北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

安岡正篤先生の「王陽明」を読む

2006-10-11 23:28:56 | 本の感想
 夕方の便で東京へ向かいました。今日から明日の一泊二日の東京出張です。

【古典の力~王陽明】
 出張をすると移動の間に随分と本が読めます。今回は安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の「王陽明」(PHP文庫現代活学講話選集7)を一気読みです。

 王陽明は15世紀後半中国に生まれた思想家・政治家ですが、彼の言行や考え方から来る思想・哲学は後に陽明学として広く知られ、日本にも徳川家康の頃に入ってくることになります。

 王陽明は陽明学という思想家になろうとしたわけではないでしょう。彼は科挙に合格した進士として、人事に従って中国各地を転々とし、あるときは乱を平定したりあるときは知事として善政を行ってきただけです。

 しかしその人柄を慕って国中からその話を聞きたくて多くの人々が集まってきたと言いますから、人間的に非常に魅力のある人だったのでしょう。

 彼の哲学を一言で言い表すことはとてもできませんから、興味があればぜひ上記の本をお読みいただけると良いと思います。

 ただ安岡先生の文章を読んでいると、「なるほど」と膝を叩きたくなる教養溢れる表現が多く、心が慈雨に満たされるようです。

「『肝腎要』と言うでしょう。ここでいう要とは腰のことで、漢字としてはあとで肉月がついて腰になったものです。身体の中では肝臓と腎臓と同じくらい腰が大事なのです。お寺の修行で、広い本堂を雑巾掛けをさせられることが辛いというが、それは知らず知らずのうちに腰を鍛えることを目的としているのですよ」

「足をなぜ『足る』と読むか。それは足を鍛えておればそれだけで健康を保つのにい十分だからです」

「人間も一つの器です。その器に才が入っている者を才器という。知能とか技能とか、才器というのはあればあるほど良いに越したことはない。しかしこれは要するに程度の差であって、あくまでも属性である。もう一つには躾や習性というものがあって、これは特性に準ずる要素と言える。才器はすぐできるが、人間という器には徳が満ちている徳器でなければ本当ではないと言えるのです」

 広い古典の知識を縦横に駆使して、心に浸みる話を楽しませていただきました。

 古典の力はすごいものですねえ。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする