ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権315~佐伯啓思は自由主義を根本的に批判

2016-06-02 08:55:10 | 人権
●佐伯啓思は自由主義を根本的に批判

 佐伯啓思は、わが国の優れた社会経済学者・社会思想史家である。佐伯は、近代西洋文明や現代日本社会のあり方について、根本的なところからの反省を行っている。佐伯は、著書『自由とは何か』等で、コミュニタリアン及びサンデルに近い立場から、ロールズ及び現代の自由主義を批判している。
 近代西洋文明では、ホッブスからロールズまで、自由を「制約のない状態」と定義している、と佐伯は指摘する。そして、この自由観に基づく現代の自由主義には、三つの基本的な柱があるという。「価値についての主観主義あるいは相対主義」「中立的な国家」「自発的な交換」の三つである。
 第一の柱について、佐伯は言う。「価値への相対主義によって、われわれはいかなる価値につくべきか、といった議論ができなくなってしまう。それは公共的に論じるべき事柄ではなく、個人のひっそりとした孤独な選択でしかないのだ。だが、そうなると、そもそもリベラリズムの想定する社会からは価値などというものは姿を消してしまう。価値へのコミットメントが持つ社会的な妥当性への言及がなければ、すべては好みの問題に解消されてしまうからだ」と。
 だが、佐伯は、「価値は本質的に個人の主観を超えた次元を持っている」と言う。「ある価値に基づく行動は、常に社会的な妥当性を求める」。また、個人の責任による選択において「重要な規範的基準を与えるもの」は、「その社会の習慣や常識である」と述べる。私流に言い換えると、価値には本質的に公共的な次元がある。規範的基準を与える習慣や常識は、歴史的・社会的・文化的に形成され、世代間で継承されるものだからである。
 第一の柱である価値についての主観主義あるいは相対主義は、第二の柱である価値中立的な国家を要請する。ここにいう国家は政府というべきところである。価値中立的国家とは、「価値の領域に対しては国家は介入しない、ということ」だが、これは厳密にはあり得ない、と佐伯はいう。「自由や民主主義、そして基本的人権等も近代の『価値』であり、近代国家はこれらの価値は積極的に掲げるべきことをリベラリズムは唱えるからだ。またいかなるリベラリズムの国家といえども、人々の生命・財産の尊重は決定的な価値とみなしている。ここでも国民の生命・財産に第一義の価値を置くという点で国家は価値中立的ではあり得ない」。指摘の通りである。コミュニタリアンもサンデルも、この点を佐伯のようには明確に認識していない。
 第三の柱である自発的な交換は、第一の柱、第二の柱から導出されるもので、市場における交換は個人の自発的な行為だとするものである。私見を以て補足すると、近代資本主義社会は、個人は所有物をどのように処理することもできる絶対的な権利を持ち、互いに自由に契約を結ぶことができることを原則としている。自発的な交換の前に、この原則があることに留意しなければならない。ここにもキリスト教の思想があり、統治権としての主権が、神から人へと転じたように、被造物に対する神の主権が、所有物に対する人の主権に転じたと考えられる。それが自由な契約による自発的な交換が自由主義の柱となる前提条件である。
 さて、佐伯は、上記の三つの柱を挙げて、現代の自由主義に対して根本的な批判を行う。佐伯は、現代の自由主義には、市場中心主義(ハイエク、フリードマン)、能力主義(ノージックはこれか市場中心主義に近い)、福祉主義(ロールズ)、是正主義(ドゥオーキン、セン)の四つの原理があるとする。センとは、アマルティア・センのことだが、彼については、後の項目で述べる。佐伯は「この四つの立場は、すべて個人の自由を基本に据えている。議論の基調はあくまで個人主義にある」「さらにこの四つの立場のすべてが、ある種の『権利』のほうが『善』より優先されるべきだと考えている」と指摘する。最後の文における「権利」は right 等の西欧単語の訳語であり、原語は同時に正義・正当性を意味する。それゆえ、この一文は、正義の善に対する優先と読み替えることができる。思想史を踏まえた議論としては、正義と善という概念に整えた方が良い。
 佐伯は、一つの社会を構成するには、この四つの原理のいずれかに基づくほかないであろうという。ここでの社会は自由で民主的な社会に限られるだろう。佐伯は述べる。「これは相反する価値の間の選択にほかならない」「この選択は個人の嗜好に基づく選択ではなく、集団の選択だ」「個人は個人としてではなく、集団として選択し、場合によっては集団の決定に従属することになる。このとき個人はリベラリズムの言う『自由』を失わざるを得ない」「一つの社会が善に関する想定のうちの一つを選ぶということは、ある意味で、生き方についての個人の選択の自由は排除されたことを意味している。つまり『善の構想』はあくまで一つの社会共同体において存在するのであって、個人レベルでの自由な選択においてではないのである」と。
 私見を述べると、この「集団の選択」を行う方法の一つとして発達したのが、議会制デモクラシーである。討論や選挙を通じて集団としての意思決定を行う。その結果としての法や政策を執行するのが、政府である。それゆえ、政府は価値中立的ではあり得ない。また、集団が一つの社会を構成するための原理を選択することは、公共善を定めること、または確認することである。私的な善はその中で、集団の目的に適う範囲で成立し、承認される。このことは、善の正義に対する優先、または善と正義の不可分性を示すものである。

 次回に続く。