河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

ニューヨーク・フィルハーモニック with フルトヴェングラー

2006-08-31 00:01:00 | 音楽

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1925年フルトヴェングラーはアメリカ・デビューをはたした。

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192513()20:30カーネギー・ホール

シュトラウス ドン・ファン

ハイドン チェロ・コンチェルトop.101

  パブロ・カザルス、チェロ

ブラームス 交響曲第1

ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

静かな悪友S「初物の指揮者だな。」

河童「そうだ。ニキッシュのあとを襲った油の乗り切った38才の働き盛りだな。」

S「ずいぶんと身長があるね。」

河童「そうだね。クレンペラーまではとどかないが、バトンの細さがよく似合う。始まるぜ。」

S「なんかクネクネして操り人形のような指揮だな。音のいりもよくわからないし。」

河童「ニキッシュは魔法の目。フルトヴェングラーは魔法の棒。」

S「なるほど。プレーヤーにはよくわかるんだね。きっと。」

河童「そうゆうことだ。例えばアインザッツの頭は、四分音符でいうと4分の1ぐらいのところに力点があって、そこに全員の音が一斉に集中する。というかこらえきれなくなって音を出すところがそこらあたりになる。自然と集中度の高い音になる。縦を合わせると言うよりもアインザッツが岩の塊のように束になって出てくる。それもこれも魔法の棒のおかげさ。」

S「そうか。でも棒は縦に動くと言うよりも横に動く感じだな。横に細かく動かしながら上げ下げしてるね。あの震えは16分音符を全部振っているのかな。」

河童「んー。それはどうかな。ちょっとまねしてみたことがあるけど腕の震えがとまらなくなって困ったことがあった。」

S「棒振りは指揮者にまかせとけ、っていったのは誰だっけ。」

河童「まぁ、ドン・ファンは小手調べだな。本当はティルを聴きたかった。ここらへん、オケともども朝バーガーキング前といったところだね。」

S「あすこのハンバーガー最近、味が落ちてる。」

河童「次はカザルスが出てくるぜ。」

S「見た目、わりと若いな。」

河童「指揮者より10才上なだけだからまだ50前だ。」

S「なんだか、長生きしそうな顔してるなぁ。」

河童「いたって普通の演奏だったな。途中ちょっとダブルアールの地下鉄がたまに騒々しくなるのが気になったけど。」

S「指揮者ちょっと遠慮気味か。」

河童「そうだね。この指揮者、コンチェルトでも独奏者を自分の技にはめてしまうらしくて、困る人は困るみたいだけど、カザルスは年長者だし遠慮があったのかもね。ちょっとかみ合わないところありだな。」

S「後半はブラ1だ。」

河童「今日は自分の構想をオケに埋め込む日みたいなものだから、特にニューヨーク・フィルはルーチン・ワークがらみの演奏になると思うよ。」

S「楽しみだな。」

河童「今回の客演ではハルサイも振るので、今日のところはじっくり聴いてあげようではないか。」

S「おぉ、出てきた。よし聴く準備。」

河童「大丈夫だよ、あわてなくても。指揮はせわしないけど、誰かさんみたいにポーディアムに上がった瞬間に振り始める、といった見栄え的なところは皆無だから。最初の音は余裕をもって鳴るよ。」

S「そうか。」

河童「さすがに盛り上がったね。フィナーレの第9的な盛り上がりもいいけど、今夜の頂点は第2楽章の、静けさやホールにしみいるオケの音、っていう感じで素晴らしかった。」

S「ミー・イーザー。全面賛成。」

河童「やはりただものではないな、この指揮者。明日はBAMで同じプログラムをやる。今日よりはこなれてくると思うので、一緒に行くか。」

S「ライ。」

S「ところでこのオケと指揮者の組合せ、今後どうなっていくと思う。」

河童「そうだな。まず、今回の1924-25シーズンは成功裏に終わるだろうね。それで、次の1925-26シーズンも招かれるよ。その次の1926-27もくる。今回は一ヶ月ほどの滞在が予定されているけど、次回は2ヶ月ぐらいのロング・ステイになるんじゃないか。」

S「お河童さんの予言はよくあたるからな。それでオケのほうはどうかな。」

河童「オケのほうは前任者のヨゼフ・ストランスキーがご卒業なされ、今はウィレム・メンゲルベルクが常任だが、彼は1930年頃までは続けるよ。そのあとは、あのトスカニーニがたぶん5,6年常任するんじゃないか。そのあとは混乱していきそうな感じだけど、大穴でジョン・バルビローリなんてぇのはどうかな。」

S「おぼえとくよ。」

河童「さて今日のところは帰るか。この指揮者、ベルリン・フィルとニューヨーク・フィルとどっちが好きかな。」

S「たぶんニューヨーク・フィルの方が自己表現をしやすいのかもしれない。」

河童「でも、彼は自国と自国の音楽があるところから決して離れることは出来ないし、もし戦争などが勃発して戦渦に見舞われてもとどまると思うよ。」

S「そうか。不幸な戦争がおこらないよう祈ろう。」

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決死のイヴェント前夜に聴きたくなるフルヴェン

2006-08-30 00:11:21 | 音楽

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19436月の奇天烈ここに極まるコーダの演奏表現に比類するものはいまだ出現せず。これからも永遠に出現しないであろう。あまりにも常軌を逸している。

ベートーヴェン運命第4楽章コーダに至る加速、そしてコーダの狂ったアチェルランド。木管の細かな加速とともにコーダに突入し、弦が蹴りをいれる。ここで一つの楽器に着目しよう。それはトランペット。加速をべき乗で重ねるフルトヴェングラー。弦と同じキザミをいれるトランペット。もつれるタンギング。うなるバルヴ。縦の線も無ければ横の線も無い。最後は完全に舌がめくれあがっているスタッカート。ベルリン・フィルを意のままに動かすフルトヴェングラー。名演」といった範疇にはいる演奏ではない。意図されない即興が技術を昇華した。あまりにもクレイジーすぎる。指揮者が自分で音を出してもいないのにオーケストラをここまで即興的に駆立てることが可能とは。

ここまで彼を駆立てたものは一体なんだったのか。河童はいまだ理解できないでいるが、なんとなく何かのテスト・試験の前夜に聴くと、合格しそうな感じ。

あまたあるCDは全部音がだめ。メロディアLPはガストの古いのが目の覚めるような音で刻印されているが一般的には手にはいらない。河童が昔愛聴していたのはコロンビア(VOX原盤)。このLPはコーダのトランペットがリアルにとらえられている。

板おこしCD花盛りであるが、いまだこのLPサウンドに迫るものは聴いたことがない。

みなさんも聴いてみて下さい。CDだと楽に手にはいるが、音が丸くなっている。それでもものはためしで、運命、を聴くんだ。という感じで。

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フルトヴェングラー Taking Sides

2006-08-29 00:01:00 | インポート

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この劇は日本でも行われました。

貼り付け写真は1995年ロンドンの当初評です。

興味のある方はクリックして拡大して読んでくださいませ。

(19951012()朝日新聞夕刊)

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(動画削除済み)

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演奏後のゲッペルスの夢見るピュアな目を見ていると、音楽と政治は、一人の個人誰にでも宿る宿命的な二面性と思えてくる。フルトヴェングラーの煮え切らない握手もいたしかたない。音楽家は音楽家の優位独立性を主張し、政治家は自国音楽の優位性を確保する実力行使をする。音楽家は音楽の優位性表現のためにはプレーヤーを選ばない。政治家は粛清後から始めようとする。河童がドクター・フルトヴェングラーと同じ立場にあったとしたら、やはり煮え切らない河童になっていたであろう。ベートーヴェンの自国を捨ててベートーヴェンの演奏は出来ない。祖国を捨てると言うことは自己否定ということになると感じたはずだ。

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フルトヴェングラー 交響曲第1番 日本初演

2006-08-28 00:01:00 | インポート

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2002622() 18:30

初台、オペラ・シティ コンサート・ホール

ワーグナー マイスタージンガー、前奏曲

ワーグナー トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死

フルトヴェングラー 交響曲第1番 (日本初演)

(アンコール)

シューベルト ロザムンデ、間奏曲

ワーグナー ローエングリン、第3幕への前奏曲

ゲオルゲ・アレクサンダー・アルブレヒト 指揮

シュターツカペレ・ワイマール

フルトヴェングラー作曲の交響曲第1番の日本初演が行われたのはつい最近であった。あまりの素晴らしい曲と演奏であったため、河童のお皿のほとぼりが冷める前に、帰宅後どっかのサイト板に思わず書いてしまった。そのときの模様。

亡国のティピカル都市型無責任エンタメ総理ではないけれどセリフだけは真似したくなる。

【興奮!興奮した!感動した!!

素晴らしい曲だ。実演で聴くとどのセクションも休むことなく、ひたすらこの難曲を弾きまくり吹きまくり叩きまくり。特にブラスは最初から最後まで鳴りっぱなし。爽快感を感じることが出来る。実演がなかなか実現できないのはブラスがへばるからではないかと勘ぐりたくなる。ここにあるのはヒンデミットでもなければシュトラウスでもない、明らかに作曲家フルトヴェングラーである。本当にすばらしい。クライマックスの高揚感はいかばかりか。

どうも、暗いイメージの曲の解説とか経緯とかが先走ってしまい、実演を聴いてもいないのに変なイメージが頭の中にあるからいけないのだ。(東京F研究会N氏のプログラム解説ももっと曲そのものの音のことを書いてほしいなぁ。)私には何か情景をあらわす映画音楽のように聴こえてくる。細かい分析は神出鬼没の評論家KK氏にまかせて、この空間の音響を体に浴びせまくった。とにかく作曲家フルトヴェングラー大発見!!

オケもすばらしい。マスで攻めてくるあたり望郷の念にかられるが、この曲にはふさわしい。大力演のオケと指揮者。オケが去った後のカーテンコールまで印象的な演奏会でした。】

ということで、久々のヒット。実際、聴いた直後の興奮状態そのままである。詳しい分析は、当日聴きに来ていた神出鬼没の音楽評論家金子建志さんにまかせるとしても、音の響き自体のことを中心に書いてみたい。

まず、第1楽章の「いり」から思うのはせっかちとさえ言える曲想の変化である。弦楽器によるせわしないフレーズと、ブラスによる絶え間ない咆哮。ブルックナー的沈黙とか息の長さみたいなものはここにはない。彼の求めているものではない。従って、よく曲の解説とか背景説明などにあるように、「ブルックナーとシュトラウスとヒンデミットなどが混ざったような」、などというような言葉の羅列が嘘であると言うことがたちどころに理解出来る。やはり響き、音、をなんの先入観念も持たず聴くと言うことは大事だ。最初せわしなく感じた曲の流れも、だんだんと積もり重なっていき遂には巨大でヘビーな音響空間が構築される。これは見事としか言いようが無い。唖然とするすばらしさだ。もちろん、暗い時代背景が反映された.....といった解説も完全に無視。

河童には映画音楽の情景描写のように聴こえる。ただ、調が安定することはない。ニ短調的不安定感と、予定調和は第4楽章のフィナーレまで持ち越しだよ、といったメッセージを強烈に感じる。

また、第1主題、第2主題というソナタ形式も明確には聴こえてこない。(これは聴きこんでいないからかもしれない。)絶え間ない曲想の変化、静寂な部分もそんなに長くは無く、すぐにエネルギーの爆発が始まる。退屈する暇は一時も無い。

あっという間の第1楽章31分であった。なにか巨大な壁画を見るような思いである。この第1楽章を聴いて思うのは、作曲家フルトヴェングラーはこの1番の後、決して量産するタイプではないなぁ、ということ。

2楽章スケルツォ9分、第3楽章アダージョ15分は、巨大な第1楽章31分の内容に比べるとあっけない感じでさえある。長さ的にはバランスを欠くかもしれないが、あの超ヘビー級の第1楽章のあとにはこのようなスケルツォこそふさわしいのかもしれない。ここでもあのせわしない曲想が印象的である。アダージョでさえ、下降するフレーズよりも弦楽器によるせわしない曲想の方が印象的だ。このアダージョも息が長いというものではない。

クライマックスは第4楽章である。ここには真の音の響きの饗宴がある。昨今の分離した音を求めるスコアではないらしく、時代を反映したマスとしての響きを強烈な音圧として感じることが出来る。弦楽器の絶え間ない変化、ブラスによる強烈な例の降下音フレーズ、ソロイスティックな木管、二人で叩くティンパニ。なにもかもサディスティックなまでに燃え上がる。特にブラスセクションの咆哮はすさまじい。よっぽどの共感が指揮者とオーケストラ両方にないとここまで踏ん張れないと思う。そして、最初に書いたように、最後を予感させた予定調和が完全な高揚感を伴ってすさまじい打撃音とともにかなたに終わる。

なんという充実感だろう!!久しぶりだ。このような圧倒的な音楽を聴いたのは。拍手もこのタイミングしかありえないという全く納得できるものであった。

この指揮者とオーケストラは日本ではあまり知られておらず、曲も曲だけに三分の二程度の入りであったが、これからは見直されるだろう。やっぱりオペラをやっているオーケストラは強い。特にこのような大曲には腕まくりであろう。そこまでさせた指揮者に脱帽。

さすがフルトヴェングラー協会お墨付きの研究家だけのことはある。共感度が他の指揮者とは全く異なる。

オーケストラ自体は、音を分解させて響かせる、といった昨今のスキルレベル誇示の方向ではなく、昔ながらのマッシブな音楽アンサンブルが心地よい。特にこのような曲にはふさわしいと思う。その意味では時代を反映した曲と言えるかもしれない。

この曲は聴いているとアウフタクト部分も8分音符、16分音符で、というフレーズが頻繁に出てくる。そういったところはなかなか合わせづらいと思う。このような部分が一流との差になるのであるが、このようなことは次回のお楽しみとしよう。とにかく初来日ということもあり、全国行脚、プログラムも長大、アンコールピースも盛りだくさん、久しぶりの正味2時間半オーバーのフルコンサートであった。

1楽章 ラルゴ 31

2楽章 スケルツォ 9

3楽章 アダージョ 15

4楽章 フィナーレ 26

おわり

ところで、冒頭に書いた解説のN氏。昨日の成果はどうだったのだろうか。

3番の初演。

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フルトヴェングラー 対 大木さん

2006-08-27 00:00:00 | 音楽

昔、大木正興さんはたしかこのようなことを言った。

「音楽と政治は別だと言うのなら、何故、第二次世界大戦中の演奏が時代を色濃く反映した解釈となっているのか。言葉の主張と演奏表現が異なるのではないか。」

レコ芸のレビューの言葉だったかもしれない。つまり言っていることとやっていることが違うではないか、ということ。

このように言われると、フルトヴェングラーナマ体験の無い人間たちにとってはその先の言葉が見つからない。しかし、戦争がおこらなかった場合の表現・解釈は、人間界、河童界の誰一人知りうるものはいないのは厳然たる事実である。戦争は現実におこったのだから。だから大木さんの主張は半分以下の確率でしか正しくない。

フルトヴェングラーの壮年期(第二次世界大戦の前)の録音はほぼ皆無。我々が録音を通して聴くことが出来るものは戦中以降が大部分。そしてその演奏解釈は、世界遺産、まさに誰もなしえなかったものではある。しかし、それは戦争という非日常性があったからなしえたものなのであろうか。

例えば1951.10.29エキセントリック・コンサートなど戦後のものを聴いても、戦中のものに負けず劣らず常軌を逸しているし、これが普通だったような気もする。この演奏を聴けば戦中の演奏も、特に戦争意識を感じることなく聴くことが出来るのではないか。エキセントリック・コンサートは戦中体験から継承された演奏解釈だと言うこともできるが、それならば、もっと昔の1922年にニキッシュのあとを継いだのが何故フルトヴェングラーであったのか。音楽表現の才能は戦中に突然開花したものではない。1922年ベルリン・フィル以前の演奏を知る必要があるのだろうが、今となっては将来のタイムマシン頼みだ。

「亡命前夜の、先を急ぐフランク、ブラ2の戦争末期で無ければなしえなかった超絶的な名演」といった字句を一度取り払う必要がある。

残っているライブ録音はCDの時代になっても満足に演奏会一夜の出来事として聴くにはいまだままならない。ライブ疑似体験をするには、散り散りバラバラのCDを寄せ集めて、一夜のものにまとめてから聴くことから始めたい。聴くのは一日に演奏会一日分というのが同時進行的で効果的だ。戦中戦後のものを問わずそのように聴いてみたい。また、フルトヴェングラーはプログラム・ビルディングをかなり重視していたのでCDを聴く順番もコンサートどおりとしたい。イメージが大事だ。

タイムトラベラー河童が聴きたいコンサート

193851日フィレンツェ

ベートーベン エグモント序曲

ブルックナー 交響曲第8

シュトラウス ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら

ワーグナー マイスタージンガー前奏曲

おそらく、ブルックナーのあとに休憩があり、後半がティルで、マイスタージンガーは当地でのアンコールではないかと思う。フルトヴェングラーの場合、ティルを後半に置くプログラムはわりとあり、なんとなくブルックナーのあとの整理体操のような気がしないでもない。ユニークなプログラムである。そして現代の演奏会ではあまりお目にかかることの無い長い一夜のプログラムである。

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経年変化に耐え続けるフルトヴェングラー

2006-08-24 00:01:00 | 音楽

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再帰する永久不滅の指揮者。.

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0042- フルトヴェングラー エキセントリック・コンサート

2006-08-23 00:07:46 | フルトヴェングラー

河童「この前お勧めしたライヴCD買ってみたのかね。」

静かな悪友S「聴いてみた。」

河童「それで感想は?」

S「あの指揮、とんでも棒だな。」

河童「だから前々から早く聴け、といっておいたのだ。」

S「予想以上だった。」

河童「あんなエキセントリックな演奏はないぜ。冒頭のコリオランはコレデモカといった超弩級の重さだし。春は、Spring has gone.っていう感じ。極度に引き延ばされ空中分解しそうな序奏を聴けば、もう終わってもいいのでは?とさえ思える。ブル4にいたっては、スケルツォのノリは誰もまねできないが、第4楽章の人間の限界を超えたキンチョールも鳥肌ものよ。」

S「どのような指揮者もまねできない解釈だし、まねしようとしても無理だな。プロセスがあって結果がついてきた、っていうことだからやはり天才技というところか。それにしてもオケをドライヴしすぎ。ウィーン・フィルよくついていけるよ。」

河童「おもしろすぎる演奏だ。」

S「これは定期?」

河童「ウィーン・フィルとのヨーロッパ・ツアーのなかでの演奏だ。10月5日のモントゥルーから始まって、ローザンヌ、チューリッヒ、バーゼル、パリ、ミュンスター、ハンブルク、ハノーファー、ドルトムント、ウッペルタル、デュッセルドルフ、ヴィースバーデン、ハイデルベルク、フランクフルト、シュトゥットガルト、カールスルーエ、そしてこの日が区切りのミュンヘン公演だ。」

S「ずいぶんと詳しいな。」

河童「追っかけをしたんだ。」

S「それにしても昔のプログラムは長かったんだね。」

河童「この日も休憩をいれて2時間半ぐらいかかってしまった。全プログラム胃袋に鉛を飲み込んでしまったようなヘヴィーな気分。」

S「こんな演奏毎日やっていたのかね。」

河童「そうゆうことだ。10月のミュンヘンの澄んだ空気の夜空に向かって怒髪天を衝く演奏にはもってこいのコンディションだったみたいだね。」

S「よくやるよ。ところで、このホールはドイツ博物館とあるが。」

河童「そうだ。ミュンヘンの川の中州にあるばかでかいドイツ博物館だ。」

S「博物館のロビーでやったのかね。」

河童「全部見るのに3,4日かかる博物館なので、いたるところにスペースがある。終わってからちょっと見学してみたけど、昔の防空壕の地下迷路のようなものがそのまま博物館の地下にあったりする、とんでも館だ。」

S「こんどフュッセンの白鳥のお城に登って、その足で寄ってみるか。」

河童「それがいい。河童はライン川をもぐってコブレンツの例の〆鯖の居酒屋で一服してから北に向かう。」

S「それはそうと、お河童さんはF協会会員になってどのくらいになるの?」

河童「そうだね。河童歴132年からだから、もうかれこれ30年以上だね。」

S「こんな限界演奏をいつも早目に入手していたのかな。」

河童「この演奏は河童歴109年のもので、現場で盗み録音をしてあらぬ方向にばら撒いたら、河童歴128年頃にLP化された(市販2枚)。」

S「昔から音も盗んでいたと言うことか。」

河童「人聞きが悪いな。エキセントリック・コンサートの世界遺産化だ。」

S「ものはいいようだな。」

河童「昔のF協会は市販されていない音源の連発で有意義だった。会員も熱かった。一番印象に残っている協会レコードは、例のドイツ亡命前夜のフランクとブラ2の何を何処にそんなに急ぐクレイジーな演奏。あれはすごかった。ご本人は結局、スキーでスイスにでたという噂もある。」

S「それでF協会は?」

河童「歴史はすすみ、録音の著作権切れになったあたりからインディーズ系の小規模な会社などが同じ音源の繰り返し発売の連発で新鮮味がなくなった。F協会も同じ音源の繰り返し発売ばかり。主眼は新録音ではなく、同じ音源でいい音のCDをだすこと。という奇妙な現象が発生した。それに最近のF協会は、利益をあげているのではないかというきな臭い噂もあるようだ。いずれにしてもご本人は1954年没だから、これ以降の新譜はないわけで、オタク連中にとっては範囲が確定している分、コレクトしやすいのだろう。僕はもう卒業だ。全部聴いた。スカラ座とのステレオのパルジファルがあるという噂もあるが、発見されて発売されればすぐにとびつくだろうが、これまでの焼き直しCDはもうたくさんだ。基本的にあたらしものずきだし。」

S「なるほどね。オタク寸前で踏みとどまったんだね。」

河童「でも、いまだに会員。某ネットでは最近までかなり名が売れていた。理由はまたいつかチャンスがあれば教えるよ。」

S「楽しみにしてるよ。」

1951年10月29日 ミュンヘン、ドイツ博物館
ベートーヴェン コリオラン序曲
シューマン 交響曲第1番 春
ブルックナー 交響曲4番
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル

おわり

 

 

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0041- メシアン、トゥーランガリラ、大友直人、東響、1994.2.26

2006-08-22 00:11:23 | コンサート





 

オンド・マルトノを見たのはこのときが初めてであった。音高に境目の無い不思議な装置の電子楽器。もちろんトゥーランガリラも初めてのナマ体験。

1994年2月26日(土) 6:00pm サントリー

武満徹 弦楽のためのレクイエム

メシアン トゥーランガリーラー交響曲

藤井一興、ピアノ
原田 節、オンド・マルトノ
大友直人 指揮 東京交響楽団


初めての生演奏の印象は?
基本的にブラスとパーカッションの曲。弦は始終叩きつける感じ。メローディーラインは息を噴出す金管のようなフレーズであり、あれだけフォルテッシモが続けば弦はひとたまりも無く、従って叩きつけるような弦楽器はあれで正解。というかそのように曲が出来ている。
メシアンの曲の多くは副題がついているが、そのような前提知識が無くても、「音の響き」を楽しめる。音と音とのぶつかり合い、音色変化、オーケストラの特質を見事にひきだしている。パーカッションがたまにもつれるが指揮者がすぐに矯正しにかかる。有能である。
また、限りなくセクシーで微妙な愛の楽章に浸りきるにはもう何度か通わなければならない。全体的にこのオーケストラ独特の黄色みを帯びたブラスのサウンドが印象的な演奏であった。

