ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

西欧発の文明と人類の歴史75

2008-08-29 13:33:00 | 歴史
●緒戦の優勢が翌年には逆転

 日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結んだ。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束である。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生の道を選んだことになる。昭和天皇は、このことに関し、「昭和天皇独白録」で次のように述べている。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことだったが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割である。日露戦争の時は、善戦している間に講和の機会をつくる努力をしていた。もし長期戦となり、第3国に講和の仲介を拒否されていたら、苦しい戦いになっていっただろう。しかし、昭和の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な教訓を生かせなかった。まことに残念なことである。

 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、日独伊を中心とした枢軸国が優勢だった。しかし、わが国は、42年6月、ミッドウェー海戦で最初の躓きを味わった。米空機の急襲により主力空母を失った日本は、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。
 戦争が長期化するにつれ、物資や情報の面で勝る連合国側が次第に戦局を有利に展開するようになった。42年秋までには、アメリカの軍需生産は圧倒的な規模に達した。戦争の長期化はわが国に不利であることは、海軍上層部を中心にわが国の軍人の間でも、予測されていた。それが現実になっていく。
 ヨーロッパでは、この年8月、ドイツ軍がソ連第3の工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)に侵攻した。スターリングラード攻防戦は、第2次大戦最大の激戦となった。ドイツ軍は、41年暮れに続いて、再びロシアの冬に直面した。明けて43年(昭和18年)1月、ドイツ第6軍がソ連軍に降伏した。これ以後、ドイツは、各地で敗北を重ねることになる。

●日本軍の苦戦は続く

 ドイツが対ソ戦で惨敗した翌月、43年2月、アジア・太平洋戦線では、ガダルカナル島が陥落した。前年8月に米軍が上陸し、激戦が繰り返されたが、ついに日本軍は撤退した。これにより、戦争の主導権は、完全にアメリカが握ることになった。
 ヨーロッパ戦線では、42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年7月にはシチリア島に上陸した。イタリアでは軍部や保守派がムッソリーニを逮捕し、独裁者は失脚した。代わったバドリオ政権は、同年9月無条件降伏した。枢軸国の一角が崩れた。
 ムッソリーニは、その後、一時政権に返り咲くが、45年4月処刑された。

 わが国は、広範囲に軍を展開したため、兵站線が延び切って、武器・弾薬や食糧等の補給が不足した。兵士の死因は、餓死・病死が多くなっていく。
 日本軍は、各地で苦戦した。中でも44年(昭和19年)3月に行ったインパール作戦は、最も失敗した作戦として知られる。作戦は、英軍のビルマ進攻防止と、チャンドラ・ボースの自由インド政府を支援するために発動されたが、英軍の反撃や補給の途絶などにより、日本軍は敗退した。日本軍には、7万人以上の死傷者が出た。しかし、日本軍の支援と共闘がインド人に勇気を与え、インドの独立運動を促進したことも確かな事実である。

 この年6月、米軍はサイパン島に上陸した。日本軍は地上戦を展開したが、7月に部隊は全滅。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空襲を開始した。大塚先生は、米英との開戦前から、警告を入れないならば、わが国は木造建築の弱点を衝かれて、空襲を受け、大都市は焦土と化すと警告されていた。それが不幸にして現実になる。
 東条打倒を目指す動きが、一部の政治家・官僚等によってひそかに進められていた。7月その効あって、東条内閣は総辞職した。しかし、その後を次いだ政権も、約1年以上戦争を終結へと進められなかった。

 10月21日、明治神宮で、出陣学徒壮行会が行われた。訓練不足の学生が戦地に次々に出征していった。
 壮行会の2日後に行われたレイテ沖海戦で、わが国は惨敗を喫した。フィリピン周辺海域での戦闘で、戦艦武蔵を始めとする主力軍艦を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。この海戦に際し、神風特別攻撃隊が編成され、体当たり攻撃が実行された。

 次回に続く。