平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
秋葉山御開帳 その1 - 喜三太さんの記録
「日坂火難」の項にも出てきた「秋葉山御開帳」の記事である。何十年かに一回の御開帳で、一大イベントであったことが判る。「日坂火難」が嘉永五年の一月であるから、その閏二月は2ヵ月後の話である。太陰暦では年十一日の誤差があり、季節がずれてしまうので、およそ3年に一ト月、「閏(うるう)月」が設けられた。それでこの年は年13ヶ月で、本来のニ月の次に閏二月があった。秋葉山といえば火防の神様だけれども、日坂宿には御利益(ごりやく)が間に合わなかったようだ。
秋葉山御開帳
嘉永五子年閏二月朔日(ついたち)より同三月晦日(みそか)まで、六十日の間、御開帳なり
それについて当村にても、夜燈並びに御供米寄進いたし候、大井住にて夜燈拾灯、誠三郎五灯、西小松五灯、東小松壱灯、手前方壱灯、村方にて十灯、都合三十弐灯、御供米村中にて五俵、但し壱俵白(米)弐斗七升入りなり、右の通り寄進いたし候、当国は申すに及ばず、近国、遠国大厦の寄進、参詣の男女おびただしき事に御座候
※ 大厦(たいか)- 大きな建物。りっぱな構えの建物。ここではそれを持っている人を示す。
予も小弥太同道にて、三月五日粟倉より一ノ宮へ掛かり、光明山参詣、その夜は和田ひしやへ泊り申し候、さてさて泊り人多きことにて、ひしや壱軒へ三百八拾人と申すことに候、素人家にても、往来の近きは明き家はこれ無く候、六日登山いたし、寛々(ゆるゆる)拝礼をとげ申し候
季節は現代でいえば四月から五月、旅には一番良い季節である。喜三太さんもお供を一人連れて出かけた。小弥太は下男だろうか。名前からすると、息子だったのかもしれない。喜三太さんの家族は妻を亡くし、子供は一男一女で、娘のさきさんは前の年に嫁に行っている。息子は残った唯一の家族で、小弥太が息子なら「記録」初登場である。
一ノ宮は森町の小国神社のある所、光明山には光明寺に参詣する。当時は「ついで参り」といって、秋葉山秋葉寺(神仏分離で現在は秋葉神社)にお参りする時には、セットで光明山にお参りすることが多かった。光明山は水防の神様、秋葉山は火防の神様、これで一セットになる。
和田は秋葉山の一つ手前の村で、宿のひしやに380人も泊まったというから、賑わいが想像できる。
翌日は山登りである。秋葉山は標高866m、その山頂付近に秋葉寺はある。翌日は、朝早く宿を発って、早々とお参りをしている。昔の人は健脚であった。
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