goo

当村柄御見分 - 喜三太さんの記録

(大代川つがいのカワウ-次の瞬間二羽とも水中に消え、数十メートル川下に浮かんだ)

喜三太さんの住む各和村は、御用の時に袋井宿に人馬を出す定助郷では無かったが、定助村に負担が片寄るのを防ぐため、定助の村々の願いで、差し村になり、代助として人馬の役目を務めていた。20年の代助を勤め上げると、間をおかずに、再び差し村にされた。これでは堪らないと、代助後免の願いを出そうとしている所へ、御役人が定助村を村柄見分に来る際に、代助村の各和村にも回ってくると、回状が来た。その様子を記した記事を以下へ読み下し文で示す。
※ 定助(定助郷)- 江戸時代、宿駅の常備人馬が不足した際に、その補充を常時義務づけられた近隣の郷村。
※ 代助(代助郷)- 江戸時代、定(じょう)助郷村が災害などのため役(えき)負担を免除された際、その分の負担を課せられた村。
※ 差し村 - 江戸時代、宿駅または助郷村が、課役の減勤、休役を道中奉行に願い出る際、それに代わる特定の村を指定すること。

当村柄御見分
袋井宿定助村々の願いにて、去る戌年十月まで二十ヶ年代、助郷相勤め候村々、又々差し村に相成り、今般西国辺へ御役にて御越しなられる、梅沢九十郎、水嶋箇助と申す御役人、十二月九日、袋井宿へ西より御帰り掛ケ御着にて、定助村々御調べの上へ、差村へも回状を以って、仰せ越され候は、村高、家数、人別、牛馬の有無まで、帳面に認め、差し出すべきとの事にて、当村にても御相給一同御取り調べ差し上げ申し候、左の通り(中略)


この後に村柄を書き出した内容が続くが省略する。

右の通り取調べ差上げ申し候帳面は、いのや半紙立帳、上書は村高家数人別取調覚書帳、遠州佐野郡各和村と下のはし(端)へちさく(小さく)書き申し候、

準備するうちに、当日になって御役人が回ってきた。

さて、二十日、村柄御見分にて、前日、道造りいたし候、村役人両給とも残らず、吉岡境まで御出迎えいたし、先払い弐人、村役人弐人御案内として先へ立ち、ほか村役人は御駕籠、諸々御付きいたし候、御案内の道順は、東の田中を下り、藤三郎前より御高札前へ出、そのまま西へ戸右衛門前を行き、堤際より番人の東を行き、諏訪の森の前へ出、門前村作左衛門前より佐次右衛門の裏を東へ真っ直ぐに、東あわらの東より下り、下えげ(会下)の下(なわて)を行き、権助畑の所へ上り、又右衛門屋敷際まで御案内申し候、
※ 両給 - 各和村は横須賀藩の領地と旗本の支配地が混ざっていた。この状態を二給あるいは両給という。
※ 畷(なわて)- 田の間の道。あぜ道。なわて道。

アンダーラインの地名を古地図で追ってみると、各和村を西へ行ったり東へ行ったりと、ジグザグにかなり真面目に動いている。やっていることは、提出された帳面に間違いないかどうかの実況見分であろうが、問題の指摘は何も無かった。形式的とはいえ、幕府の役人はけっこう真面目に仕事をやっている。

この所へ岡津村役人御出迎えに出で申し候、差村一同難渋願い代助御免の願い出は、村境まで御出迎えに出で候節、御駕籠先へ差し出し申し候、岡津村御小休にて、村々庄屋名主ばかり御呼び出し、仰せ渡されこれ有り候て後、この上は御奉行所の御沙汰次第と仰せられ、御用済みと相成り、村役人皆に引取り申し候、村々難渋の願書は別段目立ち候儀、これ無く候て、御用には相成り申さず候

代助御免の願いは出したけれども効果は無かったようだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )