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ふるさとの雪の思い出 その2

(大雨のあとで、富士山は真っ白になる-靜岡城北公園より)

(昨日の続き)
小学校は歩いて5分のところにあった。グランウンドは真っ白、踏み跡は校舎に沿って続いている。あえてグラウンドに立ち入る生徒はいないから、真っ白で、まっさらな白であった。小学校のシンボル、二本松も今朝は雪化粧だ。

冬は高学年にはストーブ当番がある。1時間ほど早く出て、自分たちの教室と、低学年の教室を当番で受け持って、ストーブに火をつける。教室前方の窓側に石炭ストーブが設置されて、煙突が窓の方へ出ている。石炭はガスや石油のように簡単に火は付かない。紙から薪へ火を付けて、十分燃えてから石炭を投入する。最初は煙突で処理できないほどの煙が出て、教室中に充満する。寒いけれども、窓を開け放って煙を出さねばならない。火が石炭に付いて落ち着けば、煙は煙突から排出される。当番の登校が遅くなると授業が始まる頃になっても煙が排出できずに、授業どころではなくなる。石炭は長い時間燃える。時々新しい石炭を投入すれば、一日中暖かい。石炭がしっかり燃えると、鋳物のストーブが真っ赤になる。教室全体を暖めようと思うと、ストーブのそばの席の生徒は輻射熱で熱くてたまらない。55人もの生徒がひしめく教室で、先生の目が届くストーブのそばは、学業が遅れている子供の指定席であった。

お昼前の4時間目になると、一斗缶が出てくる。上部を空けて底にすのこを敷き、すのこの下まで水を入れる。そこへ生徒たちが持参したアルミの弁当箱が入れられて、ストーブの上に載せて、蓋を閉めて置くと、お昼にはお弁当が暖かくなるという寸法である。御飯とおかずが分けてあれば、御飯だけが温められて良いのだが、大概は一つの弁当箱に一緒に詰められている。お昼に近くなると、そこから発する臭いがたまらない。嫌な臭いだったのか、空腹を刺激する臭いだったのか、記憶は定かではない。

しかし自分はその弁当箱からお昼を食べたことは一度も無かった。当時は給食もなく、食糧事情もままならず、学校は食事のめんどうまで考えなかった。つまり、お昼は一度下校して自宅で食べて来ることを放任していた。町に車の危険はほとんど無かったし、学校は今よりも開放的で安全であった。大人は老いも若きも皆んな食っていくことに一生懸命で、難しく考える暇はなくて、だから社会は健全だったと思う。お弁当を持ってくるのは、家が遠くてお昼に自宅へ帰れない生徒だけであった。(言っておくが、わずか50年前の話である)

お昼に家に帰ると必ずお袋がいた。現代のような共稼ぎはほとんど無かった。お昼に何を食べていたのだろう。現代のようにレトルト食品は無いし、保存する冷蔵庫も無いから、あっさりしたもので、昨晩釜で炊いておひつに移した御飯は、どれだけ保温を図っても冷たくなっている。毎日、お茶漬けではないだろうから、ベースは冷や飯、暖かいのは多分味噌汁、あとのおかずがあんまり思い出せない。冷蔵庫が無くても保存できるのは、梅干、漬物、干物など、干物は鰈、カマスなどを焼いて食べたように思う。

明治生まれのお袋も、ものの無い中で工夫はしたようで、切ったちくわのバター炒めなど、簡単料理ながら美味いと思った。飽食の時代から見れば粗食もよいところであったが、それでも子供は十分育った。
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ふるさとの雪の思い出 その1

(大代川土手のスイセン)

夜が更けて雨が烈しく降っている。救急車のサイレンにパトカーのサイレンが続く。この雨の中、交通事故でもあったのだろうか。

今年は、我がふるさとは、何十年ぶりという大雪に見舞われた。最高に積もったときは1メートルを越したであろうか。我がふるさとの雪の様子は町の電気屋さんブログ(当ブログのブックマークにある)で時々見せてもらって来た。50センチ積っても、暖かければ、ふるさとの雪は一日で10センチや20センチ、どんどん融けていくから、あれだけ降った雪ももうほとんど消えてしまっただろう。

雪の降るはじめ、日本海から雪雲が押し寄せてくると、夕立でも来るような真っ黒い雲で空が覆われて、昼間でもあたりが暗くなり、ごろごろと雷さえ鳴ることがある。この雷を「雪おこし」と呼んだ。雪は北西の風に流されて、やってきて、辺りが真っ白になるほどに降りしきる。昼間はまだ大地が暖かいのか、地表に積ることは少ないが、夜になるとみるみる積っていく。

夜が更けて来ると、町の音が消えて妙に静かになる。積雪は消音効果があるのだろう、犬の遠吠えすらかき消されてしまう。そんな夜は深々と冷えてくる。当時、町場の家には内風呂が無かった。町内に銭湯があるが、そんな夜には表へ出られない。火鉢と炬燵が暖房用具で、お風呂で暖まれないから、蒲団に入っても足がなかなか暖まらなくて寝られない。お袋が湯たんぽを用意してくれる。金属製の湯たんぽに熱湯を入れると熱すぎるので、布袋に入れてちょうど良い温度にする。足が温かくなるとその熱は全身に回るようだ。ただ、低温火傷には気をつけないとならない。我々の世代はその頃の低温火傷の痕を1ヶ所や2ヶ所、必ず持っているはずである。自分も右足首に低温火傷の痕が残っている。

朝、起きて最初に見るのは小さな庭に積った雪である。空が開いた空間の大きさに雪が積もっている。一晩で50センチ位は普通に積った。小屋根にも同じ高さの雪が積もっている。もちろん、表にも同じだけ雪が積もっているわけで、雪かきをしなければ表にも出られない。玄関の幅だけ、すでに雪が掻かれているが、道路は雪かきがされないから、通学、通勤する人は長靴を履いて雪を踏み固めて歩く。家を出る時間が少し遅い子供たちは、すでに踏み固められた部分を歩けばよいが、少し脇へ逸れれば、たちまちずぶりと腿まで入って、引き抜くと長靴に雪がいっぱい入っている。その場で出して置かないと、そのまま置けば長靴に水が浸みて、冷たくて大変辛いことになる。

今のように車が無い時代、雪が降ったらバスも止まり、学校や職場や駅までただ歩くしかなかった。それでも町の機能は麻痺したとは言わなかった。人々には冬の備えが出来ていた。雪に閉じ込められても、ご馳走は出来ないが、食うには困らなかった。
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当村柄御見分 - 喜三太さんの記録

(大代川つがいのカワウ-次の瞬間二羽とも水中に消え、数十メートル川下に浮かんだ)

喜三太さんの住む各和村は、御用の時に袋井宿に人馬を出す定助郷では無かったが、定助村に負担が片寄るのを防ぐため、定助の村々の願いで、差し村になり、代助として人馬の役目を務めていた。20年の代助を勤め上げると、間をおかずに、再び差し村にされた。これでは堪らないと、代助後免の願いを出そうとしている所へ、御役人が定助村を村柄見分に来る際に、代助村の各和村にも回ってくると、回状が来た。その様子を記した記事を以下へ読み下し文で示す。
※ 定助(定助郷)- 江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。
※ 代助(代助郷)- 江戸時代、定(じょう)助郷村が災害などのため役(えき)負担を免除された際、その分の負担を課せられた村。
※ 差し村 - 江戸時代、宿駅または助郷村が、課役の減勤、休役を道中奉行に願い出る際、それに代わる特定の村を指定すること。

当村柄御見分
袋井宿定助村々の願いにて、去る戌年十月まで二十ヶ年代、助郷相勤め候村々、又々差し村に相成り、今般西国辺へ御役にて御越しなられる、梅沢九十郎、水嶋箇助と申す御役人、十二月九日、袋井宿へ西より御帰り掛ケ御着にて、定助村々御調べの上へ、差村へも回状を以って、仰せ越され候は、村高、家数、人別、牛馬の有無まで、帳面に認め、差し出すべきとの事にて、当村にても御相給一同御取り調べ差し上げ申し候、左の通り(中略)


この後に村柄を書き出した内容が続くが省略する。

右の通り取調べ差上げ申し候帳面は、いのや半紙立帳、上書は村高家数人別取調覚書帳、遠州佐野郡各和村と下のはし(端)へちさく(小さく)書き申し候、

準備するうちに、当日になって御役人が回ってきた。

さて、二十日、村柄御見分にて、前日、道造りいたし候、村役人両給とも残らず、吉岡境まで御出迎えいたし、先払い弐人、村役人弐人御案内として先へ立ち、ほか村役人は御駕籠、諸々御付きいたし候、御案内の道順は、東の田中を下り、藤三郎前より御高札前へ出、そのまま西へ戸右衛門前を行き、堤際より番人の東を行き、諏訪の森の前へ出、門前村作左衛門前より佐次右衛門の裏を東へ真っ直ぐに、東あわらの東より下り、下えげ(会下)の下(なわて)を行き、権助畑の所へ上り、又右衛門屋敷際まで御案内申し候、
※ 両給 - 各和村は横須賀藩の領地と旗本の支配地が混ざっていた。この状態を二給あるいは両給という。
※ 畷(なわて)- 田の間の道。あぜ道。なわて道。

アンダーラインの地名を古地図で追ってみると、各和村を西へ行ったり東へ行ったりと、ジグザグにかなり真面目に動いている。やっていることは、提出された帳面に間違いないかどうかの実況見分であろうが、問題の指摘は何も無かった。形式的とはいえ、幕府の役人はけっこう真面目に仕事をやっている。

この所へ岡津村役人御出迎えに出で申し候、差村一同難渋願い代助御免の願い出は、村境まで御出迎えに出で候節、御駕籠先へ差し出し申し候、岡津村御小休にて、村々庄屋名主ばかり御呼び出し、仰せ渡されこれ有り候て後、この上は御奉行所の御沙汰次第と仰せられ、御用済みと相成り、村役人皆に引取り申し候、村々難渋の願書は別段目立ち候儀、これ無く候て、御用には相成り申さず候

代助御免の願いは出したけれども効果は無かったようだ。
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静岡藩金谷開墾方の成立

(相良梅園の紅梅)

先週の土曜日、「島田金谷の考古学と歴史」講座のテーマは「蓬莱橋と牧ノ原開墾」であった。講義の内容は多岐に渡ったけれども、その内から、ここでは、静岡藩金谷開墾方の成立について記す。

江戸城を明け渡した徳川家は、水戸に蟄居の後、駿河府中藩(靜岡藩)に移され、大量の家臣たちを伴なって駿府に移住してきた。藩の財政では大勢の家臣を養うことが出来ず、牧之原の開墾に大勢の家臣たちを投入して、牧之原大茶園のもとを築くことになる。

ここでは、開墾方に投入された家臣たちが、幕末から明治に、世の中が大きく変わる時代に何をしていたのか。講義ではその系譜を追って行った。錦の御旗を掲げた官軍や、戊辰戦争で官軍と最後まで戦った人たちのように、歴史の中心にはいなかったけれども、大きなうねりに翻弄された徳川家の家臣たちを追うことになる。

1860年、桜田門外の変以降、旗本17名で、幕府体制を守るために、「攘夷組」を組織した。その17名は、落合正中、中条景昭、関口隆吉、大草高重山岡鉄舟、柳原釆女、井上可善、松岡万、相原安次郎、森川金五郎、遠山和三郎、山本柳之助、芝忠福、落合友之助、久保栄太郎、内藤酒之助、成瀬三五郎である。

1863年、将軍家茂の上洛・参内に際しては、「浪士隊」と名前を替え、浪士を加えて200名に膨らみ、将軍警固のために同道した。その取締には、山岡鉄舟・松岡万の名前が上がる。役割が終った後、京都に残ったグループが「新撰組」として、芹沢鴨、近藤勇などが率いて、京の町に名を馳せた。一方、徳川の元からの家臣たちは江戸へ戻り、「新徴組」として江戸の警備に当った。

1868年、戊辰戦争で慶喜追討令が出て、慶喜は水戸へ蟄居し、さらに駿府へ移ることになるが、その警固を行なったのも、新徴組から名前を変えた「精鋭隊」であった。その後、精鋭隊は「新番組」と名前を変えた。

徳川家に随って、靜岡へ移住してきた大勢の家臣たちを食わせるために、靜岡藩金谷開墾方頭に中条景昭が就き、支援役に松岡万と山岡鉄舟が就いた。1869年(明治2年)、中条景昭と大草高重を頭にして、新番組がその家族も含めて5000人で牧之原に移住し、3万坪を荒地を開墾し茶種を撒いた。

刀を慣れない鍬に持ち替えたわけであるが、お茶は植えればすぐに収穫できる作物ではなく、成木になるのに数年掛かる。記録では1876年(明治9年)になってようやく1000斤の茶が出荷できたというほどである。その辛さに絶えられず、多くの家臣たちは離農して落ち着きを取り戻した東京へ戻った。開墾のあとを受けたのは近郊の農民たちで、現在の牧之原大茶園はこのようにして出来たのである。
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相良梅園と大鐘家吊るし雛展

(大鐘家の吊るし雛)

昨日の日曜日、当番の宮掃除のあと、相良梅園に行く。相良油田公園の近くという女房の情報に向かうが、途中で散歩のおばさんに聞くに、どうやら原を越えた海側から入った方が近いという。直接に降りて行く道もあるらしいが、説明が出来ないという。海岸側に降りて、旧道を旧相良町内に向かって進むと「相良梅園」の立て看板があった。少し山側に入った所に相良梅園はあった。

入場料の500円×2は予想外であったが、申し訳に梅干が4、5個入ったパックがそれぞれに付いていた。梅園は沢に沿った斜面に三段ほどに梅の木が植わっていた。けっこう広いけれども、花は満開には少し早かった。もう一週間遅ければよかったのかもしれない。いくつか近辺に梅園も出来て、今では梅の花だけでは退屈してしまう。家山梅園でも数本あったロウバイの花がかえって目を引いた。去年見た可睡ユリ園では、所々に残された樹木に巻きつく、品種物のクレマチスが目を引いて、楽しませてくれた。

相良梅園で今の季節なら、品種物の色々なツバキを植えて咲かせれば面白いと思う。ツバキの花が良い箸休めになる。500円を取るならば、高いと思わせない工夫が必要だと思う。

昼食に手打ちそばを食べたくて、近くの大鐘家へ行った。門前にその名も「門膳」という蕎麦屋さんがあるのを知っていた。大鐘家は何度も見学しているが、門膳には入ったことが無かった。30分ほど待たねばならない。携帯のナンバーを教えてもらえば呼びますという。待たせるのではなくて準備できたら携帯で呼ぶとは、新しいビジネスモデルだと思った。

30分という時間が、その間に大鐘家の見学をするにぴったりで、蕎麦だけのつもりが、ここでも入館料500円×2を払うことになった。大鐘家は現在、吊るし雛展を催している。吊るし雛は今ではあちこちで見ることが出来て、それほど珍しいものと言うわけでもない。10分も見学すれば十分である。

土間に休憩の長いすがあって、懐かしい手あぶりの火鉢が置かれていた。手をかざすと火が入っていた。火箸で白い灰を除くと赤い炭火が見えて、寒い土間にいるのに気持がホッと暖かくなった。子供の頃の暖房はもっぱら火鉢だったような気がする。女房はよく股火鉢をした思い出を語る。決して行儀のよい行為ではないが、全身が温まって気持のよいものである。家にも確か火鉢があったと思う。出してみようかなあ。五徳の上に網を置いて餅を焼いたら最高だと思った。

電話で呼ばれ、部屋に案内された。それから注文した蕎麦が出てくるのに30分以上掛かった。時間の余裕がある我々の世代は、こういう状況下で決していらいらしてはならない。悠然と待とうとするのに、かなり努力を要した。待たせたけれども、蕎麦は美味かった。腰がしっかりしていて、蕎麦の香りが立った。女房が頼んだとろろ汁も美味しかったという。待たせても時間を感じさせないビジネスモデルを、もう一歩進める必要がある。

携帯で呼ばれるなら、何度も入った大鐘家の見学でなくても、海を見に行っても良かったと、あとで思った。
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雨乞い - 喜三太さんの記録

(相良梅園の白梅)

当地も長い間、雨が降らなくて我が家の井戸も枯れてしまい、水道に切替えた話はすでに書いた。

ようやくこの数日でまとまった雨が降り、乾燥していた大地が少し潤った。農家で無くても、雨乞いをしたくなる気持はよくわかった。喜三太さんが住んでいた江戸時代の終わりごろ、雨が降らないのは今以上に深刻なことであった。掛川には、大井川のような大きな河川が無くて、いっそう影響が大きい。今でこそ、大井川用水が山を越して掛川方面にも送られて、水不足になることはなくなったが、「記録」には雨乞いの記事が何度か出てくる。この記事では雨乞いの方法が具体的に記されていて、興味を引かれた。

雨乞い
嘉永五子年春以来、天気がちのところ、五月に相成り候ても、五月半ばと申す程の長湿もこれ無く、植え付け出来兼ね候村、当国の内も少なからず、五月十一日より十二日へ大雨降り候えども、浜辺は降り申さず、横須賀様御領分の内、五、六千石も植え付け出来申さざる所、これ有り、掛川様も右同様の事にて、存外の事には、原野谷川通り、森川通りなどは、水沢山にて植付滞りなく出来候えども、天気相続き、畑作いたみ候に付、村役人相談の上、六月一日、氏神八幡宮へ雨乞い奉り、信心いたし候、もっとも原川一同なり

※ 五月半ば - 旧暦では梅雨になる頃である。「植え付け」はもちろん田植えのことである。

傘ぼこ(鉾)吹ぬきなど、権現堤まで出居り候て、原川村役人待ち合わせ、一同氏神様へねりこみ申し候、但し当村役人は、尺(釈)明寺に待ち合わせ居り申し候、それより先例のごとく、仙太郎(金物事)上下(かみしも)着用にて、のりと(祝詞)を申す
  小笠山のあたりへ。からかさ(唐傘)ふと(太)なる雲がうえ(上)へ。
  松ヶ谷なんとて浪かこつ(託つ)。岡津山へ雨つなげ。
  海には龍神。河には水神。あめ

ここで文が切れているが、もう少し後へ続くように思う。
※ 傘ぼこ - 祭礼の飾り物で、大きな傘の上に鉾・なぎなた・造花などを飾りつけたもの。
※ 吹きぬき - 吹き流し

喜三太さんの村、各和村の南に原川村がある。この雨乞いは原川村と一緒に執り行なった。「原川一同なり」はそれを言っている。「尺明寺」はおそらく「釈明寺」だろうが、どこにあったお寺なのかは不明。「仙太郎」さんはおそらく神主かその代りを出来る人なのだろう。国学を勉強していたような人なのかもしれない。「金物事」が何を意味するのか判らない。

祝詞は大変に興味深いけれども、もう一つ意味がわからない。小笠山は南に見える広い丘陵である。岡津山は北東にある丘陵である。小笠山から雨雲が出て岡津山へと雨雲をつなぎ、その間にある当地へ雨を降らすように、海の龍神、河の水神へ雨乞いをする祝詞なのであろう。「松ヶ谷なんとて浪かこつ」が、意味不明である。民間習俗の一端を知ることが出来て、大変面白い。
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掛川殺害 - 喜三太さんの記録

(庭に鉢入りツバキが一輪咲いた)

いよいよ2時間ドラマのテーマ音楽が聞こえてきそうな話である。掛川の古文書解読講座では時間切れで、解読が割愛された部分である。自分で予習したもので、読み違いもあるかもしれないが、以下へ読み下し文を示す。

掛川殺害
嘉永五年子三月五日夜、尾州様、掛川宿御旅宿の所、同宿仲間二文字屋十蔵、倅並び嫁、六日明け方、殿様御立ち前に、殺害致され即死いたし候、同町嶋屋亀と申す者も、三十方にて、持仏の前に切られ居り候、これは浅手ゆえ直に療治いたし候えども、同日夜半死去いたし候、

大切の御泊り、殊に御本陣近所といゝ、殿様御立前の事にて、大騒動いたし候、壱尺七寸ばかりの脇差、末四寸計り折れ候が、背戸に捨てありしかば、右脇差より段々詮義いたし候ところ、掛川様御家中のうちより、右脇差を嶋屋亀に売り候と申す事にて、売り人よりその筋へ申し上げ、それより段々御詮義に相成り候ところ、全く嶋屋亀と申すもの、両人を殺害いたし逃げ去るつもりのところ、自身も衣類は血にそまり、裏道はなし、往還は問屋場近所にて人多く、夜は明けかゝる、逃れ難く思いて自殺と申す事にて積りに御評義の上、江戸御窺い(うかがい)と相成り申し候、
※ 背戸 - 家の裏口。また、裏門。

掛川殿様にても、大切の御旅宿の折柄にて、殊の外御心配と申す事に候、落着の義驚き相成候や、いまだ相分らず候、過去これ無き宿業にて非業の死をとげ候事、是非なき事ながら、残る親子の心中思い遣るだに、いと痛ましき事に候
   三月廿八日の記


尾張様が宿泊中、起きた殺人事件で、記述が舌足らずでわからない点が多い。嶋屋亀を犯人とするに、しばらく生きていて見つかった嶋屋亀の自供が得られたのか。殺害に及ぶ動機は何であったのか。嶋屋亀が見つかった場所は「持仏の前に」というが、同じ二文字屋内の仏間で見つかったのか。凶器が背戸に棄てられていたのはなぜか。嶋屋亀が自殺なら、そのそばにあるのが当然であろう。

どうやら犯人は別に居て、嶋屋亀は犯人に仕立て上げられたのではないだろうか。凶器は出入りを察知して嶋屋亀が持ち込んだが、返り討ちにあった。三人殺害の手口が鮮やかで、田舎の町人の手によるものとは思えない。嶋屋亀は犯人の名前を役人に言ったのであろうが、役人は諸般の判断で取り上げなかった。もっと悪く言えば、口封じまでしたのかもしれない。

掛川の役人が犯人と言い立てることが出来ない人間とすれば、犯人は御本陣に宿泊中の尾張様御家中の人間であったと想像される。尾張様旅の途中、宿場の人間と金銭トラブルが起き、その談判の席に嶋屋亀は立会いに来た。尾張様の家中から縄付きを出すことは出来ないから、掛川殿様もこのような判断にせざるをえなかった。もちろん、犯人の処罰は尾張様へ任せることにしたのである。犯人は後日切腹を申し付けられたはずである。

最後の、「江戸御窺い(うかがい)と相成り」という処置が、そんな背景を感じさせる。宿中で起きただけの事件ならば、掛川藩内で処置できたはずだから。
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秋葉山御開帳 その2 - 喜三太さんの記録

(秋葉杉の根っ子 -「記録」には記述がないが、
往時は立派な樹勢をなしていたはず-2009年9月撮影)

秋葉山御開帳に合わせて、喜三太さんは秋葉山へ詣でる。昨日に続いてその後半である。秋葉山は御開帳に備えてお堂の改修を行い、寄進された幕などで飾られている。読み下した文を示す。

権現様、観音様、御堂御修覆儀に、善つくし美尽くし、結構言葉に述べ難く候、京都よりは女御殿はじめ宮様方の御寄進、九條殿よりは綾誂え(あやあつらえ)御紋付の幕、御寄進なり、御本丸よりも御戸帳紫御紋付の幕水引御寄付なり、その外諸家様方よりの御寄附、あげてかぞえ難し、万燈、御神楽殿、方丈、その外寮まで、みな紫の幕を張らざる所もなく、玄関には緞子にて五色の竪幕なり
※ 戸帳(とちょう)-帳台の上を覆う布、また神仏を安置した厨子(ずし)や龕(がん)の前などにかける小さなとばり。金襴(きんらん)・緞子(どんす)・綾(あや)・錦(にしき)などで作る。
※ 幕水引(水引幕) - 劇場で、舞台最前部の上方に、間口いっぱいに横に張った細長い幕。


御宝物の数々寛々(ゆるゆる)拝見いたし候、天狗の爪、■(一字不明)石、掛物類、刃類には粟田口の短刀、太閤御寄進の御太刀、信玄勝頼御寄進の政宗の刀二タ振り、仙台公よりの御寄進、荒金作の御差し添え、その外中々覚え難き事に候

※ 差し添え - 刀に添えて腰に差す短刀。脇差。

寛々拝見いたし、四ツ半頃、うんな(雲名)に下り候ところ、参詣人数多きにより、朝の間に舟五拾艘も出で候に付、右舟登り来ぬうちは出舟これ無しと申し候に付、千草越を二又(二俣)へ出、漸々(ようよう)夕方に片瀬まで出、その夜は大工次郎九方に泊り申す、七日四ツ頃立ち出で、溜り屋へ立寄り八ツ辺りまで居り、夕方帰宅いたし候、当村なども家々参詣にまいらざるものは少なく候、川西辺り、所々接待駕または酒など出し候村もこれ有り候て、大きに賑わい申し候
※ 溜り屋 - たまり場、仲間などがいつも集まっている場所や店。(と解釈してみた)
※ 接待駕 - 参拝客へのお接待として、無料で駕籠を提供した。

講師の話。もともと、秋葉山の霊験は、剣難、火難、水難の三難除けとしてされていた。戦国時代には特に剣難避けとして、戦国大名などに信奉され、秋葉山の宝物に刀剣類が多いのはそのためである。江戸の平和な時代になって、剣難避けは必要がなくなり、代って、火防の神様として、庶民にまで信仰が広がり、現代にも続いているという。

50艘あった舟も出払うほど、ここでも賑わいが知れる。喜三太さんはおそらく雲名から舟で二俣まで出ようと思ったのだろう。天竜川を池田まで下ってしまうと行き過ぎである。二俣に上がって帰途に付く予定だったが、おかげで峠を越えてかなりの山道を歩くことになった。小弥太は先に帰して、溜り屋にちょっと寄って帰る辺り、独り者の気楽さであろうか。
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秋葉山御開帳 その1 - 喜三太さんの記録

(秋葉神社本殿-2009年9月撮影)

「日坂火難」の項にも出てきた「秋葉山御開帳」の記事である。何十年かに一回の御開帳で、一大イベントであったことが判る。「日坂火難」が嘉永五年の一月であるから、その閏二月は2ヵ月後の話である。太陰暦では年十一日の誤差があり、季節がずれてしまうので、およそ3年に一ト月、「閏(うるう)月」が設けられた。それでこの年は年13ヶ月で、本来のニ月の次に閏二月があった。秋葉山といえば火防の神様だけれども、日坂宿には御利益(ごりやく)が間に合わなかったようだ。

秋葉山御開帳
嘉永五子年閏二月朔日(ついたち)より同三月晦日(みそか)まで、六十日の間、御開帳なり

それについて当村にても、夜燈並びに御供米寄進いたし候、大井住にて夜燈拾灯、誠三郎五灯、西小松五灯、東小松壱灯、手前方壱灯、村方にて十灯、都合三十弐灯、御供米村中にて五俵、但し壱俵白(米)弐斗七升入りなり、右の通り寄進いたし候、当国は申すに及ばず、近国、遠国大厦の寄進、参詣の男女おびただしき事に御座候
※ 大厦(たいか)- 大きな建物。りっぱな構えの建物。ここではそれを持っている人を示す。

予も小弥太同道にて、三月五日粟倉より一ノ宮へ掛かり、光明山参詣、その夜は和田ひしやへ泊り申し候、さてさて泊り人多きことにて、ひしや壱軒へ三百八拾人と申すことに候、素人家にても、往来の近きは明き家はこれ無く候、六日登山いたし、寛々(ゆるゆる)拝礼をとげ申し候


