ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教193~昭和戦前期のキリスト教

2019-04-30 12:47:04 | 心と宗教
●昭和戦前期のキリスト教

 昭和戦前期は、わが国がかつて体験したことのない激動の時代だった。世界恐慌の大波が押し寄せ、活路を求めた大陸で起こったシナ事変は泥沼化し、追い詰められて米英と開戦するや未曾有の大敗を喫した。経済危機と戦争の時代においては、どの国も生存のために統制を強化し、国民に協力・団結を呼びかける。米国・英国のような自由主義の国家でも同様である。そうした協力・団結の呼びかけには、国民を統合する理念や象徴が用いられる。
 戦前のわが国は、天皇を統治権の総攬者とする国家であり、国民には天皇を中心とする民族的な一体感が強調された。皇室は神道の祭祀を行い、国民は皇祖神を祖先神とし、地域の共同体は氏神や社稷の神を祀る祭儀をともにしてきた。それゆえ、政府が国民の統合において神道を重要視したのは自然なことだった。
 一般に誤解が多いが、明治維新以降、神社参拝が法的に国民個人に強制された事実はなかった。大正期には、小学校における参拝などをめぐって「神社問題」が発生した。この時、政府は国民に崇敬は奨励するが参拝は強制せず、小学校では神社崇敬の訓練として行うが、上級学校では神社参拝を実施しないとの抑制的な立場だった。
 しかし、昭和初期に軍部が台頭すると、明治以来、政府管理下に置かれた神社神道を、国策遂行のために利用するようになった。そうした神道のあり方が、敗戦後、国家神道と呼ばれるようになった。また、神道以外の宗教団体、特に特にキリスト教への圧力が強まった。1931年満州事変が起こり、32年に満州国建国、33年に国際連盟脱退と、わが国が国際的孤立化の道を進むに従い、政府・軍部による国民統合が強化されていった。
 そうした中で、1932年(昭和7年)に上智大学靖国神社事件が起こった。カトリック系の上智大学で、学校教練のために配属されていた陸軍将校が、学生を引率して靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生が参拝を拒否した。陸軍は、同大学への将校の配属を拒否した。これに対し、カトリック教会は、神社参拝を非宗教行為だとし、「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との公式見解を出し、以後戦争については沈黙した。この事件以後、従来小学校までだった神社参拝が上級学校へと拡大された。昭和10年代に入ると、参拝拒否は事実上不可能になっていった。
 1940年(昭和15年)には、宗教への統制を強化する宗教団体法が施行された。この施行に際して、神社参拝を拒否する宗教団体は認可しないとの方針が打ち出された。ただし、それでも戦前のわが国において、法的に神社参拝が国民個人に強制されることはなく、参拝拒否に対する罰則はなかった。
 宗教団体法のもとで、キリスト教的社会運動はすべて抑えられた。またキリスト教の多くの団体が政府に協力した。41年にはキリスト教会の合同が命ぜられ、それに従わない団体は教会活動が不可能になった。カトリック教会は、ローマ教皇直属の各司教区と国内にある修道会をすべて統合して日本天主公教教団を設立した。またプロテスタント32教派は自発的に統合し、日本基督教団を結成した。その一方、戦争反対を表明した一部の教会や神社参拝を拒否した団体は徹底した弾圧を受け、解散に追い込まれた。
 この時代は、キリスト教徒だけでなく、政府・軍部を批判する者は、神道家や自由主義者など、宗教・信条にかかわらず、言論統制の対象となった。最も厳しい監視・弾圧を受けたのは、ソ連のコミンテルンと通じた共産主義者である。日本は、皇室を廃絶する共産革命を最も恐れたからである。
 日本のロシア正教会が、ソ連の共産主義政権とのつながりを疑われたのは当然だった。本国の正教会の意思・決定に忠実なセルギイ・チホミロフ府主教に対し、亡命ロシア人や日本人信徒の反発が強まった。そのような状況で、我が国の政府が圧力をかけた結果、1940年にセルギイは引退を余儀なくされ、邦人主教が選出された。その後も当局の監視は続いた。45年にセルギイは特別高等警察に逮捕され、拷問を受け、釈放された後に死亡した。
 第2次世界大戦の最中、リトアニアで「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝は、ロシア正教徒だった。1920年代から30年代、満州に赴任していた時代に、洗礼を受けた。以後、生涯その信仰を保った。
 1939年9月、ヒトラーに率いられたドイツは、ポーランドに侵攻した。それによって、第2次世界大戦がはじまった。キリスト教国はまたも大戦争を繰り広げた。この戦争は、白人種同士が戦っただけではない。戦いは彼らが植民地や利権を持っていたアジア太平洋にも広がった。大東亜戦争において、日本は、主にキリスト教国の米国・英国・オランダ等と戦った。それによって、15世紀以来、白人種に支配されてきた有色人種が白人種に抗するという戦いがアジア各地に広がった。大東亜戦争は、一面において西洋白人種対アジア有色人種の戦いであり、宗教的にはキリスト教対東洋諸宗教の戦いだった。西洋文明と日本文明の激突であり、西洋文明中心の時代から、東洋・アジアの文明が発展する時代への転換期に起こった戦争である。
 この戦いの終盤において、米国は、東京・大阪等への空襲を行い、無辜の一般市民を多数焼き殺した。その国際法に違反する攻撃の頂点として、1945年(昭和20年)8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾を投下した。長崎は、歴史的にキリスト教徒が多い都市である。米国はそれを承知の上で原爆攻撃の対象とした。原爆は浦上天主堂のある地区に投下され、キリスト教の神を祀る天主堂が原子力によって破壊された。キリスト教国の指導者が、原爆の開発・製造・使用を決定した。その罪は限りなく深い。 また、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破って、8月9日満州・樺太等に侵攻し、暴虐の限りを尽くした。ソ連軍は、武装解除して投降した日本兵をシベリア等へ抑留し、酷寒の地で強制労働をさせ、数十万の日本人が犠牲になった。こうした不法行為に関わったソ連国民の中には、ロシア正教を信じる者もいたと推測される。
 日本は大敗を喫した。しかし、大東亜戦争を通じて、4百年以上もの間、虐げられてきたアジア、アフリカ諸民族は独立を勝ち取ることができた。
 敗戦国となった日本には、戦勝国による過酷な報復が行われた。占領期間中、戦勝国は日本を弱体化する政策を強行した。GHQは占領政策の総仕上げとして秘密裏に起草した英文の憲法案を日本に押し付けた。それが日本国憲法のもとになっている。現行憲法によって、第20条に信教の自由が保障された。それによって、キリスト教は活動の自由を広げ、宣教・教育・福祉活動等を通じて信者を増加した。GHQは、戦前の日本における政府と神道の関係を断ち、天皇の権威を引き下げた。日本をキリスト教国にするという目標を持っていたと見られる。しかし、様々な教育・文化政策が行われたにもかかわらず、日本国民の多くはキリスト教に改宗しなかった。国民の大多数は、依然として神道ないし仏教を信仰しており、キリスト教は依然として少数派にとどまっている。現在の日本において、キリスト教の信者は、カトリック・プロテスタント・正教会を合計しても約100万人、人口の1%程度に過ぎない。

 以上で、キリスト教の歴史の章を終え、次回から現代の諸課題の章に入る。