ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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西欧発の文明と人類の歴史66

2008-08-18 08:51:10 | 歴史
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●アメリカではニューディール政策

 世界恐慌の発生後、各国はそれぞれの仕方で、恐慌に対応した。まずアメリカ合衆国の場合から見ていきたい。
 恐慌後、フーヴァー大統領は、従来の不況対策程度の政策しか行っていなかった。混迷を打開するため、大胆な政策を提案したフランクリン・ルーズベルトが、現職大統領を破って、1933年に大統領に就任した。
 就任後、ルーズベルトは、議会に働きかけて矢継ぎ早に法案を審議させた。3ヶ月ほどの間に、各種法案が可決された。ルーズベルトは、全国産業振興法(NIRA)で労働時間の短縮や最低賃金の確保、農業調整法(AAA)で生産量の調整、民間資源保存団(CCC)による大規模雇用、テネシー川流域開発公社(TVA)等の公共事業による失業対策等を、強力に進めた。これらの一連の政策を、ニューディール政策という。
 ニューディール政策は、政府は市場に介入せず、経済政策は最低限なものにとどめる自由主義的な経済政策から、政府が積極的に経済に関与する統制主義的な経済政策へと転換したものだった。

 この政策は、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの理論を初めて実施した政策だといわれる。しかし、ルーズベルトが大統領選挙で政策を訴えていた時点では、ケインズの理論が深く影響を与えていたとは考えにくい。私は、ルーズベルトのブレーン・トラストには、マルクス主義者やユダヤ系知識人が多かったことに注目する。初期のニューディール政策には、ケインズよりもソ連の統制主義経済政策の影響が濃いのではないかと思う。
 なお、ケインズは、完全雇用実現のためには、政府による有効需要の創出が重要であると主張した。ケインズ自身が自分の理論をまとめて発表したのは、1936年公刊の「雇用、利子と貨幣の一般理論」である。その学説は、ニューディール政策に理論的裏づけを与えた。また第2次世界大戦後の資本主義国の修正資本主義的な経済政策に大きな影響を与えた。

 世界恐慌後、1933年に、アメリカの失業率は25.2%という最悪の数字を記録した。ニューディール政策は効果を上げ、37年には14.3%に失業率が下がった。景気も回復の兆しが現れた。しかし、35年には、政策のいくつかに対し、最高裁が違憲判決を出した。また、統制主義的な政策には、反対勢力が根強く存在した。そのため、ルーズベルト政権は、中途半端な形でしか政策を実行できなかった。38年、累積債務の増大を憂う財政均衡論の意見に押されて、政府は連邦支出を削減した。すると、GNPは6.3%減少、純投資はマイナスに転化、失業率は19.1%に跳ね上がって、危機的な状況に陥った。
 この間、ドイツでは、ヒトラーが全体主義的な政策を行って、45%にも達していた失業率を着実に下げ、39年には失業者数を20分の1にまで減らした。アメリカの政治は議会制デモクラシーであり、ルーズベルトは、全権力を掌中にしたヒトラーのようには、大胆な公共投資を行えなかった。
 結局、アメリカが失業問題を解決できたのは、第2次世界大戦が始まってからである。軍需の増加によって初めて完全雇用を実現できたのである。そのうえ、アメリカの工業生産は、戦争中かつてない規模に拡大した。私は、ニューデュール政策は壁にぶつかっていた、だからルーズベルトは大戦に参戦するチャンスを得ようとしていたのだと思う。

●「持てる国」と「持たざる国」とが対立

 世界恐慌後、植民地や従属国を多く持つイギリスは、1932年保護関税政策を始め、さらにイギリス連邦内に特恵制度を取って、スターリング・ブロックを設定した。フランスもこれに対抗して、植民地を基盤として、自国中心のフラン・ブロックを形成し、域外からの輸入品に高い関税をかける等の措置を講じた。アメリカは、33年からニューディール政策を実施するとともに、関税引き上げなど保護主義的な政策を行い、ラテン・アメリカ諸国との外交を強化し、通商の拡大に努めた。資本主義列強が取ったこうした経済政策を、ブロック経済という。
 排他的な経済圏の成立は、第1次世界大戦で植民地を失ったドイツや、もともと経済基盤の弱い日本、イタリア等の経済を一層悪化させるものとなった。これらの国々では、危機を打開しようとして、排外的なナショナリズムや全体主義が台頭する。
 こうして、第1次世界大戦後、戦勝国によって築かれた国際社会の秩序、ヴェルサイユ=ワシントン体制は、世界恐慌によって大きく動揺した。各国は自衛と生存のために、自己本位の政策を推し進めた。その結果、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」とドイツ、イタリア、日本等の「持たざる国」との対立が深まっていった。

 次回に続く。