ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代世界史8~東アジアの発展と西洋の抵抗

2014-08-01 08:49:59 | 現代世界史
●東アジアの発展と西洋の抵抗

 大塚寛一先生は、1970年(昭和45年)前後から世界は、一日にたとえれば、夜から昼に変わるような大変化の時代に入ると説かれた。また、この時代においては、東洋・アジア、特に日本人に重大な使命があると強調された。先生の慧眼には明瞭に写っていたのだろうが、東洋・アジアでは日本が1960年代に高度経済成長期に入り、毎年10%以上の成長を続けた。これに続いてアジア諸国が大きく発展し始めた。
 先にも書いたが、1970年代には、日本に続いて新興工業経済地域(NIES)と呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールが急速に発展した。1973年(昭和58年)の第4次中東戦争とそれに伴う石油危機によって、石油価格が高騰し、スタグフレーションが長期化した。国際市場での企業間の価格競争が激化し、国際競争に打ち勝つための安価な労働力の獲得と新たなビジネス機会を狙って、先進国から周辺の途上国への資本、技術の流出が急速に進んだ。アジアでは、日本やアメリカが資本の投下と技術の移転を進めた。それがNIESの発展の推進力になった。
 続いて80年代には、タイ、マレーシア、インド等も、NIESと同様の工業化政策を進めて経済開発に成功した。1980年代後半~90年代には、日本の海外投資により東南アジア諸国連合(ASEAN)が目覚しい経済発展を行った。ASEANは、1967年(昭和42年)にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国で設立された地域協力機構である。東アジアの経済成長はさらに加速し、「東アジアの奇跡」「世界の成長センター」などと称されるまでになった。
 
 東アジアの急速な発展に対し、これに抗して、西洋中心の時代に引き戻そうとする動きもある。その先端にあるのが、1970年代から世界的規模で積極的に企業活動を行うようになった欧米の多国籍企業である。多国籍企業とは、海外各地にその国の国籍を持つ現地法人を子会社として持ち、世界的規模で活動する企業である。金融、石油、自動車、IT、半導体、防衛等の分野に多く見られる。多国籍化した巨大産業資本である。
 多国籍企業は、1958年(昭和33年)のEEC発足後、アメリカ企業のヨーロッパ進出を契機として多く出現した。国際分業の拡大と資本投下の一層の国際化を意味する出来事だった。多国籍企業の活動により、アメリカでは、国内生産の5分の1が海外で行われるようになった。それに伴って、アメリカ国内の製造業は縮小していく。多国籍企業は、国家を超えた情報通信手段の発展を促し、また各国で規制緩和を求め、経済のグローバル化、グローバリゼイションを推進する一大勢力となっている。多国籍化した産業資本に莫大な資金を提供するのは、巨大国際金融資本である。

 1980年代のアメリカは、レーガン政権がソ連への対抗のために、軍拡路線を取った。軍事費の増大や多国籍企業の活動等により、アメリカは財政赤字と貿易赤字の双子の赤字を抱えるようになった。多国籍企業の活動というのは、もとはアメリカの企業であっても現地法人が生産した製品がアメリカに入る時には、海外からの輸入となるため、貿易収支は悪化するのである。
 アメリカのドルの価値は下がっていった。ドルの価値を下げてでもアメリカが軍拡を行うのは、西側諸国全体の安全保障のためとして了解された。ドルの暴落は、世界経済に混乱を招き、ひいては共産主義の暗躍を許す。そこで先進諸国は1985年(昭和60年)、ドルの価値を守るために、プラザ合意を行った。プラザ合意によって、日本は急速な円高が進んだ。円高により、輸出よりも対外投資が有利となったため、大量の資金が海外に投資された。日本の資金は、東アジア各国に多く投資された。それによってこの地域の経済成長はさらに加速した。

●ASEAN、次いで中国の成長
 
 1991年(平成3年)、ソ連の崩壊で米ソ冷戦が終結したことは、アジアが成長するために一層好環境を与えた。冷戦期には反共同盟的な連合体となっていたASEANが、本来の目的である地域経済協力を本格的に推進するようになった。93年(5年)にはASEAN自由貿易地域(AFTA)を設立し、94年(6年)にはASEAN地域フォーラム(ARF)の第1回会合が行われた。99年(11年)までに東南アジア10カ国すべてがASEANに加盟した。ASEANの動きは、東アジアにおける地域統合を促進するものとなっている。

 この間、1995年(平成7年)には、ベトナムがASEANに加盟した。ベトナム戦争については先に書いたが、統一後の社会主義国ベトナムは、経済がうまくいかなかった。戦争の爪あとは深く、環境破壊や毒物汚染の影響もある。しかし、根本原因は社会主義政策そのものにある。1986年(昭和61年)、ついにベトナム共産党は、ドイモイ(刷新)という改革路線を決定した。この路線は、ソ連のペレストロイカ(建て直し)や中国の改革開放路線に通じるもので、一定程度、自由主義的な政策を取り入れるものである。ベトナムは95年(平成3年)、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟し、さらに敵国だったアメリカとの国交を回復した。
 こうした改革の結果、ベトナム経済は1990年代以降、急成長を行っている。ベトナムは、今やアジアの新興工業国の一つとして目覚しい発展を遂げつつある。日本は、1995年から2012年まで政府開発援助(ODA)の最大の援助国となった。2012年度には日本の2国間援助の中でもベトナムが最大の供与国だった。
 1960~70年代のベトナムの独立戦争をアジアのナショナリズムの観点から支持した人々は、統一後のベトナムの発展を称賛するだろう。これに対し、コミュニズムの立場から支持した人々は、ベトナムの歩みをよしとするのか。それともベトナムに幻滅し、また共産主義そのものに幻滅したのか。左翼的知識人、文化人には見解を明らかにせず、ものを言ってもあいまいな人が多い。
 だが、ベトナムは、現代におけるナショナリズムとコミュニズム、西洋文明とアジア諸文明、国家と民族等の問題において、重要な存在である。ベトナム戦争は、現代の世界史の重要事件であり、米ソ冷戦期最大の紛争であり、第2次大戦後最大の民族解放戦争だった。統一ベトナムはその結果、生まれた国であり、今日のその発展をどのように評価するかは、現代世界史の見方における一つのポイントである。

 共産中国は、1990年代に入ると経済特区を設けるなど経済自由化を進めた。中国は安い賃金と豊富な労働力で生産拠点として台頭し、「世界の工場」となった。
 共産中国では、1976年(昭和51年)に毛沢東が死去すると文革派が一掃された。それとともに、かつては「資本主義の道を歩む実権派」(走資派)として批判された勢力が復権した。その巨頭の一人が、小平である。
 小平は78年(53年)に主席になり、改革開放政策を推進した。は農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を掲げ、東部の沿海地帯に経済特区、経済開発区を設けて、資本主義諸国の技術と資金を大規模に導入することにより経済の発展をめざした。
 小平は「社会主義市場経済」という概念を打ち出した。これは、明らかに自由主義的資本主義を取り入れるものだった。それにより、中国は経済成長の軌道に乗り始めた。は、共産党と人民解放軍を掌中に収めた。1997年(平成9年)まで中国の最高指導者の地位にあり、高度経済成長を指導した。
 日本は、1972年(昭和47年)9月、米国に続いて、日中国交回復を行った。わが国は、中国に対して大東亜戦争に関する賠償金を支払うのではなく、経済援助を行うことにした。1978年(昭和53年)、日中平和条約を結び、翌79年(54年)から、本格的に中国への政府開発援助(ODA)の供与を始めた。日本のODAは、中国の経済成長に大きな助力となった。ODAは総計3兆円支出された。民間からの援助金を含めると、6兆円にもなると推計されている。

 21世紀の今日、アジアは、まさに世界の経済的中心地域となっている。人口、生産力、発展可能性等で他の地域を大きく上回っている。日本が先導し、また支援する形で、経済成長を成し遂げた国は多い。アジアが物質的に繁栄するとともに、アジア諸文明の精神文化の再評価がされ、日本、シナ、インド等の精神的伝統が、人類に新たな精神文化の創造を促すという展開になってきている。そして、アジアから新しい精神文化が興隆し得るかどうかに、人類が今後、物心調和・共存共栄の新文明へと飛躍できるかどうかがかかっていると言えよう。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「核大国化した中国、備えを怠る日本~日中戦後のあゆみ」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12c.htm