季節は現代でいえば四月から五月、旅には一番良い季節である。喜三太さんもお供を一人連れて出かけた。小弥太は下男だろうか。名前からすると、息子だったのかもしれない。喜三太さんの家族は妻を亡くし、子供は一男一女で、娘のさきさんは前の年に嫁に行っている。息子は残った唯一の家族で、小弥太が息子なら「記録」初登場である。

一ノ宮は森町の小国神社のある所、光明山には光明寺に参詣する。当時は「ついで参り」といって、秋葉山秋葉寺(神仏分離で現在は秋葉神社)にお参りする時には、セットで光明山にお参りすることが多かった。光明山は水防の神様、秋葉山は火防の神様、これで一セットになる。

和田は秋葉山の一つ手前の村で、宿のひしやに380人も泊まったというから、賑わいが想像できる。

翌日は山登りである。秋葉山は標高866m、その山頂付近に秋葉寺はある。翌日は、朝早く宿を発って、早々とお参りをしている。昔の人は健脚であった。
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粟ヶ岳の怪しい影、正体を見た!

(怪しい影の正体)

午前中で仕事を終って、午後は掛川の古文書解読講座へ出席した。講座が終って、帰宅途中に、粟ヶ岳の怪しい影のことを思い出した。見て来るかと、少し戻って日坂に入った。

日坂は昨日の書き込み、喜三太さんの記録の「日坂火難」の舞台である。嘉永五年(1852)の話だから、今から160年ほど前の話である。宿場がほぼ丸焼けになったという。今の町並みも当時とそんなに規模は変わらないはずである。火元の近くであった本陣跡の角を曲がって粟ヶ岳に向かった。

今日の講座で「日坂火難」も解読した。いくつか気付いたこと、間違っていたことを記す。出火が「御本陣大黒屋両家の境」と書かれているが、御本陣と大黒屋が別だと理解できなくて、両家の意味がつかめなかった。今日判ったことは、日坂宿は小さい宿場で本陣1、脇本陣1であった。本陣は「扇屋」といい、「大黒屋」は脇本陣であった。この二軒の境から出火したとの意味で納得した。つまり、宿場の中心から出火したことになり、野火であったとは何とも白々しい。

「諸々気の毒のことに候」と読んだ部分、「諸々」は誤読で、「偖々」が正しい解読であった。これを「さてさて」と読み、「さてさて気の毒のことに候」と続く。これの方が意味も通る。覚えて置こう。

講師は文字が薄れていて、「夜具」が解読できずに保留した。そして秋葉山御開帳で、宿場の中でも行事があり、普請などその準備のためだろうと説明した。「夜具」が読めておれば、宿場本来の人を泊めるための準備と説明出来たと思う。そのことを告げようとしたが、なぜか躊躇してしまった。

また講師は「近年宿方大分立直り候て」の「近年」は、火事より数年経った、この記録をまとめているときの実感が入ったものであろうと説明した。自分も違和感を持ったが、「候て殊に秋葉山御開帳」と続いていくところにこだわり、これ以前に地震など宿場が潰れるような災害が無かったかと思ったが、安政大地震は1854年で、この記事の2年後であるし、だからつながりは悪いが、講師の説明で正解なのだろうと思った。

角の本陣扇屋は門だけ残して、中が幼稚園になっていたが、引っ越したのか、古い建物を壊していた。粟ヶ岳の山頂へは細いジグザクの道で、車でも登れる。途中、工事をしていて、しばらく待たされたりしたが、山頂まで達して見上げると、怪しい影はやはり予想したように、電波塔の補修で養生のためのブルーシートが鉄塔全体を覆っていて、怪しい影に見えたのであった。写真には小さくお茶の祖、栄西禅師の坐像が写っているが、茶業界もこのブルーシートの大きさほどの栄西禅師像を打ち立てるほどの勢いが欲しいものである。


(少し離れてみれば、やはり怪しい像!)
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