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家康お膝元、駿府町の特異性 - 駿河古文書会

(御番所は現代なら市役所か、靜岡市役所)

夕方、靜岡の駿河古文書会に出席する。この5回ほど、続けて「萬留帳」より駿府町の飢饉による困窮に対して、役所へ扶食米を願う経緯を読んできた。

江戸時代、幕府も藩も飢饉のときに農民に対しては扶食米を放出することは行なわれた。放置すれば、翌年の米作に影響するから、助けておかねばならない。しかし、町人(商人や職人)たちには手厚い保護はしなかったと理解していた。町人たちは相互扶助で乗り切るのが通常で、一部の商人が囲い込めば打壊しが起きかねないから、各所に粥などを炊きだす救い場も設けられた。

駿府町でも一方で救い場が設けられたが、一方で役所に扶食米を御願いしてきた。御願いの書付に対して、説明不十分など書類が行ったり来たり、その内に事態はいよいよ逼迫してくる。そろそろ結論が出そうな様子になってきた。

読み進めながら、駿府だけの特異さがあることに気付いた。つまり、駿府は家康が晩年過ごした町として栄えてきた。家康の威光を受けて、多くの人々が集り、町をなした。しかし、家康の死後、駿河藩でもなくなり、一代官所が置かれるだけの町となってしまった。幕府から駿府町に落とされる御金(公共事業)もめっきりと減り、寂れてしまうところであるが、家康が晩年をすごした地として、幕府も寂れさせてしまうわけにはいかない。事ある度に様々な形で町に援助してきた。駿府町はそういう特殊な町であった。

町行持と御番所のやり取りには、そんな背景があることを理解しておかないと、一連の文書は理解できない。

本日読み進めた一部を読み下した文で示そう。御番所からの質問に答えた文書である。

恐れながら口上の覚え
一 先年
権現様五十回御忌(ぎょき)または久能御遷宮などのみぎり、当町へ御施物下し置かれ候例(たぐい)御座なく候、五十回御忌の節は、世間豊かに御座候ゆえ、恐れながら冥加として、町中より久能御山へ参上仕り候躰にて、もっともその節、町中より御願いなど申上げず候御事

一 家明け去り候者、合わせて百三拾人
右は御発駕前申し上げ候通り、餲命に及び候者も家買人御座なく候へば、家捨て去り候事も成り難く、または妻子など多く、あるいは只今まで住む所の好身(よしみ)にて、少々ずつも助けに逢い候て、罷り有るか、他所へ参り候儀、罷り成らず候族(やから)、数多(あまた)御坐候御事

一 餲命に及び候者、人数合わせて弐千七百四拾弐人
さる六日、書付差し上げ候節、吟味仕り候ところに、千三百六拾八人御座候事

一 その日を送り兼ね候者、人数合わせて五千五百五拾壱人
さる六日、書付差し上げ候節、吟味仕り候ところに、六千三百八拾三人御座候事

一 飢人救いの場へ罷り出候者、弐千弐拾人
右は町中より書付差し出し候分、かくの如くに御座候

一 教覚寺の訳は、夜に入り米にて施し申し候ゆえ、飢人の分、町々より参られ候、当町の中にても、程遠き所より参り候ては、救いに間に合い申さず、空しく罷り帰り候躰(てい)に御坐候ゆえ、近在の者など参り候儀は御座有りまじきや、と存じ奉り候、勿論などはかつて入り申さず候、夜分の儀ゆえ遠慮も少なく、飢人の分は罷り越し候と存じ奉り候、しかしながら、老人、病人は参り候儀、成し兼ね候類い多く御座候、しかるところ、当二十日の夜切りにて、施主も続き申さず、救い相止め、いよいよ難儀仕り候事
 浄元寺にては粥施行にて、当町の飢人、近在、次になどまで参集候分へ取り為し候、御昼の儀、寺にて飢に及び候者も、町柄または面眉をも存じ参らず候類い、多く御坐候事

一 飢人並びその日を送り兼ね候類いの者、只今までは親類縁者または町内その外志(こころざし)これ有る者、少々ずつも助け仕り、かれこれと命を続き
罷り有り候えども、永き儀に御座候えば、合力仕り候者も次第に自他ともに事多く成り、志も届き申さず、追日くづおれ申し候躰に御座候御事

一 御発駕以後、当町見分はさして相替り儀、御座なく候えども、夜に入り米銭借りに参り、乞いに参り候類い、追日多く御座候、かつまた男女奉公人の窮人、大分御座候、寺内證、内々衰(おとろ)え申し候と存じ奉り候御事

右の通り町中丁頭ども寄合仕り、相改め書付差し上げ申し候
かつまた壱町切に年行持方まで差し出し候人数、書付恐れ入りながら御覧申したく差し上げ申し候、以上
    未二月二十九日                年行持印
      御月番様

右之書付並び町中より集り候書付八拾七通、相添え差し上げ申し、御番所様、御月番様御両人において、御請け取り成られ候事


次回は、いよいよ扶食米に対する結論が出される。
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