河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1033- アート・ブレイキーのコースター

2010-06-29 00:10:00 | マンハッタン

Scan10035

先週、二次会のあと、ちょっと寄ったお店に置いてあったコースター。
これって、昨年2009年のイベント、ブルーノート創立70周年記念がらみのもんだと思うんですが、お店によってはいまだに置いてあるんですね。
ニッカとEMIが作りすぎてしまったんですかね。
裏に着うたダウンロード用のシリアル番号が書いてあるので、贋物増産とも思えず。

アートブレイキーを生聴きしたのは、亡くなる数年前、ヴィレッジのスウィート・ベイジル。前座は山下洋輔だった。
この模様については、このクラシックブログの中でいつか書くことがあると思う。
ジャズ・メッセンジャーズで気持ち良く吹いていた若い若いテレンス・ブランチャード、今でもファンです。

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1028- マーラー 交響曲第2番 復活 エリアフ・インバル 東京都響 2010.6.19

2010-06-21 00:10:00 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラより

2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラ一覧はこちら

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今日はマーラーの復活の公演。

都響の定期演奏会700回記念公演より

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マーラー 交響曲第2番 復活

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メゾ、イリス・フェルミリオン

ソプラノ、ノエミ・ナーデルマン

二期会合唱団

エリアフ・インバル指揮

東京都交響楽団

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実測

1楽章 21

2楽章 10

3楽章 12

4楽章 5

5楽章 31

三日前のアシュケナージによる衝撃的な6番の興奮が冷める間もなく、今度はインバルによる復活公演。こちらのほうはチケットにプレミアがついたりしていて聴衆の先走り感があったようだ。

インバルは1970年代40歳前後だと思うが、フランクフルト放送交響楽団相手に多量の演奏会を行っており、録音の良さも相まってNHK-FMでさかんに放送された時期がある。多くは当時の現代音楽であり、たまにマーラーの大地の歌などもやることがあったが、いずれにしても当時のNHKはわりと先をいっていた。

1989年には別々のオーケストラと2回来日して、マーラーの交響曲を何曲も振った。2番の復活も聴きました。(1989年聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら)

1989年当時、インバルはマーラーを一通り振り終え、マーラーが言ったという、自分の時代が来る、その通りマーラーはブレークし、同じくインバル自身もブレークしたのであった。それから20年以上たち、こうやって熱狂の嵐のなかに、まだいるインバル。感慨深いものがあるが、自分の中では終わっていたように思われていたのだが、時とともに聴衆の年代もサイクルし、また、マーラー生誕150年ということもあり繰り返し演奏されている。

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インバルはどちらかというとドライな感じで、透明感のある棒。バーンスタインの棒などとは正反対だったと思う。(バーンスタイン、ニューヨーク・フィルは670- 671-)

あまり引っ張ることもなくひきずることもなく、スコアのデフォルメはあまりしない。

この日のマーラーを聴いていると聴衆の後押しのせいかどうか、自分のしたい通りなのかどうかと思ってしまう。たしかに丸くなったというか滑らかさはあるが、それは曲の振りすぎであって、ある部分想定内というものだろう。それよりも、この人がマーラーを振ればお祭りになる、みたいな雰囲気が出てきてしまっている。名演奏が予定されているような。

インバルにとって迷惑かもしれない。自分が本当にしたい方向とは違ってきてしまっているのではないか、でももう棒を振れる時間もそんなにないかもしれないし、自分の中での折り合いもあるのかもしれない。即物的なものの疲弊?

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オーケストラの音は硬いけれど、わりと良く響き、勢揃いしたブラスに弦が負けることもなく微妙なニュアンスを明確に指示するインバルの棒通りの音が美しく響く。ティンパニのポイントをついたアクセントも全体の引き締めにはいいメリハリとなっている。

1楽章は聴きようによってはあっという間だ。ソナタ形式を感じて聴いているとちょっと底の浅い音楽かもしれない。この曲はむしろマーラーの一筆書きのような感覚で全曲を聴いた方が聴きがいがある。インバルにもはや手練手管という言葉は不要、その言葉には疲弊感がただよう。振り慣れた曲を振っている。

2楽章は、なんだか懐かしい。弦の音が殊の外厚みがあり、さすがに聴かせてくれる。

合唱とソロは第2楽章と第3楽章の間に登場する。違和感があるが、第3楽章の流れる音楽、そして爆発するブラス、いつのまにか第4楽章の下地を作りながら終わる。インバルはこのように、先を感じさせてくれるような響き、ツボを心得たというか、昔振りまくりの現代音楽のツボのようなものを、こうゆうフレーズで聴かせてくれるのがなんともうまい。先をいっていた音楽家が気がついてみたら取り残されていた、そういってはあまりに酷というものだろうね。

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4楽章のブラスの祈りはちょっと難がある。どこも間違ってはいないけれど、もう少し余裕のある響きが欲しいところだ。精いっぱいの祈りは余裕の技術から。

原光におけるフェルミリオンの声は素晴らしく、柔らかく、太い。オーケストラの響きと対極にあるようなやわらかさ、力が抜けていて、変に気張らなくてもホール全体を大きく包み込む。CDできく歌曲等やっぱり所詮録音ものだ。

5楽章は途中、バーがなくなってしまうような個所もある奇天烈な楽章。いろんなものがミックスされた音楽の雑踏。インスピレーションの塊と言えるかもしれない。一筆書きここに極まれり。

マーラー閃きの楽章だが、バーンスタインのように超変形拡大を目指すわけでもなく、スコアを踏み外さない。たしかに表現が難しい曲だ。指揮者が自己主張のためにやろうと思えばできてしまうような楽章ではあるのだが、インバルはいたって普通。スコアの引き延ばしも想定内。あまり熱狂的なものではない。

これも以前聴いたゲルギエフの棒、キーロフのオーケストラによる公演では、自分がまるでオーケストラに中にいるような熱狂の感覚を味わった。小澤征爾ボストンは薄く、あくまでも透明感を前面に押し出したものだった。

インバル、フランクフルトはどちらかというと小澤と似てる感じ。

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最後のブラボー・サウンドは、復活最後の大音響に負けじと言わんばかりのもの。比例した絶叫が空虚に響く。

終わり

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1027- マーラー炎上 こんなのあり? 超高速71分爆演 マーラー 交響曲第6番 悲劇的 ウラディミール・アシュケナージ N響 2010.6.16

2010-06-18 00:56:21 | インポート

2010年6月16日(水) サントリー

マーラー 交響曲第6番 悲劇的 20-14-11-26

ウラディミール・アシュケナージ 指揮 NHK交響楽団

このような激しい演奏は聴いたことがない。第1楽章提示部はリピート、第2楽章、第3楽章をひっくり返し(これは超高速にはあまり関係ない)、そして第4楽章の序奏に5分たっぷりかけている、のに結果的には71分の圧倒的ハイスピード。なにかが剥けたのか?
アチェルランドもリタルダンドもない、‘タメ’と歌を全て完全に排した演奏、音符音価を延ばして作るようなタメではだめなんだ、スコアの中の正しい音価の中で作り上げる表現こそこの音楽の全てなんだ、そのようにアシュケナージが言っているようだ。いわく、全てアチェルランドであったと言えるかもしれない。

アシュケナージのオーケストラのドライブは圧倒的であり、すべてを掌握しているというよりも、ただひたすら駆り立てる。ドライブのためのドライブのようでもあり、このように完全に意識された確信犯的猛スピードの演奏からはたして何が生まれてくるのか。

美しさを排しているわけではない。でも、しゃくり上げ、ぶつけるようなアインザッツに揃いも不揃いもない。ただただグヮングヮンと進む。
N響の美しさは圧倒的であり、7プルトまで拡がったストリングはマーラー独特の大きく弧を描くような美しさを見事に表現、耳を見張る。ウィンドのハーモニーはこの息せき切った演奏においてさえ冷静さを失わない。ブラスは今日は異常に大変な一日であったことだろう。次々と過酷なまで押し責める棒、それに完全に応えるブラスセクション群の抜群の安定感。
パーカッション群、ハープ、カウベル、ハンマー、ムチ、、、、
総動員でした。


もしかして、6番ってこうゆう曲だったのかもしれませんね。

第1楽章はアレグロ・エネルジコ・マ・ノン・トロッポ
激しく、しかしきびきびと
たしかに言われてみればこの通りの演奏に違いない。第1楽章は冷徹なソナタ形式であり、マーラーをあまり振らなかったジョージ・セルのような指揮者がこの曲の造形を見事に示してくれる演奏があるわけです。今日のアシュケナージの演奏解釈はそのソナタ形式をなぎ倒したわけではないけれど、形式感を忘れさせてくれるぐらい激しい演奏が最初から最後まで続く。継続は力なり、激しさも力なり。
タメは完全に排除されている。音楽のふくらみは正しい音価の長さの中において表現すべきであり少しの間延びも許さない。ある意味見事と言える。コーダでは上から下まで飛びまくる音、響きは短調から長調への解決以上の生理的解放感を感じさせる。このような激しい解釈は初めて聴いた。

第2楽章、第3楽章は入れ替えている。昔1987年頃、サイモン・ラトルがベルリン・フィルを振った同曲も同じく入れ替えていたと記憶するが、昨今、あまりこの入れ替え演奏は聴いたことがない。アシュケナージが2001年にチェコ・フィルを振った演奏も第2楽章はスケルツォでした。
それで、この日の演奏は第2楽章がアンダンテ・モデラートになってます。プログラムが間違えていて、訂正文が挟み込まれているので、もしかして、今日突然入れ替えた?
それはそれとして、効果はいかに。
第1楽章があまりに激しすぎ草木をなぎ倒しすぎたせいか、微妙にほっとできる瞬間であり、これはこれでよかったのかもしれない。
でも、こちらの脳みそがリフレッシュする間もなく、音楽は動き始める。なぜこうも先を急ぐのか、というのはもはや愚問に近く、ただ聴くしかない。
調性感が不安定な楽章ですが、ホルンの崩れ調性によるソロは奏者ともどもお見事。演奏後アシュケナージが最初にスタンディングさせたのはトランペットとホルンだけ。トランペットの方はオレ?みたいなびっくり感があったけれど松崎さんのほうは当然だべ、みたいな感じ。いずれにしろ、この入れ替え第2楽章は音楽の構成バランスというよりも、興奮度の鎮静化の部分に関して、正解と思えた。

