河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

672- マーラー10番 3題

2008-09-11 00:08:00 | また聴きたくなるCD





最近マーラーの10番が立て続けに3種出た。
写真の一番上から順に、


サマーレ&マツッカ補筆完成版
マルティン・ジークハルト指揮
アーネム・フィル
CD/SACD STEREO/SACD 5ch SURROUND
ハイブリッド・ディスク


デリック・クック補筆完成全曲盤(1976)
ダニエル・ハーディング指揮
ウィーン・フィル


デリック・クック全曲盤
ジャナンドレア・ノセダ指揮
BBCフィル


写真一番下のシャンドスのノセダ指揮のものは、あまり録音がよくない。音レベルも小さい。また、アンサンブル単位の録音のように聴こえ、細切れの音楽のつなぎ合わせのように聴こえたりする妙な面白さも部分的にはあるが、全体としてはマスの録音でありオーケストラとしての解像度もあまり高くない。これはジャケ半分の写真通りちょっとスキップ。ジャンピングのノセダには悪いが全体にすっきり感がない。まとまりのない録音に足をすくわれてしまった感がある。
ハーディングのイエロー盤は、ウィーン・フィルのクリーミーにとろけるサウンドが、頭の芯まで溶解させてくれる。オーケストラの実力がもろにものをいう。この曲にこのような解釈が合うのかどうか、といったことを忘れさせてくれる。美しすぎる。。
ジークハルトのSACDは、SACDにして2枚組。誠に抜群のサウンド。SACDの音は素晴らしいの一語に尽きる。凄ければすごいほどオーケストラの実力がもろに出るわけだが、ウィーン・フィルほどのクリーミーさはないが、というよりもドライな音に近いオーケストラ・サウンドはノセダのBBCフィルのような感覚に近いが、でも録音がそれらを補って余りある。第2楽章のドライなクリーミーさ加減は印象深い。

マーラーの10番の全曲盤はCDでは比較的よく出ていると思うが、国内の実演というのはあまりない。興行的には難しいかもしれないが、最近はまともなものからゲテまで、いろいろと演奏会で取り上げたりしているので、この曲ももう少し頻繁に聴けるようになってもいいと思ったりする。

 


671-RARE MOTHとDGのマーラー2番 バーンスタイン/NYPについて

2008-09-10 00:10:00 | 音源

昨日のブログ670で書いた演奏会(1983-1984シーズン聴いた演奏会、オペラより)は、RARE MOTHからCDRがでております。

.

RARE MOTH RM408/9-S

マーラー/交響曲第2

レナード・バーンスタイン指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

1984年ライブ

.

といった具合で粗末なものですが、具体的にはこうです。

.

1984

112()8:00pm 第10,335

113()2:00pm 第10,336

114()8:00pm 第10,337

117()7:30pm 第10,338

エイヴリー・フィッシャー・ホール

.

マーラー/交響曲第2番 復活

ジェシー・ノーマン、ソプラノ

バーバラ・ヘンドリックス、ソプラノ

聖パトリック・カテドラル合唱

ニュー・アムステルダム・シンガーズ

レナード・バーンスタイン指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

.

この録音はWQXR-FMで、1984513()3:05pmから放送されました。

RAME MOTH CDRはおそらくそれのエア・チェックから作成したものです。

以前書いたザンデルリンクの図式と同じです。

参考までに、イエローレーベルから出ている同曲は以下となります。

.

1987

416()8:00pm 第10,957

417()2:00pm 第10,958

418()8:00pm 第10,959

421()8:00pm 第10,960

エイヴリー・フィッシャー・ホール

.

マーラー/交響曲第2番 復活

バーバラ・ヘンドリックス、ソプラノ

クリスタ・ルードウィッヒ、メゾ

ウェストミンスター・シンフォニック合唱

レナード・バーンスタイン指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

.

WQXR-FM

1987920()3:05pm

ブロードキャスト

.

となりますが、このイエロー・レーベルのほうは正規録音ですので、エアチェックではなく、おそらく初日416日のテイクです。が、

ライブ録音ですのでお化粧のためにほかの日のテイクをハイブリッドしている可能性はあります。

おわり

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670- 超マーラー復活 レナード・バーンスタインNYP 1984.1.17

2008-09-09 00:10:00 | コンサート



 

1983-1984シーズンのニューヨーク・フィルハーモニック定期、まだ、ザンデルリンクがマーラーの10番を振っている最中なのに、バースタインの復活が間に挟まってきた。
この復活はあまりの凄さに忘れられない演奏のひとつ。
それでどんな感じだったの? 当時の迷文メモままです。

1984年1月17日(火) 7:30pm エイヴリー・フィッシャー・ホール
第10,338回公演

マーラー/交響曲第2番 復活

バーバラ・ヘンドリックス、ソプラノ
ジェシー・ノーマン、ソプラノ

聖パトリック・カテドラル合唱
ニュー・アムステルダム・シンガーズ

レナード・バーンスタイン 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック


1時間35分の瞬間。まさしくそれは瞬間だった。
このようなとてつもない演奏を聴けるなんて、幸せ以上過ぎる。
バーンスタインを得て、まるで水をえた魚、大空をえた鳥の如く、そのニューヨーク・フィルハーモニックの団員の奔放なこと。これがアメリカの自由だ!!
バーンスタインは年をとって身振りが小さくなった、などというのは嘘である。NYPとともにそしてマンハッタンの聴衆を背負って、面白いように飛び跳ねる。肩をいからせ独特の手振りで音楽を作っていった。そして、その音楽のなんと巨大であったことか!!!!!!!!!!!!
これはバーンスタインが今ようやく達した超・超絶的なロマンティックそのものである。というよりももうロマンティックという言葉の範疇にははいらない、全く完璧に緩急自在な演奏であった。変幻自在、どこで何にぶつかるか全く分からない、極めてエキサイティングな演奏であったといえる。
今までこのようなマーラーを聴いたことがない。
だいたいにおいてこの曲は普通1時間40分近くもかかる曲だったのかしら?
この曲のイメージはいわゆる80分シンフォニーであるのだが、それにしてもバーンスタインが指揮したこの長さ。全く弛緩することなく、最初から最後まで圧倒的な緊張感をもっていた。

第1楽章第2主題を聴いたとき、バーンスタインのちょっと出たおなかを見たときよりもドキッとした。ロマン主義音楽のまっただかなかに、まるで羊水にでも浸かったようになってしまった。バーンスタインはよく知っていると思う。マーラーだから許される表現であることを。
ここを聴いたとき、なにか遠い過去に引き戻されるというよりも、新しいなにかロマンティックなものがこれから始まる、この音楽に何かを感じとっていた。
弦などもろにポルタメントに近いが、自由自在、バーンスタインがNYPを歌わせた。細部は克明にしてかつ鮮明、不協和音も全く調和がとれ(?)、四分音符と三連符の重なり具合もまるでレントゲンでもみるようにはっきりしている。なによりも、バーンスタインとNYP、お互いのそれぞれの理解、余裕からくる音楽の広がりと奥行きの深さ。
このように全く緩急自在の音楽をやっていながら、その第1楽章が終わって音合わせをしているときにふと思い浮かんだこと。それは、なんと形式がはっきりとわかったことか、ということ。第1楽章は古典形式そのものである。そんなことは言われなくてもわかっているはずなのだが、全く再認識してしまった。
それにしても、今まで聴いたことのないような緩急自在の演奏を聴いたはずなのに、このような形式感を思い浮かべるとは一体どうしてなんだろう。
バーンスタインの一段と深くなったふところをそれとなく魅せつけられるようで、うれしい。
この第1楽章は約25分かかったが、全くその長さを感じさせず、迫力満点、素晴らしい緊張感。そしてバーンスタインの息づく音楽。

次に第2楽章。
嵐のような第1楽章のあと、時として、このような音楽は乱れがちになるものなのだが、そのような心配は皆無。弦の素晴らしいアンサンブルとその上に異常に美しく乗る木管のハーモニー。マーラーの世界に吸い込まれた。

そして第3楽章。
弦が隙間をすり抜けるような音楽。そしてはっとするような金管の荒れ狂う咆哮。そしてそのあとにマーラー独特のブラスのハーモニー。
バーンスタインは、このコントラストを全くマーラー的に表現した。美しいものはぶち壊され、そして、ぶち壊わされたものは美しいものへと変化する。

第4楽章。
ジェシー・ノーマンの独唱である。このソプラノは声の幅が太く、オーケストラを母性本能で包み込むような音の広がりをもっている。異常に安定感があり、聴いていてなんの心配もない。
ここはブラスによる祈りの音楽でもあり、それがまたノーマンに勝るとも劣らない安定感とバランスで、まるでバーンスタインに全て捧げている従僕のごときニューヨーク・フィルハーモニック、ブラス・セッションの美しいハーモニーであった。
それにしてもノーマンの表現力の豊かさは並大抵のものではなく、この約7分の中にピアニッシモを主体とした強弱のコントラスト、そして微妙なニュアンス、なにか彼女の全てを聴いたような気がした。音楽は時として、このような短い曲の中に素晴らしい光がある。

そして第5楽章。
これはマーラーが書いた抒情詩。長い長い詩。
ここにバーンスタインは35分以上かけた。
めくるめくマーラーの音楽。ただひたすらその進行方向に向いているだけで充実感はやってくる。
行進曲も、四分音符と三連符の変則的な重なりも、そして、ひたすら美しい旋律も、全てマーラーのものであり、それを大胆に、全く大胆にして絶妙に振るバーンスタインの姿。これは英雄の姿だ。
バーバラ・ヘンドリックス、彼女もまたソプラノなのだが、声の質はノーマンとはまるで異なり、繊細でガラスのような透き通った美しさをもっている。
この二人が重唱するとえもいわれぬ美しいハーモニーとなり、マーラー的世界がここでもいかんなく発揮される。
合唱もすばらしく、特にソプラノの絶叫にはなぜが見事な安定感を感じた。彼らはそれでなくても第1楽章から第4楽章まで既にバーンスタインを目の当たりに見てとりこになっているはずであるから、もう必然的にエキサイティングな音楽が表出するはずなのである。
そして、オーケストラも「復活」の名にふさわしく、ステージの裏、ホールの後方から、と、おそらくマーラーの指示通りの演奏をした。
中間部で二つのリズムが全く別々に演奏されるところがあるが、ここなどはマーラーの曲でしか味わえない醍醐味であり、ワクワクする。
最後は、もう興奮の極へと導くブラスの絶叫と合唱、遠い宇宙へその身を投げ出した。
マーラーは五線紙の上へ興奮しながら、この曲をひたすら書いたに違いない。
バーンスタインは昔の彼に対する概念を吹き飛ばさせ、大きく幅広く奥行きの深い、そして、ときには優しく、自分の音楽を表出する。なんと素晴らしい指揮者なんだろう。

このマーラーの第2番は大事な事実とメモリー。
このような演奏を聴くとやはり当初マーラーの考えていたことが、なんとなくわかり、また、ニューヨーク・フィルハーモニックとマーラーの線は当然、ワルターとかではなく、本人マーラー自身以来のものであり、大胆なマーラーの音楽と新世界的なアメリカのつながりを感じとることができる。
マーラーの音楽がアメリカで開花したような印象をもった今日の素晴らしい演奏であった。


バーンスタインはスターである。アメリカのやっぱり英雄であった。
音楽にかけては万能、指揮姿もどの瞬間をとらえても全く様になっている。それがまた音楽の大きさを伴っているので、シンプルに納得できるのである。
ステージにはいってきただけで、聴衆の絶叫は当分やみそうもない雰囲気であり、それに受けこたえるバーンスタイン。
ホールはなぜか一体となる。
名演は約束されたものとなるが、はたしてそれがどのような内容になるのか誰もわからない。当のバーンスタインもわからない。神のみぞ知る。
そしてNYPとともに絶妙な呼吸で音楽が今始まった。

おわり


669-トリスタンとイゾルデ MET 1984.1.11

2008-09-08 00:10:00 | 音楽

Scan10013

1983-1984シーズン聴いたコンサート、オペラから書いてます。

左欄のシーズン別、過去ログのリンクもご覧くださいませ。

さて、このシーズン、年も明け音楽会も佳境です。

今日はオペラです。

1984111()7:00-11:45pm

メトロポリタン・オペラハウス

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ワーグナー/トリスタンとイゾルデ

(同演目第342回公演)

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ジェイムズ・レヴァイン指揮

アウグスト・エヴァーディンク演出

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水夫の声:カーク・レッドマン

イゾルデ:ヨハンナ・マイヤー

ブランゲーネ:ローナ・マイヤーズ

クルヴェナール:アンソニー・ラッフェル

トリスタン:エドワード・スーター

メロー:ティモシー・ジェンキンス

マルケ王:マルティ・タルヴェラ

牧童:ポール・フランク

舵手:ジェイムズ・コートニー

.

当シーズン前月の12月に続く2回目に聴くトリスタン。

トリスタンはマンフレート・ユングが出られず、替ってエド・スーター。

キャストは前回観た時とガラツと変わった。

その日の感想はこんな感じ。

こうも毎日立て続けにオペラをやっているとどうしてもベストキャストというわけにはいかない日がでてきてもしかたがないのだろう。実際、イゾルデはまあまあとしてもブランゲーネはよくなかった。精一杯やっている姿が逆に痛々しい。

レヴァインの指揮がいいだけになおさらである。イゾルデにしてもレヴァインの指揮にはこの前のようにベーレンスのような歌い手こそふさわしい。

とはいえ、こちらの当面の目的はオペラを視覚的にとらえることであり、短い期間に同じオペラ、重要な作品を2回観るというのは意味があること。視覚的にとらえることによりこの5時間におよぶ作品の部分部分がそれぞれ深く印象づけられることになり、このあとレコード等、音のみによる演奏を聴いたときでも、それなりの考えはめぐらせることができるであろう。

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今日は譲ってもらったチケットで聴いた。

席がファミリー・サークルということで、ホールの天井の方であり、あいにくオケピットはみえず舞台のみとなるが、音は断然素晴らしく、弦のきしむ音や金管のブラッシングが素晴らしい。アンサンブルも申し分ない。

このようなアンサンブルをもったオーケストラなら一度はステージの上でシンフォニーを聴いてみたい。レヴァインの意思は完全にオーケストラのものとなっている。

.

基本的には、この前の演奏とは変わるところがないが、やはり第2幕の空中に浮くようなトリスタンとイゾルデ、それに伴って寄り添うようなワーグナーの音楽、この一体感は誠に素晴らしく、聴衆全て釘付けとなる。

また、第3幕。愛の死、この舞台効果も満点であり、歌い手がいまいちであっても、これは観ながら聴かなければならない作品だ。

愛の死が、愛の死の音楽が荒れ狂うとき、イゾルデは何と静かにたたずんでいることか。愛の死の音楽は心の中のものを音にした、心の中にある荒れ狂うばかりの心情を表現したものなのかもしれない。

タルヴェラのマルケ王は音楽に安定感を与えるが、活躍の場面が多くない。この劇はあくまでも二人のもの。

おわり

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668-芸術の秋が始まる前は、飲みだめ。

2008-09-05 00:10:00 | 銀座にて

4

さて、華金です。

いまだ夏の面影が色濃くありますが、もうすぐ芸術の秋です。

秋の演奏会が始まれば、週末のお酒も翌日の演奏会のためにコンディションを崩さない程度に済まさなければなりません。

ということで、飲みだめしておきました。

スコッチ・ドランカーとしてはめずらしく、7月の初旬から週末、某所にて8週連続9本のワインを飲まさせてもらいました。

華金、60度のハードリカーも仕事を忘れさせてくれる大事な友だが、こうやってワインを続けざまに飲んでみると、その微妙な味わいの違い、食べるものとの組み合わせの妙、いろいろと、仕事で疲弊したひだの中にしっとりと沁みてきていいものだ。

夜中の銀座界隈の時間がひっそりとゆっくり流れ、味わい尽くすワイン。自分だけの自由な時間、そして空間。。

.

それでと、

今年の芸術の秋のスタートはたぶん、

912()

シューベルト/未完成

ブルックナー/交響曲第9

ハルトムート・ヘンヒェン/日フィル

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そして翌日13()

デニゾフ/絵画

マーラー/交響曲第5

ハンス・ドレヴァンツ/N

.

いまひとつのような気がしないでもないが、そんなこと、聴いてみないとわからない。

昔、といってもそんな前のことではないですが、好好爺のハインツ・ワルベルクがいつものN響相手に、ラフマニノフの交響曲第3番で、急ブレーキを踏んでしまったような面白すぎる演奏をしたことがありました。何が起きるかわかりません。。

.

さて、

今日は華金。

9週連続なるか。。

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667-ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演1984.1.8翌日

2008-09-04 00:10:00 | コンサート・オペラ

 

1983-1984シーズン聴いたコンサートから書いてます。

今日の内容は、前日、前々日のブログとあわせて読んでくださいませ。

世界初演の翌日ニューヨーク・タイムズにさっそく評がのった。
ニューヨーク・タイムズはヘナハンではなく、EDWARD ROTHSTEINが評を書いている。
THE NEW YORK TIMES,
MONDAY, JANUARY 9,1984
By EDWARD ROTHSTEIN

ブルックナーの交響曲第9番のフィナーレを完成させることは、音楽学者によって不完全なスケッチに手を加えて完成させるよりも、もう少し根気のいることだ。
ブルックナーの9番は神話的な意味合いに覆われている作品である。既に出来上がっている最初の3楽章は、苦悩した作曲家の生涯の総決算、初期の自身の音楽の想起、間近な死への音楽的試みや宗教的な疑念、といったまさに”精神的自叙伝”に他ならないものとして聴かれる。
しかし、その作品の完全版の世界初演は昨日の午後、カーネギー・ホールでモーシェ・アッツモン指揮アメリカ交響楽団により行われた。(イダ・レヴィンのソロでモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番の生ぬるい演奏が先立って行われた。)
ウィリアム・キャラガンが完成させたこの版は、実際ブルックナーの音楽スケッチによるという意味だけではなく、作品の精神的広がりまで内包している。ブルックナーは第3楽章を”生への別れ”とよんだ。そのような別れにふさわしく続くことが出来る楽章はどのようなものか。ほぼ全部トラウマの音であり、苦難、超越、を想起させるような音楽を越えてどのようなものに奮い立つことが出来るのか。
作品が1903年に初めて演奏されて以来、そのような作業のことを推し量るのは困難であり、いろいろな他の試みは不十分であった。”テ・デウム”がこの”別れ”への精神的な解決策としてしばしば演奏されている。それゆえ、ベートーベンの第9との合唱の相似性を形作っている。最終楽章の提示部は1940年に完成していた。1970年代に完成した他の試みは演奏されないままだった。
ニューヨーク州トロイのハドソン・ヴァレー・コミュニティー大学の医業の教授であったキャラガンは1979年、そのスケッチに注目した。多方面にわたる音楽学の経験も持っていたキャラガンは、ブルックナーが残したスケッチは実際のところ明快であると主張した。5回もの改訂のパッセージとともに、前楽章や他作品からの主題の関係や引用を示している数百のページが残っていた。その楽章のほぼ70%が完成せずにあった。無い部分はスコアでは”空白”であり、まるでページが失われてしまっているようだと主張した。
キャラガンはこれらの空白はハーモニーとテーマの変化の分析を通して補填できると感じていた。しかし、その作品の精神的な広がりにも明らかに動かされていた。最後の方の小節は、ブルックナーの”テ・デウム”の”We praise thee,O God.”からのメロディーの自由な引用である。
昨日スコアなしで聴いた結果は、第一に、やや方向感覚を失わせるようなものであった。アッツモンは精神的自叙伝的なこの作品を、制御された劇的な演奏でブルックナーの”別れ”とした。忠実な試みの第1楽章。のどかで気晴らしの考え込む人間のふざけた様の第2楽章。積もり積もった後悔と記憶の第3楽章。これらは全て伝統的で、平静さをもって、まるで別れが平和を見つけたかのように結論づけられるようだ。
しかしながら、完成されたフィナーレは、まるで、かさぶたが熱にうかれて引っかかれたようで、問題・論点・版を再び論じているように思える。キャラガンの再構築においては、第一に、音楽的なサウンドが神経質である。ブルックナー魂(spirit)を失ってはいないが、彼の精神性(spirituality)を置き去りにしている。
付点の繰り返しは、金管の繰り返すコラールのテーマと混合する。解決策は差し迫ったものではない。しかしそうなったとき、解決策は明白でもあった。キャラガンにとって、死の床での信頼の許容ではなく、定められた勝利を勝ち取った運命の支配を、ブルックナーの”生への別れ”にするという解決策。
音楽は、この”精神的自叙伝”の結果を変えるような力を伴い勝ち誇って終わる。ブルックナーの交響曲は大聖堂と比較され続けている。この新たな解決は私たちに、前近代的なものに確信を持って別れを告げる。
おしまい

こんな感じで、この訳をどう理解するか。愚訳のせいもあり判然としないが、総じてあまり肯定的な評にはなっていない。演奏、指揮の前にやはり曲の問題が大きいのか、彼らの腕については論じていない。
フランク・プラッシュ氏はどのように感じたのだろうか。

3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


666-ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演1984.1.8当日

2008-09-03 00:10:00 | コンサート・オペラ





1983-1984シーズン聴いたコンサートから書いてます。



ブルックナーの交響曲第9番、キャラガン版第4楽章付全曲の世界初演は、1984年1月8日にカーネギーホールで行われました。

Sun, Jan 8, 1984 at 3:00p.m.
Carnegie Hall
Mozart Violin Concerto No.5
Bruckner Symphony No.9
(completed finale by William Carragan)
Violin,Ida Levin
Moshe Atzmon,conductor
American Symphony Orchestra

1984年1月8日(日)3:00pm
カーネギー・ホール

モーツアルト/ヴァイオリン協奏曲第5番
ブルックナー/交響曲第9番
(ウィリアム・キャラガンによる第4楽章付全曲)
.
ヴァイオリン、イダ・レヴィン
モーシェ・アッツモン指揮
アメリカ交響楽団

前半のモーツアルトは当初のヴァイオリン協奏曲第3番から変更になっている。
ソリストがCharles Tregerから変更になったためと思われる。
世界初演ではあったが、河童のレビューはいつになく、かなりきつめの評となっている。

このマンハッタンにおいては、いつどこで何がおこるかわからない。演奏会もまた然り。
マーラーの第10シンフォニー全曲を聴いた次の日にはこうしてブルックナーの第9番の全曲版を聴こうとは!それも世界初演らしい。
実はカーネギーホールでこの曲を今日やるということは全く知らなかったのだが、偶然とはよく出来ているもので、前の日にたまたま隣に座ったおじいさんがわざわざカリフォルニアから出てきた西部地区のアメリカ・ブルックナー協会の会長で、明日これこれでブルックナーの第9番の第4楽章つき世界初演をやるので、おたくもブルックナーが好きなら是非来てくれということでいったのです。
そして初演の前に彼がブルックナーについての講演をするからついでにそれも時間があったら聞いてくれといわれたが、これは1:00p.m.からで、前日遊び疲れており(演奏が終わったあと)、さすがに起きることが出来ず行けなかった。

さていよいよブルックナーの第9番です。
当然、第1楽章から始まるわけですが、まあ、なんとオーケストラのよく見える席であり、素晴らしい眺めではあった。
ホルンが9人(うちワグナーチューバ持ち替え4人)。左から右へずうっとならび、その見た目の派手さ。因みにこのホルン9人というのは、コントラバスの人数と同じ。
オーケストラはうまくなく、ニューヨーク・フィルなどと比べたら明らかにおちる。
興ざめするほどではないのだが、たまに音楽が隙間だらけになり穴だらけになるときがある。
これは指揮者についても言えていて、彼はこの曲をこなしていない。というかこなれていない。
普通には振れるのだが、その筋の専門家のような安定感を得ることが出来ない。
ブルックナーなどの場合、オーケストラ自身を安心させるような包容力がなければならないのだが、彼は振るのが精一杯のように見受けられる。
逆に言うと今まで聴いたことのない第4楽章が一番安心して聴いていられた。

あの寂しさが漂う第3楽章のあと、第4楽章が出てくるというのはなんとなく変な感じであるが、ブルックナー自身は基本的に第4楽章が完成して、ひとつのシンフォニーの世界と考えていたわけであるから、本当は第3楽章が終わって寂しげに拍手をしてはいけないのである。
途中で終わってしまうこと自体が何か感傷的なものにつながっていたわけだ。そのような意味においては、この版を完成させたキャラガンという人はブルックナーの意志をついでくれたといえるのかもしれない。

さてその第4楽章なのであるが、まず、最初に感じたことは、メロディーが無さ過ぎるということです。前の1~3楽章の豊かさに比べて、あまりにもメロディーが無さ過ぎる。まるで伴奏部分を聴いているようだ。素材に発展性がなくあまり美しくない。
従って、自然に次に感じることは、3つの主題が全く明確性を欠き、構成がよくわからない。どこから展開部になるのかわからず、また、どこにあったものがここに現れるのかよくわからないのです。再現部はさすがに第1楽章の主題らしきものが現れたりして、なんとなくクライマックスをむかえているようだというのはわかるのだが、これではあまりにもありきたりのような気がする。

一度聴いただけではわからない面もたくさんあると思うが、この版は成功とは言えないと思う。
世界で初めて、ということに意義を見出すべきなのかもしれない。それにブルックナーの意志を継いだということは大切なことです。

レヴィンの弾いたモーツアルトは代役のせいもあるかもしれないが、このごろの若い人には珍しく技術的にだめで、聴いていられなかった。
おしまい

こんな感じで、かなりボロクソに書いてしまっているが、実際のところこうだったのだ。
指揮とオケの出来が悪く、曲も足を引っ張られたというところか。
やはり、何事も最初が肝心で、白熱の演奏を繰り広げていれば、このあとの演奏史にも別の光があたっていたかもしれない。
それと、当時と違って今は、このような編曲版に対しても聴く方の間口が広がってきている。
宙に浮いたような独特の二短調が、最後に解決する音響を聴きたいものだ。

おわり

 


665-ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演1984.1.8前夜

2008-09-02 00:10:00 | コンサート・オペラ

1983-1984シーズンのことを書いてます(マンハッタンの公演だらけです)

この前書いたザンデルリンク指揮によるマーラーの10番6回公演のうち、2回目の1984.1.7の公演の翌日1984.1.8にブルックナー交響曲第9番キャラガン版による世界初演が行われたわけですが、とりあえず1.7のことを書きます。

この日の前後は、ザンデルリンクがニューヨーク・フィルとマーラーの交響曲第10番クック全曲版の6回公演の最中であった。
河童は1月5日にこの公演にもぐりこんで、未体験ゾーンのマーラーを楽しんでいた。
そして1月7日つまりブルックナーのキャラガン版世界初演の前の日も、このマーラーを再度楽しむためにゆっくりと席に座った。
のだが、
今日はどうも隣のおじさんがチラチラと右左をみて話し相手を物色している。

隣のおじさん
「エクスキューズ・ミー・サー。きょうのマーラーは10番の全曲版ということで興奮するね。」
河童
「ヤー。でも、僕はおとといの初日も聴いたので今日は2回目だけど。」

「オー・グレイト。君は新しいもの好きだね。」
河童
「ワゥゥ。別にそんなこと、あるかもしれない。」

「今日のマーラー10番もエキサイティングだが、
ユノウ?実は明日ブルックナーの交響曲第9番のキャラガンが作った第4楽章付の全曲版の世界初演があるんだ。」
河童
「アイノウ。だってチケットもってるもん。」

「リアリ?それはすごい。明日は3時からの公演だね。」
河童「ライ。」

「じゃ、今日のナイトキャップはほどほどにして、明日公演前の1時に52丁目の方にこないか。(といっておもむろにブローシュアーを取り出す。)」
河童
「ホヮット?日曜日の朝はおそいんだ。」

「明日1時からブルックナーの公演の前にフランク・プラッシュのブルックナーの講演があるらしい。」
河童
「講演を聞いてから公演を聴くのか。(日本人にしかわからないジョークだな。)」

「駄洒落はよくわからんが、とにかくこのブローシュアーにサインしておくから、それもってきて。それと名刺もあげとく。」

名刺には、アメリカ・ブルックナー協会西地区会長FRANK J.PLASH と書いてあった。

1

 

 

 

 

 

 


664- RARE MOTHのCDR クルト・ザンデルリンクについて

2008-09-01 00:10:00 | 音源



下記のブログで、1983-1984シーズン年末年始のあたりのニューヨーク・フィルハーモニック定期のことを書いてきました。

659-

660-

661-

662-

663-

.

市販(されている)CDRRARE MOTHというレーベルがあります。

この中に、

RARE MOTH RM 515-S

シューベルト/交響曲第9

クルト・ザンデルリンク指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

1983.10ライブ ステレオ

.

RARE MOTH RM 516-S

マーラー/交響曲第10

クルト・ザンデルリンク指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

1984.1ライブ

.

というのがあります。

両方共に2003年ごろの発売です。

まず、①にある日付のクレジット1983.10というのは誤り。

198310月にザンデルリンクはニューヨーク・フィルハーモニックを振っておりません。

このシーズン振ったのは659-にあるとおりです。

ですから、シューベルトに関しては正しくは、1983.12または1984.1となります。

シューベルトの交響曲第9番は

1983.12.29()8:00pm

1983.12.30()2:00pm

1983.12.31()8:00pm

1984.1.3()7:30pm

1984.1.21()8:00pm 

(1.21は前半が上記4公演と異なるプログラム)

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マーラーの交響曲第10番は

1984.1.5()8:00pm

1984.1.6()8:00pm

1984.1.7()8:00pm

1984.1.10()8:00pm

1984.1.20()8:00pm

1984.1.24()7:30pm

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RARE MOTHCDRはエアチェックだと思われます。

WQXR-FMというクラシック専門のラジオ局で毎週流していた放送のエアチェックと思われます。またはそれの全米向け放送版のエアチェック。

WQXR-FMにおけるニューヨーク・フィルハーモニックのライブ放送は、当時毎週日曜日の午後3時のニュースのあと3:05pmより約2時間。

シューベルトは1984624()に放送。

マーラーは1984617()に放送。

普通、4公演1定期ですので、放送もそのうちから1回。今回の公演は回数が変則になってますので、もう一度別に放送があったかもしれませんが、順当にいけば、

シューベルトは初日の1984.12.29()の公演の放送。

マーラーは初日の1984.1.5()の公演の放送。

といったところでしょうか。

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それを、たぶんオープン・リール・デッキのTEACX2000Rでエアチェックし、四半世紀あたためて、エアチェックのオリジナルを作り、その後ルートは不明ながらCDRにして発売と言ったところでしょうか。

TEAC-X2000Rというのは想像ですけど。。

いずれにしても、テンシュテットのマーラーの6番とか他にも1980年代のものが多数出てますが、同じです。また、他の海賊盤も同じようなものです。

テンシュテットのマーラーの6番は現場ではものすごい演奏で、NYPの音群が固まりながら空中浮遊したような爆演でしたが、CDRでもその雰囲気は感じとることができます。

この日の公演模様はいつか書くことがあるでしょう。

結局、欧米とわずいたるところの放送局から流されている演奏公演のエアチェックですから、これらを追いかけ、正規録音も追いかけるとその指揮者を全部追っかけてみたような感じになってしまうんですね。そして全部名演奏だったような気がしてくるんですね。

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RARE MOTHCDRの中身の真贋ですが、まず本物でしょう。自分の記憶や持っているオープン・リール・テープ、カセット・テープと比べる限り。。

ただ、一般に日付に関しては、公演があった日ではなく、放送があった日をそのままクレジットしているケースがあります。Broadcast、BCなどと書いていればそれが放送日だとわかるのですが、ここらへんが怪しいところではあります。



ところでザンデルリンクはこれら猛烈な演奏会の間に、同じオーケストラの組み合わせ次のような公演をもってます。

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1984.1.19()eve

リリー・レーマン・センター、ブロンクス

クルト・ザンデルリンク指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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曲はなんだったんでしょうね。
おわり