北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

豊頃町に報徳神社を訪ねる

2011-05-05 23:45:54 | Weblog
 札幌での休暇を終えて今日は釧路へ車でドライブしながら戻ってきました。

 釧路へ向かう際には夕張東ICの高速道路の降り口で渋滞が約1km、占冠ICで再び道東道に乗り込む際には対向車線で降りる車がやはり1kmほど渋滞をしていました。

 この道東道は今年の秋にも開通予定なのですが、一日も早く開通してほしいものです。これができると札幌から帯広は相当に近くなります。道東に目が向くチャンスですので、釧路も戦略的に作戦を展開しなくては。


    ※     ※     ※     ※     ※

 
 折角釧路までドライブするので、今まで行きたくていけなかったところもまわってみることにしました。

 それは豊頃町の牛首別地先にある二宮報徳神社です。この神社は祭神として二宮尊徳を祀っているのですが、それはこの地を開拓した最大の功労者二宮尊親が二宮尊徳の孫であり、尊徳先生の唱え続けた報徳思想によって開拓がなされたことへの感謝の気持ちが表れているものです。


           【豊頃町はこのあたり】


           【二宮尊親さんが入植した牛首別地区には二宮という地名も】


 二宮尊親さんの人となりについては豊頃町のホームページを引用させていただきます。
 

【豊頃町開拓の祖 二宮尊親】豊頃町のホームページより引用
  http://bit.ly/kwWmua 

 興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建のために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民15戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。

 この年郷里から家族を呼び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治34年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導に当たった。

 明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。

 この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。

---------------≪ 引用ここまで ≫--------------


 ほぼ同時期に帯広から音更を開拓した依田勉三は、伊豆松崎町の出身で、やはり報徳思想に感銘を受けて北海道開拓を決意した人です。

 北海道は明治時代、そして戦後の混乱期において多くの農村漁村において報徳思想に基づいたまちづくりが行われて、地域の結束を高めた時代がありました。

 かつての雪印乳業も、元は「酪連」という報徳思想でつながった酪農経営者たちの集まりが発展した企業でした。「至誠・勤労・分度・推譲」という四つの徳目を掲げて互助の精神で行ったまちづくり。根本思想が失われると企業としても地域としても継続は難しかったのでしょうか。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、お目当ての報徳二宮神社は平原の真ん中に不思議な形で残っている小山の中腹にありました。


           【報徳二宮神社の鳥居】



           【神社の拝殿と夕日】




 かつての原野が想像できないほどに開拓が進んで質の高い畑が広がる豊頃町を見守っているかのような報徳二宮神社。

 報徳思想を学んだものとしては北海道における聖地の一つですが、今日やっと訪ねることができて感慨深いものがありました。

 豊頃町の夕日も釧路に負けず劣らずきれいでした。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする