ストレスフリーの資産運用 by 林敬一(債券投資の専門家)

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党首選挙の公約に足りないもの

2024年09月09日 | 日本の財政

 毎日毎日、自民党と立憲民主党の党首選びのニュースばかりで、正直な話ウンザリしています。理由は今後の日本に一番大事な論議が無視されているからです。与野党問わず、どの候補者もが同じようカネを使う公約ばかりを垂れ流しています。

 今後の日本にとって一番大事なことは何か?

 それは財政再建です。バブル崩壊以降、経済のテコ入れを優先するあまり、常に財政は垂れ流しに終始して、国の借金は1,300兆円に達しています。GDP対比では断トツの世界最悪、250%に達していますが、「財政再建」という話には両党候補者の誰もが触れずにしておこうと、まるで申し合わせがあるように感じます。選挙用の公約で触れたくないのはわかりますが、最大の問題を抜きに政権運営など不可能です。

 もっとも有権者側も関心が薄く、自分の老後の心配はしても、本気で政府の過剰債務を心配している人はさほど多くはないように思われます。私のブログをお読みいただいている方々を除いて。

 ですので、本気で「公約に財政再建が入っていない」と糾弾する人も、マスコミも、評論家もいないのでしょう。

ここでお笑いを一席。

  「日本銀行における国債の引受けは、財政法第5条により、原則として禁止されています(これを「国債の市中消化の原則」と言います)。

 理由は、中央銀行がいったん国債の引受けによって政府への資金供与を始めると、その国の政府の財政節度を失わせ、ひいては中央銀行通貨の増発に歯止めが掛からなくなり、悪性のインフレーションを引き起こすおそれがあるからです。そうなると、その国の通貨や経済運営そのものに対する国内外からの信頼も失われてしまいます。これは長い歴史から得られた貴重な経験であり、わが国だけでなく先進各国で中央銀行による国債引受けが制度的に禁止されているのもこのためです。」

 

 この文章、私が言っているのではありません。いったいどこに書いてある文章でしょうか?答えは日銀のHPです。HPにある「日本銀行が国債の引受けを行わないのはなぜですか?」の質問に対し日銀自体が回答している文章です。

 以下がその回答のページですので、とくとご覧あれ。

https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/op/f09.htm

 

 言っていることとやっていることは正反対。テクニカルに直接引き受けを回避し、「違法ではない」というミエミエの言い訳はしていますが、国債発行残高全体の5割以上を自分が保有していて、引き受けはしていない、違法ではないとは、笑い話以外のなにものでもありません。

 

 まあ、日本と言う国はそもそも憲法9条で明記されている戦力の不保持を無視していますので、そういうウソツキ国家なのだということなのでしょう。

 念のため、憲法を復習しておきましょう。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 自衛隊が戦力ではないなら、どうやって国を守るのか?

 正々堂々憲法を改正すればいいのに。ただこれについては選挙公約に憲法改正を入れる動きがあるので、そこだけは評価してあげます。

 

 以上、「党首選挙の公約に足りないもの」でした。

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米国債の売買スプレッドとその妥当性について、「ぽむ」さんの質問と私からの回答

2024年09月05日 | 投資は米国債が一番

まずは9月4日、コメント欄にいただいた「ぽむ」さんの書き込みをそのまま引用します。

 

引用

私も50歳を超え、超長期の利付債という選択もあるのだな、と感じましたが、途中売却の際に、どの程度、元本が目減りするのかについて確認したく、SBI証券で試してみたので、皆様とシェアできれば、と思います。

SBI証券

米国債 4.75% 2053年満期(利回り4.05%)

100ドル購入時
単価 111.89
支払経過利息 1.47
購入金額 113.36

100ドル売却時(購入の翌日)
単価 109.02
受取経過利息 1.51
受取金額 110.53

経過利息は、そのまま計算しているようなので、結局、元本は中途売却時には、

109.02 ÷ 111.89 = 約97.4%

となり、約2.6%をスプレッドの差として、証券会社に支払うことになるようです。

なので、中途売却する可能性のある場合は、このことを頭に入れておく必要があると思いました。

日本の証券会社の外債売買の問題点は、購入時には、購入単価しか示されておらず、いくらで売却できるかは、
全くわからない、ということだと思います。

もう日本人は購入できなくなってしまったようですが、IB証券(インタラクティブ・ブローカーズ証券)だと、米国債の購入時にも、外国為替のように、売値と買値が明示されているので、スプレッドの差による手数料も明確でした。

日本の証券会社の場合、正直、売りと買いの単価をどのように決定しているか明示されておらず、全くブラックボックス?になっている気がします。

今回、SBI証券は、約2.6%のスプレッドの差による手数料でしたが、この差を、5%にされても、10%にされても、購入者は何もわからない感じがして、少し怖い感じがしました。

このことに関して、お時間があれば、林先生のコメントをいただければ嬉しいです

よろしくお願いいたします

引用終わり

 

以下は私からのコメントです。

 まずはコメント欄にも書きましたが、ぽむさんの行動に感謝いたします。

 

>途中売却の際に、どの程度、元本が目減りするのかについて確認したく、SBI証券で試してみたので、皆様とシェアできれば、と思います。

経過利息は、そのまま計算しているようなので、結局、元本は中途売却時には、
109.02 ÷ 111.89 = 約97.4%
となり、約2.6%をスプレッドの差として、証券会社に支払うことになるようです。
なので、中途売却する可能性のある場合は、このことを頭に入れておく必要があると思いました。

 

購入の翌日の売却であれば、市場がよほど動かない限り、価格変動は無視できそうですね。売却に要するスプレッドが2.6%とのこと。

私からの回答はまず、

 

「2.6%の数値自体は個人投資家の方の少額な取引額では、妥当な水準だと思います。」

 

 実は同様なことを私は義理の弟に依頼して、ある大手証券会社に直接聞いてもらったことがあります。そこでの目安は往復という前提で4%程度と言われたとのこと。売りと買いで半分だとすれば2%ずつです。小さい差はありますが、おおむねこうしたスプレッドを要求しているものと思われます。

 実際にはみなさんの投資年限はとても長い年限で、例えば20年物に投資して10年経過したところで部分売却の必要が出た、というようなケースを想定しましょう。すでに金利だけで年に3.5%として10年間で35%を得ている時点での売却だとすると、2.6%はあまり苦にならないパーセントだと思います。

 

この手数料率の妥当性をどう判断するのかを説明します。

在庫を保有する証券会社にして見れば、

・保有のためのファイナンスコストがかかる(通常は借入金で在庫投資をしますので、その金利がコストになります)

・価格変動に備えるヘッジコストがかかる(債券価格は毎日市場金利で変動しますので、それを先物を売ってヘッジをしています)

 

 特にヘッジするのは簡単ではなく、至難の技です。

理由は、たとえばSBI証券の在庫が30本あり、それぞれ年限、あるいは利付債とゼロクーポン債がミックスしています。それを一本一本ヘッジするのはコストがかかり過ぎてしまうので、ある程度の年限ごとに大きなまとまりとしてヘッジします。

 専門用語では、ポートフォリオ全体のデュレーションを計算し、その集合体ともいうべき塊に対するヘッジをするのです。もちろん現在はポートフォリオをインプットすれば、妥当なヘッジ手段はこれだ、という計算をコンピューターがしてくれますが、完ぺきではありません。ヘッジと在庫にはブレが内在してしまうため、かなりの程度のリスクを取ることになります。

 こうした2つのコスト、「ファイナンスコストとヘッジコスト」を考えると、スプレッドの2.6%は「妥当過ぎるほど妥当だ」、というのが債券市場のプロとしての私の意見です。

 

 私が扱っていた債券は、社債や政府関係機関が発行する債券で、資本市場部で引き受ける単位は最低でも1億ドル程度でした。今なら円貨で145億円程度です。発行体が発行した債券を引き受けると、瞬間的にヘッジします。例えば1億ドルの債券は機関投資家に1千万ドル単位(10億円単位程度)で売却する必要があり、売却完了までの間価格変動をヘッジして、損失を出さないようにするのです。

 1社での引き受けはリスクが大きすぎる場合は、いわゆるシンジケート団を組んで引き受けをします。

 それと今回のケースを比較すること自体妥当性は薄いのですが、基本原理は同じです。SBIは100ドル単位で扱っていますので、「まことにご苦労様」という以外ありません。

 

 顧客との取引単位は100ドルでも、在庫は一本の債券でたぶん数十億円単位で保有していると思われます。全体ではそれを数十本保有しているはずです。それらをヘッジなしで裸のまま保有すると、価格変動によりデイリーで数百万円単位の損得が出てしまいます。それは放置できない金額のため、必ずヘッジが必要です。

 

 以上、あまりに専門的過ぎて、理解に苦しむレベルの話になり、申し訳ありません。たとえなんとなくでも、証券会社も保有するだけで大変な苦労とコストがかかるということをみなんさんに理解いただくために解説してみました。

 

 従ってぽむさんのご質問への回答は先のとおり、スプレッドは「妥当過ぎるほど妥当だ」となります。

 

 以上、売買スプレッドとその妥当性についてでした。

 

 

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源氏物語と私 

2024年09月02日 | エッセイ

 NHKの大河ドラマがいよいよ佳境に入ってきて、主人公紫式部である「まひろ」が源氏物語を書く段になりました。世界で最も長い小説である54帖をすべて読まれた方は多くないかもしれませんね。

 私もその一人だったのですが、偶然の入院により長い長い物語を読む機会ができました。2008年、59歳になった私は長年の酷使がたたり、膝の手術を受けることになり、北里大学病院に入院しました。

 告げられた病名は、両膝の半月板損傷。膝に水が溜まってすこし腫れたり、曲げ伸ばしで痛みが出るようになりました。医師からは「両膝の半月板を一度に手術をするべし」という診断を受けました。20歳代後半から毎朝のジョギングを開始。ニューヨークに転勤していた30歳代、37歳でNYマラソンを走り、冬はスキー、それ以外のシーズンはゴルフに明け暮れ、膝を酷使しすぎたのです。ただ幸いなことに膝にメスを入れると言っても、内視鏡による手術のため、一つの膝に1cmほどのキズが二つずつできるだけで、10日もすれば歩いて帰れるとのこと。

 その先生はあの女流アルピニスト、田部井淳子さんの主治医でもあり、「彼女もあなたと同じように膝にメスを入れ、その後エベレストを登頂しました。それに比べればあなたの損傷はたいしたことはないですよ。半月板をきれいに削るだけだから」と言ってくれたのです。

 そして両膝を一度に手術する理由は、「片方ずつでも二ついっぺんでも入院は同じ日数が必要。現役のあなたには一回で両方をお勧めします」とのこと。私は納得し「先生にすべてお任せします」と両膝手術を選択しました。手術とリハビリを入れて入院日数は12日間の予定でした。手術後の経過は順調で、膝の痛みは10年以上を経て激しい運動をしても、いささかもありません。

 そこで一計を案じた活字中毒の私の決断は、「この際10冊に及ぶ長編小説、源氏物語を一気に読もう」というものでした。ちょうどその頃、瀬戸内寂聴による現代語訳版の源氏物語10巻が完結していたので、それを一気読みすることに決めました。

 日本人であるからには、死ぬまでに一度は読もうと思ってはいたのですが、とにもかくにも超長編です。よほどの覚悟を決めないと読めるものではありません。と、ここまで書いて、「そうか、山岡荘八の徳川家康26巻のほうが小説としては長いな」と思い返しました。それはともかく、

 病室は6人部屋で、同部屋5人はすべて慶応大学の体育会に属する現役プレーヤーでした。彼らは大怪我をすると何故か慶応大学病院ではなく、大学同士親密な関係にある北里大学病院に入るのだそうです。ラグビー、サッカー、アメリカンフットボールの選手ばかりで、ほとんどが複雑骨折の重傷患者。2か月から半年に及ぶ長期入院の患者でした。そこに闖入者とも言うべきオジサンが一人、源氏物語を抱えて入ってきたので、みんな興味津々だったようです。

 同室の連中とはすぐ仲良く話すようになりました。もっとも若い彼らの関心は私が学卒で入社したJALからどうしてアメリカの投資銀行に転職し、その後イギリスの投資会社で働いているのかという点でした。その説明を終えると、次は何故源氏物語10巻を抱えてきたのかに移りました。

 そもそも私は「兄弟の多い父方の親戚が集まる新年会で、子供のころから百人一首で遊んでいたので、和歌と平安時代には自然に興味を持ち、源氏物語は一度は読んでみたかった」という説明をしました。なにしろ叔父叔母合計12人、いとこは合計14人という大人数が一堂に会し、大人は二組に分かれて争う源平合戦、子供たちはばらにまいたカルタを取る乱取り、新年会とはカルタ会だったのです。少しでも早く取るために、上の句の最初5文字が読まれたら、すぐ下の句の札をめがけて飛びつく。その競争心が100首をすべて覚えた原動力でした。

 

 入院中の読書はどんどん進むだろうと思っていたのですが、横たわって読み始めるとすぐに眠くなるため、意外に進まないことがわかりました。そこでベッドだけではなく、歩行のリハビリに使う半円形の歩行器に肘を乗せて歩きながら本を読むことを思いつき、病院中を歩いたり、面会スペースの椅子に行って腰かけたりして読むことにし、1日1冊のペースをどうにか守ることができました。

 源氏物語を読むにあたって必要なものが一つあります。それは登場人物が多すぎるのを整理するために、すべての人物の相関図を見ながら読む必要があることです。本を買った時点でそれがわかったので、実は入院準備としてネットで大版の源氏物語相関図を見つけてプリントし、さらにA3のコピーマシンで拡大して病院に持参したのです。実際の本は新書版のため、1冊ごとに小さな相関図はあるのですが、それらをつなぐ頭の整理が難しいのです。もし今後読まれる方がいらしたら、これだけは必需品であることを申し上げておきます。

 

 源氏物語に関して著者の瀬戸内寂聴は1冊目のあとがきで、以下のようなことを書いています。

・源氏物語こそ日本が世界に誇る最高の文化遺産である

・源氏物語54帖は400字詰め原稿用紙で4千枚。世界でも類を見ない長編

・登場人物は430人に及ぶ

・千年も前に紫式部という女性がこれを書いたのは、天賦の文学的才能に恵まれていたから

・主人公光源氏は稀有な美貌の持ち主で、文武両道あらゆる才能に恵まれ、怪しいほど魅力的な上、人並み以上に多感好色な皇子である

 そのように形容されるパーフェクトな主人公が、ありとあらゆる恋の手練手管を弄して物語を紡ぐため、読んでいても冗長さは全く感じませんでした。

 

 ところで私の住んでいる世田谷区の用賀には、駅前から歩いて20分ほどの砧公園に続く、「いらか道」と呼ばれるプロムナードが整備されています。その道はグレーの瓦の素材でできた10㎝四方の石板が敷かれ、そこに「百人一首」が刻まれています。

 用賀駅前の1人目は天智天皇。「秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わがころも手は 露に濡れつつ」から始まり、砧公園入口付近には100人目の順徳院。「ももしきや 古き軒ばのしぶにも なほあまりある 昔なりけり」そこまで数メートルおきに歌が刻まれています。文字はプロとおぼしき書道家の見事な草書体もあれば、きっちりとした楷書体、子供が書いたと思われる字もあり、千差万別。原稿のまま写し取って彫られたものだそうです。

 今回の大河ドラマの登場人物の歌を二つ上げますと、

57人目 紫式部 ; めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし 夜はの月かな

62人目 清少納言  ; 夜をこめて とりのそらねは はかるとも よに逢坂の関は許さじ

 

百人一首を内容別に分類すると、以下のとおりだそうです。

・恋の歌 43首

・季節の歌 32首  うち秋16首 春 6首 冬6首 夏4首

・旅の歌 4首

・その他 21首   

 紫式部の歌はストレートに恋の歌ですが、清少納言の歌はどう分類されるのでしょうか、よくわかりませんのでその他なのでしょう。中国の函谷関という厳しい関の故事と日本の逢坂の関の検問の厳しさを比べています。そういえば「箱根の山は天下の剣」の歌にも「函谷関もままならず」という比較がありますね。

 清少納言には、今回のドラマでもそのシーンがありましたが、「香炉峰の雪はいかにせん?」という問いに対して、「すだれをかかげて見る」と白居易の歌で返しています。それもやはり中国の故事に極めて詳しい賢者である故のエピソードなのでしょう。

 さきほども述べましたが、私は中高生のころは百首をすべて諳んじていて、上の句の最初の5文字を聞けば、かるたに平仮名で書かれている下の句がすぐ浮かぶほどでした。例えば「めぐりあいて」を見れば、即「くもがくれにし・・・」が出るという具合です。

 しかしその時代から数十年を経て用賀に引っ越してきて「いらか道」を歩くたびに記憶をたどるのですが、最初の5文字から下の句に飛べるのは全体の4分の3ほど。あとの4分の1は上の句すべてを言ってからでないと、下の句がスムーズに出てこなくなっています。それでも若い時の記憶はしっかりと刻まれているものだと、我ながら感心してはいるのですが・・・。

 実は先週、鮫洲の自動車試験場で75歳に向けて「認知テスト」を受けました。幸い無事通過。一度に受けるおよそ10人中、一番先にテストを終えて席を立つことができました。とりあえず、めでたし めでたし。

 

 横道に逸れてばかりで長くなりましたが、「源氏物語と私」でした。

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今後の米国債投資をどうすべきか、その2

2024年08月29日 | 米国債への投資

 7月末から8月の初旬は、株式と為替の相場が激しく変動しましたね。

その間に8月1日の投稿で私は以下のようなことを書きました。

引用

 米国債への投資を検討されている方にとってドル安はチャンスですが、一方で金利の低下は不利に働きます。ではどうすべきか?

 私は常々みなさんに「為替より金利優先で考えるべきだ」と申し上げています。もちろん米国債金利が高くてしかもドルが安いのが一番好ましいのですが、それはいわば「ない物ねだり」です。為替と金利はある程度連動しますので、米国債の金利が高い時にはドルも高くなってしまうし、いまのようにドルが安くなった時には金利も低下してしまいます。

 もちろん為替も金利もその他の要因でも大いに動かされますから、これがすべてと言うわけではありません。では「為替より金利優先で考えるべきだ」というのは何を根拠にいっているのか。それを説明します。

 そもそも米国債投資を考える方の基本スタンスは、10年以上、30年近い超長期投資がほとんどです。そしてこれまでの投資結果をみると、「金利は為替に勝ってきた」のです。

引用終わり

 今回はこれに加えてもう一つ大事なことをみなさんにお知らせします。

 このところ米国債の指標である10年物金利がだいぶ低下しています。昨日のレベルは3.83%。そして30年債も4.12%になっています。金利が高いレベルで投資タイミングを狙っていた方のうち、大部分の方は今年に入って私が何度かゴーサインを出していましたので、買われた方が多かったと思います。

 ではこのタイミングでの投資はどう考えたらよいのでしょうか。一つ大事なポイントをお知らせします。

 ある程度の年齢の方で、「金利収入を目指して投資をされる方であれば、今の金利レベルでも何も心配はいらない」ということです。金利収入の欲しい方は、複利運用可能なゼロクーポン債を買わずに、当然利付債を買うことになります。その利率は市場金利には連動していないからです。

 もちろん投資する際の価格は高くなる分、最終利回りは低下しますが、それを気にする必要はありません。20年~30年後にドル円レートが超円高に動くことなどありえないからです。残念ながら国力の差は埋めがたいどころか、開く一方ですので。それよりとにかく高い金利をエンジョイしましょう。

 私が個人相談を受け付けている方のうち多くの方は、リタイアが近い世代、あるいはすでにリタイアした方が多いのですが、そうした方々は当然複利で将来の償還額が多いことより、投資からの金利収入をコンスタントに欲しいという方です。

 現在でも証券会社によってはクーポン金利が4.75%と、かなり高いレベルの債券が売られています。市場金利が低下している中では、こうした債券の価格は高くなっています。しかし一方で市場金利低下に伴い、ドル円レートは買いやすいレベルに低下しています。ひところの160円台、あるいは150円台からみれば、現在の144円程度のレートは相当買いやすいレベルです。

 

 最近の相談者の方の例では、65歳の方が金利収入をコンスタントに得るために米国債を買いたいとのこと。その方に20年から30年近い債券をお勧めしたのですが、「私はそんなに長生きしませんよ、長すぎます。」とおっしゃいました。

 

 しかし私は「長いと当然金利レベルは高いものが多くなり、収入は増えますよ。ご自分の年齢に対して長すぎるということは考えなくてもいいんです」とお答えしました。

 その理由は単純です。私がブログや著書などで何度も申し上げていることで、「米国債は定期預金などと違い、期限前に売却しても何のペナルティーもありません。急に必要な資金が出てきたら、いつでも売ればいいんです。また余命〇年などと言われたら、売ればいいだけです。そして全額売らなくても、必要な金額だけ自由に売れます」とアドバイスしました。

 その言葉に納得され、早速購入に進まれたようです。どうかみなさんもこのことを間違わずに頭に入れておいてください。

 では再度復習します。

・市場での米国債金利が低下しても、利付債の金利は同じレベルを保っている

・償還期限は定期預金と違いそこまで保有しないと損失が出るというものではない

・従って高齢の方でもクーポン金利が高い超長期のものを買うべきだ

以上のことを念頭に入れて投資をしてください。

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もう一つのパリに恋して その2

2024年08月22日 | パリ紀行

 ラジオのタマカワへの出演報告に多くのコメントをいただき、ありがとうございました。私にとってとても大きな励みになるコメントで、改めて感謝いたします。

 

 今回はタイトルにあるように、観光客があまり行かない「もう一つのパリに恋して」の2回目です。

 

 1977年にJALの先輩に案内してもらった「もう一つのパリ」の話を書きました。その先輩は後にJALを退職してフランス料理の評論活動をして、大学の教授にまでなりました。

 フランクフルトからパリに旅行した時に宿泊したのはホテル・ニッコー・ド・パリでした。このホテル、エッフェル塔から遠くないパリの街中にあって新しい高層ビルを建てることのできる地区に建てられたのですが、悪評ふんぷんの外観と内装でした。設計はそのころ頭角を現していた気鋭のアーキテクト、黒川紀章氏。まだ開業したばかりの新品ホテルでしたが、黒川氏設計の外観がパリの街を汚すと酷評されていたのを思い出します。そのホテル、今はノボテル・グループに買収されニッコーの名前は無くなりましたが、外装・内装はそのままだそうです。

 

 しかし当時、一つだけ自慢できることがありました。それはメインダイニング、「セレブリテ」の総料理長にまだ名もなき若いシェフ、ジョエル・ロブションを連れてきたことです。彼はまだ30歳そこそこでしたが、なんとわずか2・3年目、セレブリテでミシュランから星をもらったのです。日本版ミシュランなどはない時代、その星を宣伝文句に使っても日本人で理解する人は少なかったと思います。

 

 70年代のフランス料理は古き良き伝統的な料理から日本食、それも懐石料理のコンセプトを取り入れはじめた時代への変革期を迎え、ロブションはその先駆けの一人として活躍。その後の彼はフランス国内はもちろん、海外への出店も数多く進めていき、勲章としてのミシュランの星のコレクターとまで言われ、世界でたしか10数個の星を得ていたと思います。

 

 ちょっと脇道に逸れます。最近家内が買ってきた本、「三流シェフ」by三国清三を読みました。四谷のレストラン、オテル・ド・ミクニのオーナーシェフで有名でした。

 本は彼の生い立ちから始まる分厚い自叙伝で、何故北海道の増毛という寒村から出て来て一流シェフになれたかを詳しく書いてあります。70年代は20歳台の彼にとって大事な時代で、スイスの日本国大使館の料理長として一本立ちをする時期に当たるのですが、実は大使館付きの総料理長に就任した時、それまでに本格的料理を習っていなかったので、大使館近郊の有名レストランで修行をしながらという、なんとも際どいシェフだったのです。

 

 彼が教えを請うたのは新しいフレンチ、ヌーベル・キュジーンで名を成し始めたジラルデやアランシャペルで、そこに入り込めただけでも大変なラッキーでした。70年代のフランスは新しい料理と古き良きフレンチの戦いの場となっていて、そこに三国と限らず若き日本人のシェフたちが修行を始め注目され始めた時代でした。

 

 実は私はその後80年代の初め彼が四谷に「オテルド・ミクニ」をオープンして間もない彼と知り合いになり、ある友人宅で彼を含む3人の若手シェフと夜通し「食」について話をしたことがあります。そこで全員の意見が一致したことはなんと、「世界で一番の料理は和食だ。ヌーベル・キュジーンなんて、懐石料理のフレンチ版にすぎない」ということでした。

 

 それまでのヘビーで濃厚なフランス料理を根本的に覆したのが、懐石フレンチなどと言われ始めたヌーベル・キュジーンでした。それまでのフレンチは宮廷料理に代表される、たっぷりと食材を使い、濃厚なソースでの味付けをしたものでした。新しいフレンチは、季節の旬な素材を活かし、素材の新鮮さで勝負する。それまで主役だったソースを脇役に追いやるという大革命でした。日本からフランスにやって来たシェフのタマゴ達は日本の料理も知っていたため、とても便利な存在でもあったようです。

 

 もちろんいまでもフレンチのコースを食べに行くと、オードブルが出て、以前より軽めとは言え魚料理、肉料理と進み、デザートで終わるパターンが一般的です。私は食べる量は多い方ですが、それでもメインを一つ食べればおなかはかなり膨れます。それではもったいない、というのが天邪鬼な私の発想です。

 私はその押し付けメニューに異を唱え、オードブルだけを心行くまで食べるというスタイルを時々試してみるのが好きでした。そのわがままな注文をまともに受けてくれたのは三国さんと、もう一人私がとても好きだったシェフ、井上旭(のぼる)さんでした。彼らのレストランではオードブルだけで少なくとも5~7品くらい用意があったので、わがままを言ってオードブルだけのおまかせコースをお願いしました。特に井上さんが独立して自分の名前を冠したレストラン、「シェ‣イノ」を出してからは折に触れて彼の所に行って、わがままを言わせてもらいました。

 日本の懐石料理であれば一応メインぽい料理もありますが、だいたいは10~15コースくらい出してくれます。その楽しみを、フレンチでもお願いしたのです。

 

 特に井上さんはとはその後長く親交を結び、とてもレアで新鮮な食材が手にはいると私のオフィスにまで電話がかかってきて、「林さん、今日は北海道からエゾシカが入ったよ。今晩なら刺身で食べられるよ」という具合に知らせてくれました。そうした時私はなにがあっても喜んで誘いに乗るようにしていました。その後井上さんは京橋界隈のシェ・イノだけでなく、青山に大きな一軒家を手に入れ、「マノワール・ディノ」という広い庭付きのレストランもオープン。そちらは奥様がいわばマダムとして取り仕切り、井上さんの元で腕を磨いたシェフが料理長を務め、都会では味わえない自然に囲まれたレストランを展開していました。しかし彼は3年ほど前、残念ながらまだ76歳の年齢で他界されました。

 

 私が食べることが好きになり、その最初のきっかけを作ってくれたJALの先輩、佐原秋生さんには本当に感謝いたします。

 

 その後彼に連絡を取ろうとしたのですが、出版社などに尋ねても、「連絡先は不明です」とだけしか返ってきませんでした。もしこれをお読みの方で佐原秋生さんをご存知の方がいらっしゃれば、林敬一が連絡を取りたがっているとお伝えいただけると幸いです。

 

 以上、「もう一つのパリに恋して」でした。

 

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