
【僕たちの町は国の宝…だったのだ】
こんなに天気の悪いGWってありましたかね、と言いたくなるくらい天気の悪い連休。今日も釧路は細かい雨が一日中降っておりました。観光も打撃が大きくなんとかしなくてはいけません。
そんなわけで、妻が来てくれている釧路の市内観光で阿寒本町方面へと車を走らせました。
道の駅「阿寒丹頂の里」のレストラン「赤いベレー」ではエゾシカ肉をふんだんに使った阿寒紅葉スープカレーを注文。エゾシカのお肉はしっかり煮込んであってスプーンを入れるとすぐに崩れるほど。
カレーもスパイシーで美味しかったです。阿寒湖ドライブではエゾシカ肉を食して撲滅(?)の観点からも絶対に押さえておきたい定番メニューと言えるでしょう。

【エゾシカ肉の定番メニュー、お勧めです】
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さて、同じく道の駅と一体となった施設で、レストラン「赤いベレー」の裏手にあるのが「炭鉱と鉄道館」。こちらには昭和45年2月に閉山した雄別炭鉱と、そこから掘り出される石炭を釧路の港まで運んだ雄別鉄道に関する資料が保存されています。

【炭鉱と鉄道館。訪れる人もまばらでさびしい】

【雄別炭鉱はこのあたりにありました】

【展示施設は実際に使われていたものばかり】
雄別炭鉱は釧路市阿寒町(旧阿寒町)の雄別地区において、大正8(1919)年から開発と鉄道の敷設が始まり1923年の鉄道完成と同時に採炭が始まりました。
1964年には最大産出量年73万トンを誇りましたが、エネルギー転換の波には勝てず、1969年に茂尻鉱坑内で爆発事故を起こしたことがきっかけとなって結局翌1970年に閉山となったものです。
閉山にあたっての様子をWikipedia《雄別鉄道》から引用してみます。
---------------≪ ここから引用 ≫--------------
(雄別炭鉱閉山は)当時、戦後最大の炭鉱会社大手の倒産であった。資金繰りが原因でのあまりに突然の倒産であったため、地元自治体は、築後1年も経過していない公立学校の校舎や公民館施設などの放棄を余儀なくされた。
雄別鉄道の終点である雄別炭礦雄別鉱業所の置かれていた阿寒町雄別地区では、雄別炭礦閉山と共に、役所、警察、郵便局、病院、映画館、小中学校、寺、神社などの建物や施設が数か月で停止閉鎖され、企業・商店は廃業もしくは阿寒町市街地や釧路市への移転を強いられることとなった。
当時15000人程度の人口があった阿寒町雄別地区は、雄別炭礦の残務整理業務に携わる社員以外の住民が全く姿を消し、雄別炭礦閉山後の数年で無人地帯と化した。
---------------≪ 引用ここまで ≫--------------
往時の雄別炭鉱では従業員は3000人、関連の住民は13000~15000人に達したと言われています。
今も阿寒本町から雄別地区へ向かう途中の布伏内(ふぶしない)には炭住街がそれらしく残っていますが、その奥でかつて栄えた炭鉱町は駅も線路もなくなり、朽ち果てた建物の跡が残るばかりです。
今日、人口減少と若者の流出によって、高齢化率が高くなった限界集落が数多く発生していて、このままでは集落が消えるという危機感があると言われています。
しかしながら歴史を紐解けば、集落が忽然として消えた例は枚挙にいとまがありません。特に雄別だけではなく空知地方でも同様に、炭鉱町のように産業政策の大幅な転換によって産業と雇用が失われ、同時にいくつもの町が実際には消えているのです。
集落がなくなることを恐れることはありませんが、そこで生活をした人たちによって生まれたドラマや物語も今日新しい価値を生み出せないというのは残念な限りです。
美しい湖や山の風景を【表観光地】として、朽ち果てた廃墟やかつての集落跡を見る【裏観光地】というのが脚光を浴びているという話も聞きますが、上手に生かせるものでしょうか。
物質的なものが残らないとしても、思い出やドラマの素材など観念的な形でも生かせないものか。
そこに関心を寄せる人たちがいる限りは何らかのニーズがあるはずで、関心の元となるドラマや新鮮な驚きとは何か。その辺を紡ぐ作業にヒントがあるかもしれません。
もう少し地域での炭鉱の歴史を勉強してみることにいたします。

2回目の登場です。
前回から巡回させていただいております。
≪ ここから引用 ≫に書かれてる「資金繰りにより倒産」という説明文が世間一般の認識であったと思います。実際は倒産するまえに会社を解散させてしまったことによる閉山なのですが地元の炭鉱と鉄道博物館ですら堂々と倒産と
挨拶文に書かれてます(苦笑)
冬季は閉館してるようななおで連休からは開館してるのですね、あの建物の裏の中腹に入り切らないものを納めてるかまぼこ型の建物と線路があります。昨春行った時に入りたかったのですが鍵を開けてもらえず外から眺めるだけでした。
赤いバレーでのエゾシカ料理おいしいですね。
お土産に買ったカレーは当地でも好評でした。
東京などの人口の多い場所のレストランへの売り込みは「肉」の安定供給の低さのためはかばかしくないのかと想像してるのですが・・・・
閉山の裏話はいろいろな方から聞いていて、閉山交付金とそれ以降続ける経費との兼ね合いの中で突然閉山が決まったという話を聞いたことがあります。
鹿料理は行けると思いますよ。とくに紅葉カレーというのは名物料理になりうると思います。是非ご賞味ください。
雄別炭鉱もですし、大夕張炭鉱もゴーストタウンになりましたね。特に大夕張はダムの底に沈みましたし。
雄別鉄道の資料を展示した「炭鉱と鉄道館」は、釧路時代の77年に入りました。今と違い当時は雄別鉄道の旧阿寒駅跡にありましたが、当時の写真や館内展示の蒸気機関車は目を見張りました。
くしくも私が釧路時代に住んでいた場所は、愛国地区の雄鉄線沿線だったところで、当時の線路跡の盛り土がそのまま残っていて、よく歩いたり自転車に乗ったものでした。住んでいた近くに旧中園駅があったそうで、住んでいた当時も鉄道があったら、わざわざバスに乗らず鉄道で街に行けたろうにと残念な気分でした。また今の新くしろ川に架かる雄鉄線の橋だった鶴見橋を渡って対岸のサイクリングロードに入ってすぐのところに旧雄鉄昭和駅の建物があり、改札口と白地に黒の筆書き文字の駅名看板が残っていて、当時にタイムスリップした気分でした。
しかし昨年38年振りに釧路を訪れたとき、住んでいた愛国そばの雄鉄線跡は、「雄鉄線通り」という立派なバス通りと化していて度肝を抜かれました。
故郷を思う気持ちからすると、再開発ではなく原野に還った姿のほうが、自分たちの町なんだと、まだそう思えるような気がします。