果、共産党以外の方による支持でお二人の就任が決まりました。残りは明日に持ち越しです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 東日本大震災による被災地において、多くの冷静で秩序正しくそして健気な日本人の姿に心打たれる場面は数知れずありました。

 天災という不条理にさいなまれながら希望を持って明日に向かって立ち上がろうとする同胞の姿に日本中ができることを探してその痛みを分かち合おうと心を一つにしています。

 そんな日本の今を象徴するような記事がありましたのでご紹介します。


---------------≪ ここから引用 ≫-------------- 

【サンケイ[ライフ]ニュース 両陛下の祈り 「なぜか」への至上の答え 文芸評論家・竹本忠雄
    http://bit.ly/mUy8Hb




 4月28日付の本紙1面に私は大きな衝撃を喫した。

 天皇皇后両陛下が、畳(たた)なわる瓦礫(がれき)に向かって黙祷(もくとう)されるお姿に-。

 衝撃は、この写真の左側に載った「迷惑をかけない日本人」という記事とのコントラストで倍加した。ソウル支局長、黒田勝弘氏のリポートで、そこで投げられたある問いに対して両陛下のご姿勢以上に絶妙の答えはありえないと思われたからである。

 黒田氏は、いま外地でも評判の、なぜ被災地の日本人はかくまでも「冷静で秩序正しい」のかとの疑問を取りあげ、韓国人の間では「諦念」「遠慮」といった評語まで飛びかっていると伝えている。

 これまでにもメディアは諸外国でのこの「なぜか」を報じてきた。そのつど私は、このようなメンタリティについて下される種々の憶測を興味深く思ったが、同時に、本当の理由がどこにも指摘されていないことにもどかしさを禁じえなかった。その「なぜか」への至上の答えを写真は黙示していると思われたのである。

 このことは私に忘れられないある対話を思いださせる。昭和49年5月、アンドレ・マルロー(仏の作家、政治家)が出光佐三(さぞう)氏(出光興産の創業者)をその美術館に訪ねたときのことである。「日本人は精神の高貴さを持っています。なぜですか。仏教も、その理由の一つではないでしょうか」との単刀直入のマルローの問いに、間髪を容(い)れず出光翁はこう答えたのだ。

「そうじゃありませんね。二千六百年続いてきた皇室が原因ですよ」と。

 たしかに、国難のいま、私たちを斉(ひと)しく打つものは、皇室、何よりも両陛下の、あの同床同高とも申しあぐべきご姿勢に表れた何かである。祈りである。今回だけではない。これまでの日本中の被災地めぐりだけでもない。先の戦災地、さらには南冥(なんめい)の島々まで、慰霊の旅をも、お二人は重ねてこられた。しかも史上、「恤民」すなわち民を哀れむは、皇道の第一義として歴代天皇の最も実践してこられたところであった。

 であればこそ、国民も常にそれに感じ、「民を思い、倹を守る」お姿以上に頭を高くすることを慎んできたのだ。被災地で命を救われたおばあさんが「すみません」とお礼を言って美談となったそうだが、このような国なればこそ、自(おの)ずと培われてきた節度なのである。

 (…以下略…)

---------------≪ 引用ここまで ≫--------------

 仕事柄、全国各地の庭園を観たりするなかで知人を頼って宮内庁の庭園を訪ねて宮内庁所有の盆栽を見学させていただいたことがあります。

 盆栽と言っても、磯野家の波平さんが趣味でやっているようなものではなく、直径1.5mもあるような大きな鉢に樹高が2mで葉張りがやはり1.5mほどもあるものが何百とあるのです。

 なかでも名の通ったものには固有の「銘」があって、なかでも「三代将軍」という銘の松は、三代将軍徳川家光がこよなく愛した逸品。

 家光が愛でたときに既に150年ほどが経過していたといいますし、最も古いものは樹齢6百年だそうですからその伝統の力たるや想像を超えています。


「皇室というのはねえ、日本そのものを伝える存在なんですよ」
 

 盆栽や宝物も数知れずあるとはいえ、そのような物もそうだしそれを超越した精神を後世に伝えるためにそこおわしますのが皇室という存在であるのだと、その知人は教えてくれました。

