河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2175- サマーフェスティヴァル2016、サーリアホ、イスキエルド、東響、2016.8.30

2016-08-30 23:17:12 | コンサート

2016年8月30日(火) 7:00pm サントリーホール

シベリウス  交響曲第7番ハ長調 (1924)  21′

カイヤ・サーリアホ  トランス(変わりゆく) (2015) 世界初演  7′7′9′
  ハープ、グザヴィエ・ドゥ・メストレ

Int

ゾーシャ・ディ・カストリ  系譜 (2013) 日本初演  11′

カイヤ・サーリアホ  オリオン (2002)   16′5′

エルネスト・マルティネス=イスキエルド 指揮 東京交響楽団


サントリー サマーフェスティヴァル2016の千秋楽。
これで全8公演のうち6公演聴いたことになる。サーリアホさんは先週の水曜日(2016.8.24)に続き2回目。先週はブルーローズでご本人と細川さんとのトークから始まりました。今日もご本人は登場しましたのでしばらくの間、ずっと日本でのお勤めご苦労様です。

今日の指揮はスペインのサウスポー指揮者イスキエルド、お初で聴きます。前半は左側の席で観ました。小柄で、気のせいか左の耳の中がたまにきらりと光る。

シベリウス
ちょっとイディオムが違うかなと思ったのは、全体に柔らかすぎるということもあるが、最後の締めの絞り込み2分音符ハ音の弦終止がロマンチックに長め。あまり聴くことのないものでした。(例外はムラヴィンスキーで、これでもかというぐらい引き伸ばす、2分音符×10倍ぐらい)
ブラスはそうとうに抑えめ、弦もウィンドもブラスも角を過度に強調しないもので、メリハリ路線ではなく自然なぼかし作戦。ふやけた感じ。ソロトロンボーンなど遠慮の塊みたいなもんですね。最初のトロンボーンソロのあとのクラリネットのユニゾンも張りの無いもので、さえない。また、再現部ソロもパッとせず構造的なフレーム感覚も今一つ。
今回は企画ものの一旦ですから特にどうこう言う話ではないかもしれませんが。

トランス
3楽章構成のハープ協奏曲。ハープの音量に配慮したもので、オーケストラの音量とぶつからないようにしている。音楽を聴いているというよりデリケートな神経細胞を見ているようなおもむき。第3楽章で伴奏オケのカヤカヤな鳴りは蛍が飛ぶ蚊が泣くようなもので、人によっては煩わしい音のように聴こえてもおかしくはない。
サーリアホの素材の活用、展開という説明。この作品に限らず、素材という言葉にはシベリウスのことが前提にあるような気がする。その素材の活用と展開は世界初演だからかもしれないが、自分ではその音を簡単につかむことはできなくて、楽章間のつながりのようなものの理解までには至らなかった。ハープの技巧表現は作為的に聴こえるところもある。色々駆使した結果として何が聴こえてきたか、今一つわからなかった。

系譜
リズム、水滴のような表現、引き伸ばされた音、複数のテクスチュアが独自にシーケンシャルに出てくる。弱音部分では多彩な音色と言われても弱いと感じる。指揮のほうも、もう少し峻烈さが欲しい。そのほうがクリアでわかりやすい。皮膚感覚的には、この種の音楽にもっとマッチした振りを見せられたのではないのか。切れ味が欲しいですね。

オリオン
3つに分かれている音楽。聴いた限り一つしか区切りがわからなかった。おそらく、Ⅰメメント・モリ、Ⅱ冬の空、これらがくっついていて、最後のⅢ狩人、この前ではっきりポーズしたものと思われます。タイミング的にもそう思います。
冒頭、メシアンの刻みをつぶし込んだようなリズムから始まる音楽は苦しい。静と動、違うものを並べることにより対立軸を作り音楽の多様な表情を表現していこうというものだろう。最後はつぶされないメシアン刻みが感じられる。リズムの解決はオリオンの二重性の融合というわけではなくても、二つのものが一つの個体から発せられているものだというしるしとしての帰結の策だろうとは思う。
大オーケストラのための曲です。ざっくりしたところが多い曲で、指揮での緻密なコントロールが求められる。東響は素晴らしい演奏ではあるのですが、指揮者により少しまだら模様になるところがあるのが、もうひとつ、我慢のしどころというか、自発的積極性の欲しいところです。

以上4曲、
このシリーズ、これで8公演中6公演聴いてめでたく千秋楽。今日の内容が少し残念でしたけれども充実の6日間、ありがとうございました。
おわり


 


 


2174- サマーフェスティヴァル2016、板倉康明、都響、2016.8.29

2016-08-29 23:43:54 | コンサート

2016年8月29日(月) 7:00-9:30pm サントリー

ブルーノ・マントヴァーニ  衝突(2016) (世界初演) 18′

マグヌス・リンドベルイ  ピアノ協奏曲第2番(2011-12) 14+4+14′
  ピアノ、小菅優

Int

ゲオルク・フリードリヒ・ハース ダーク・ドリームズ(2013) 日本初演 27′

ドビュッシー  海(1905)  10′7′9′


板倉康明 指揮 東京都交響楽団


サントリー サマーフェスティヴァル2016 ウツクシイ・演奏。
先週の木曜日(2016.8.25)に続き、板倉さんの指揮で。
先週はブルーローズでの公演、今日は大編成サウンドを大ホールで。充実の4曲、2時間半ロングの演奏会となりました。

衝突
これはサントリーの委嘱作品で世界初演。指揮の板倉さんにデディケートされたもの。
動-静-動と再現、もしくは、急-緩-急と再現。
ウィンドの集合体で機械的な音を奏でるところから始まる。これが凄い。よっぽどうまいオケでないとこんなスクリュードライバーみたいな音は出てこないだろう。
ウィンドの束からブラスセクションに伝播しファンファーレの様相を呈してくる。弦は伴奏のようだと思えるぐらいこれらのセクションのサウンドは爽快できつめのもの。音楽素材同士のぶつかり合いのようには聴こえない。むしろ滑らかな対話のよう。
動きが一旦落ちつくと弦を中心にした静の音楽。解放された雰囲気は無い。テンションの高い音楽。
そして動にもどり、最後は最初のウィンドのスクリューが再現されフィニッシュ。
構造感有り、旋律の絡み合いは無し。作曲家が意図したことが聴こえてくる。
演奏後、マントヴァーニさんがステージへ。演奏に満足したと思います。

ピアノ協奏曲第2番
リンドベルイのこのコンチェルトは2014.2.12に一度聴いている。初演時の組み合わせと同じで、ブロンフマン、ギルバート、ニューヨーク・フィルの来日公演。
その時はさっぱりわからなかったが、今回2度目の演奏ではなにもかもが氷解した感じ。
第1楽章始まって7分ほど経ったあたりで、完全に、ラヴェルの左手コンチェルトを耳がつかんだ。一度つかんでしまうとラヴェルそのものを聴いているような錯覚に陥ってしまった。耳から鱗が一気に100枚ぐらい剥がれていった感覚。
ラヴェルのガラス細工のような透明感、洗練された響き。オリジナルを5倍ぐらい複雑化、多様性をもたせ展開を次々におこなう。
小菅さんのピアノが凄い。両手が蛇腹のように広がったかと思うと縦に突進。極めて美しい透明感ある響きはラヴェルを通してリンドベルイが表現したかったものそのもののようだ。
当方、氷解しているので2楽章の緩徐楽章などさらに美しく聴こえてくる。伴奏ともども心地よいし、それを横に置いても小菅さんのソリスティックな弾きがさらに心地よい。この透明ガラス感触。素晴らしい響き。美しい演奏。力強くて繊細。表現の幅が大きくて、両腕で表現できないものは無い、っていう感じ。
楽器の編成はラヴェルとほぼ同じとリンドベルイは言っている。今日のオケは、編成比は同じという意味合いぐらいのもので巨大化している。音量はそれに比して増大。都響の腕前の良さもあり、グイッと持ち上げられたような透明な響きが心地よいもの。このような伴奏の中、ソリスティックな表現を推し進めていくことが出来る小菅さんの技量には感服するしかありませんね。
終楽章はもはやシリアスなラヴェル風で、作曲者の見事に消化したラヴェル、複製と言った言葉は一切浮かばない、消化して再創造された作品の見事さにほれぼれする。
秀逸な作品と秀逸な小菅さんのピアノ、満足しました。

ダーク・ドリームズ
長い曲でしたけれども面白く聴けました。
前半に動きあり、パーカス3人によるミニマル風な3個の別リズムのポンポコでブリッジして後半へ。後半は同じ音を別の楽器の束で伸ばす、それの繰り返し。たしかに、音色旋律風味があると言えるかもしれない。同じ音を次々とインストゥルメントを変えて鳴らしていく。楽器一個ではなく束での伸ばし。ブレンドされた音色が、次々と別の色にブレンドされた音の束に推移していく、その連続。
音色の移動を楽しむ。巨大オケでの音響の動きはフレッシュで飽きのこないもの。もう、この曲で終わってもいいのではないかと思うぐらい満腹。この種の作品もっと出てきてほしいですね。オーケストラの能力が問われる作品で、ただやればいいというものでもなくて、相応な高性能スキルにより作品があらわになる。


飯倉さんのスタイルは前3曲と同じですね。今生まれたかのような雰囲気を濃厚に感じる。いわゆる現代音楽のセンスで振った棒。
インテンポで進める海は印象的で、それにオケの厚みが曲に膨らみを感じさせる。現代音楽のオーソリティがこのような曲を振ると何故か透明感が増す。聴衆に透明感がある演奏だなぁと思わせてしまう。
都響は前3曲と少し異なり、気持ちが解放されたのか、ザッツにこぶが出来ている。どうも微妙に合わない。なんだか、義務感でやっているような雰囲気が散見。ちょっと残念。
指揮者がなぜこの曲をこの位置にプロデュースしたのか、ウツクシイ・音楽、その締めにしたかったはず。どうも、そこらへん、ちょっとね。緊張感緩むのは悪い話ではありませんが。

以上4曲、
総じて楽しめました。ハイレベルの作品とハイレベルの演奏。大満足でした。ありがとうございました。
おわり



サントリー芸術財団が主催のせいかどうか、それとも指揮者のまっとうな進行のおかげか、都響の定番5分遅れ入場定期公演とは違ったもので、時間通りの動き。定期でもこのような具合に是非してほしいものです。

 


2173- ポポフ1番、ショスタコーヴィッチ10番、森口真司、ダヴァーイ、2016.8.28

2016-08-28 22:15:16 | コンサート

2016年8月28日(日) 1:30-4:00pm トリフォニー

スヴィリードフ  時よ、前進!   4′

ポポフ  交響曲第1番   23′13′8′

Int

ショスタコーヴィッチ  交響曲第10番ホ短調  24′4′12′13′

森口真司 指揮 オーケストラ・ダヴァーイ


この前(2016.8.4)、ノリチカ、東響によるポポフの1番のjpを聴いたばかりで、今度はアマチュアjpがあるというので聴きに来ました。
ノリチカ編成は東響のプログラム冊子に書いてあったものが、ブラスがなぜか倍増していましたけれども、今日の演奏は見る限り、トランペットは多そうですが概ね指定通りのようです。
このような音量的な面もあり割と冷静に聴くことが出来ました。
両端楽章はブラスをはじめとしたあまり細かくない刻みと、対するストリーム。これらは素材であってその素材の展開は、自らが作った調性を横に置いたようなフシで、プリヴェントされていると感じる。構造もわかるにはわかるが明確ではなくて、形式感をもって書いたのかどうかよくわからない。この前も書いたが、オーケストラのための協奏曲的な聴き方だと比較的すんなりいきそうだ。
アマチュアオーケストラはめったに聴くことはありませんのでこのダヴァーイも名前を初めてききましたぐらいで(失礼)、でもこなれた演奏でしたので相応な練習を積んだものと思われます。少し響きが硬いと思いましたが、終楽章のねじを巻いていくような絞り込みプレイはお見事でした。腕はプレイヤーによりまだら模様なところもありましたが、合奏体としてコンセントレーションの高まりが音楽表現にきっちり出ていました。よかったです。
総じて、1番がこのあと流行っていくとは思えませんが、2番以降のシンフォニーも聴く機会があれば色々と耳の具合も成長していけるかもしれません。そんな楽しみはありますね。

ヘヴィー級のプログラム後半はショスタコーヴィッチ。
深刻にならず、あたまから割となめらかな演奏で、ひっかかりがない。暗い気持ちで聴くことが多いだけに今日の演奏は晴れ時々うす曇りのようなリラックス気分で。指揮者の意図としても流れにポイントにおいた解釈ではなかったかと思います。
そのような進行でしたが結果としてはそうとうな時間を要したもので、張りのある演奏であったなと。ブラスの後打ちがちょっと遅れ気味になるところがあって気になりましたけれども重さは無かったです。最後の爆発まで緊張感のある気持ちいい演奏でした。

最初のスヴィリードフの曲は初めて聴きます。進み具合はタイトル通りのものでしたが、終わりが突然やってきてこれだと前進も文字どおりはいかないかもしれない。

プログラム冊子は初めて見る作りで面白かった。ツイッター文が6ページも続くもので全部読み切りました。内容も濃いものでした。
山田治生さんの「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方(ツイッター演奏会日記)」をちょっと思い出しました。

いい演奏会でした。ありがとうございました。
おわり


2172- サマーフェスティヴァル2016、佐藤紀雄、ノマド、2016.8.27

2016-08-27 23:57:39 | コンサート

2016年8月27日(土) 7:00pm サントリー

クロード・ヴィヴィエ  ジパング (1980) 日本初演  15′

マイケル・トーキー  アジャスタブル・レンチ (1987) 日本初演 12′

武満徹  群島S (1993)  13′

Int

リュック・フェラーリ
ソシエテⅡ-そしてもしピアノが女体だったら (1967) 日本初演 30′
ピアノ、中川賢一
打楽器、吉原すみれ、加藤訓子、宮本典子

(encore)
武満徹 オーケストラのための「波の盆」より、第1曲「波の盆」 4′


佐藤紀雄 指揮 アンサンブル・ノマド


サントリー サマーフェスティヴァル2016 単独者たちの王国。めぐりあう響き。
一昨日(2017.8.25)の板倉、東京シンフォニエッタに続き、今晩は佐藤、ノマドによる大変にユニークで斬新なプログラム。

佐藤はプログラム・ビルディングを考える人でこの日の公演もそれなりの意図があったと思います。錚々たる作曲家の流れがある中、それとは別に自身の直感で色々と模索してきた人たちもいる。そういったあたりのことを踏まえ破格の人間性をもった方々の作品を紹介。
意欲的なプログラミングで現代音楽を聴く醍醐味、心ゆくまで楽しむことが出来ました。


ジパング
しもて側に弦6人、かみて側に弦7人。シンプルな編成。
同じような音を伸ばす。ボーイングを色々と変えてヴァリエーションを作っていく。音色旋律ならぬ、同一楽器で音色を変えていき旋律のようなものを作っていく。なにか安定感がある。昔の日本というものになにかそのようなイメージがあって作ったものか。弦の多彩な音色が魅力的。
作曲家のヴィヴィエは35歳ぐらいで亡くなっている。パリ滞在時、刺殺されたとのこと。悲しい出来事である。生き続けていたなら室内楽を中心にさらに興味深い作品が生まれていたことだろう。
指揮者の佐藤は逆水玉と言いますか、薄いブルーのシャツ、黒い水玉がポツポツとある派手な服装。プレイヤーも思いっきりカラフルな服装。この後の展開が興味をひく。なんか、自由でいいなぁ。

アジャスタブル・レンチ
説明だと4つのグループ配置のようなことを書いてあるが、見た目はステージにオーケストラが通常乗っているセッティング。アンサンブル単位のまとまりはあるのでそれがグループという認識かもしれない。編成はコンパクト。
この曲は最初から最後までリズミックなもので、ストラヴィンスキーのポルカやダンスの曲を思い出させる。拍子はストラヴィンスキーの複雑さは無くてあっけにとられるぐらいのシンプルさ。また、ノマドの技術レベルの高さがよくわかる曲でもありそうだ。ノリのあるうきうきしてくる演奏でした。タイトルとの関連付けはあまり考えないほうがよさそうだ。
ここでの服装は少し変化して、パンツは最初の曲同様カラフルなものだが、シャツは正装気味にブラック。明らかに意図をもった服装変化。このあとどうなるか。

群島S
武満はオーケストラを5群に分けるとしている。今日のセッティングはステージ上に3群。会場1階前寄りの右左に一人ずつクラリネット奏者。5群といえばそうかもしれない。
群島のSは複数形を表わすものであり、また武満が目にした群島のイニシャルがS、そのようなシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)がインスパイアのもとになっている。分散された同質なもの別なものがお互いに引きつけあう音楽。言葉では言いえても音楽にするとそれはどのような表現になるのだろうか。興味深いところではある。
簡単に言うと、前半は、ドビュッシーの海、特に2部に多くある「3連符+長め音符」タタタター、がそこかしこから聴こえてくる。そして後半は、今度は同じドビュッシーの牧神、それのフルートを中心とした下降音型、これがそこかしこから聴こえてくる。
これはいったいどうしたことだろう。1993年の作だそうだが、どうしたことか。ドビュッシーに驚くほどよく似ている。
引きつけあうというのは引力で近づくというより、それぞれの響きが徐々にメロウにブレンドしていくさまなのだろう。とろけて混じる。演奏は秀逸で明瞭な響き。もやもやしたところは皆無。素晴らしい演奏です。いわゆる現代音楽の雰囲気がよく出ている。
ここでの指揮者とプレイヤーの服装は先ほどより正装化が進み、黒シャツ、黒パンツ。


ソシエテⅡ
最後はのけぞるような奇抜な音楽。1967年の作とあるから、当時のいわゆる現代音楽シーンを彷彿とさせるものがありますね。
指揮台の真正面、ステージの真ん中にピアノ。それを取り囲むように半円型にノマドメンバーが配列。その奥に3人分のパーカッション。
それに小道具がある、指揮台のややかみてにクリーム色のソファのチェアがありそこに新聞を置いてある。

最初に服装を書いておくと、ノマドのプレイヤーは上着も着用して黒の正装。指揮者の佐藤は蝶ネクタイまでしている。そして4人のソリスト、彼ら達だけが超カラフル自由奔放な服装。思わず苦笑させられるが、これは最初の曲ジパングでのノマド達の服装と同じものですね。この意図された服装の流れ、なんだか、佐藤のプログラム・ビルディングへのこだわりの通奏低音と言いますか、テイストがありますね。こうゆうユニークな余裕がさすがのコンビとうならせるに十分なものがある。

わりと雑多な響きで始まる。整理整頓されていないようでされている。カオスのようでカオスでない。ある程度コントロールされたリズミックな響きの世界。このクリアな混沌が結構長く続く。
そしてほんのひと時、マーラーの緩徐楽章の断片のようなメロディアスなフレーズが出てきてどきっとさせられる。
まもなく最初のクリアな混沌の世界へ。
そして真ん中のピアノの打楽器風カデンツァ、蓋を取り去り、プリペアードなピアノというよりもプリペアードで準備するものを使って、全体を叩きまくる。もちろん弾きまくる。
同じようにステージ奥でパーカス3人衆がカデンツァ風に叩きまくる。こちらは打楽器なので問題は無い。
パーカスが勝手カデンツァを始めたところで、指揮者は指揮台から降りて、小道具のソファに座り新聞を読み始める。ピアニストがちょっかいを出す。
そうこうするうちピアニストは、今度は鍵盤だけを使って甘いメロディーを弾きはじめる。しかしパーカスがうるさくてあまり聞こえない。
パーカス3人衆がピアノの近くに寄り、打楽器モードでピアノのいたるところを叩く。そしてピアニストをどかして自分たちでピアノを弾いたりする。ついにピアニストは声まで出す。声を張り上げる。
指揮者は新聞読みを終わり、また指揮を始める。
などなど、等々、色々、
いろんなことが起こり過ぎで、記憶はとりあえず、ここまで。
そしてこのようなことを30分近く使ってやり終える。
指揮者は聴衆に向かいお辞儀。聴衆の拍手。指揮者退場。
あっ、なんとプレイヤーたちが、なぜかまた演奏はじめるハプニング。
指揮者は正装の上着にまだ片腕が抜けない状態で登場して指揮を始める。
そしてめでたく演奏をやり終える。
ユニーク過ぎて声にならない。

叩かれまくられたピアノはこのあと廃品回収かオーバーホールの病院行きになるのではないのか!というぐらい激しいもの。
そしてここでふっとあらためて副題を眺めてみる。それは、
「そしてもしピアノが女体だったら」!  !!
ボコボコにするのは吉原すみれさん加藤訓子さん宮本典子さん女性3人のパーカス奏者なのよね。

これをどうとるか、全てが作為と言ってしまえばそれまで。身も蓋もない。
作曲者のフェラーリは外の音を聞く人。それを集めて蓄積、音による別の世界が頭の中に構築されていたのかもしれない。そのイメージを今度は音にして表現した。とんでもない世界が出てきたわけであるが、彼にとってはごく自然な出来事だったのかもしれない。脳みそを見せられたような気分になったけれども、なぜか居心地が良い。他人の出来事として眺めているからなのだろうか。そこに到達することは出来そうもないが、とりあえず、世界は見えた。

ピアノの中川は大熱演で、この作品を食べてしまっているのではないのか。それも胃が4つあってこれ以上ないぐらい消化し尽している。あっぱれな演奏とアクション。ほれぼれするものでした。
ピアノにたかってボコボコにしたパーカス3人娘。多様な響きを味わえてこれまた最高。
そして、指揮の佐藤、彼の腕はやっぱり凄かった。アンサンブル・ノマドの冷静なプレイは各自の高レベルな自意識の表れのようにさえ見える。
楽しかった。

以上、4曲。
普通ならここで終わるだろうに。
佐藤がマイク持ち出し、アンコールをやると!
ステージをセッティングしなおしてするアンコールなんて見たことも聞いたこともないが、セッティングが始まった。佐藤のお話で場をつなぐ。
アンコールの曲は武満の波の盆、甘いメロディーが、まるでプロレスの後の整理体操のように心地よく響く。
波の盆はこの5月に尾高、N響で聴いたばかり。そのときにも感じたのですが、デ・ニーロが出ていたレオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のワンシーンの音楽とよく似ています。
心のすみずみまで浸透する甘くて切なさを感じさせるもの。なにもどうしようもなくてせめて音で隙間を埋めていく。音で出来る一つの側面ではあると思います。

ということで最後に気持ちを落ち着けることが出来ました。このアンコールまで含めた佐藤のプログラム・ビルディングの技にこそ称賛を。
素晴らしい企画と充実の演奏、本当にありがとうございました。
おわり


2171- モツクラ協、オッテンザマー、ブラ1、ヴァイグレ、読響、2016.8.27

2016-08-27 23:38:42 | コンサート

2016年8月27日(土) 2:00pm 東京芸術劇場

ウェーバー  魔弾の射手、序曲  9′

モーツァルト  クラリネット協奏曲イ長調  12′7′7′
  クラリネット、ダニエル・オッテンザマー

(encore)
オッテンザマー  インプロヴィゼーション  2′

Int

ブラームス  交響曲第1番ハ短調  17′9′5′17′


この前(2016.8.23)、この指揮者を聴いて、今日も。
入念なところ、すっきりしたところ、あります。いずれにしても几帳面な棒。
魔弾の濃さ、ときおり見せるスピード感、独特の感性で進む。アンサンブル単位のコントラストは強調されないが、フレーズのこのような濃淡は的確で納得できるもの。正面突破の音楽づくりですね。ブラームスはそのような方針がさらに推し進められる。
そのブラ1では第1楽章提示部をリピート。この楽章単独での構造バランスはわるくなるが、4楽章まで通した構成感の完成度はぐっと増したと思います。
そのようなことも含め、今までともすると忘れ去られていたあたりのことはきっちりと隙間埋めされていて、心地よい音楽が鳴り渡る。また伸縮はバレンボイムと同質なのかもしれない。彼の推しが効いているわけですね。
読響のプレイヤー達は演奏しやすそう、呼吸が合っています。結構長めな演奏となりましたがそれを感じさせないもので、コンセントレーション高めて聴くことが出来ました。

間に挟まれたモーツァルトのコンチェルト。先だってシュミードル(2016.8.10)でこの曲を聴いたばかりですが、技術的な話だとダンチのこっち。
細身体躯の長身、サウンドも似ている。切り口の鋭さは強調されないが、タイ、スラーの滑らかな吹きっぷりとスタッカート気味な小気味の良さは明確に吹き分けられている。
この方もよく動くのだが、オーボエのルルーのように右見たり左見たりしながら吹くことは無く、正面向きで前後移動しながら吹く傾向はあるけれども、聴衆サイドからの音源のぶれは感じられない。
内容的には、この前の演奏のあれがワイプアウトされました。ただ、シュミードルは動きません。
おわり

 


2170- サマーフェスティヴァル2016、武満徹、タン・ドゥン、東フィル、2016.8.26

2016-08-26 23:34:17 | コンサート

2016年8月26日(金) 7:00-9:30pm サントリー

武満徹  ジェモー(双子座)  8′9′6′7′

(しもてサイドのオケ)    (かみてサイドのオケ)
オーボエ、荒川文吉      トロンボーン、ヨルゲン・ファン・ライエン
指揮、三ツ橋敬子       指揮、タン・ドゥン


Int

プレトーク タン・ドゥン 10′
タン・ドゥン  オーケストラル・シアターⅡ:Re   22′

(通常位置でオーケストラを指揮)   (かみてで会場の楽器、聴衆などを指揮)
指揮、三ツ橋敬子            指揮、タン・ドゥン
                    バス、スティーブン・ブライアント
                    (しもてで歌唱)

武満徹  ウォーター・ドリーミング   12′
フルート、神田勇哉
指揮、タン・ドゥン

プレトーク タン・ドゥン 10′
タン・ドゥン  3つの音符の交響詩  12′
指揮、タン・ドゥン


管弦楽、東京フィルハーモニー交響楽団


サントリー サマーフェスティヴァル2016
サントリーホール30周年記念 国際作曲委嘱作品再演シリーズ

強烈に意欲的なプログラムでこうゆう場があることだけでも感謝感激ものです。
武満2作品と自作自演2作。タン・ドゥン自作自演では演奏の前にトークがありましたので、休憩入れて約2時間半ロングのコンサート。現代音楽でこのような長い演奏会は稀ですね。だいたい、一つの曲が短くて、都度、セッティングしなおす手間入れても2時間はいかない。この日の作品は一つ一つが長いものでした。セッティングはかなりの手間がかかりそうですが曲順などで配慮し、てきぱきと進められていました。充実の公演。

ジェモー
2がキーワードであるというよりもむしろ武満の推考結果であろうことがうかがわれる。オーケストラを一つの完成物としてではなく、無数の音源散らばりとして見ている。だから、彼は日本庭園といったものとも重ね合わせて見ることができる。ディテールの集合体としての調和。細部の匿名性。単一な音楽イメージに焦点を絞らない。汎焦点的に作り上げる。
かいつまむとそのような話であるから、オーケストラが二つあっても、ともすると西洋音楽のように対立する二つ、みたいな所はなくて二つが融合している。オーケストラは二つあるが、アンサンブルの集合体のようなものですね。
音楽による恋愛劇で、時に相反するものが、愛によって帰一する態を描いている、とあるが対立はなく別のものが一つになるもの。それであればこそ、最後だけなぜか予定調和的なトーンで終止したあたりへの理解の助けの説明にはなる。あすこだけは聴いていて、気持ちは安定したが別の違和感がありましたからね。
オーボエ、トロンボーンのソロがついているのは武満の言う汎焦点的な作り込みのコンセプトからしたら真逆のようなことに思えるが、ここらあたりの話は既にどこかで語られているのであろう。
曲は4ピース。Strophe/genesis/traces/antistrophe、それぞれのストレートな意味合いは別にしても日本語にした表題があれば大いに助けになるところだが。
角の無い音が漂う指向の強いもので音量はオーケストラ人数に比例して厚い。バリエーションが多彩になる分、曲自体の長さも比例して長めに作ることが出来るといったところもあるかもしれない。
どこからどのような響きが次に出てくるのか予想のつかないもので、音楽の進行性がメインテーマではない。それであればこそ4つの区切りを設けて切り込みをつけたのかもしれない。冗長感は無い。響きに浸る。律動は無い。Tracesあたりは少し刻みが出るけれども全体のモードはあまり変わらない。
2人の指揮者の呼吸は一致していて、複数オーケストラが一つのオーケストラという要素の集合体としてのアンサンブルを楽しむことは出来ました。
初演時には、日常茶飯事のグロボカールがトロンボーンのソロを吹いたらしいですから、それはそれでびっくり。1986年の出来事ですね。

シアター
これはシアター・ピースで、昔、柴田南雄にそのような作品があったと記憶します。あんな感じのものですね。
始まる前に、作曲者がハミングとホンミラガイゴを聴衆に要求。練習してから始まる。
通常のオケセッティングとポーディアム。かみてには客席方向に向けたポーディアムがあり、そこには作曲家は立ち、会場2階にいる散らばったウィンド奏者たちに指示。それとしもてのバスにも指示、さらに聴衆へも事前練習内容の本番指示。指揮者も声を出す。音の無い身振り振付のような指揮も。水槽を使って水滴が落ちる音もやっていたか。
レ音がメインテーマの曲で、ある意味、聴きやすい。ポンポコいっているあたりはなんかの儀式の感がある。飽きない作品ですね。実現させるには説明が要るので曲の前にたっぷりと10分ぐらい説明できる時間が必要。今回のような企画ものであればこそ実現できるものかもしれない。

ドリーミング
この曲には何度か接している。ドビュッシーみたいだがあすこには調の安定がある。ここにあるのは律動の無い、角の無い、漂う音。無いものを集めたような錯覚に陥る。
ダムの水がスローモーションで流れるような感覚。ウォーター・ドリーミングという絵画にインスパイアされた作品。その絵を先に見るべきかもしれない。絵の写真をプログラム冊子に載せてくれていればどれほどの理解の助けになっていたことか。

交響詩
ABC(ラシド)で構成した作品。なので、聴きやすい。
多彩な鳴りで飽きさせない曲。マウスピースをたたく音、足を鳴らす音、他、色々。
ラシドはだんだんと、くどさが上回ってくる。素材の限定は危うさもある。
最後はびっくりするような大時代的なリタルダンドをかけて巨大なサウンドに。曲にマッチしているといった見方もできる。

以上4曲
このフェスティヴァルであればこそ実現できる演目を中心に、東フィルさんの大奮闘もあり大いに楽しむことが出来ました。


プログラム冊子の内容の順序には相変わらずそうとうな違和感がある。このようなめったに聴くことのできない現代音楽の演奏会においても、曲タイトルのページをめくると次にくるのが演奏者の詳しい紹介。苦笑もの。曲の紹介をまずするのが先だろう。この、日本式の順序は、昔、外国から大家を招聘した際、まずはその奏者、団体なりのことをいかに凄くて有名かといったあたりを売りにして書いていた時代の名残りと思うがどうでしょうか。
おわり


2169- サマーフェスティヴァル2016、板倉康明、東京シンフォニエッタ、2016.8.25

2016-08-25 23:24:15 | コンサート

2016年8月25日(木) 7:00pm ブルーローズ、サントリー

ブーレーズ  デリーヴ1 (1984)  7′

メシアン  7つの俳諧(1962) 2′2′4′2′2′6′2′
   ピアノ、藤原亜美

Int

ベネド・カサブランカス  6つの注釈(2010)  2′2′1′3′2′3′

リゲティ  ヴァイオリン協奏曲(1990/92)  4′9′2′7′8′
   ヴァイオリン、神尾真由子

板倉康明 指揮 東京シンフォニエッタ


サントリー サマーフェスティヴァル2016 スバラシイ・演奏。
昨晩のサーリアホに続き今日は、耳の愉しみ、スバラシイ・演奏、色々と副題が忙しいプロデューサー・シリーズ。充実のプログラムですね。

デリーヴ1
6つの楽器によるもの。ブーレーズのポツポツとエキスのみが舞う姿とは少し異なり音楽は割と豊穣。レポン創作の際の派生もの。
比較的ゆっくりと演奏されたデリーヴ、ブーレーズの凝縮された音楽。なにかの手がかりのように聴こえる。

7つの俳諧
演奏に少し問題があった。第1ピースのイントロダクション。かなりこんがらかったもので、揃っていない。次のピースからすぐに取り戻しましたけれども。
4曲目の雅楽がわかりやすいと言いますか、プレイヤーにも日本人のDNAを感じました。このノリは良かったです。少しはずれてもいい、みたいな雰囲気ある曲ですしね。リラックスでした。やるほうは大変だとは思います。6曲目の鳥はいつものメシアン寄りになるものですが、他の曲は苦労していじくりまわしている様がわかるもので、メシアンが外から吸収したものを自分なりに創作している。よくわかります。演奏はバランス感が優れていたと思います。1963年ブーレーズが初演。

6つの注釈
パーカッションの独り舞台の感がある。テクストはプログラム冊子と別に配られて、至れり尽くせり。オランダの作家ノーテボームのテクストによる作品。リズミックな動きが面白く飽きさせない。

ヴァイオリン協奏曲
この日のメイン演目。神尾さん弾くヴァイオリンお目当ての方々たくさんいたとみました。全睡眠、この曲だけ起床。おりましたね。
いきなりのソロ開始、どこからともなく伴奏の弦がざわめく。ユニークな響きに耳を奪われる。
どことなくバルトークを感じさせる第2楽章。疑似民謡旋律はそこらへんに拠っているのかもしれない。神尾の鋭い味わい。
3楽章は滑らかなソロから。充実のヴァイオリンで、たっぷりと弾き込まれたリゲティの旋律。
最後の2楽章は合わせて全体の半分におよぶ規模。少しずつエスカレートしていく色模様が素晴らしい。一瞬のゆるみもない。最後の爆音に向けての緊張の糸がホールを支配する。リゲティ・ワールドにはまってしまった。
神尾さんの演奏は見事というほかなく、ものすごいコンセントレーション。演奏が進むにつれ自然に加熱、熱演、力演、快演。素晴らしい演奏で、東京シンフォニエッタの演奏ともども、リゲティのともするとエキセントリックな面よりもむしろ、思いの外、柔らかな面に浸る感じで、リゲティのもう一つの表情を聴かせてくれたように思います。よかったです。

東京シンフォニエッタは昨日のアンサンブルシュテルンのような若者メンバーではなく、かなり年齢があがっている。しなやかな演奏でした。リハをもっと積んでいればさらに良かったと思います。こなれた演奏とまではいかなかった。

総じてこの日のプログラムには満足しました。ソリストもお見事でした。貴重体験ありがとうございました。
おわり


2168- サマーフェスティヴァル2016、サーリアホ、2016.8.24

2016-08-24 23:24:19 | 室内楽

2016年8月24日(水) 6:30-9:00pm ブルーローズ、サントリー

<オール・サーリアホ・プログラム>

6:30-6:55 プレ・パフォーマンス・トーク 25′
サーリアホ/細川俊夫

7匹の蝶(2000) 12′  vcアンッシ・カルットゥネン

トカール(2010) 7′   vn竹内弦 pf石川星太郎

テレストル(2002) 11′ fl梶原一紘、vn, vc, harp, perc, 指揮:石川星太郎

Int

ノクチュルヌ(1994) 5′ vnアリーサ・ネージュ・バリエール

光についてのノート(2010) (日本初演)  5′3′8′11′
    vcアンッシ・カルットゥネン
            石川星太郎 指揮 アンサンブルシュテルン

(encore)
不明 30″ vcアンッシ・カルットゥネン


サントリー サマーフェスティヴァル2016
サーリアホの室内楽を集めたもの。5ピース。ノクチュルヌ以外は2000年以降の作品。

作曲者と細川さんによるトークが6時半からあり結構長い話となった。気分は2時間半ロングの演奏会。

7匹の蝶。
明確に7つに分かれた小品。チェロ独奏曲で色々な技を使っていそうだ。技巧の詳しいところはわかりません。タイトルを頭に入れれば蝶が舞うように聴こえてくる。クルンクルンと飛んだりパタパタと飛んだり。7匹同時に鳴っているのではなく、7つの違う性格の蝶が順番に出てくるわけだ。ソリストの左手の動きが激しくて見ていても面白い。
この7ピースは蝶表現なのだろうが自分には明確にシベリウスのざわめきが聴こえてくる。

トカール。
ヴァイオリンとピアノの曲。異質な楽器の組み合わせの話が冊子解説に長々と書いてあるが、これら楽器の組み合わせは昔からあるもので、この説明には妙な違和感がある。
曲はヴァイオリンから始まるが最後まで聴けばピアノの主張が強いもの。音量的にも聴衆寄りのヴァイオリンよりも奥のピアノの音量が豊か過ぎる。印象としてはちょっとふやけた感じ。

テレストル。
フルート協奏曲の改訂版。二つのピースから成るが明確な区切りは無く連続演奏。前半は、もう、メシアンそのもの。刻みつける音符、急降下する音型。
鳥に関する曲で、解説ではメシアンとは違うと書いてあるが、メシアン風味満載の前半。
後半は少しゆったりとしていて遠心力の余韻のようなたたずまい。

ノクチュルヌ。
当フェスティヴァルをまとめたパンフレット(外で配るやつですね)には、この曲は入っていない。5分ほどの曲にわざわざヴァイオリニスト連れてきているので曲とは関係ないほうで訳ありなのかもしれない。この曲だけ1990年代の作品。
淡くて音量振幅も無く、いくらノクターンとはいえ、どこで演奏すればベストなのだろうか。

光についてのノート。
5楽章の曲ということだがポーズは3か所。解説とあわせてみるとおそらく第4,5楽章が連続演奏になっていると思う。セッティングはチェロ協奏曲です。
1楽章の静、2楽章の動、3楽章の流れ、4楽章のダークな装い、5楽章は余韻のたたずまい。4楽章のダークで濁ったような響きの流れの束が耳をひく。
闇の中に尻つぼみ的に終わる。

以上、
全曲表題付き。表題や説明でイメージをサポートしていくわけです。現代音楽は例えば、既存のシンフォニーのように曲を知らなくても形式やルールをある程度知っていれば初めて聴く曲でもいきなり理解を深めることができる、といったものではなくて、現代音楽でそれと同様なこと、もしくはそれに代わる別のルールのようなものがあればと思ったりもする。ルールは無くしたものがモダンな音楽なのだと言われればそうなのかもしれないが、ならば表題はルールではないのか。でもそれは、あらかじめ既存のものとしてあるわけではなくて、作品が出来る時にあるもの。常に新しいものが作られるのでそれはそれでいいのではないのか。たしかにそうかもしれない。
が、一度、このような演奏会で一切合切、表題副題解説のないものを聴いてみたい気もする。
それとも作り手はなにかインスピレーション的な物語がないと曲を作れないのだろうか。


アンサンブルシュテルンはメンバーを固定しない団体とのこと。現代音楽の理解にはハイレベルの腕前があればあるほど聴き手の理解は深まると思う。メンバーはみなさん若くて素晴らしい腕前。切れ味が鋭くフレッシュで、このような音楽に積極果敢に向かって行っている姿がよくわかる。張りつめた空気感が心地よい。
指揮者のコントロールは的確で整理された演奏はお見事でした。
サーリアホのスペシャリストであるチェロのカルットゥネンともども、いい演奏会でした。ありがとうございました。
おわり


2167- ヘーヴァー4LS、ヴァイグレ、ティル、家庭、読響、2016.8.23

2016-08-23 23:54:11 | コンサート

2016年8月23日(火) 7:00pm サントリー

<オール・シュトラウス・プログラム>

ティル  15′
4つの最後の歌  3′8′6′8′
 ソプラノ、エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー
Int
家庭交響曲  41′

セバスティアン・ヴァイグレ 指揮 読売日本交響楽団


この日は歌が入るのでスペシャルシートで。

4つの最後の歌は美しさを極めた驚異的な曲集。
河童ライブラリーは2009年時点で43個だけです。
1472- 4つの最後の歌 河童ライブラリー


ヘーヴァーはオペラティックな歌、高音は少しきつそうな感じでドラマチックではあるが少し無理に前に押しだすようなところがあった。ヴァイグレの几帳面なサポート棒が無かったら厳しかったかもしれない。明らかなオペラ歌いでエンジンのかかりもスロースターターのように思える。なんだか喉が温まっていない感じで、この日は2度歌うべきだったのかもしれない。2度目の方が絶対に良かっただろうなぁと、モロに感じました。ヘーヴァーにはリヴェンジ来日をお願いします。
伴奏のほうは、3曲目「床につくまえに」のヴァイオリンソロが美しく歌っていた。几帳面な棒のヴァイグレに対し揺れ動くような艶やかな鳴りが美しかったですね。コンマスの自由度を少し大きめに許容しているヴァイグレというところか。
2曲目「9月」のホルンソロはヴァイグレ自身ならこう吹いていたといったところかもしれないが、でも彼自身がプリンシパル時代にあっても速度設定などは指揮者が決めるところであって、そういう意味では今もう片側のしたいことをしているという話になる。
ジョージ・セル並みとまではいかないが非常にスローなテンポ設定。ホルンサウンドは線が細くホールを包み込むような鳴りではなく、今一つコク不足。
全体像をフォーカスしていく大柄なヴァイグレは、棒立ちならぬ棒振り(変か?)になるところがあり部分的に板についていない指揮が少し目につく。彼の全容は見えない。

家庭交響曲も几帳面さが前面に出る。アンサンブルやインストゥルメントの束ごとのコントラストを強調することなくハーモニーのバランスとザッツへの潔癖症というのは言い過ぎかもしれないが丁寧過ぎる縁取り感覚はともすると全体像が見えづらくなったりする。頭がピアニシモでパシッと揃ってクレシェンドで広がりをみせていくさまは曲線的な幾何学模様が非常に美しいものではありますが。
一曲目合わせ、副題表題系の音楽らしさとは少し異質なものであった。


長いスイトナー時代のベルリン国立歌劇場、その後半、プリンシパル・ホルニストは、ベートーヴェン・シンフォニー全集を彼が吹いている時代と重なるものがあるので、録音で聴けるのは一部、彼の音かもしれない。
自分が初めて買ったCDというのが、DENONレーベルのスイトナー、ベルリン国立歌劇場管弦楽団のエロイカ。日本仕様のまま店頭に並べてあったもので3800円のもの。円安の時代15ドル99セントで購入。お昼休みウオールストリートからブロードウエイをシティホールの方に少し歩いたところにあったJ&Rでの買い物。このエロイカは1980年の録音なのでヴァイグレがプリンシパルになる前のものですね。
ちなみにTEACのリールデッキX2000Rもここで買いました。
おわり


2166- シルクレット、トロンボーン協奏曲、中川英二郎、東響、2016.8.11

2016-08-11 22:20:51 | コンサート

2016年8月11日(木) 3:00pm シンフォニーホール、ミューザ川崎

バーンスタイン キャンディード序曲 4′

シルクレット トロンボーン協奏曲  12′7′4′
  トロンボーン、中川英二郎

Int

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調  11′8′9+7′

(encore)
ベートーヴェン フィデリオ第1幕第2場 マーチ 2′

秋山和慶 指揮 東京交響楽団


フェスタサマーミューザKAWASAKI2016 千秋楽

レアな作品を聴くことができました。シルクレットの作品は一応クラシカルなコンチェルト風テンポ設定がなされている。
第1楽章モデラート・マエストーソ
第2楽章アンダンテ・ピウ・モッソ(ブルース)
第3楽章アレグロ(ブギ・ウギ)

第2楽章のモードはブルース、終楽章はブギ・ウギ。第1楽章が長い割に続く楽章が急激に尻つぼみになるあたり、昔の協奏曲的なところもある。ジャズっぽい解説が多いのですけれども曲はジャジーというより、ビッグバンドを従えたサロン・ミュージック風なソロ曲。ソリストの惜しげもないヴィヴラートが強烈。線は比較的細く、バックバンドが戦前戦中のスモーキーな雰囲気を醸し出していたならもっと心地よいノリになっていただろうなとは思う。
第1楽章後半は一旦終わったような感じになりそのあとガラッと雰囲気がのってくる。緩徐楽章の滑らかな静かさはここでスローなジャズ風味、ラウンド・ミッドナイト風な世界に浸る。この横殴りな世界と終楽章のブギ・ウギの縦刻みな世界との対比が秀逸。プレイのほうもだんだんとヒートしてきた。こういう曲はどっかで一度演奏しておいて続けざまに演奏したほうがのってくる気がする。ヴィレッジのセカンド・ステージあたりみたいな雰囲気がベスト。


Pic1


Pic2


Pic3



ニューヨーク・フィルの1908年11月13日、14日の演奏会プログラムです。
サファノフの棒、クラリネットの2番手は、Schildkraut, N.です。ナサニエル・シルクレットNathaniel Schildkraut(Nat Shilkret)ですね。
生まれた時の名前は、Naftule Schüldkrautです。
1889年生まれですからこのとき19歳。

6歳(1895年)までにクラリネットとピアノを習得。
1896年(7才頃)ニューヨーク・ボーイズ交響楽団メンバー。
1905年(16才頃)までに、ロシア交響楽団メンバー。
1907年(18才)、ニューヨーク・フィル・メンバー。約十年にわたりNYPで活躍。ほかのオケでも活躍。

サフォノフのNYPイヤーは1906-1909シーズン。
マーラーのNYPイヤーは1909-1911シーズンですので、彼のもとでも吹いている。
タイムマシンがあれば是非ともこの時代に行って聴いてみたいですね。

シルクレットの紹介ページはアメリカサイトではたくさんあります。2,3あげておきます。

Wiki(英語)

IMDb Biography

Collateral Worksのライナーノート
(このサイトでは生年を1899と間違えていますが、文章を読めば1889年が正しいとすぐわかります)

ちなみに日本語のwikiサイトはボロボロです。(2016.8.11時点)
ナサニエル・シルクレット
短い紹介文の中で生年を2種類書いていて両方とも間違っている。またNYP他の活躍年次を1910年代から1920年代はじめ、としているのも誤り。10才代から20才中盤(18才から25才あたりまで)なのですが、10、20の記載に引きずられてしまって誤訳されていると思われます。


KAWASAKI2016のプログラム解説では生年が1895となっています。この日の演奏会の前日までに当日プログラムのコピーが入り口前にあったので、スタッフにお話ししておきましたが、たぶん、無視。

おわり


2165- モツクラ、シュミードル、ワーグナー、飯守泰次郎、東京シティ・フィル、2016.8.10

2016-08-10 23:10:56 | コンサート

2016年8月10日(水) 7:00pm シンフォニー・ホール、ミューザ川崎

ワーグナー ローエングリン、第1幕への前奏曲  9′

モーツァルト クラリネット協奏曲イ長調  12′9′9′
  クラリネット、ペーター・シュミードル

Int

ワーグナー タンホイザー、序曲  16′
ワーグナー、トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死  11′+7′
ワーグナー、ワルキューレ、魔の炎の音楽  5′
ワーグナー、ワルキューレ、ワルキューレの騎行  5′

(encore)
ワーグナー、ローエングリン、第3幕への前奏曲  4′

飯守泰次郎 指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


フェスタサマーミューザKAWASAKI2016
引き締まったいい内容の演奏でした。特に弦の一本線が美しい。このコンビだとワーグナー物に存分な力を発揮するということなのでしょうね。ウィンド、弦、ともに呼吸が合っていて聴き応えありました。ブラスはつぶれ気味で、ハイレベルな軽く持ち上げられたような空気感がなくてここはもう一段の努力が必要と思います。
マジック・ファイヤー・ミュージックの前にライドがあったりと、ピースを自由に並べた演奏会でいいいとこどり満喫できました。
途中に挟まったクラリネティスト、もう、勘弁してあげた方がいいと思います。栄光は過去のものとなりけり、なんていうセリフ言わせないでくれ。
おわり


2164- カヴァコス、ゲルギエフ、PMF、2016.8.9

2016-08-09 23:58:00 | コンサート

2016年8月9日(火) 7:00-10:05pm サントリー

メンデルスゾーン 交響曲第4番イ長調 イタリア  11′6′8′5′

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調  24′9′8′
 ヴァイオリン、レオニダス・カヴァコス

(encore)
バッハ 無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番イ短調BMW1003からアンダンテ 6′

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第8番ハ短調  27′6′8+9+16′


ワレリー・ゲルギエフ 指揮 PMFオーケストラ


PMF東京公演。
当初はメンデルスゾーンとショスタコーヴィッチの2曲だったと思うが、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトが追加された。ヴァイオリンはカヴァコス。
もう、聴く前から3時間コース。

全3曲ともに出色の演奏でした。イタリアの躍動感と浮遊感。カヴァコスの艶やかな音色と伴奏オケの包容力。ショスタコーヴィッチの緊張感と強い構成力。

ゲルギエフは3曲ともに指揮台は使わず、弦はより指揮者に近めに座り、室内弦楽アンサンブル風なセッティング。
イタリアの最初10小節ぐらいはフェザータッチで一瞬なんの曲をやっているのかわからなかった。浮遊して進む感じ。アンサンブルも軽やかですがすがしい。明るく弾む好演でした。

ブラームスはカヴァコスの強靭でいてしなやか、明るく艶がある響きが魅力的で、長い第1楽章もあっというま。伴奏オケが殊の外、ゆったりとソロをサポートしている。余裕の伴奏。
ホールに響くカヴァコス・サウンドが美しかった。
カヴァコスは弓毛がぶさぶさにならない弾きの人なんですね。

後半のショスタコーヴィッチは緊張感溢れる演奏。聴きようによっては主旋律一本だけの変奏曲のようでもあるこの曲。シンフォニストとしての面目躍如たる作品だと思う。作曲者お得意の事実上3楽章構成のシンフォニー。ゲルギエフの作り出す強い構成力は見事というほかない。
全曲中半分を占める第1楽章、それのうちの大部分が弦パートの弱音で進む。一つの素材が拡大する前のオリジンな世界。
2楽章と続く3楽章の滑らかなリズムの進行。切れ目なく4楽章へ溶けるようにつながっていく。連続演奏の終楽章は非常にゆっくりしたもの。だんだんスローになっていく。ゲルギエフの作り出す見事なバランスとテンポ。緊張感が続き緩むことは無い。ピアニシモのエンディングでテンションは頂点に。長い長いポーズ。凍りついた空気がゲルギエフの腕とともに溶けていきようやく弛緩。お見事。

ゲルギエフは後半のショスタコーヴィッチのみ爪楊枝あり。長さは串サイズ。
おわり


2163- ラフマニノフPfcon2、シェップス、ポポフ1番、飯森宣親、東響、2016.8.4

2016-08-04 23:57:19 | コンサート

2016年8月4日(木) 7:00pm サントリー

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調 Op.18  13′12′12′
 ピアノ、オルガ・シェップス
(encore)
サティ ジムノペディ第1番  3′
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」から第3楽章 4′

Int

ポポーフ 交響曲第1番op.7 (日本初演)  21′15′8′

飯森宣親 指揮 東京交響楽団


最初はポポフと表記していたと思うが、いつの間にかポポーフとなっている。注目のポポ1。
今回の公演で取り上げられる話が出るまでは全く知らなかった作曲家でした。世間的にもエポックメイキングな出来事に違いない。

LA席から見た仰天編成!ホルン2列16本うちアシスタント2名各列に配置(たぶん)、トランペットは2列8本(ピッコロ・トランペット1含む)、トロンボーン2列6本、16型、あとは推して知るべし。
プログラム冊子によると、要求セクションは、ホルン8、トランペット4、トロンボーン3となっているが、現実はその倍。ここらあたりのことはよくわかりません。
音量や音圧が音楽表現の一つのエレメントとして主張しているようでもある。調性がありそうで無い。非常にやにっこくてわかりづらいもので、一回聴いて印象に残るような節は無し。このシンフォニーは1番ということだが、調性を故意に避けるような技巧には余裕があるように感じる。なぜそうしなければならないのかというあたりのことは理解できないが、6作まであるシンフォニーその他の作品を聴き込んでいけばわかることなのかもしれない。

怒髪天を衝くような強烈な音から始まる第1楽章は粗野というよりはむしろ獰猛な音の暴力一歩手前状態。かと思うとその真逆の弱音までもっていくところもある。音量の振幅の大きさは楽器群の種類と本数に比例する。こうゆう表現というのは聴きようによってはシンプルでもあって、それにときおりみせるウィンドアンサンブルのハーモニーにデリカシーは無いがこの材料も使う時だ、そんな感じのタイミング吹奏。既に形式感への関心は聴き手サイドとしては意識の外に飛びつつある。この楽章は20分を越える長いものだが、色々と出し尽くし。限界が垣間見える。
続く緩徐楽章はさっき忘れていた形式感の取り戻し的なところがあり、第1楽章との対比が興味深いがそれは楽章比較の全体印象であってこの楽章に屋台骨的な骨格は感じられない。第1楽章以上に感じられない、と、さっきの楽章はそこそこよかったと振り返る余裕がこちらとしても少し出てきた。冗長な楽章だが指揮者飯森の熱演棒は特筆に値する。第1楽章で既に汗にまみれつつ、楽章毎の3分冊のスコアを済むごとに補助指揮台にドサッと放り、次はこの楽章と、大熱演の棒がこの楽章をここまで飽きさせることもなく緊張感を持続させたその指揮はお見事の一言に尽きますね。それでも長すぎる割には薄い楽章でした。飯森がさらしたと言っても過言ではない。
終楽章は前2楽章に比して尻つぼみ感が否めない。それまでが大言壮語だったのか、はたまた、これが本来したかったことだったのか、全3楽章の締めとしては甚だバランスがよくない。手ぐすねを引いて構えていた方にとってはあっけにとられるような短さ。材料が出尽くしたのかもしれないし、そういう意味では全体の事をどれだけ緻密に推敲して作ったものか、今一つまだらな力量を感じさせるところでもある。最後はスクリャービンの4番のような響きを少しテイストさせながら音量振幅効果を前面に出してあっけにとられるうちにエンド。
全体の練り具合、構成感や全体バランスなどはいいとは思えない作品だが、オーケストラのための協奏曲ととらえればそれなりに納得できるところはあると言えよう。
オーケストラの技量はまさにオーケストラのための協奏曲にふさわしいもので、解像度の高い演奏で時折見せるしなやかさも美しい。異様な音楽がきっちり表現出来ている。作品紹介には欠かせないものですね。素晴らしい演奏でした。また、プログラム冊子の作品解説と作曲家の肖像、理解に欠かせないもので、これも良かった。良い企画でした。


前半のラフマニノフはすっかり飛んでしまった演奏会でしたけれども、シェップスさんのピアノはちょっと自意識過剰な空振り風味なところがあるのかどうか、鍵盤の押しはそれほど強くなくて真綿風に最初のタッチがモヤモヤしたところが目立つ。ふちぼかしのプレイ。彼女の力技が出たのはアンコールでしたね。

殊の外柔らかいラフマニノフは最近は耳にすることは無くて、冒頭のソロからクリアさよりもどこからともなく真綿のように響いてくるエコーのようなものが美しい。技術を魅せるピアノではなくて、最近忘れていたものを思い出させてくれた。
伴奏のオーケストラは凄い。ブラスは何度か短く出てくるが、そこでのノリ具合がものすごく、吹いていない間もリズムしっかりとれているのがよくわかる。真綿タッチのピアノと東響の鋭角的なブラスセクションの吹っ切れ具合が奇妙にマッチしていて気持ちがいい。
いい演奏会でした。
おわり