北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

イタリアンもまたヨシ

2011-05-04 23:55:58 | Weblog
 ときどき中古品も扱う厨房グッズのお店が「テンポス」というところ。

 白石区とすすきの、そして宮の沢にお店を構えていて、廃業した飲食店の厨房用品なども下取りして安く提供してくれる。

 行くたびに「今日は見るだけ、買うまいぞ」と思うのだけれど、「あ、あった!しかも安い!」という誘惑に負けてしまって料理道具や食器などを買ってしまうのです。

 今日はイタリアンに使える食器が欲しいね、ということで店内を見ていたのだけれど、スープ皿にもなりパスタを入れても大丈夫という深さのある白いお皿を二枚買いました。

 もう子供の分は気にせず夫婦だけで料理を楽しもうというのです。


    ※    ※    ※    ※


 そんなわけで今夜の料理はパスタ料理。アサリとトマトの濃い味パスタ・コママサ風です。

 トマトソースはニンニクで香りを付けたオリーブオイルにタマネギのみじん切りを加えてじっくり煮込んだ濃いめのお味。




 レンジでアサリの酒蒸しを作ってここにトマトソースを加えてアルデンテのパスタを投入してあえるだけ。



 簡単だしとってもウマー、です。

 食器が変わると雰囲気も変わる。安いワインも美味しく感じてお得。

 今度はもっとイタリア料理に挑戦してみようっと。

 
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寒い日には蝦夷地の歴史を

2011-05-04 23:45:11 | Weblog
 今年のゴールデンウィーク前半、札幌は雨が続いて気温も低く、行楽地にとってはなんとも辛い出足となりました。

 花見も満足にできないうちに終わってしまいそうです。夏は暑くなってくれるのでしょうか。


      ※     ※     ※     ※     ※


 低温と言えば、1600年代からの江戸時代は屋久島の杉の年輪などから平均気温がそれまでよりも2~3℃低かったと言うことが分かっていて、小氷河期と呼べる時期であったようです。

 このため江戸時代を通じてしばしば飢饉が訪れて政情が不安になることも多くありました。普通江戸時代の四大飢饉とされるものは、 寛永の飢饉、享保の飢饉,天明の飢饉、天保の飢饉の四つとされています。

 このうち寛永の飢饉は、寛永11(1634)年頃から慢性的に続いていて庶民の生活は疲弊を重ねていきましたが、それも遠因となって寛永14(1637)年の島原の乱が発生したとも言われています。

 島原の乱は翌寛永15年に鎮圧されたものの、他の地でも強訴、一揆が起きます。そしてその被害が最も大きかったのは寛永19(1642)年のことでこの年は二月に江戸で大地震が発生するわ、江戸市内でも餓死者が多数発生するなどして世相は大混乱に陥りました。様々な倹約令も出され、うどん、素麺、蕎麦切り、饅頭などは製造禁止の触れも出されました。


      ※     ※     ※     ※     ※


 さて、この後の享保、天明、天保の三つを取り上げて三大飢饉ともされますが、いずれも飢饉を受けて幕政の改革がなされることとなります。享保の改革、天保の改革というのは中学校の歴史でも習うところですね。

 天明年間は田沼意次の治世が行われましたが、彼が失脚した後に松平定信によって寛政の改革が行われることとなります。いずれも天候不順による飢饉が財政悪化を招き、そこから幕政の改革が叫ばれるという歴史が繰り返されています。

 飢饉の原因は地球規模の気象の振れによるものですが、一つには極北地域での冷気が降りてくる先が日本の高緯度地域となった場合ですが、もう一つは火山の爆発による噴煙による日照の低下が指摘されます。

 天明三年の浅間山噴火では溶岩流が起こり、『鬼押出し』という珍景奇景をもたらしましたが、その噴煙は前年からの低温飢饉をさらに悪化させるものでした。

 老中田沼意次は明和九(1772)年(=安永元年)の正月にそれまでの老中格から老中の一人となり権勢の絶頂を極めまていましたが、天明五(1985)年ともなるとさすがにその権勢も衰退の度を深めてゆきます。


【天明の蝦夷地探検】
 そんな田沼が飢饉で疲弊する幕府財政を立て直すために天明五~六年にかけて期待を込めて送り込んだのが、青島俊蔵や最上徳内などによる蝦夷地の探検隊でした。

 当時は工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著し長崎での伝聞から、赤蝦夷=ロシアの蝦夷地方面での南下を警告する声が大きくなりつつありました。

 さらに当時蝦夷地では昆布、干しあわび、干しなまこなどを俵物と呼び、主に長崎などに出荷されて中国船に高額で取引されており、これらの可能性を探る目的もあったのだろうと言われています。

 結局天明五~六年間の二年間かけて行われた蝦夷地探検の成果は、天明六年の田沼失脚と同時に権力を手にした老中松平定信によって闇に葬られることとなりました。

 しかしこの後、寛政四(1792)年にラクスマンが根室に寄港して和親を申し込むなどロシアの影がいよいよ大きくなり、幕府も蝦夷地に対する関心を深めざるを得なくなり、寛政十年の近藤重蔵やかつての最上徳内らによる千島探検を行うこととなります。

 つまりここからが蝦夷地を舞台とした、近世における領土問題の最前線に対する国家としての関心事となるわけです。

 
 低温による飢饉が北海道に対する目を向けさせるきっかけとなったというのも歴史の興味深いところですが、私はこの天明年間の田沼意次こそが蝦夷地開拓の大恩人であると考えています。

 田沼意次は静岡の相良町でも名君として評判であり、巷間言われるような賄賂三昧の悪党では決してないとも思っています。歴史は商社によって書かれているわけです。


 寒い夜にほんの少し前の祖先たちの物語である蝦夷地の歴史にちょいとばかり思いを馳せてみました。長くてごめんね。




【天明5(1785)年の蝦夷地大探検】  北の心の開拓記 2010-06-12
 http://bit.ly/l2azTi ↑もう天明の頃の冒険活劇と呼ぶべき執念の書。著者照井壮助渾身の絶筆。




【宮本常一著「炉辺夜話」を読む】 北の心の開拓記 2010-01-07
 http://bit.ly/iIZNsL 
  ↑天明の飢饉の頃に東北を旅した菅江真澄について触れています。
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