 耳学問や本などからの知識だけではなく、皇居の庭園に立って連綿と受け継がれるためにある盆栽をみるだけでもその一端が伝わってきました。

 天皇皇后両陛下が被災地を訪れて多くの被災者を慰めてくださるだけではなく、その土地に「明日に幸多かれ」と祈りを捧げられるそのお姿も日本そのものです。

 以前、日本の精神性について「神儒仏の綾なす国」と書きましたが、それらを現存在としてそこにおられるのが皇室の姿でした。そのお姿を見るたびに、微力ながら日本を良い国にしたいという思いが沸き起こるのを感じます。

 日本に生まれた幸せを感じずにはいられません。
 
 


【北の心の開拓記】なぜ日本では略奪が起きないのか~神儒仏の綾なす国 2011-03-16
   http://bit.ly/hsQAbt
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【おまけ】養老牛温泉で丸見え

2011-05-08 23:40:25 | Weblog
 昨夜の暴風雨はひどいものでした。これは明日もだめだ、と思いきや朝の釧路は霧。そしてそれがやがて晴れて明るい春の一日となりました。

 すっかり遠出をあきらめていたのですが、「やっぱりどこかへ出かけよう」ということになり、今回は中標津方面へドライブに行くことに。中標津となると一度養老牛温泉に行きたいと思っていたので温泉の用意をして飛び出しました。

 養老牛温泉には日帰り入浴ができるお宿が三軒ありますが、今回は映画「釣りバカ日誌」の最終話となった「釣りバカ日誌ファイナル」においてロケに使われた「藤や」さんを訪ねました。


           【藤やさん、創業は1965年とか】


 連休も最終日の午後とあってお客さんももういなくて、私一人で温泉を独占。養老牛温泉の源泉は80℃もあるのだそうで、源泉かけ流しの贅沢なひとときを楽しみました。

 露天風呂はかなり熱くてつかるのには根性が要りましたが、春の風は冷たくて上半身の冷たさで下半身に感じるお湯の熱さとちょうど良い感じ。

 男性側の露天風呂は宿の前の道路が良く見えて、…ということは向こうからも丸見えの「なんじゃこりゃ(笑)」状態。いや、地方ならではのお楽しみかも。








    ※     ※     ※     ※     ※

 養老牛温泉の「ヨウロウウシ」の語源はWikiによると、「アイヌ語の「エ・オロ・ウシ」(頭=山鼻がいつも水についているもの)、または「イ・オロ・ウシ」(それをいつも水に漬けているもの)が由来とされている。後者だとすれば、近隣のアイヌ民族の女性が繊維を作るため、シナノキやイラクサの皮を温泉水に漬けて柔らかくしていたことにちなんだものだろう」とされています。 (→http://bit.ly/kyxZ0W

 アイヌ語地名にも豊かな文化がありますね。 



 釧路から日帰りで行ける露天風呂めぐりなんて楽しそうですが、普段は車がないのが残念。

 自転車で行ける露天風呂…なんてありますかね。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道スケールという感覚

2011-05-08 23:29:36 | Weblog

           【多和平はこのあたり】



 中標津方面へのドライブをすることにして、手前の標茶町にある地平線の見える大牧場「多和平」へ。いろいろな人たちからも薦められていたので、また一つ願いがかないました。

 多和平は標高270m、キャッチフレーズの「地平線の見える大牧場」の名にふさわしく遠くまで360度の展望が楽しめます。

 こちらからは眼下の広大な牧場とともに、遠くには雄阿寒岳や雌阿寒岳、西別岳などの眺望が広がっていて、北海道らしい風景の一つと言えるでしょう。案外知っている人が少ない展望台ですが、ぜひお楽しみいただきたいものです。


           【多和平展望台はシンプル】


           【多和平から阿寒方面を望む。雄阿寒岳がわかりますか?】



    ※     ※     ※     ※     ※



 その後中標津の養老牛温泉を訪ねたついでに、「多和平を見たのだからついでに同じく360度の展望を楽しめるという開陽台も訪ねよう」ということになり、開陽台展望台も訪ねました。

 開陽台展望台と言えばバイク族の聖地と言われていて、陽気が良くなると道内外から多くのライダーたちが訪れて来ます。




 先ほどの多和平とは位置が変わると見える山の景色も変わって、武佐岳や斜里岳のほかに、海を隔てた国後島の姿も見えて印象的。こんなに近くの島が他国の領土となっているということが机の上の領土返還議論ではなく体で感じられるようです。


           【武佐岳と、右側は知床方面の山々】



           【海も近いけれど、そのすぐ向こうには国後島が…】



 開陽台の方は展望台の施設として立派なものが建てられていて、売店や喫茶コーナーも充実しています。

 充実ついでに中標津の紹介ビデオコーナーがあったのを見てみましたが、こちらでは北海道遺産として認定された釧根地区の防風林を上手に紹介してくれていました。

 このビデオを見てから外を眺めると改めてこの地域が防風林に囲まれているかが良くわかりました。逆に言うとこのビデオを見ていなかったら気が付かなかったことでしょう。

 防風林と言ってもその幅は百間(=180m)もあり、一辺の長さが3kmの格子状の牧草地や畑地が広がります。防風林の延長も最長のものは270kmになると言いますから、やはり内地にはないスケールと言えるでしょう。

 「釧根地区の防風林」とは聞いていましたが、改めてそのスケールの大きさに【北海道らしさとは何か】を実感しました。

 よくぞこれだけの開拓をしたもので、道民はもっと北海道のスケールの大きさをとことんまで感じるべきです。

 この皮膚間隔こそ北海道を誇りに思う原点であり、一人ひとりが持っていたいものではないでしょうか。

 「北海道、でっかいどう」

 最近感じていますか?




           【祖先はこれだけの開拓をして、しかもそのあとから木を植えてきたのだ】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラーメンのまるひら

2011-05-08 10:01:49 | Weblog


 かねてより、「釧路のラーメンと言えばどこですか?」と訊いたら何人もから名前が挙がっていたのが『まるひら』さん。

 確かにいろいろなグルメサイトを見ても上位にランクされているのですが、うちの奥さんが釧路に来ている間がチャンスと思い、昨日行ってきました。

「昼だったら混んで大変ですよ」と言われていたので、思い切って朝10時にお店に飛び込みました。

 お店はカウンターに10席に小上がりにテーブルが二つ。こぢんまりしたお店です。

 お店はご主人と奥さんと思しき二人が作っていて、メニューはしょうゆ味と塩味の二種類に、普通、大盛り、特大盛りの盛り三種類といたってシンプル。味噌味なんてありません。 

 麺の茹で時間は35~40秒。あっという間に茹で上がるのが釧路ラーメンの特徴の一つです。






 さて注文したしょうゆラーメンのお味は、カツオをはじめ魚介の出汁が効いていてとても優しいしょうゆ味。最近の札幌ラーメンは豚骨系が跋扈していて、朝から食べる気にはとてもなりませんが、ここのラーメンだったら朝から食べても胃腸に優しくて力が出そう。

 釧路ラーメンの真骨頂という称号は伊達ではありませんなあ。




【食べログ】まるひらさん
  http://bit.ly/jtwGPr
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実は町は消えていた

2011-05-08 02:09:43 | Weblog

           【僕たちの町は国の宝…だったのだ】



 こんなに天気の悪いGWってありましたかね、と言いたくなるくらい天気の悪い連休。今日も釧路は細かい雨が一日中降っておりました。観光も打撃が大きくなんとかしなくてはいけません。


 そんなわけで、妻が来てくれている釧路の市内観光で阿寒本町方面へと車を走らせました。

 道の駅「阿寒丹頂の里」のレストラン「赤いベレー」ではエゾシカ肉をふんだんに使った阿寒紅葉スープカレーを注文。エゾシカのお肉はしっかり煮込んであってスプーンを入れるとすぐに崩れるほど。

 カレーもスパイシーで美味しかったです。阿寒湖ドライブではエゾシカ肉を食して撲滅(?)の観点からも絶対に押さえておきたい定番メニューと言えるでしょう。


           【エゾシカ肉の定番メニュー、お勧めです】


    ※    ※    ※    ※


 さて、同じく道の駅と一体となった施設で、レストラン「赤いベレー」の裏手にあるのが「炭鉱と鉄道館」。こちらには昭和45年2月に閉山した雄別炭鉱と、そこから掘り出される石炭を釧路の港まで運んだ雄別鉄道に関する資料が保存されています。


           【炭鉱と鉄道館。訪れる人もまばらでさびしい】



           【雄別炭鉱はこのあたりにありました】



           【展示施設は実際に使われていたものばかり】


雄別炭鉱は釧路市阿寒町(旧阿寒町)の雄別地区において、大正8(1919)年から開発と鉄道の敷設が始まり1923年の鉄道完成と同時に採炭が始まりました。

 1964年には最大産出量年73万トンを誇りましたが、エネルギー転換の波には勝てず、1969年に茂尻鉱坑内で爆発事故を起こしたことがきっかけとなって結局翌1970年に閉山となったものです。

 閉山にあたっての様子をWikipedia《雄別鉄道》から引用してみます。

---------------≪ ここから引用 ≫--------------
 (雄別炭鉱閉山は)当時、戦後最大の炭鉱会社大手の倒産であった。資金繰りが原因でのあまりに突然の倒産であったため、地元自治体は、築後1年も経過していない公立学校の校舎や公民館施設などの放棄を余儀なくされた。

 雄別鉄道の終点である雄別炭礦雄別鉱業所の置かれていた阿寒町雄別地区では、雄別炭礦閉山と共に、役所、警察、郵便局、病院、映画館、小中学校、寺、神社などの建物や施設が数か月で停止閉鎖され、企業・商店は廃業もしくは阿寒町市街地や釧路市への移転を強いられることとなった。

 当時15000人程度の人口があった阿寒町雄別地区は、雄別炭礦の残務整理業務に携わる社員以外の住民が全く姿を消し、雄別炭礦閉山後の数年で無人地帯と化した。

---------------≪ 引用ここまで ≫--------------
 
 往時の雄別炭鉱では従業員は3000人、関連の住民は13000~15000人に達したと言われています。

 今も阿寒本町から雄別地区へ向かう途中の布伏内(ふぶしない)には炭住街がそれらしく残っていますが、その奥でかつて栄えた炭鉱町は駅も線路もなくなり、朽ち果てた建物の跡が残るばかりです。

 今日、人口減少と若者の流出によって、高齢化率が高くなった限界集落が数多く発生していて、このままでは集落が消えるという危機感があると言われています。

 しかしながら歴史を紐解けば、集落が忽然として消えた例は枚挙にいとまがありません。特に雄別だけではなく空知地方でも同様に、炭鉱町のように産業政策の大幅な転換によって産業と雇用が失われ、同時にいくつもの町が実際には消えているのです。

 集落がなくなることを恐れることはありませんが、そこで生活をした人たちによって生まれたドラマや物語も今日新しい価値を生み出せないというのは残念な限りです。

 美しい湖や山の風景を【表観光地】として、朽ち果てた廃墟やかつての集落跡を見る【裏観光地】というのが脚光を浴びているという話も聞きますが、上手に生かせるものでしょうか。

 物質的なものが残らないとしても、思い出やドラマの素材など観念的な形でも生かせないものか。

 そこに関心を寄せる人たちがいる限りは何らかのニーズがあるはずで、関心の元となるドラマや新鮮な驚きとは何か。その辺を紡ぐ作業にヒントがあるかもしれません。

 もう少し地域での炭鉱の歴史を勉強してみることにいたします。 
 


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水産都市釧路の漁業

2011-05-06 23:45:36 | Weblog



 連休中日の出勤日。こういうときは様々な調整案件が一気に集中するものです。

 水産関係では、連休明けに市の漁業組合が三陸地方のサンマの外来船に対してお見舞いの旅にでるということになり市役所としても私が来週半ばから東北へのお見舞いに同行することとなりました。

 水産都市釧路と言いながら、釧路には前浜で漁業をしている漁師さんは案外少ないのです。

 水産の歴史的には、前浜で行われる漁村漁業の時代から次第に大型船が沖の魚を大量に捕獲してそれを水揚げしてもらった原魚を加工する産業が発達してきました。

 はるばるロシア海域まででかけてタラなどを獲りそれを持ち帰るような漁業については、漁港漁業という言い方をすることもあるそうです。

 釧路や根室のサンマも今回大きな被害を受けた三陸地域のサンマ漁船が船団を組んで夏以降に北海道の東南地域でサンマ漁を行っているもので、こうした外来船が取った魚を釧路で水揚げしてくれるおかげで釧路経済は支えられているのです。

    ※     ※     ※     ※     ※
   
 釧路ではこれまでも水産団体と市が一体となって外来船誘致の取り組みを進めてきましたが、今般の津波災害でこれまで誘致を進めてきた漁業者の皆さんが大きな被害を受けているもので、何らかの形でお見舞いをすることで調整を進めてきました。

 現地の情報を収集する中で、やはり当座の資金繰りに一番悩んでおられるというので、釧路市漁協と釧路市ではまずは現金でのお見舞いがよろしかろうということで意見が一致しました。

 またできるだけ早く行くべきかとも思いましたが、亡くなられたりした方も多く、混乱がある程度落ち着いてからの方が良いのではないかということで、連休明けの時期に動き出すこととしたものです。

 先方の漁業者の皆さんが一時の住まいを求めて釧路へ来られている方も出始めていて、こうした方たちへの住居の提供や資金支援の措置なども準備が整いつつあります。


 週明けすぐには市議会議員選挙後最初の臨時議会が開かれて動けないのですが、それが終わり次第現地に向かうこととしています。現地の状況もより詳細に把握して来ようと思います。

    ※     ※     ※     ※     ※


 そんな打ち合わせの一環で漁組の組合長さんと意見交換をするうちに、「やはり地元の子供たちや観光客に対して魚と触れ合う機会を多く作る工夫をした方が良い」という話になり共感するところが多くありました。

 観光客向けに魚の加工体験ができるような設備を用意して、普段は地元の子供たちの体験学習にも使うようなことができないものか、という問いかけです。

 考えてみれば普段の料理でもついつい動物性タンパク質は肉に求めることが多くなっています。普段の料理から魚を扱うようなことが少なくなると関心も薄れてしまいがちです。

 トータルな魚文化を語るにふさわしい水産都市釧路でどういう取り組みをしていて、これからどうしてゆくか。

 いつも同じようなことばかり言っている様ですが、なお一層の知恵出しと情報発信が求められますね。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊頃町に報徳神社を訪ねる

2011-05-05 23:45:54 | Weblog
 札幌での休暇を終えて今日は釧路へ車でドライブしながら戻ってきました。

 釧路へ向かう際には夕張東ICの高速道路の降り口で渋滞が約1km、占冠ICで再び道東道に乗り込む際には対向車線で降りる車がやはり1kmほど渋滞をしていました。

 この道東道は今年の秋にも開通予定なのですが、一日も早く開通してほしいものです。これができると札幌から帯広は相当に近くなります。道東に目が向くチャンスですので、釧路も戦略的に作戦を展開しなくては。


    ※     ※     ※     ※     ※

 
 折角釧路までドライブするので、今まで行きたくていけなかったところもまわってみることにしました。

 それは豊頃町の牛首別地先にある二宮報徳神社です。この神社は祭神として二宮尊徳を祀っているのですが、それはこの地を開拓した最大の功労者二宮尊親が二宮尊徳の孫であり、尊徳先生の唱え続けた報徳思想によって開拓がなされたことへの感謝の気持ちが表れているものです。


           【豊頃町はこのあたり】


           【二宮尊親さんが入植した牛首別地区には二宮という地名も】


 二宮尊親さんの人となりについては豊頃町のホームページを引用させていただきます。
 

【豊頃町開拓の祖 二宮尊親】豊頃町のホームページより引用
  http://bit.ly/kwWmua 

 興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建のために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民15戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。

 この年郷里から家族を呼び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治34年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導に当たった。

 明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。

 この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。

---------------≪ 引用ここまで ≫--------------


 ほぼ同時期に帯広から音更を開拓した依田勉三は、伊豆松崎町の出身で、やはり報徳思想に感銘を受けて北海道開拓を決意した人です。

 北海道は明治時代、そして戦後の混乱期において多くの農村漁村において報徳思想に基づいたまちづくりが行われて、地域の結束を高めた時代がありました。

 かつての雪印乳業も、元は「酪連」という報徳思想でつながった酪農経営者たちの集まりが発展した企業でした。「至誠・勤労・分度・推譲」という四つの徳目を掲げて互助の精神で行ったまちづくり。根本思想が失われると企業としても地域としても継続は難しかったのでしょうか。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、お目当ての報徳二宮神社は平原の真ん中に不思議な形で残っている小山の中腹にありました。


           【報徳二宮神社の鳥居】



           【神社の拝殿と夕日】




 かつての原野が想像できないほどに開拓が進んで質の高い畑が広がる豊頃町を見守っているかのような報徳二宮神社。

 報徳思想を学んだものとしては北海道における聖地の一つですが、今日やっと訪ねることができて感慨深いものがありました。

 豊頃町の夕日も釧路に負けず劣らずきれいでした。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする