平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
粟ヶ岳の怪しい影、正体を見た!
午前中で仕事を終って、午後は掛川の古文書解読講座へ出席した。講座が終って、帰宅途中に、粟ヶ岳の怪しい影のことを思い出した。見て来るかと、少し戻って日坂に入った。
日坂は昨日の書き込み、喜三太さんの記録の「日坂火難」の舞台である。嘉永五年(1852)の話だから、今から160年ほど前の話である。宿場がほぼ丸焼けになったという。今の町並みも当時とそんなに規模は変わらないはずである。火元の近くであった本陣跡の角を曲がって粟ヶ岳に向かった。
今日の講座で「日坂火難」も解読した。いくつか気付いたこと、間違っていたことを記す。出火が「御本陣大黒屋両家の境」と書かれているが、御本陣と大黒屋が別だと理解できなくて、両家の意味がつかめなかった。今日判ったことは、日坂宿は小さい宿場で本陣1、脇本陣1であった。本陣は「扇屋」といい、「大黒屋」は脇本陣であった。この二軒の境から出火したとの意味で納得した。つまり、宿場の中心から出火したことになり、野火であったとは何とも白々しい。
「諸々気の毒のことに候」と読んだ部分、「諸々」は誤読で、「偖々」が正しい解読であった。これを「さてさて」と読み、「さてさて気の毒のことに候」と続く。これの方が意味も通る。覚えて置こう。
講師は文字が薄れていて、「夜具」が解読できずに保留した。そして秋葉山御開帳で、宿場の中でも行事があり、普請などその準備のためだろうと説明した。「夜具」が読めておれば、宿場本来の人を泊めるための準備と説明出来たと思う。そのことを告げようとしたが、なぜか躊躇してしまった。
また講師は「近年宿方大分立直り候て」の「近年」は、火事より数年経った、この記録をまとめているときの実感が入ったものであろうと説明した。自分も違和感を持ったが、「候て殊に秋葉山御開帳」と続いていくところにこだわり、これ以前に地震など宿場が潰れるような災害が無かったかと思ったが、安政大地震は1854年で、この記事の2年後であるし、だからつながりは悪いが、講師の説明で正解なのだろうと思った。
角の本陣扇屋は門だけ残して、中が幼稚園になっていたが、引っ越したのか、古い建物を壊していた。粟ヶ岳の山頂へは細いジグザクの道で、車でも登れる。途中、工事をしていて、しばらく待たされたりしたが、山頂まで達して見上げると、怪しい影はやはり予想したように、電波塔の補修で養生のためのブルーシートが鉄塔全体を覆っていて、怪しい影に見えたのであった。写真には小さくお茶の祖、栄西禅師の坐像が写っているが、茶業界もこのブルーシートの大きさほどの栄西禅師像を打ち立てるほどの勢いが欲しいものである。
(少し離れてみれば、やはり怪しい像!)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )