河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

924- パーヴォ・ヤルヴィ シンシナティ交響楽団 2009.10.26

2009-10-28 01:18:43 | インポート

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2009-2010シーズン聴いたコンサートより

2009年10月26日(月)7:00pm

NHKホール

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コープランド 庶民のファンファーレ

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バーバー 弦楽のためのアダージョ

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バーンスタイン ウエストサイド物語より

         シンフォニック・ダンス

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ドヴォルザーク 交響曲第9番 新世界より

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(アンコール)

バーンスタイン キャンディート序曲

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パーヴォ・ヤルヴィ指揮

シンシナティ交響楽団

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ひと頃、テラークから出ていたCDのサウンドそのもののような比較的硬めのメカニカルで、それでいてその後、この今日の指揮者のせいかどうか少し柔軟になった音を聴くことが出来た。ヘスス・ロペス・コボスが振ったマーラー・サウンドと硬い部分に関してはオーケストラの共通項の特質として聴きとれる。

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今日のプログラム・ビルディングはアンコールも含め完璧。アメリカの表玄関のような曲が並んだ。ニューヨーク・フィルこそこれらの曲の演奏にはふさわしい気もするが、オハイオもアメリカ、アメリカン・セレブレーション・ナイトとして楽しもう。

一曲目のコープランドの曲は正しくは、

ファンフェア・フォァ・ザ・コモン・メン

と発音する。(Fanfare for the Common Man

Common Manを庶民と訳すのはどうも違和感がある。一般普通でない人達以外の人のことだろうなぁ。プログラムの解説にはうまく説明が書いてある。

ヤルヴィのテンポはかなりスロー。この曲はブラス・セクションとティンパニーによる爆な曲なわけだが、ファンファーレの割には長い曲。ある種、熱狂のようなものが欲しい。

ヤルヴィは四角四面な演奏で、それが、醒めた音楽を放出する。

このファンファーレはニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で何度か聴いている。バーンスタインの飛び入り指揮というのもあったが、あすこには熱があった。なんというか底から湧き出てくるというか、吹きあげるというかそんな感覚。

シンシナティはグーセンスがらみで世界初演という動かしがたい事実があるので、ここはそのトラディッショナルなサウンドに聴き耳をたてる。

ゆっくりめでアメリカのオケにしては少し控えめ、品位と節度は時として、みすぼらしい田舎演奏となってしまうこともあるが、ここではぎりぎり踏みとどまった。聴衆のほれぼれする聴き方、クラップ、見事であった。

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バーバーの曲は映画をはじめいろんなところでよく聴かれるなじみ深いものだが、ヤルヴィの棒の特徴が少しずつあらわれてきたようだ。

どうせアメリカを並べるなら、ここはバーバーではなく、アイヴスの、アンアンサード・クエスチョン答えのない質問、だったらどうだろう。突然宇宙に放り投げられたような気持も悪くはない。ちょっと音楽が深すぎるが。

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バーンスタインのウェストサイド・ストーリーは、わかってはいるものの、つんのめるようなリズムが最初から最後まで、面白いというか、ストレスが蓄積するというか、この作曲家の異質性というよりも限界を垣間見ることが出来て面白いのだが、シンシナティのオーケストラは大迫力で、かつ、ヤルヴィ特有のディテールへのこだわり、その対比が際立っており、あまりやりすぎると曲の縁取りが視野に入りすぎ小粒な曲のように聴こえてしまうものだが、これもぎりぎりで踏みとどまった。

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前半終了

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後半は、新世界より。

明らかに明白なのは、第1楽章第2主題の歌いぶり。緊張感をもった第1主題との対比は、ブレーメンのカンマーフィルを振ったベートーヴェンなどよりもかなり強調されている。古典主義よりあとの曲に対する理解と踏んだ。ソナタ形式の解釈の多様性を1人でいろいろと魅せてくれるようだ。第2楽章以降も同じような傾向が続く。結局、前半のバーバーも同じような解釈だったのかもしれない。ただ、

指揮が全て演奏解釈として表出されていたかというと、そうでないような部分もあったようだ。音楽が流れているのか、惰性なのかわからないような箇所が散見され、このやりつくされた新世界で、一度振り間違えがあったように思う。第2楽章か第3楽章か記憶が定かではないのだが。ここはアンコール曲と同様、譜面を見ながら振ったほうがよかったのかも。

第4楽章のイン・テンポによるコーダの盛り上げは、いつも聴いている音の織物と全く異なるような響きを部分的に醸し出し、非常に面白いものではあった。が、音が狭い、つぎはぎのように前進するような錯覚に陥った。これもぎりぎりで踏みとどまった。

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ホルンの1番2番は女性。1番のリズさんはノン・ビブラートであっさりしたものだが、すこーしフラット気味。総じてブラスは1.5流か。

ウィンドは指揮者の執拗な練習、こだわりのせいか、成果がでている。

弦も含め、まだ男性団員が多く、なんとなく昔風な趣を感じる。

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アンコールはキャンディート序曲。今日バーンスタイン2曲目だ。ほとんどブラスバンド風な響き、ちょっとチープ感が漂うが、ウィンドの多彩な響きで救われる。迫力は最高。いいアンコール曲だ。盛大な拍手。

おわり

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923- アレクサンドル・ラザレフ プロコフィエフを爆振り 2009.10.24

2009-10-24 23:42:24 | インポート

最近の演奏会より。20092010シーズン。

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20091024()2:00pm

サントリー・ホール

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チャイコフスキー 幻想的序曲「ハムレット」

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モーツァルト ピアノ協奏曲第27

 ピアノ、田村響

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プロコフィエフ 交響曲第3

 ~歌劇≪炎の天使≫による

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(アンコール)

プロコフィエフ シンデレラより

        シンデレラのワルツ

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アレクサンドル・ラザレフ 指揮

日本フィルハーモニー交響楽団

どうしていつもこのようになるのだろう。

ロシア人が棒を振ると日本のオケさえロシアの響きとなる。。

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音の横幅が広がり、ブラスは鳴り切り、弦はゴシゴシと極限のテヌート、コントラバスはうなりをたて、そして全体の音圧が激しく胸が苦しくなるほど圧倒的。一見大雑把に見えて要所の締めは見事。

扇風機のスヴェトラーノフ、ひらひらチョップのゲルギエフ、おどけのロジェストヴェンスキー、ラザレフは客席を見ながら棒を振ったり、この人たち日本のオケを振るとだいたい一様に普段聴いたこともないようなサウンドに様変わりさせてしまう。

ロシア人はオーケストラのサウンドというものはこうあるべきだというものをもっているのかもしれない。そして外国に出張っていっても同じように表現するべきだと思っているのだろう。そのような信念がなければいつもこんな音でない。

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プロコフィエフの3番は、日本のウサギ小屋ではその音響を再現させるには無理がある。

昨年の12月にゲルギエフとロンドン響の組み合わせで2番を聴いたが、あのような成長のプロセスを見せられているようなレベルではもはやなく、このとんでも3番、結局有名な5番の方向に向かうのか、それとも爆な世界に行くのかその分水嶺のようなきわどい作品だったのだ。

圧倒的な音圧でバスドラ、ティンパニ、ブラスが地響きをたてる。一瞬5番のシンプルで清らかなハーモニーが聴かれるところもあるが、すぐに吹き飛んでしまうすさまじさが全体を覆っている。第4楽章の終結部ではそれまでうなっていた不協和音はついにはトーン・クラスターのようになり、鳴っていたのかそうでなかったのか、行きつくところまで行って終わる。その後の交響曲の展開をこの方向で展開していけば、今聴ける5番とはまったく異なる世界に到達していたと思う。残念な気がしないでもないが、5番は頂点だったかもしれないが3番は究極の選択肢的な曲と言うべきものだったのだ。

演奏会の30分ほど前に、団員による曲、演奏者の紹介がある。

ハムレットとプロコフィエフの3番は、このオーケストラにとって初めての曲のようで、いかに日常的でない曲であるかわかるというものだが、だからと言って駄作というわけではない。理解者がいなかったのだ。振るほうに。。

曲を知っている指揮者がいなければ日フィルからこの日のような音は決して出ない。オリジナルなロシアの指揮者がまさに、曲と演奏方法、解釈を移植しに来た、というにふさわしい。昔、ギュンター・ヴァントがN響にブルックナーの演奏方法を移植しに来たのと同じだ。

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プロコフィエフの交響曲第3番というのは副題が示している通り、歌劇≪炎の天使≫を素材にしている。素材をソナタ形式の第1主題、第2主題、三部形式、スケルツォ、トリオにあてはめているので多少無理がある。近接する主題に素材の有機的なつながりはあまりあるとはいえない。オペラの広がりは大きなものであり、断片のつまみ食い的な、主題への貼り付けでその主題構成を行ってしまうようなところがあり、交響的な連関は薄いというかあまりそのような形式的な聴き方はどうかと思う。ただし、組曲風な感じは全くない。やっぱり交響曲の形式で聴くと心和らぐ部分もあるのも事実。かなり爆ではあるが。。

冒頭の響きからウサギ小屋では聴くのを控えたほうがいいように思うが、そのような連続ななか、第3楽章のスケルツォ、トリオのあとの回帰、ここ回帰なのかどうか。完全に変。ユニークな響きが2,3分鳴り響き、終結するような雰囲気もないまま宙ぶらりん状態にさせてくれたまま終わり第4楽章にはいる。ここまでくると曲の大きさがオペラのことを忘れさせてくれる。最終楽章のクラスターの響きの予兆はこの回帰段階ですでに形成されているのではないのか。

4楽章を冷静にソナタ形式で聴き終えるのは困難だが、音楽の聴き方として方向感を見定めながら聴くことは出来る。聴きようによっては、モザイク的手法のような感じがなくもない。そのつながりは繰り返しではなくチェーンであり、新たなリズムとハーモニーの世界が生成され続ける。

オペラ≪炎の天使≫がいかに異様かあらためて認識できるというものだが、オペラの流布の為ではなく難解さが上積みされてしまっただけのようだ。傑作の生まれるひとつの方向性が示唆されていて興味深い。

ということで、前半は完全な前座モードになってしまったわけなのだが、味わい深いものではあった。

ハムレットはラザレフ共感の棒以外の何物でもない。4列目中央の席で音圧につぶされてしまいそうな席に座っていたのだが、たまにこちらのほうをちらちら見ながら棒を振る、といっても棒は持っていないのだが、その姿がかなりユニークだ。客席のほうまで首を曲げる指揮者は結構いるが、ラザレフの振りむき技は意識されているものだけに、思わず、目くばせをしてあげたくなる。23回目が合った。

日フィルは縦の線が今一つだが、ズシーンとあわせにくるラザレフの棒で、あとでオクタヴィアのCDにどんな感じで収録されているのか興味があるところだ。ラザレフはデリカシーに富んだ解釈をするようで、ハムレットの理解が必須なのかもしれないなぁ。

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1986年生まれの田村響という音楽的な名前の若いピアニストがモーツァルトの27番を弾いた。あまり演奏会、リサイタルが多いと練習する時間があるのかどうか心配になったりするものだが、そこらへん彼の場合十分な練習を積んでいるように見受けられる。直感的には後に棒振りに転向するような気配がある。

かなりスローなテンポで落ち着いた演奏で、精神にも余裕が感じられる。ダイナミックな変化、音楽のしゃくりあげるような歌があるにはあるがちょっと取ってつけたようなところがあり響きの変化にもう少し自然さが欲しい。それがないところが若さの表現と言えるのかもしれない。着実で誠実な運びの音楽造りが好ましい。

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上記のように前半はハムレットとモーツァルトの27番のプログラム・ビルディングであり、ちょっと違和感があるが、それは聴き手の問題なのかもしれない。ハムレットの柔らかい表現が次のモーツァルトにうまくつながったようだ。

後半のプロコフィエフの3番は35分ほどなので、前半と長さがアンバランスなのだが、前述したようなものすごい音楽であるため時間的経過は別世界のことになってしまった。

最後にアンコールがあった。ラザレフが振る前に、一度、二度、三度、と客席をちらちらみて、それからワルツを振った。このシンデレラがまたやたらと迫力のあるワルツで、大変に感服。ぶ厚いサウンドのすばらしい音の流れがグングンと鳴り切り、手ごたえのある音楽になっていた。

おわり

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922- あっさりめのチェッカート N響 1978.6.10

2009-10-21 22:42:48 | インポート

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1978年聴いたコンサートより。

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1978610()2:00pm

NHKホール

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ショスタコーヴィッチ 交響曲第1

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チャイコフスキー 交響曲第5

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アルド・チェッカート 指揮 NHK交響楽団

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N響はこの前のブラームスとはうって変わってものすごく明るい音となった。

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チェッカートはそのサラリーマン風のスーツ姿そのもののような、いたってあっさりと振りぬく。音楽の熱意はその振りぶりに比例するものである必要もないし、かといって冷めているわけでもなく、音楽へのストレートな立ちふるいまいだ。

サラリーマンが振ったらこんな感じになるのかもしれない。

プレイヤーはどのような気持ちで演奏しているのか、ちょっと訊いてみたい気もする。

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921- 若いころの尾高 N響定期 1978.5.20

2009-10-20 00:10:00 | コンサート
1978年5月20日(土) 2:00pm NHKホール

シェーンベルク 浄められた夜

ウォルトン ヴィオラ協奏曲
 ヴィオラ、ブルーノ・ジュランナ

パヌフニク 祭典交響曲

尾高忠明 指揮 NHK交響楽団

例によって当時のメモから。
N響の定期でなければこんなに人が入ることもなかったであろう。曲目が渋すぎる。
シェーンベルクはいいとしても、はて、ウォルトン?なに、パヌフニク?!

シェーンベルク以外は曲の良し悪しがわからない。
パヌフニクはステージの四方にトランペットを一人ずつ置いた面白い配置であったが、曲がそれ以上に面白かったかというとそれは疑問。

若い指揮者はこういった曲目を振らざるをえないか。
尾高のベートーヴェンが決して悪いはずはないのに。
といったメモ。
パヌフニクは当時初めて聴く名前の作曲者。トランペットの配置のことは記憶にあるが、肝心な曲の内容については忘れかかっている。
当時の尾高が目新しさのみで振っていたのか、共感の棒であったのか、それは今の棒と比べればわかることだ。割と首尾一貫かなと思う。
おわり

920- サヴァリッシュ ポリーニ ブラームス N響 1978.4.15

2009-10-18 15:39:21 | インポート

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昔聴いた演奏会より。

今書いているのは1978年の演奏会です。

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1978415()2:00pm

NHKホール

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ブラームス ピアノ協奏曲第1

(アンコールあり)

 ピアノ、マウリツィオ・ポリーニ

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ブラームス 交響曲第4

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ヴォルフガンク・サヴァリッシュ指揮

NHK交響楽団

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例によって当時のメモから。

ポリーニもさることながら、サヴァリッシュの振ったブラームスの交響曲のうまさ。弦を主体にし、ブラスは出来るだけ抑えてある。その語り口のうまさ。久しぶりに弦の音楽を聴いた。N響のうまさの再認識。

最近うるさい音楽を聴きすぎている。ブラームスの再認識。メロディーではなくハーモニーがただひたすらに流れるだけ。

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ハーモニー音楽

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ポリーニのピアノの音のきらめきはどうだろう。ブラームスの暗さもポリーニのきらめきの前にイタリアの明るさと化す。

ポリーニの上気した顔。すぐに赤くなり音楽も燃えてくる。

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しかし、ポリーニは本質的に一人で演奏して初めてその全貌を現すと思う。

あの、NHK-FMにおける田園()の実況録音を忘れることが出来ない。

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簡単な感想だが、サヴァリッシュとポリーニの音楽造りがブラームスの一点で結ばれたいい演奏だったのをよく覚えている。

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ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第15番「田園」

ピアノ、マウリツォ・ポリーニ

1976.8.24ザルツブルク祝祭大劇場

NHK-FM 1977.1.3

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919- マーラー復活 渡辺暁雄 就任追加公演1978.4.14

2009-10-14 21:00:00 | インポート

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1978年聴いた演奏会より。

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1978414()7:00pm

東京文化会館

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日本フィルハーモニー交響楽団

渡辺暁雄

音楽監督・常任指揮者

就任記念追加公演

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マーラー 交響曲第2番 復活

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指揮 渡辺暁雄

ソプラノ、常森寿子

アルト、ヴィェラ・ソウクポヴァ

合唱、日本プロ合唱団連合

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例によって当時のメモから。

僕はあれでもブラスをよく抑えたほうだと思った。弦が一緒に鳴っているときは。。

今までにこれほど音楽の形式化にとらわれることなく音楽を聴いたことは無かった。もう形式はいいのだろうか?

僕はマーラーを聴くと音楽的にはいつも現実に引き戻される。聴いている間はすごくロマンティックな方向に考えがいくのに。

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日本フィルはあれでピッチがあってアンサンブルが整えばいうことは無い。もっともこの両方がそろったら世界のトップクラスに入ることはいうまでもないが。

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渡辺はアンサンブルにはそれほど気を使わない指揮者だと思う。全体的によく流れかつよく歌って。楽に、楽に。

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それにしてもマーラーが演奏されるたびに殺気立つ日本の聴衆。ここ一年マーラーはよく聴いた。

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ブルックナーはあまり演奏されていないかもしれない。

おわり

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918- ブロムシュテット ブルックナー5番 1978.4.4

2009-10-13 21:00:00 | コンサート







1978年4月4日(火) 7:00pm 東京文化会館

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」より 前奏曲と愛の死

ブルックナー 交響曲第5

ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

 

音は流れいでるだけで音楽となった。

ドレスデンの来日はこの年2回目。国内15回公演と多い。聴いた演奏会は来日初日。

この日のことでよく覚えているのが、プログラム・ビルディングの良さもさることながら、休憩が無かったこと。これは全く予期していなかった。20分弱の前奏曲と愛の死が終わり、この曲と同じぐらいの長さの休憩に入るのかと思ったが、そのままブルックナーの5番につながった。ピアニシモで終わりピアニシモで開始、そして突然の強奏で音楽はやむことなく流れ続けた。

そしてもう一つ印象にあるのは団員が全員男性ということ。当時ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどもそうではあるのだが、なぜかこのドレスデン、男気のようなものを感じた。ブロムシュテットも演奏が終わったのち、ちやほやと個人のスタンディング・オヴェイションをさせるわけでもなく、全員起立全員着席のスタイルを貫き通した。昔はこれが普通だったように思うのだが。

 

ブルックナーの4番は生でみるとほぼホルン協奏曲の様相を呈しているのだが、この5番もペーター・ダムが頑張らなければならない。奏者リストにはホルン奏者の名前が9本書いてあるのだが、この日全員そろったのかどうかはわからない。5番は強烈なマスサウンドがすさまじいことはすさまじいのだが、編成としてはいたってオーソドックス。だから、ホルンは余計頑張らなければならない。

 

音を出すだけで音楽になるというその音の素晴らしさ。あのまるみを帯びた艶のある弦、そしてブラス。ことさらダイナミックな音楽を造っているわけでもないし、ねちねちと歌わせるわけでもない。音はただひたすらにとうとうと流れあふれ出、こぼれ落ち、黒く光りながら進んでいく。

 

ワーグナーにおける全くワーグナー的な音楽、そしてブルックナーにおける全くブルックナー的な音楽。これは自然であるからこそこうなる。弦の充実度、ブラスのミラクルなピッチ、全く考えられない。

 

今日のブルックナーを聴いて最初に感じたのはゲヴァントハウスの音とよく似ているということ。流れる音の戯れ、これが正統派にならないのが現代なのか。

指揮者が棒を振らず直立不動となる時、この黒光りする音はただひたすらに流れいでる。抜群のピッチ。そして歌をもって。

音は流れるだけでよかった。それが音楽となる。

おわり 


917- 読響の復習 チェリビダッケの再来日1978.3.17

2009-10-12 10:48:29 | コンサート

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昔聴いた演奏会より。1978年を書いてます。


前年の1977年に単身初来日して読響を振ったチェリビダッケが、この年、復習の確認のため再来日し、再び読響を振った。

1978年3月17日(金)19:00 神奈川県民ホール

モーツァルト/交響曲第41番

ワーグナー/トリスタンとイゾルデより前奏曲と愛の死
レスピーギ/ローマの松

セルジュ・チェリビダッケ 指揮 読売日本交響楽団

以下は当時のメモ書きより
今回の演奏は、演奏会そのものが音楽体験になったというより、一曲一曲がまさに記念すべき体験になり、一生忘れられないものとなろう。
最前列で聴きほれていた僕にとって、いつもは気になる周囲の咳払いやしぐさは、まるで視聴覚的にはいってこなかった。ひとりにさせてくれるそのありがたみ。
前回同様ピアニッシモから始まった。しかし今回はピアニッシモだけに終わるようなチェリビダッケではないことは予感していた。モーツァルトは別にして。

モーツァルト
本当はフルトヴェングラーはモーツアルトをこのように演奏したかったのではなかったか。と、演奏中にふと思った。フルトヴェングラーのモーツァルト40番は先を急ぐかのようにひた走りする。本当はいやなのにひた走りする。あのモーツァルトが自己最高の納得した表現だとは思わない。いや表現を抑えているのだ。
チェリビダッケは最高の解釈で進む。一流とは言えないオーケストラから、あのようなピッチのあった、気持ちの良いモーツァルトをきけるとは夢にも思わなかった。比較的ゆっくりと進み、音は風のように流れる。本当に軽い肌触りである。もうこれだけでまいってしまった。そして第2楽章、今にもとまりそうな遅さ。本当とまりそうだった。しかし明るかった。軽かった。
そして今日の演奏会、最高の出来栄えと思われる第3楽章。なんと快いことか。なんとさわやかなことか。もう音に浸るしかなかった。オーケストラ団員が演奏しているその喜びを僕は肌で受け取った。
第4楽章。これは迫力あるだけではなく、今日の後半のプログラムのプレリュードとなるに値するようなデーモンが乗り移ったような演奏であった。
全く素晴らしい、モーツアルトの音楽。再認識。

ワーグナー
これはこの演奏会のメインであり、チェリビダッケのメインである。醒めたワーグナーなど面白くない。この弱音の整った音楽から強音の荒れ狂う様はどうだろう。
前回、このオーケストラに教えたピアニッシモはこのワーグナーの前奏曲で最強音と化した。
荒れ狂う半音階。
いりみだれる音、音、音。
ワーグナー、ワーグナー。
完全なる悪魔の虜。
エクスタシー、震え、エロティックな感動。感動の震え以外なにもなかった。そして静寂から愛の死の高まりへと進む。しかし、前奏曲でのたかまりからは、もうひとつ退かなければならない愛の死のクライマックス。その完璧な表現。僕は音にむさぼり狂った。そして、もう一度、静寂がきたとき、このままいつまでも終わってほしくないと願っていた音楽が終った。チェリビダッケ最高の表現。

レスピーギ
おそらく、このオーケストラのフルメンバーでかかったと思う。音響は空前絶後であった。あのシカゴ交響楽団でも負けそうな雰囲気であった。それにチェリビダッケの指揮も、まるで魔物にとりつかれたような雰囲気であった。前回のピアニッシモと今回のピアニッシモとフォルテッシッシッシモ。今後またきたら読響はどうなるのであろうか。
僕は、しくじったけれどもあのピアニッシッシッシモに耐えたクラリネットに興奮した。よく頑張った。そして本当にきれいなオーケストラの音色の変化。指揮者ひとりでこうも変わるものなのか。
そして、そして、最後に、指揮者、オーケストラ、ともども狂いたけったアッピア街道の松に突入していった。あの超弱音から最後の最強音までの運び方。それに音色の変化。
チェリビダッケは狂っていた。あの三連符を振る時の棒の運び。狂気以外のなにものでもなかった。ただただ手をひたすら回すだけなのである。それについていった読響。僕も狂うしかなかった。その感激。何もかもはるかかなたに飛び去って行った。興奮。ラプトゥス、没我、狂気、あらゆるものが表現されていた。チェリビダッケよ。

チェリビダッケがいなかったら読響はあの最強音と超弱音は創設以来、今後も出せなかったであろう。そして異常なまでの音色の変化も。
チェリビダッケの演奏会で今回一番印象に残ったのは、ものすごいダイナミックレンジよりも、音色バランスである。あの弦だけしかいないようなモーツァルトにしても、異様に多彩な光をはなっていたし、ワーグナーにおけるバランス感覚も最高であった。レスピーギでは言うに及ばず。
最高の解釈者。
幸せな読響のメンバー。
この演奏会は精神的かつ肉体的な「体験」であった。
といった感想で、非常に興奮していた。ほかの聴衆がどのように感じていたかわからないが、演奏後の絶叫に嘘は無かったように思う。
おわり

916- 北海道余市モルト 佳酔久

2009-10-11 21:39:08 | 六本木にて

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昼、仕事を流した後、夕方の人もいる、夜中に帰る人もいる、みなそれぞれのところにむかい、最初の一杯、だまされたと思い、まずこの一杯を、常温で、そして冷やさないグラスで、たしかめてみるといい。

この色あい、香り、そしてのどごしの琥珀のごとき水分を感じさせない液体のうまさ。

遠い昔のことなぞ露ほどにも浮かんでこない、今これがここにある、本当にニッカの響きさえ水滴を越えた金粉のごときこの極上の味わい。久々のヒット。

これを最初に一口たらしたとき、妙な例えだが味噌汁を思い出した。味ではない。味噌汁の一口目の何とも言えない、あぁ、この日本人に生まれてきてよかった、こんなに日本人に合うものは無い、といった思いに似たものを感じた。こんなにおいしいウィスキーを飲めたらやっぱり地球はヘヴン。

63度。そのまま胃にたらしたら二杯で限りなく酩酊にちかいヘヴン状態。つまみは100パーセント不要。この味わいを楽しめばいい。

ここ二三回クラシック音楽の話題から離れてしまっているが、この極上の一杯にあう音楽。それはある、あるけど、タイトルがよくない。宗教を越えた響き。

ハイドンの

十字架上の七つの言葉

これだなぁ。

最後の一曲をのぞいて全てスローテンポで押し通したハイドン、久しぶりのヒット作。これを、頭を空にして聴くとキリストのたかみを越えたピュアな音楽のウィスキーとの同化を感じることができる。

六本木のCASKで今出回っているのは5周年記念ボトル。今河童が飲んでいるのは3周年記念ボトルのほう。当時、といっても河童何百年もの六本木徘徊に比べたら、河童に爪があったのかなどと言いたくなるようなその垢でも煎じて飲ませたい年数しかたっていないCASKではあるが、3周年のそのとき、今も同じ客然としたお皿をつけたままカウンターで飲みついでに、つい、ゲットしてしまった2本のそのボトル。いま、なぜか、一本目に空気を通した。

こんなにうまいとは、あらためて感じ入った。

たぶん、ふだんは、なんだろう、一杯目は、バスピエールから始まってしまうため、この至福の琥珀を真に感じたことがなかったのだろう。こうやって、世の騒がしさから離れ、飲むワンショットの奥深さ、実にすばらしい味わいだ。世に末があるのならそれはそれで受け止めてやろう、などと一瞬の退廃さえ受け入れてしまいたくなるような許された心の臓もさぞかしハッピーだろう。

これだけ褒めたら5周年記念ボトルなぞ、一本サービスでくれてあげてもいいとオーナーは思うかもしれない。オーナーは昼が忙しそうだから、思わないかぁ。

それにしても、だ。

ウィスキーは、いろとりどり、バーで飲むといろんなお酒がのめていいのだが、この余市だけは、うちで、こんもりと、秋の夜長、普段しない同じお酒のおかわりを、自分でしながら、あれやこれやと思いをめぐらし、てんごくだなぁ。

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915- 電気羊

2009-10-06 00:00:06 | 映画

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最後のシーン、二人で逃げるところで、デッカードは一角獣の折り紙を踏んでしまうのですが、そこで首を縦に振りうなずくがあすこは、「なんだこれは?どこかで見たぞ?」と疑念を抱きながら終わるほうがいいような気がする。

デッカードはその随分前のシーンで目を開きながらも、馬のような一角獣が森の中をさまよう夢のようなものを見ているわけです。あすこだけとれば全く意味不明の場面なんですが、この最後のシーンでつながる。

しかし、この一角獣の折り紙を、何故ガフが作ったのか。デッカードが目を開き見た夢のことをガフは知っていた。

つまり、デッカードの記憶も作られたものであり、逃げる二人レイチェルとデッカード、彼らは、片方は己がレプリカントと知っている、そしてもう片方は、レプリカントのブレードランナーで自覚症状はないが、同族を追っていたのだろうか。

ということは、最後のシーンは今後の多難をあらわしているが、それでもあれはハッピーエンドなのかもしれない。

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WOWOWで最新のヴァージョンのブレードランナーをやっていたので久しぶりに見てしまいました。何回見ても面白い。

おわり

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