第3楽章にスケルツォがくる。
当然と言えば当然。ソナタ形式の古典音楽ならこうだ。ベートーヴェンが第九でやっちまったので、形式は壊して再創造、ベートーヴェンの偉大さはこれまた圧倒的なんですが、この悲劇的はアシュケナージが元に戻した。
でも激しさはかわらない。ロシア人は変拍子は苦にならないらしいのでなんにも問題はない。基本コンセプトは三拍子ながら、スコアをみればわかりますが、わりとややこしい。
このスケルツォにきて、アシュケナージの棒はまた激しさを増し、第1楽章の想像的回帰に脳みそを誘う。
スケルツォがあればトリオがある。素朴な歌ではなく張りつめた音群の響きであり、やっぱり交響的様相を呈してきたと言えるようだ。この第3楽章まできてようやく全体のフォルムが完成に近づいた。

第4楽章こそは極度に肥大化したソナタ形式。5分かかる序奏はもったいづけにもほどがあるといいたいところだが、30分の曲なんでバランス的には正解なのであり、聴き手側にも全体を俯瞰する能力が要求されるとともに、音楽の長さに対し相対的な聴き方も必要とされる。やっぱり1回じゃこの曲は無理。
そして、二つの主題提示があって展開部へ。こう書くと普通のソナタ形式のようだ。でも、鳴り物の活躍は、とんでも系。ハンマーはこの日、2回でおさめられた。改訂版ということになるのだろう。アシュケナージはここ、やっちまってもよかったかもしれない。が、彼はそのような面白おかしさをねらっているわけではまるでない。あまりに真摯すぎというのも妙な言い方だが、この息せき切ったような激しい演奏をまじめにめざしている。
彫りの深さ、強弱、濃淡の陰影、そのようなものも目指していない。むしろアクセルふみっぱなしから来る隙間のない響きの追及のよう、そして圧倒的前進性。展開部の音楽は圧巻。この展開部は序奏の展開もあるが、これまた明瞭で何一つ間延びしない。ここのブラスセクションは聴きものでしたね。そして音圧でめくれてしまいそうなフル音響の絶奏がこれでもかと続く。最後はあまりのアクセルにブラスが先を超えて弦のピチカートの前にファンブル・エンディングしていたが、前のめりになればなるほど、みんなもっと前のめりになるのだろうか。不思議な現象だ。それはそれとして、
この演奏から一体何が生まれてくるのか、行為は確信犯的であったが、それからなにが生まれてくるのか、ある意味、アシュケナージ自身わからないのではないだろうか。聴衆に結果は投げられたのであって、それは自身にも投げられた。
アシュケナージにあるのは、みなぎる自信であって、場当たり的な解釈でないのは、聴いて観てよくわかるので、この音楽造形、演奏造形、ソナタ形式の解釈なのかどうかも含め、6回ぐらい六本木通りの坂道で立ち止まって考えてみる価値は大いにあると思われた。


この種の演奏は、録音にすると沸騰がまるでわからないケースと、他の指揮者との違いが明確にあらわれるケース、二通りあるような気がする。後日、放映、放送があると思うのでそれが待ち遠しい。

それとこの日の激しい演奏については、席の関係もあるかもしれない。6列目で聴いていたからか?
おわり


1026- レオシュ・スワロフスキー スロヴァキア・フィル 2010.6.12

2010-06-15 23:00:00 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラより。

2009-2010シーズンはここ

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2010612()7:00pm

サントリーホール

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スメタナ モルダウ

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ドヴォルザーク チェロ協奏曲

 チェロ、ガブリエル・リプキン

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(アンコール)

ガブリエリ カノン

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ドヴォルザーク 交響曲第9番新世界より

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(アンコール)

ドヴォルザーク スラヴ舞曲第15

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レオシュ・スワロフスキー指揮

スロヴァキア・フィル

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この指揮者は初めて聴きますが大変気に入りました。やや早めのテンポで、インテンポで押し切る。肉厚で爽快さとは少し異なるが、ある種音楽に対する信念のようなものを感じさせてくれる。上半身を使った大振り指揮はオペラ指揮者そのもののようにも見える。非常に明快な棒さばき。自意識過剰なモーションもみられるが、音楽にいい効果をもたらしているようだ。また、指示が主旋律よりもむしろ陰に隠れた部分や、縁どりを形成するフレーズの出だしの部分などに頻繁にだされ、音楽が弧を描くように膨らむ。従って、音楽の表情は絶え間なく豊かであり、あふれ出る情感が揺れ動きながら湧いてくる。

写真で見る指揮者はちょっとさえない感があるのだが、実物は長身で、髪の毛は少なくなっているものの、お腹のでっぱりもなく、極めてダイナミックで、全身で音楽を表現する。驚きであった。

モルダウ冒頭から早めのインテンポで押し通すが、アチェルランド風でもない、中間部もリタルダンドではないが、スローになる。つまり主題、テーマ毎のテンポ設定をもっておりそれで押す。音楽の表情にぎくしゃく感がないのは先を見通した音楽理解、譜読みがあるからなのだろう。今日のコンサートは名曲のオンパレードなのだが、その一曲目にふさわしい、いい演奏でした。

二曲目のチェロコンチェルト。今となっては手垢にまみれた曲なのかもしれないが、こうやって久しぶりに生演奏で聴くとやはり格別の曲ではある。提示部の第一主題、第二主題、ホルンの幽玄のソロ、こんな感じでチェロが出てくるまでかなり時間がかかる。リプキンはこれまたお初ですけれど、曲に集中しており自分なりにイメージをつくり(十分な時間がある)、コンセントレイトを高めているのですんなりとオーケストラに入り込む。やっぱり素晴らしい曲だ。リプキンのチェロはその体躯の大きさとはやや異なり、横幅で攻めるよりどちらかというと繊細系なのかもしれない。ピアニシモでの息の長さ、それはドヴォルザークのものに違いないのだが、さらに魅力的に聴かせてくれる。

アンコールではチェロのトップとの二重奏。これまたニュアンスに富んで音楽的、楽しむ音楽の醍醐味をきかせてもらいました。

今日のプログラムは国外団体にはめずらしく無料のもの。それはそれでいいのだが、薄すぎて情報量が少なすぎる。二重奏をしたチェロ・トップの名前さえ分からない。オーケストラのサイトが掲載されているのでググってみればすぐにわかるはずではあるのだが、そうではなくて会場でその場で団員のことを知りたいと思うこともある。

今日の演奏会チケット価格は一流どころ来日団体の三分の一だ。実力も三分の一とは全く思わないが、省エネプログラムもいいがもうちょっとだけ情報の量、質のかさ上げが望まれる。

そのオーケストラであるが、肉厚で少しボテ系。ピッチの問題があると思う。あとは縦のライン。アインザッツは指揮者があまり気にしていないと思う。インテンポの中に音楽の流れを強く意識した音楽造りで、そのような棒使いはえてしてこんな感じのオケサウンドとなるようだ。

後半の新世界。チェリビダッケの味わいが深すぎる新世界は忘れがたいものがある。すべての小節、フレーズが意味の塊であり凝縮された演奏は指揮芸術の極致を聴かせてくれるものだ。スワロフスキーはその演奏をほうふつとさせるにはいまだ成長しなければならないが、全ての音に耳を傾けさせるような魅力に富んだ解釈には違いない。とにかく明快な棒。明快さが意味をこめたものなので非常に説得力がある。この超有名曲の陳腐な解釈の対極の解釈であり、姿勢である。

オーケストラのボテ系サウンドはいまだ続いているが、それでも熱して加熱される。家路はこれまた速めのインテンポで何事もなく帰路につきたい感じにはならず、静かさがこの第二楽章終結部に向かって少しずつ潤いを帯びてくる。なんとも言えずいい演奏でした。

第三楽章からアタッカで第四楽章に突入。ここらへんにくると、さらに過熱気味。耳にタコができた曲でもこのような演奏だとあらためて興奮してくるものだ。

この第四楽章の爆進はお見事。ラッシュアワーの新世界。当時のマンハッタンもかくあるかな。

第四楽章のコーダは、前例のチェリはテンポをかなり動かすが、今日のスワロフスキーさんはインテンポの人のようですので、ここでのテンポ設定に典型的な課題というか特徴というかそのようなものが浮き彫りとなる。速度をおとして劇的な表情を圧倒的に作るにはそれなりの操作が必要なのだが、この指揮者はインテンポを貫き通すため、コーダ全体の速度感を下げる。下げたままでインテンポ。最後の打撃音の前ややアチェルランド気味になるがこれはもう想定内の自然現象。それにしてもこの美しいエンディングの閃きのような音の束の収束。ドヴォルザーク以外誰も思いつかないような美しい閃きだ。スワロフスキーさんは、チェリのようにあっけにとられるままスッと終るわけでもなく、マゼールのようにひたすらやにっぽくロングトーンの練習みたいに伸ばすわけでもない。自分の速度感にあった非常に自然な長さでアメリカから母国を見ながら終わる。

むしろ、アンコール曲との間隔が短すぎ、新世界の余韻がかき消されたようになってしまったのが残念。

そのアンコールが指揮者による日本語発声のスラヴォニックダンス15番というのがこれまた渋い。曲は派手だが別の番号で馴染みなのがたくさんあるのにこの「だいじゅうごばん」だ。駆り立てすぎの感もあったのだがアンコールピースのエキサイティングな方向感としてはうまくいったと思う。

この指揮者、オーケストラに格別の思いがあったわけでないのだが、結果大変に心に収穫のあった一夜となりました。知らないところにアルチザンは、いる。このような音楽を育む音楽家たち。仕事は見えないところで成就していたのかもしれない。

おわり

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1025- 新宿 居酒屋 ベルリン・フィル カラヤン&ベルリン・フィル来日公演1979年=6=

2010-06-14 22:56:00 | インポート

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6

1979年聴いたコンサートから書いてます。

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今書いているのは1979年カラヤン、ベルリン・フィルの来日公演より。

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1022-

1023-

1024-

の続きです。

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この1979年の来日公演は9回公演で、そのうちマーラーの6番とベートーヴェンの第九、都合2回聴きました。

普門館で9回公演が行われたのですが、当時東京に住んでいなかったということもあり2回聴くのがやっとでした。

公演の模様は既にアップしました。

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それで、第九の帰り、

会場が普門館だったので当時、方南町まであった丸ノ内線に乗って新宿まで出て、行き当りばったりの居酒屋に入り、お酒を飲んで帰ることにしました。

そのときの風景はだいぶくもりガラスになってきましたけれど、たしか、靴を脱いで、囲炉裏のようなものが真ん中にあり、それを取り囲むようにわいわいと騒がしい場所、薄暗いような感じで、スペースは結構広いようなところでした。

この日の第九の演奏評談義をしていたら、らしき、人間が二人はいってきました。どうもみたことあるなぁ、飲みながらちょっと気になり始めた。

そうだ、クラじゃん。

ライスターさんがもう一人パーカッションの二番手フォグラーさんと飲みに来たところでした。テーリヘンもいたような気がしましたが、いたら例によってサインをもらっているはずですので、ないということは、いなかった。

囲炉裏を挟んで向かいの方に座っていたので、来日公演のプログラムをかざしたら、ほうほうという感じで、ちょっといっしょに飲むか、みたいな感じになり、少しだけ酒盛りがはじまりました。テーリヘンさんの話はそこで出たのかもしれません。

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彼らは演奏後の骨休めなのであまりじゃまになってはいけないので、席に戻りましたが、サインももらってしまったので、周囲の客たちがチラチラみておりました。でもいくらベルリン・フィルといえども、その道の趣味がある人でなければ誰だかさっぱりわからないでしょうね。日常テレビで顔が売れているというわけでもありませんし。

でも、かなり確率が小さいはずの偶然の新宿の居酒屋、いきあたりばったりがいきあたりバッチリになった夜でした。楽しい一晩でした。

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1024- ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル ベートーヴェン第九1979.10.21 来日公演1979年=5=

2010-06-13 23:00:39 | コンサート


1979年聴いたコンサートからボツボツと書いてます。
今書いているのは1979年カラヤン、ベルリン・フィルの来日公演より。


1979年のカラヤン、ベルリン・フィルの来日公演は9回。そのうち2回潜入しました。マーラーの6番とベートーヴェンの第九。

それでは第九の当時の感想を例によってそのままアップします。



1979年10月21日(日) 7:00pm 普門館

ベートーヴェン 交響曲第9番

ソプラノ、アンナ・トモワ=シントウ
メゾ、ルーザ・バルダーニ
テノール、ペーター・シュライヤー
バス、ホセ・ファン・ダム

ウィーン楽友教会合唱団

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニカー

このような豪華な組み合わせはもう日本ではあまり考えられないのではないだろうか。全くメンバーを見ただけで感動してしまいそうである。
しかし、僕の感動は別のところからきた。その出だしからである。特別な思い入れもない気負いもないと思われるのに、まるで初めて聴くような気がしてならないのである。実演でさえ大学の時にマズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団で聴いたことがあるというのに。
 その思い入れのない無機的な早めの速度で淡々とそうされる第9の第一楽章。古典的な出だしである。そして最後までこの楽章は終始このペースが保たれる。カラヤンはこの第一楽章を完結させない。単なる第一楽章目としかとらえていない。しかし、既にこの楽章の後半には第4楽章の興奮が隠されている。
 第二楽章がまた素晴らしい。一瞬、ムラヴィンスキーの指揮した田園の第一楽章を思い出した。このスケルツォがまたカラヤンでもある。あのような音の細かい音楽をあのような速度で奏したときどうなるか。まるでうるさくなく、古典そのものであった。モーツァルトでも聴いているような錯覚に襲われた。ベルリン・フィルの完璧なアンサンブル。すばらしい第二楽章であった。
 そして第三楽章。緩徐楽章こそカラヤンの真骨頂であることは言を俟たない。またもや筆舌に尽くしがたいベルリン・フィルの驚異的なアンサンブル。バランス調和、ハーモニー、そして切れ目のない音群。軽くあくまでも軽くそして透明に飛び交う音たち。つまり、何故初めて聴いたような気がしたのか、ということがようやくわかった。このような解釈の演奏を初めて聴いたのである。第二楽章もそうだがベルリン・フィルを指揮する指揮者は曲の速度と難易度をあまり考えて演奏する必要がない。この楽章もよくこれだけ音が透明なまま長く維持できるものだとびっくりした。
 第四楽章こそベルリン・フィルの実力である。ばか騒ぎする必要はまるでないのである。音が地の底から光り輝くとき、ベルリン・フィルの栄光のときである。あのいぶし銀のような金管。きちがいみたいに強奏する必要は少しもない。ピッチが合えば音は増幅し自然に感動へと導かれる。音そのものにより感動に誘われる。僕は本当に感動した。そして、それを増長するようかのように、あの初めて聴くウィーン楽友教会の合唱。けじめのあるアクセント・フレーズ、自由自在な音の戯れ。まるで一つの楽器のようにベルリン・フィルに溶け合って進行する。すばらしい第四楽章だ。そして華麗なる独唱群。一瞬、ドイツにいるような錯覚に襲われた。カラヤンが体全体で指揮し、それにつられて波打つように演奏するベルリン・フィル。そして波が干渉するように揺れ動く合唱団。僕は初めてドイツ、オーストリア、そしてヨーロッパ、何よりもベートーヴェンの音楽に初めて触れたような気がした。芸術は人の心を動かし変える力があると初めて思った。ベートーヴェンの作った音楽に欠陥などない。完璧な芸術である。そして今、このステージの上にいる音楽集団も完璧な演奏芸術を心に刻んでくれる。
 このひ弱な精神しか持っていない僕を勇気づけてくれるもの、それは音楽しかない。もっともっと高くなろう。心は高くならなければならない。音楽、ベートーヴェンこそ、精神を高くしてくれる唯一の守護神だ。
 唯一の現実を与えてくれたベルリン・フィル、そしてカラヤン、シントウ、シュライヤー。もう一度ベルリンで聴いてみたい。
 精神とは高揚するものだ。

新宿で帰りに酒を飲んでいたら、偶然にも同じ場所にLeisterとVoglerがあらわれた。言葉がわからなくてもなんとなく通じるものである。実に楽しい一晩であった。














ザイフェルトやライスターのサインもみえます



1023- 続 マーラー 交響曲第6番悲劇的 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル1979

2010-06-11 23:00:00 | インポート

1979年聴いたコンサートからボツボツと書いてます。

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今書いているのは1979年カラヤン、ベルリン・フィルの来日公演より。

1020-

1021-

1022-

の続きです。

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マーラーの6番の感想は1022-に書いた通りです。

カラヤンがマーラーを振りはじめたのは人生後半。マーラー独特のやにっぽさが好きになれなかったのか。

カラヤンは結局、ソナタ形式的構造音楽を好むのであって、マーラーにあっても純器楽交響曲5,6,7番のうちどれかといえば楽章数から言っても形式的にバランスのとれた6番があっていると感じたのだろう。7番、5番よりは、歌は入るものの4番も当然のような気がする。9番は一種独特の惜別音楽になってはいるものの納得できる選曲ではある。形式音楽をつたの絡まるようなしなる演奏で見事に表現。

ジョージ・セルもマーラーに関してはカラヤンとほぼ同じ傾向の曲を好むように思える。表現は両極端ながら、双方ともに頭にあったのは形式であったのだろう。そんな単語、ヨーロッパを包括してしまっている、と言われればそれまでだが、でも選ぶ曲は良く似てますね。

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それで、この日1979.10.17のマーラー第6番の公演ですが、感想では完璧だ!みたいな感じで書いたのですけれど、トランペットがベルリン・フィルにしては見事にはずしているんですね。記憶によると。。

1楽章短い序奏があってすぐに第1主題にはいります。その頂点で吹奏されるトランペットのソロパートの最高音。ものの見事にはずしてます。

これって、デジャブ??

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カラヤン、ベルリン・フィルは1977年のザルツブルク音楽祭で、マーラーの6番を演奏しました。

1977827日ザルツブルク祝祭大劇場

マーラー 交響曲第6番 悲劇的

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン・フィルハーモニカー

オンエアーNHK-FM1977.12.14

1楽章1640

2楽章1245

3楽章1614

4楽章2942

このときの演奏でも、ものの見事にはずしたトランペットを聴くことが出来ます。生放送収録一発放送で修正は無しだったのでしょう。

(別の公演を思い出しました。1988年の日本公演で展覧会の絵の冒頭をはずしてしまったトランペット、生中継ではそのままどうしようもなかったのですが、後日の再放送では修正されておりました。修正したというアナウンスもはいってましたね。)

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ちょっとそれましたが、1977ザルツですべったトランペットはそのまま1979普門館でもすべったというわけです。

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ブラスに関してはベルリン・フィルは、ホルンのゲルト・ザイフェルトを除けば少し危ういところがあったのも事実。シカゴ交響楽団の完璧さには勝てない。鉄のかたまりのようなデイル・クレヴェンジャーはじめ、強力ブラスは世界広しといえどもシカゴより上はなかったと思う。そのシカゴは1977年日本初来日で爆演をくり広げた。

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ベルリン・フィルの良さというのは密度の濃さ、生きたアンサンブル、つまり、圧倒的に気持ちも力も込めた弾き、他のプレイヤーに耳を貸すアンサンブル、なのであって、スコア通りのシカゴとはちょっと違う。フリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティのもと、その方向性が別の向いていたというにすぎないとは思うのですが。

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いずれにしても、デジャブを感じた普門館の公演でした。

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1022- マーラー 交響曲第6番悲劇的 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル1979.10.17

2010-06-10 23:11:00 | コンサート

 








1022- マーラー 交響曲第6番悲劇的 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル1979.10.17 来日公演1979年=3=

1979年に聴いたコンサートより書いてます。この年のカラヤン、ベルリン・フィルは10月に普門館で9回公演を行いました。そのうち2回聴きましたのでそのうちの最初の方の感想メモです。(このブログは1020、1021の続きです。)


それでは当時のメモそのままで。


1979年10月17日(水) 7:00pm 普門館

マーラー 交響曲第6番 悲劇的

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮 ベルリン・フィルハーモニカー


昔、わけもなく反発したカラヤン。いよいよ変更を迫られた。特別に好きでもなく、また前回(1977年来日)のカラヤンがそれほどよいものでもなかったにもかかわらず。要はベルリン・フィルを聴きたかったのだ。

あいかわらずばかでかいホールで音響効果はよくないが、それでも前の席で聴くとかなり悪条件が緩和される。

このただ一度のマーラーに心は集中した。マーラーの心とは全く別の演奏解釈ではあったろう。でもそんなことはどうでもよかった。この超技巧と超集中を要する超難曲をカラヤンとベルリン・フィルは何事もなかったかのように演奏してしまった!!
これは現象として現れた事象だ。フルトヴェングラーとベルリン・フィルの生演奏は知らない。しかし、カラヤンとベルリン・フィルの生演奏は知っている。チェリビダッケの生演奏を知っているように。これはどうしようもない事実なのだ。生演奏こそ大切なのであり、これはしかたがない。
圧倒的なのはベルリン・フィルのアンサンブルである。特に中音域等の管楽器群。このバランスの良さと、ピッチのよくあっていることと言ったら、一体何にたとえたらよいのだろうか。まさに、“たとえようもない”という言葉はこの演奏のためにある。
あの空高くある薄い雲のように、このアンサンブルはどこまでもバランスよく、ピッチも完璧である。そして澄み切っている。そしてこの音群はカラヤンによってフレーズの切れ目がまるでないかのように、次から次へと移り変わっていく。しかし、世間一般に流布しているように“角の取れた丸みを帯びた音”からカラヤンは少し変化をみせてきているのではないかと思う。少なくとも生演奏では。
第1楽章におけるあのスピード。この速度でまともに演奏できるのはベルリン・フィルだけだろう。あの余裕ある華麗さをもって。
そして、第1楽章の速度をそのままもってきてしまったような第2楽章。これはもう荒々しいスケルツォを超えて、まるでバロック音楽、古典音楽のように整然と聴こえてくるから不思議だ。
アンサンブル、また個々人の実力を計る上でも目安となる第3楽章。これも風より軽い鳥の羽根のように、あっという間に過ぎてしまった。ライスターのクラリネット、ザイフェルトのホルン、コッホのオーボエ、ツェラーのフルート、何もかも風のごとく。しかし、この第3楽章こそ最高であった。また、カラヤンも同様であっただろう。いかにクリーヴランド管弦楽団が精密に演奏したとしても、これほどの華麗さは得られないだろうし、またセルの残した唯一のマーラー6番の実況録音からもわかるようにセルの場合は様式美を追求した。しかしカラヤンはこの第3楽章に静かなる華麗さを追求した。この第3楽章こそ、調性的に現代音楽への幕開けと言えるのに、カラヤンは何事もなくひたすら“きれいに”演奏する。(“きれいに”というといかにも軽い言葉のように受け取られる向きもあるが、言葉は音楽批評の言葉として多く使われ過ぎた。)
中学、高校でラッパを吹いていたとき、毎日口が酸っぱくなるほど、また、耳にタコができるほど言われたのはピッチを合わせること。アインザッツを合わせること、そしてこころよくきれいに吹くことではなかったか。このマーラーの6番でさえ音の戯れがある。これはマーラーの考えとは異なるかもしれないが、しかし音楽は常に音楽なければならない。昔、自分から音楽に参加していた時のことがなつかしい。
この第3楽章こそカラヤンの真骨頂である。天上の音楽、ベルリン・フィルのアンサンブルが天上の音となった。

そして筆舌に尽くしがたい第4楽章への突入。夜の暗い青空に異様に光る稲妻。暗い中にきらりと光る音。この導入部はたとえようもなく素晴らしい。
セルはソナタ形式における単なる導入部ととらえたかもしれない。事実セルの演奏はそうなっている。しかしカラヤンは違っていた。この5分以上もあろうかと思われる導入部にそれこそ全てをつぎ込む。カラヤンは、というよりもこのベルリン・フィルこそと言えるかもしれない。
そしてあとはただひたすら最後のピチカートめがけて音はすすむ。音量は加速度的に増加し、暴発的とも思えるような表現にもなる。これでは“カラヤンは音の角をとり滑らかに演奏する”といった言葉をいかにうのみにしてはいけないかということの証左を“じ”でいっているようなものだ。まさに暴発的であった。
一回目のハンマーまでの威力、そして2回目のハンマーにいたるまでのものすごさ。
そして3回目のハンマー(3回目のハンマーは演奏されなかった)時における決定的な、これは音の圧力とよんでもよいかもしれない。しかし驚くべきことに弦の音はこの時も鮮烈極まりなく聴こえてきた。なんたるベルリン・フィルの威力。このときベルリン・フィルはもう力尽き果てたと思った。しかし、もう一度、あの暗い空に光る稲妻のような序奏が演奏された後、カラヤンは計算していたのだ。最強音はただ一度だけで良いと。
ものすごい音とともに運命の壁は崩れ去り、そしてその強音の裏の世界の出来事のような極端なピアニシモへと音は移り変わり、そしてピチカート。まさに“悲劇的”と思えた。
これは、いかに誰かが反発してもどうにもならないことで、やっぱりベルリン・フィルは超一流ということを超えて、時代の先をいっている証拠である。
このようなやり方にいくら音楽評論家たちが反発してみたところで、時代遅れと言われてもしかたのないところだろう。
いやなら聴かなければよいだけの話であって、それ以後の問題は個々人のものとなるべきであろう。あまりわけのわからぬ難くせをつけてもみにくさ以外何の足しにもならないのではないだろうか。
音楽の歴史などというものはそのような微少なものとはなんのかかわりもなく進んでいくのだろう。
もう今となっては与えられるものを受け取るしかないのだろうか。


ということで当時の文章は、非常に奇妙でわけのわからない文章になりきっているのだが、これを読み返すとこの現場にいたときのことをよく思い出すことが出来るのだ。


1021- ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル 1979年来日公演=2=

2010-06-09 23:36:00 | インポート

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前回1020-の続きなんですが、この1979年のカラヤンとベルリン・フィルの来日公演に同行したソリストがものすごいの一言。カラヤンでなければこんなクラクラメンバー集結しないと思いますよ。

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アンナ・トモワ=シントウ

ミレッラ・フレーニ

ルザ・バルダーニ

アグネス・バルツァ

ペーター・シュライヤー

ルイス・リマ

ホセ・ファン・ダム

ニコライ・ギャウロフ

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個人的には結果的に、ほかの場でもバルダーニ以外は全部生で聴いたことがあります。

みんな有名すぎますけれど、ルイス・リマは少しネーム・バリューがほかのソリストに埋もれてしまうかもしれませんが、このリマは、メトでトラヴィアータのアルフレード役を聴いたことがあります。あまり大きくありませんが几帳面な歌だったと思います。

いずれにしても、この1979年の来日公演のときのようなソリストの勢揃いはなかなか実現しないでしょうね。引き寄せる才能の存在が最近はあまりありませんし。

下の写真は、当時のベルリン・フィルメンバーの土屋さんのサイン。

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1020- ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル 1979年来日公演=1=

2010-06-08 23:00:00 | インポート

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1979年聴いたコンサートより書いてます。

1979年の聴いたコンサート一覧はここ

今回はカラヤン、ベルリン・フィルです。

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1979年の来日公演はベルリン・フィル6度目。

その前は1977年ですから2年ぶり。

大昔と違い頻繁な来日となり始めた頃ですね。

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1979年公演は全9公演。

場所は1977年公演ではじめて使った最悪の普門館。音響版だか反射板だかなんだかを両端に置いて、大幅に音響が改善された。カラヤンも納得するだろう。みたいな触れ込みだったと記憶する。しかし、採算ベースのほうのウエイトが高いのは明らかだろう。

このホール、今ではブラバンの甲子園になってしまった。

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それで、この9公演はまさに画期的なプログラムで、国内の地元の常設オケでもこれだけ続けて演奏するのは簡単ではないと思えるような、目がくらくらするようなものだった。

早い話、大曲だらけで、ヴェルレクを2度やる以外は全部異なるプログラム。後半5回はウィーン楽友教会の合唱団も加わってこれ以上ないプログラムであったのだ。

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197910月 全て7:00pm 普門館

16() 

モーツァルト/交響曲第39

シュトラウス/ツァラトゥストラはかく語りき

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17()

マーラー 交響曲第6番悲劇的 ◎

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18()

シューベルト 交響曲第8番 未完成

チャイコフスキー 交響曲第5

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19()

ドヴォルザーク 交響曲第8

ムソルグスキー(ラヴェル編曲) 展覧会の絵

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21() ベートーヴェン 交響曲第9番 ◎

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22() ハイドン オラトリオ天地創造

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24() ヴェルディ レクイエム

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25() 

 モーツァルト レクイエム

 ブルックナー テ・デウム

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26() ヴェルディ レクイエム

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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン・フィルハーモニカー

ウィーン楽友教会合唱団

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◎は河童潜入

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2回潜入したのですが、当時東京に住んでいなかったので、会社をどうやって長期間さぼろうかと四苦八苦。2回が限度でした。

つづく

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1019‐ 足もしびれるベルビア館にいってきました。

2010-06-07 23:00:00 | 銀座にて


有楽町のビックカメラに寄りついでに、ベルビア館にいってきました。
行ったといっても夜、食べに寄っただけです。
おもに7階8階がレストランというか居酒屋というか飲食店街。
一周するとよくわかりますが、あまり大きなビルではありません。
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7階の方は結構盛況でしたが、8階はガラガラ。
どうしてこうなるのか知らないが、人が誰もいない店には足が、たしかに向かない。
あまり混んでいるのもそれはそれでうるさくて問題ではあるのですが。
ぶらーりと歩くと、多くの店が中がよく見える作りで客がいるのかどうかよく見える。
客が入っていないのに厨房で忙しく調理に励んでいるのはなぜ?
4人もスタッフがいるのに、お皿がなかなかでてこないのはなぜ?
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銀座散歩にきて、腹ごしらえにわざわざ寄るようなビルではありませんな。

溜まりや 八
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