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日坂火難 - 喜三太さんの記録

(粟ヶ岳山頂に怪しい影)

夜になって、久し振りに雨音を聞いた。その前に降ったのはいつだっただろう。まさか、今年初めての雨ではないだろう。雪で白くなったのは、ブログを遡ってみると、1月15日であった。降雨量ではわずかなものである。それ以来の降雨となる。これからしばらく雨も降るようで、春の足音が聞こえてくるようだ。

写真は昼間ムサシの散歩の途中に見えた、粟ヶ岳山頂の写真である。何やら怪しい影が見える。今まで無かったものである。何かを造っているというニュースも聞かない。もし何かの立像だとすると、巨大なものである。粟ヶ岳にはテレビ塔など、何本かの電波塔が立っているけれども、こんな形のものは無い。想像するに、電波塔の補修のために、設置した足場や養生がこんなふうに見えるのかもしれない。それならばそれで、しっかりと公報すべきだと思う。何はともあれ、野次馬としては、一度見に行って来なければならない。

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明日は掛川の古文書解読講座である。座学は今年度最後で、3月は文書が扱う現地へ出向いて、フィールドワークになる。予習をしていた内から一つ、読み下した文で示そう。今年ずっと取り組んできた「喜三太さんの記録」からの一文である。現代なら、新聞の三面記事のような文書である。

日坂火難
嘉永五子年正月三日夜、日坂宿火事のこと、御本陣大黒屋両家の境より出火にて、西は古宮境橋際まで、東は沓掛西はずれの六地蔵の堂まで、宿内残らず類焼いたし候、弐百年近く火災これ無き宿方、残らず焼け候こと、時節とは申しながら、丸焼けのもの多く、極く難渋の至りと、人々申し候、火元大きにむずかしく、終に野火と相成り候と申すことに候、近年宿方大分立直り候て、殊に秋葉山御開帳に付、普請なども別段入念いたし、夜具、諸道具など拵へ候族も、残らず焼け候由、諸々氣の毒のことに候、ただ慎みてもつゝしむべきは火の用心のことに候


正月3日は当然旧暦だから、ちょうど今頃の季節である。「時節」の一言しか触れてないが、おそらく乾燥している上に、遠州のからっ風が吹いていたのだろう。日坂宿は東海道の金谷宿から小夜の中山を越えて降りた所にある宿場で、目前に迫った秋葉山御開帳の参拝客宿泊を当て込んで、準備していただけに、大きな痛手であった。「古宮」は事任(ことのまま)神社のことである。火元はどこかと役人が調べるけれども、当時は火元の解明は出来ないことが多い。原因を野火などとして、責任を問わない場合が多いようだ。

この古文書はやさしい方だから、この程度ならば、予習でほとんど解読が出来るようになった。
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「まんだら遍路、再び」計画中

(結願の88番大窪寺)

春が近付いて、気持が再び四国に飛び、「まんだら遍路、再び」と、お遍路には諸般の事情で来年以降しか出かけられないけれども、机上で計画を作り始めている。熱中していて、ブログのネタを考えていなかったので、途中経過だけれども、計画の一部を書いてみる。

2回目は四国の遍路事情も判り、ハードルを上げて、八十八札所に加えて二十の番外札所を巡ろうと思う。合わせて出来る限りたくさんの、その他の霊場も巡ろうと考えている。「まんだら遍路」では総歩行距離が1100km弱であったが、「まんだら遍路、再び」は1400kmの歩行距離になる。108の札所以外に、霊場として、それを上回る113箇所の霊場が加わる。41泊だった宿泊は50泊を越えることになるだろう。

一日の歩行距離を多くても30kmを少し越えるぐらい、35kmは歩き過ぎというように考え、仮に宿泊場所を決めて進めてみる。前回泊って、今回も泊りたい宿、今回は避けたい宿なども条件に入って来る。山登りがきつい日は歩行距離も20km台へ落さないと無理がある。順調に計画を進めていると、宿がない地帯に入って行き詰ってしまう。そうなると、数日戻って再度調整する事になる。計画が一進一退で進まないけれども、お遍路の時は毎晩宿でも繰り返していた作業である。

スタートは88番の大窪寺とし、途中一泊していくつか霊場をめぐりながら、第一番の霊山寺へ進む。これで前回から続いて四国を一周が完結する。結願は88番大窪寺であるが、今回はその後に、番外札所の20番大滝寺が残っている。標高910mの山登りである。一日掛かって下山したところでお遍路が終る。そこからバスで高松市内に戻ることができる。

108ヶ所の札所以外の霊場で、「まんだら遍路」では行けなかった、名前を聞いただけでも魅力的なところが幾つもある。星の岩屋、仏陀石、穴禅定、灌頂の滝、舎心ヶ嶽、観音窟、毘沙門ノ滝、星ガ森、捨身ヶ嶽禅定など、いずれも弘法大師の修行の場だったのだろうか。これらをすべてコースに加えた。一つまだ迷っているのは、石鎚山(標高1970m)をコースに加えて登ろうか、どうしようかという点である。石鎚山はかつて別ルートで登ったことはあるから自信はある。その時点で体力が残っているかどうかである。これは最後まで迷うだろう。登る場合は60番横峰寺から下って登り返すピストンコースである。山中で一泊することになるが宿はあるようだ。

計画作りでは、「まんだら遍路」で通ったコースでバリエーションコースがあれば、別ルートを選ぶようにしている。出来るだけ初めてコースを歩きたい。出来上がって、そのコースで歩けたならば、宿泊りで108札所を計画する人に、大いに参考になると思う。
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家山梅園から野守の池の散策

(家山梅園で憩う老夫婦)

思い立って、どこへ行くあても無く、女房と出かけた。法多山に詣でて団子でも買ってこようか、くらいの心積りしかなかった。女房が受講する講座の会場の鍵を返すため、金谷会館に寄る。ついでに、観光案内のパンフレットを幾つか貰ってきた。その中に家山梅園のチラシがあった。これが良いと即決し、方向を北へ変えた。梅もそろそろ咲いているだろう。何といっても無料なのがよい。

薄雲のような、黄砂が来ているような、すっきりしない天気である。何といっても、真っ赤なスギが山々を彩っているのが気に入らない。この空気の濁りがスギ花粉ということはあるまい。ベニフウキを飲んでいるので、今のところ症状は出ない。

家山の街を通り過ぎた先に、山の斜面を利用して、家山梅園はある。今年で3度目くらい来ている。地域のお年寄りが少しづつ整備して、一気に良くはならないが、年々梅の木も大きくなっているのがうかがえる。花は五分くらいであろうか。白と紅色と薄赤い色の3色が咲いている。早咲き、遅咲きが入り混じって、まだ花をつけていない梅もある。

段々状になった斜面を登って行くと、一番上に小屋掛けした地元農家産品の直売所があった。自分は甘酒をいただき、女房は細々と買っていた。地元のおじさんに聞いたところでは、元はヒノキやスギの山だったが、戦争中、食料の増産で斜面を開墾して色々な作物を作った。戦後はそこへお茶を植えたが、皆んな年を取ったのでこんな斜面でのお茶作りをやめた。代りに梅の木を植えて、皆んなに楽しんでもらおうと、少しづつ整備しているという。

家山の町が一望に出来て、見晴らしが大変良い。写真を撮ったりしていると、野守の池の方から花火が上がって轟いた。今日はどこかのお祭かと聞けば、野守の池の山の神さんのお祭だという。そこへ寄ってみようと駐車場に戻って車を走らせた。




(野守の池の太公望とミノムシ)

野守の池の端、山の斜面に小さな祠があり、幟や紅白の幕で飾られ、人寄りがしていた。地元の人だけのお祭で、よそ者は加わるわけにはいかないようだ。車を停めて、池の周囲を散策した。何が釣れるのか、太公望が列を成していたが、釣れた現場は最後まで見なかった。

八木洋行氏が話していたことを思い出した。野守の池に草が生えて、処理に困った地元の人たちが、草を食べてくれるという草魚を入れた。草はなくなったが、池の水が濁るようになってしまった。草が水の浄化をしていたと、後で気付いたという。草魚は今も住み着いているのだろう。ブラックバスやブルーギルは放流を禁ずる立て札が立っていた。繁殖力が旺盛なので、日本固有の魚たちを駆逐してしまうという。

30分ほどで一回りして帰路に着いた。こんな散策であったら、ムサシも連れて来れた。もっとも、そんな風に思うのはいつも帰路である。
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扶食米はお金ではなくお米で - 駿河古文書会

(大代川の鳥たちのサンクチュアリ)

先週に比べると、随分春めいてきた。同じ服装でムサシの散歩に出ると、汗ばむほどであった。ムサシも元気に大代川の土手をどこまでも歩いて行こうとして、随分長い散歩になった。雨が降らないので、消防署が乾燥しているから、火の元に気をつけるように、しきりに放送で流している。

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昨日書き込みをした、二月二十九日付の口上書を渡す際に、さらに口頭で補って申し述べた内容を、控えとして書き記している。次の3点である。第1に、飢人救いの場へ来た者の集計には漏れがあること。実際にはもっと多い。第2に、扶食米拝借はお金ではなくお米で御願いしたいこと。第3に、以前の飢え人の集計は5歳以上であったが、今回はすべてを集計していること。以下へ読み下した文を示す。

    口上にて申し上げ候覚え
一 飢人救いの場へ参り候者、書付け出し候様に、町中丁頭へ申し渡し候、これにより町々より書き出し候分、都合書き上げ仕り申し候、しかしながら、施行に参り候ても、隠し候て、丁頭方へ申し出ず候類い、数多御座候様に存じ奉り、この人数の義、内證は大分多く有るべく御座候と存じ奉り候事

一 延寳三卯年、扶食米拝借仕り候節は、前の年三分の一御直段と仕り、御金にて拝借仰せ付けられ候、今度願い上げ奉り候扶食米拝借の義、殿様御慈悲と仕り、相調(ととのえ)申し上げ候とてもの御義、御米にて拝借仰せ付けられ下され候えば、重々の御慈悲に罷り成り候、その訳は去年より当所有り米少なく御座候ゆえ、追日直段、別して高直に罷り成り候、この節御米にて拝借仰せ付けられ下され候えば、当所米多く相成り候ゆえ、売買も引き下げ申すべく候、然るは重々の御慈悲に罷り成り候、この段差し越し候義、私ども方より
申し上ぐべき様は御座なく候事

一 御発駕御願い書に申し上げ候人数は、五才以上にて御座候、その後、飢人その日を送り兼ね候類い、町々より書出し候人数は、五歳以下をも申し上げ候事

右口上にて申し上げ候差し書き持参申し候ところ、御月番様御覧成らるべく候あいだ、願い申し置き候様に仰せられ候ゆえ、進上仕り置き候事


特に、2番目の拝借は米で御願いしたいという点は、過去の経験から学んだことなのだろうが、経済原則を理解した鋭い指摘だと思う。お金で拝借して、それで一斉にお米を買おうとすれば、足らないお米がさらに値上りして、借りたお金が薄まってしまう。お米で拝借すれば、そういう恐れがない上に、お米の供給が増えることで、値段が下がる可能性もある。そうすれば、決った給金で暮らしている奉公人などは、暮らしが立つようになるという理屈である。需要と供給で物の値段が決ってくることがよく理解できている。
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家康お膝元、駿府町の特異性 - 駿河古文書会

(御番所は現代なら市役所か、靜岡市役所)

夕方、靜岡の駿河古文書会に出席する。この5回ほど、続けて「萬留帳」より駿府町の飢饉による困窮に対して、役所へ扶食米を願う経緯を読んできた。

江戸時代、幕府も藩も飢饉のときに農民に対しては扶食米を放出することは行なわれた。放置すれば、翌年の米作に影響するから、助けておかねばならない。しかし、町人(商人や職人)たちには手厚い保護はしなかったと理解していた。町人たちは相互扶助で乗り切るのが通常で、一部の商人が囲い込めば打壊しが起きかねないから、各所に粥などを炊きだす救い場も設けられた。

駿府町でも一方で救い場が設けられたが、一方で役所に扶食米を御願いしてきた。御願いの書付に対して、説明不十分など書類が行ったり来たり、その内に事態はいよいよ逼迫してくる。そろそろ結論が出そうな様子になってきた。

読み進めながら、駿府だけの特異さがあることに気付いた。つまり、駿府は家康が晩年過ごした町として栄えてきた。家康の威光を受けて、多くの人々が集り、町をなした。しかし、家康の死後、駿河藩でもなくなり、一代官所が置かれるだけの町となってしまった。幕府から駿府町に落とされる御金(公共事業)もめっきりと減り、寂れてしまうところであるが、家康が晩年をすごした地として、幕府も寂れさせてしまうわけにはいかない。事ある度に様々な形で町に援助してきた。駿府町はそういう特殊な町であった。

町行持と御番所のやり取りには、そんな背景があることを理解しておかないと、一連の文書は理解できない。

本日読み進めた一部を読み下した文で示そう。御番所からの質問に答えた文書である。

恐れながら口上の覚え
一 先年
権現様五十回御忌(ぎょき)または久能御遷宮などのみぎり、当町へ御施物下し置かれ候例(たぐい)御座なく候、五十回御忌の節は、世間豊かに御座候ゆえ、恐れながら冥加として、町中より久能御山へ参上仕り候躰にて、もっともその節、町中より御願いなど申上げず候御事

一 家明け去り候者、合わせて百三拾人
右は御発駕前申し上げ候通り、餲命に及び候者も家買人御座なく候へば、家捨て去り候事も成り難く、または妻子など多く、あるいは只今まで住む所の好身(よしみ)にて、少々ずつも助けに逢い候て、罷り有るか、他所へ参り候儀、罷り成らず候族(やから)、数多(あまた)御坐候御事

一 餲命に及び候者、人数合わせて弐千七百四拾弐人
さる六日、書付差し上げ候節、吟味仕り候ところに、千三百六拾八人御座候事

一 その日を送り兼ね候者、人数合わせて五千五百五拾壱人
さる六日、書付差し上げ候節、吟味仕り候ところに、六千三百八拾三人御座候事

一 飢人救いの場へ罷り出候者、弐千弐拾人
右は町中より書付差し出し候分、かくの如くに御座候

一 教覚寺の訳は、夜に入り米にて施し申し候ゆえ、飢人の分、町々より参られ候、当町の中にても、程遠き所より参り候ては、救いに間に合い申さず、空しく罷り帰り候躰(てい)に御坐候ゆえ、近在の者など参り候儀は御座有りまじきや、と存じ奉り候、勿論などはかつて入り申さず候、夜分の儀ゆえ遠慮も少なく、飢人の分は罷り越し候と存じ奉り候、しかしながら、老人、病人は参り候儀、成し兼ね候類い多く御座候、しかるところ、当二十日の夜切りにて、施主も続き申さず、救い相止め、いよいよ難儀仕り候事
 浄元寺にては粥施行にて、当町の飢人、近在、次になどまで参集候分へ取り為し候、御昼の儀、寺にて飢に及び候者も、町柄または面眉をも存じ参らず候類い、多く御坐候事

一 飢人並びその日を送り兼ね候類いの者、只今までは親類縁者または町内その外志(こころざし)これ有る者、少々ずつも助け仕り、かれこれと命を続き
罷り有り候えども、永き儀に御座候えば、合力仕り候者も次第に自他ともに事多く成り、志も届き申さず、追日くづおれ申し候躰に御座候御事

一 御発駕以後、当町見分はさして相替り儀、御座なく候えども、夜に入り米銭借りに参り、乞いに参り候類い、追日多く御座候、かつまた男女奉公人の窮人、大分御座候、寺内證、内々衰(おとろ)え申し候と存じ奉り候御事

右の通り町中丁頭ども寄合仕り、相改め書付差し上げ申し候
かつまた壱町切に年行持方まで差し出し候人数、書付恐れ入りながら御覧申したく差し上げ申し候、以上
    未二月二十九日                年行持印
      御月番様

右之書付並び町中より集り候書付八拾七通、相添え差し上げ申し、御番所様、御月番様御両人において、御請け取り成られ候事


次回は、いよいよ扶食米に対する結論が出される。
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節分の恵方巻きなど

(購入した節分関連商品)

