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昭和47年(1972年)、能登輪島へのドライブ旅行

2024年02月04日 | 旅行

 正月の能登震災から1か月ですね。その昔能登、輪島に旅行した時のことを書こうと思ってはいたのですが、被災された方がまだ大混乱のなかにいらっしゃることを考えて、遠慮していました。1か月経ち震災直後よりだいぶ落ち着いたようですので、50年も前の若いころの思い出を書くことにしました。

 

 先月、志賀高原で息子とスキーをしたのですが、何故かそこからスタートします。志賀高原スキー場は広大な地域にまたがっています。なかで最も奥地にあって行きづらい場所は奥志賀高原スキー場です。息子がそこに行ったことがないというので、午後の休憩を奥志賀高原ホテルで優雅に過ごすことにしたのです。プリンスホテルのある焼額山の頂上から、スキーで奥志賀高原ホテルまで滑って行きました。スキー板を外しブーツを脱ぎ広いロビーに入ると、真ん中に大きな暖炉、というより薪を積み上げてキャンプファイヤー風に暖を取れる炉があり、その周りでおいしいケーキを食べながらコーヒーを飲めるのです。そこでの休憩はスキーで疲れた身にとって至高の時間です。

 このホテルは昭和の香りがただよう、大人の隠れ家ホテルです。ホテルに隣接した六角形をした木造のコンサートホールもあり、とても響きがよいそうです。前の週に行った妙高赤倉スキー場にある赤倉観光ホテルと同様、古きよきリゾートとして私のお気に入りホテルの一つです。音楽家の方は夏の避暑地兼練習場所としてここをご存知の方も多いと思います。ホテルとスキー場は1968年に長野電鉄が作りました。

 実はここで学生時代の最後、72年の夏にゼミの合宿を行った思い出の場所なのです。東京からは生意気にもほとんどのゼミ生は車でドライブして奥志賀まで行きました。私も父親の車を一週間借り、友人と4人で東京から国道17号線=中山道を延々とドライブ。朝出発しても昼は碓氷峠の横川がやっと。荻野屋でお決まりの「峠の釜飯」を食べ、奥志賀に到着したのは夕方でした。

 合宿は3泊4日。一人一人が卒論の構想を発表し、学部長だったゼミの教授や助手、そして同期生から鋭い質問やコメントをもらい、卒論内容をブラッシュアップするという真剣勝負の場。かなり緊張する時間を過ごしました。

 

 4人とも無事に発表を終え、緊張から解放された最終日の朝、友人の一人が「このまま帰るのはもったいないよな。そうだ、日本海って見たことある?みんなで見に行こうよ」と言い出し、全員賛成。どうせなら金沢でも見物して帰ろうとなったのです。しかし問題は所持金。現金払いしかなくATMもない時代のこと、全員のカネを出してみたらやっと2万円程度でした。これで4人が2泊3日する必要があります。ガソリン代もばかになりません。できるだけ節約するために、国民宿舎を探して泊まることにし、日本海に向けて出発しました。

 道路地図しかない時代ですが最後の索引ページで国民宿舎を探したところ、能登半島の輪島にあることがわかり、そこを目指すことにしました。まずは直江津に出て日本海を初めて見ました。海外沿いに富山経由で能登半島の突端まで、休み休みでほぼ丸一日、やっと夕方に到着。そのころの国民宿舎は確か一人500円で2食付きだったと思います。

 翌朝、初めて朝市というものを見物しました。ほぼ地元の人しかいないひなびた感じの市場で、昨今の観光地としての賑わいとはきっと別ものだと思います。しかし今回の大地震による火災がすべてを灰塵にしてしまい大変残念です。たとえ長い時間がかかったとしても、是非とも復興し賑わいを取り戻すことを祈ります。

 その日は輪島からまず金沢に向かい、お城や兼六園、街並みを見物し、次の宿は山越えをして飛騨高山まで行くことにしました。地図では富山経由の道路があるので、夕方には着けるはずと計算。ところがそれが甘かったのです。

 

 富山を出ると道は舗装していないがたがた道になり、ガードレールもないただの林道でした。たぶん神通川沿いの道だったのでしょう。ゆっくりと走らざるをえませんでした。山間部のため夕方には暗くなり、真っ暗な道を慎重に走り続けました。夜8時になってもまだ半分くらいしか来ていないようでした。道路標識もなく、道を間違ったのか合っているのかもわからず、人に聞こうにも誰もいませんし車も全く通りません。

 そのうちやっと小さな集落を見つけ、幸運なことに一軒だけ灯りが灯っていました。その家のドアを叩くと怪訝な顔をしたおじさんが出てきました。我々にとっては地獄で仏です。

 「夜分すみません、このまま車で行くと飛騨高山に出られますか」と聞くと、「ああ、一本道しかないから出られるけど、真っ暗だからきーつけてな」とのこと。すくなくとも間違っていなかったので、ほんとにホッとしたのを今でも覚えています。

 

 高山の街に着いたのはなんと夜中の10時。駅で国民宿舎の場所を聞くと駅員さんが親切に教えてくれ、電話までして空いていることを確認してくれました。 

 翌朝、今やとても有名になった高山の朝市に行き、食べそこなった夕食分を買い食いしたのを思い出します。

 東京まではまだまだですが、お金がなくなるといけないのでとにかく東名高速を目指して飛騨川を下り下呂温泉経由で犬山まで来ました。すると「明治村」と書いた案内板を見つけたので、途中下車して見物。移築された帝国ホテル旧館がありました。

 こうして東名高速の小牧インターまでたどり着き、東京までのガソリン代と高速代を残してどうにか無事に冒険旅行を終えることができました。東京に着いた時、4人合計の所持金わずか1,200円なり。学生時代にしかできないかなり無謀な長距離ドライブの思い出でした。

 

 いまさらですがグーグルマップで距離を調べてみると、東京→奥志賀高原ホテル340㎞。ホテル→能登半島輪島300㎞。輪島→金沢→飛騨高山330㎞。高山→犬山→東京500㎞。高速道路は東名のみで、合計1,470kmでした。ちなみにドライバーは私一人、よくぞ走ったものです。

 以上、能登輪島の思い出でした。

最後になりましたが、被災地の早い復興を心からお祈りします。

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