夕方、女房が帰ってきて、恵方巻き2本ゲットしてきたいきさつを話す。我が家では節分に豆まきはするが、恵方巻きを食べる習慣は無かった。何を思ったか、恵方巻きを買って帰るといって出掛けた。夕方、マーケットに寄ると、恵方巻きはすでに売り切れていた。諦めてカッパ巻きなどで代用すると買っていく奥さんもいた。他の買い物をし、売り場の前を再び通ると、追加で作った恵方巻きを並べている。タイミングバッチリで、五本あった内2本を買うことが出来た。恵方巻きが買えただけで、ラッキーだと思えるなら、もうその目的は果たしている。

恵方巻きという特別なものかと見ると、太巻きのお寿司を切らないで丸のまま出したもので、何も変わらない。そこは縁起物という訳で、そんな習慣の無かった人まで買ってしまう。恵方はどちらか理解しないままに食べようとしたが、年寄りには無理で、庖丁で輪切りにしていただいた。

発祥は関西の方だというが、我がふるさとにはそんな習慣は無かった。太巻きに7種類の具を入れて、七福神の福を巻くということで、切らないで丸のまま食べるというのは縁を切らないという縁起かつぎ、何はともあれ、流行らせたもの勝ちの、たくましい商魂なのであろう。

「恵方」とは何なのか。ここは辞書のお世話になって調べてみる。「その年の干支によって定められる、最もよいとされる方角。その方向に歳徳神がいるとされる。吉方。明きの方。」でちなみに今年2011年の恵方は、おおよそ南南東だという。

霧島の新燃岳の南南東辺りは、現在火山灰を集中的に受けて大変な災難に遭われている。決して恵方ではない。住む場所がそれぞれであるから、恵方もそれぞれで、その人にとって恵方が吉であるか凶であるかも一定ではないように思う。もっとも、これは気持の問題で、吉だと思えば何か良いこともあるのだろう。

一方、豆まきは成田山のお相撲さんのように豪快には撒けない。(お相撲さんは豆だけではなくて星も撒いているらしい)鬼は外、豪快に撒くとムサシが拾い食いをしてお腹を壊す。福は内、たくさん撒くと後で掃除が大変だ。だからそれぞれ三粒ほどで、声も小さく目立たぬように。多分、1年で最も忙しい鬼にも福の神にも、その声は届いていないだろう。これも気持の問題である。

明ければ、立春、春ももう間近である。春といえば、今年は花粉症が去年の五倍とか十倍とか言われている。すでに、二週間も前からベニフウキ、一日、200CCを2回、飲み続けて、花粉症を寄せ付けない体質作りに励んできた。今のところ症状は出ていない。全く症状が出ないようには出来ないだろうけれども、花粉症を忘れるくらいにはしたいと努力している。ベニフウキは一日100円で、3ヶ月分、一万円ほど買って準備してある。
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エジプトで起こっていること

(庭のパンジー)

一転して、今日は春が来たような陽気で、いつもの服装でムサシの散歩に出ると汗が出るほどだった。大雪の日本海側の皆さんや、新燃岳の火山灰にまみれている皆さんの苦労を見ると、申し訳ない陽気であるが、今日はこのところ散歩に欠かせなかった軍手を脱いだ。

ご心配をかけた我が家の水事情も、今朝ようやく水道工事に来てくれて、すべてを水道に切替えて、快適になった。水の出る出ないを心配せずに蛇口を捻ることが出来るのは、文明国では当然のことであるが、我が家ではしばらくの間、当然のことではなかった。

エジプトが騒がしい。30年続いたムバラク政権が今倒れようとしている。昨日計画された100万人のデモはまだ続いている。数十万人は集ったというが、どのくらい帰らずに残っているのであろう。ムバラク大統領は秋の大統領選には出馬しないと宣言したが、デモの群集は即時の退陣を求めて引かない。そこへムバラク支持の群集が突っ込んで大乱闘になっているという。ムバラク支持の中には私服に着替えた警察官も混じっているらしい。周囲を取り囲んだ軍隊は、割って入ることも無く、静観しているという。

チュニジアに始まった中東における騒動はエジプト、ヨルダンと飛び火してきた。まるで、ソビエト崩壊後の東欧の国々を見るようである。

ムバラク政権は親米政権で、対イスラエルの中東和平の仲介をして、アメリカは長年に渡ってムバラク政権に援助をしてきた。難しい立場にあって、態度を決めかねていたオバマ大統領は、ムバラク大統領の秋の退陣発表について、速やかな退陣が必要だと言い始めた。

アメリカが援助をしてきた政権が強権的な政府と成り、様々な問題を引き起こした例を幾つも目にしてきた。ソビエトのアフガン侵攻で援助してきたのが、タリバン政権であり、アルカイダのオサマ・ビン・ラディンであるし、対イラン対策で援助してきたのがイラクのフセイン政権である。

あれだけ他国の人権に口を挟むアメリカが、自国に必要な親米政権ではどれだけ強圧的な独裁政権であっても、口を挟まないで援助を続ける。アメリカの民主主義、人権意識といっても、その程度のもので、過度に信頼してはならないと思う。

国内に不満が溜まる中東からアジアの国々に、反政府運動の流れが飛び火して行きそうである。特に、親米と言いながら、長期政権が続き、不満が溜まっている国々は危うい。少数民族に多くの問題を抱える、中国なども戦々恐々としている。反政府運動の重要なメディアとなっているツイッターなどネットに対して、露骨に介入が始まっている。しかし、そのような手段で反政府運動が抑えられるような時代では、すでに無くなっている。
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1995年、韓国岳登山の記録

(新燃岳の噴煙-テレビより)

今日も朝と午後に霧島連峰新燃岳が二度噴火して、空振によりふもとのホテルなどで分厚いガラスが割れるなどの被害が出た。立入禁止区域は周囲3キロから4キロへと拡大された。霧島連峰には1995年、出張の帰りにY氏と韓国岳に登った。その話はすでにこのブログで書いているが、噴火のニュースで改めてあの当時の記録を読んでみた。

宿泊したのは、国民宿舎新燃(にいもえ)荘で、新燃岳にもっとも近い宿だったと思う。今は立入禁止の地域に入ってしまっているのだろうか。次のように記録している。

新燃荘は国民宿舎というが、谷川沿いに建てられた古い湯治場で、ネクタイをして降りたことが随分場違いに感じた。谷川に沿って大きな浴場があった。予約した際、民宿のようなものと想像していたからラッキーである。部屋は大浴場を見下ろす2階の角の部屋で『かえで』の間であった。さっそく浴衣に着替え、別棟の大浴場への石段を降りる。大変強い硫黄泉で、組み上げた岩の上方にある噴泉口から湯が吹き出ている。湯の流れる岩は盛り上がるように付着した硫黄で青みを帯びた黄色になっている。かっては男女混浴だったのだろうが、今は見えそうで見えない簡単な仕切りで分けられている。白濁した湯は白骨温泉のように真っ白ではないが、硫黄分はかなり強そうである。この温泉は皮膚病への薬効は相当なもので、水虫やアトピーに良いといい、ファンも多いようだ。夕食には大浴場の上の段にある生簀で飼っている鯉や鱒の料理が出た。鯉の洗い、鱒の塩焼、とんこつ、山菜、こんにゃくなど山の料理である。食後もう一度温泉に行く。

翌日朝早く、韓国岳登山口までタクシーで行き、韓国岳に登った。

韓国岳山頂に着いた時には、雲の上に一際高く、高千穂の峰が見えたが、すぐに雲に隠れてしまった。手前には大きな御鉢をみせる新燃岳が見えたが、それも休憩を取る間に立ち上がる霧に隠れてしまった。新燃岳と言えば、昨日の鹿児島のテレビで、火口でダイナマイトを使い人工地震を起こし、マグマの所在のチェックをしたという。今でも時々噴く山である。
山頂で寛ぐ青年に頼んで、韓国岳の標識を背に記念写真を取ってもらう。縦走を目指しているという中年男女数人のグループが登って来た。リーダーの男性は雲がどんどん立ち昇って来るのを見て、「今日は途中で下るようになるかもしれない」とつぶやく。桜島の方向を尋ねると意外にも新燃岳の方角を示し、「いつもなら良く見えるのだが」と残念そうに言う。かなり自分の方向感覚が狂っていた。


このグループはその後、新燃岳の縁を通って、高千穂岳の方へ縦走して行ったのであろう。自分たちは韓国岳から下山した。霧島連峰で最も若い新燃岳で、このような大規模な噴火が起きるとは、当時は想像も出来なかった。
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