といった感じ。初物の印象はいつもこんな感じ。
近年、この交響曲は比較的演奏されるようになってきている。海外オケの来日公演では観客のいりなどでリスキーなせいか危ない橋は渡っていないが、国内の高性能オケでは比較的取り上げられるようになってきた。東にその公演あれば雨にもまけず出かけ、西にその演奏あれば風にも負けず応援する。このパターンが続いている。
オンド・マルトノはハラダさんで、というのが定番になっているが、是非一度は見聴きして欲しいものだ。音高に境目が無く非常に不思議なサウンドである。聴き所は終曲コーダ最結尾の天までかけのぼるような吹き上げるサウンド。この装置、見た目は映画フィフス・エレメントに出てくるグリーン色のオペラ歌手の頭に似ている。


保有CD
ミュン・フン・チュン/バスティーユ(1990)
沼尻竜典/日本po.(2002)
アントニ・ヴィット/ポーランドRso.(1998)
ケント・ナガノ/ベルリンpo.(2000)
小沢征爾/トロントso.
リッカルド・シャイー/コンセルトヘボウo.(1992)
エサ・ペッカ・サロネン/フィルハーモニアo.(1985)

沼尻の目の覚めるような録音が素晴らしい。ケント・ナガノ盤はベルリン・フィルの力が恐ろしい。とくに終曲コーダのブラスのキザミの凄さに身の毛もタツ。
おわり

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「主イエス・キリストの変容」の前夜は「ロメオとジュリエット」

2006-08-21 00:01:00 | 音楽

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1978年の715()に、メシアン「主イエス・キリストの変容」日本初演を行ったフランス国立管弦楽団は、その前日の来日第一夜、朝マック前の大曲を演奏した。

1978714()19NHKホール

君が代

ラ・マルセイエーズ

ベルリオーズ作曲

ロメオとジュリエット 全曲

ユリア・ハマリ、メゾ

ローラン・ブッフケン、テノール

アゴスティーノ・フェリン、バス

ロリン・マゼール指揮

フランス国立管弦楽団

フランス国立放送合唱団

(ロジェ・ワーグナー指揮)

へたな指揮者だと最後までもたない曲だが、マゼールに何の問題もない。オーケストラの水準がたかく、指揮者もつぼを心得たもので、あとは自由な裁量でペイントしていく感じ。

ベルリオーズの一見気まぐれ風な曲想が魅力的であり、それを上手に表現できるオケのアンサンブル、個人技、それが集積したときの、やや粘り気がありながらも余裕のドライなハーモニーの風通しのよさ。まったく弛緩しない。マゼールの飛び跳ねる体と手がそのまま音になる姿はそれ自体芸術。音はあのようにして作ることもできる。

ところで、この日の国歌演奏。君が代のニュアンス以外は両日ともに同じ。特筆すべきは木管のアンサンブルのうまさ、中声部のヴィオラとチェロのぶあつい音が凄い。

第1部           1810

第2部           293

休憩 20

第3部           2250

第4部           19

この日のプログラムにも何故か秒単位までタイミングが記載されていた。

ブロードキャストの記載もあるので映像、音ともに残っているはずである。

8/6()NHK教育TV14:00-15:45

8/29()NHK-FM15:00-18:00

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メシアン 主イエス・キリストの変容 日本初演

2006-08-20 00:01:00 | 音楽

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フランスの威信をかけ総勢300人規模におよぶ陣容で、70才になったメシアンともども日本に殴り込みをかけてきたのは、1978年のことであった。

この日、マゼールは作曲者自身を前にして、日本初演となる「主イエス・キリストの変容」を指揮した。最強のメンバーとともに。

ソリストはメシアン夫人のイヴォンヌ以外は、パトリック・ガロワはじめ全てこのオケのメンバーである。コンマスのパトリス・フォンタナローザ、レジ・パスキエ、という布陣をヘッドに有無を言わせぬ史上最強のプログラム。

1978715()19NHKホール

君が代

ラ・マルセイエーズ

オリヴィエ・メシアン作曲

合唱と7独奏楽器とオーケストラのための

「主イエス・キリストの変容」(日本初演)

イヴォンヌ・ロリオ、ピアノ

パトリック・ガロワ、フルート

ルシアン・ルメール、マリンバ

J.クロード・タヴェルニエ、ヴィブラフォン

ロジェ・アルバン、チェロ

ギー・ダンゲン、クラリネット

ベルナーレ・バレ、シロリンバ

ロリン・マゼール指揮

フランス国立管弦楽団

フランス国立放送合唱団

(ロジェ・ワーグナー指揮)

「やった」という雰囲気である。

レコードもなければ前提知識もない。そんななかで何故か曲の輪郭は理解しやすく、音も自分にはなじみのあるものだ。演奏も日本初演というメルクマールにとどまらず、ふところの大きなものであった。現代音楽ではなく偉大なる時代音楽。現代という時代に作られた音楽を、身をもって体験。

そしてマゼールの力。それに応えるオーケストラと合唱団。前に一度聴いたことでもあるかのように明晰にわかりやすくメロディー重視の指揮。マゼールのビートはレコードで聴いてもよくわかるし、実際、指揮を見るともっと素晴らしく聴こえる。今回感心したのは粘着質でない歌わせ方である。セクション毎に、また、メロディー・ラインの束毎に、それぞれ自己主張させることにより、あまり粘り気の無いそれでいてよく歌う感覚。異様に現代的である。スポーティーな感覚とはちょっと違う。

曲は原題に気をとらわれなくても分かり易いし、やりがい、聴きがいのある曲だと思った。無調メインの、ときの現代音楽とは同一線上にはない。

すぐ近くに座っていたメシアン自身といえば、畳半畳サイズの総譜をひたすらめくりまくっていた。そして演奏後のあの喜びようは、きっと、作曲どおりの指揮であったのであろう。

1セプテネール:3113

休憩

2セプテネール:6002

プログラムには何故か秒単位でタイミングが書いてあった。この時代、参考になるレコードなどがあったのであろうか。この日このタイミングに近いものだったかどうかは定かではない。

ところで、この日は来日2日目。昨晩は別の曲これまた一曲のみ。そして昨晩も今晩も演奏に先立ち国歌演奏があった。国歌演奏への正しい接し方とは?

クラシックの演奏会と言うのは、司会者もいないし水先案内人もいない。時刻になるとオーケストラ、聴衆ともどもちゃんとそろいあとは指揮者の登場を待つばかり。そしてコツコツという靴の音とともに指揮者があらわれ、ポーディアムにあがって棒とともに曲が始まる。そして曲が終わり拍手も終わると自然に散会となる。定められた儀式。

昔は海外の演奏団体来日時はよく国歌が演奏されたものだ。定められた儀式の最初に国歌演奏があるかどうかは始まってみなければわからないのである。最初の音がプログラムの最初の曲の第一音ではなく、君が代だとわかった瞬間、聴衆は自席で起立しなければならない。両国国歌が演奏し終わるまで粛々と立ち続けなければならない。また、一緒に歌ってはならない。例えばメイン・イヴェントがサッカーである場合の国歌演奏の伴奏とは基本的に異なり、それを奏している演奏団体の演奏を聴くのが今夜のメイン・イヴェントなのであるから、君が代もラ・マルセイエーズもメイン・イヴェントである。従って、「主イエス・キリストの変容」と同じスタンスで聴くべきである。そのようなスタンスで聴くということは自然と愛国者意識、国威の高揚などとは少し距離をおいたかたちにならざるを得ないのも事実だ。君が代における中低音の充実度、ラ・マルセイエーズにおける高音部の巧みなアンサンブル。みごとな演奏であり、オーケストラの実力を感じさせる。君が代は昨晩とは若干表現が異なっていた。とくに終結部のニュアンスが指揮者指示と思われる明らかな違いがあった。2日間で二通りの演奏を聴けてラッキー。

プログラムによると当夜のブロードキャストがあったようだ。それについては全く記憶にない。このとおり行われたとすると、音も画像も残っているはず。

8/27()NHK-FM 15:00-18:00

9/3()NHK教育TV 14:00-15:45

現在はCDで割りと聴けるようであるが、ライナーノートのことも考慮すると是非国内盤をゲットするべき。下記の国内盤があるかどうかはわからないがとりあえず参考まで。

ミュン・フン・チュン指揮フランス・ラジオpo.cho.(DG)

Reinbert de Leeuw指揮koor van de brt bruxelles(NAIVE)

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電気河童の夢 4

2006-08-10 00:30:25 | 音楽

河童「こんどリズ子が結婚するらしい。」
カパコ「リズ子って?スタッテン・アイランドの?」
河童「うん。」
カパコ「もうかなり大きくなかったかしら。」
河童「そうなんだ。9ヵ月ぐらいだね。まだ仕事してるよ。」
カパコ「そんな身重で結婚式挙げられるのかしら。」
河童「大丈夫だよ。彼らは河童族と違い頑丈にできている。」
カパコ「ふーん。」
河童「結婚式に招待されているんだ。一緒に行こう。」
カパコ「あら、おもしろそうね。彼らの結婚式見てみたいわ。行く。」
河童「リズ子は僕とタメドシなんだ。仕事もウマがあって、旦那もよく知ってるよ。やんきー・すたじあむにも一緒に行ったりしてるんだ。」
カパコ「そうなんだ。あたしはべーすぼーるのことはよくわからないわ。」
河童「僕の一番好きな好きな選手は、デーヴ・ウィンフィールドだ。ピッチャーではロン・ギドリーかな。あと最近新人ではいったドン・マッティングリーが打ちまくってるね。でも打撃はやはりウィンフィールドだね。空振りするとバットが3塁側の観客席まで飛んでくるんだ。」
カパコ「キャッチしたらもらえるのかしら。」
河童「そうゆうの見たことあるけど。」
カパコ「長嶋さんみたい。」
河童「監督のビリー・マーチンはジョン・バルビローリみたい。」


カパコ「リズ子と手をつないで式壇まできたかわいいお子さん。あれ誰?まさか生まれちゃったんじゃないわよね。」
河童「あぁ、あの子はリズ子の妹の子だって。ディヴォースしちゃって今日はお姉さんの結婚式兼旦那さがしみたい。」
カパコ「へぇぇ、やるわね。でもリズ子のおなか一段と。。本当に大丈夫かしら。他人事とは思えなくなってきた。」
河童「大丈夫。まだ仕事でてるし。」
カパコ「それはそうと、この結婚式。河童族とたいしてかわらない。」
河童「どっちかというと、彼らのほうが本家だからね。河童族のほうが真似してるんだよ。」
カパコ「そうゆうことか。」
河童「このあと、仮設テントでパーティーがあるんだって。」
カパコ「河童族の披露宴みたいなもの?」
河童「そうだね。適当に踊ったりして。」

カパコ「踊りはあまり得意じゃないけど、なんだか楽しくなってきたわ。一緒にダンスしましょ。」
河童「了解。(一緒に踊ってくれるならあまり飲まなければよかった)」
カパコ「ほんと、楽しい結婚式だわ。」
河童「皿が渇いてきた。」
カパコ「そろそろ日も落ちて、夕暮れ時ね。」
河童「帰ろうか。」
カパコ「うん。」
河童「僕らもああゆうふうになりたいね。」
カパコ「えっ。そんなことしゃべらないの。早く帰って祈りましょ。」
河童「(またいつもの逃げの手だな)今日はなんの祈り?」
カパコ「明日おしえてあげる。じゃぁ、またね。」
河童「(河童相撲があれば、肩すかし、という決まり技のような答え)じゃ、グッナイ。」

リズ子は、子供が生まれる4日前まで仕事をし、お産のあと一週間だけ休んですぐに仕事をはじめた。僕らもがんばらないと。

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夏休み写真集(7枚)

2006-08-09 00:18:29 | インポート

河童とカパコの棲息湖

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ウォールストリートからトリニティーチャーチを見る1952年の河童

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スタットラー・ヒルトン・ホテルに仮の宿をとる河童

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ウールワース・ビルディングの周りを浮遊する河童

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ラジオ・シティ・ミュージック・ホールを徒歩する河童1961年

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エイヴリー・フィッシャー・ホールのステージから観客を見る河童。

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カーネギーホールから魚眼でセントラルパークを見る河童。

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パルジファルとパルシファルの泣き上戸

2006-08-08 00:01:34 | 音楽

コンサートの醍醐味は、音響の迫力、響きの美しさ、あるときは形式感への集中、また指揮者の演奏解釈の理解、など尽きるものは無い。

また始まるまでの事前準備としての精神の高揚、コンディション作り、体調管理、なども怠ってはいけない。

そんな中、一番楽しいのは終了後の感想の述べ合い、言い合い。それも場所を変えて、一杯飲みながらの歓談が一番楽しい。

NHKホールなら、21時頃に終了したあと、その日が金曜日であればゆっくりできるので、小1時間ほど、塔レコやHMVでCDを物色する。ここには同じようにコンサートを聴いてきた連中が余韻を楽しみながらうじゃうじゃと歩き回っている。NHKホールの延長のようだ。

そしておもむろに、感想を述べ合う場所に向かうのである。渋谷なら、あすこかあすこ、盛り上がりたいときはタクシーで六本木のあすこかあすこ。

そして、まずはビールから。

静かな悪友S「河童さん、今日の演奏はどう感じましたか。」

河童「そうですね。水も滴るいい演奏でしたね。シュタインもよく立ったまま棒を振り切りました。さすがにバイロイトで活躍しただけの根性は今でも健在のようですね。」

S「はいはい。私も同感です。」

河童「それでは、乾杯しましょうか。」

「乾杯」

S「今日のN響定期は、パルシファル第3幕というユニークなものでしたね。」

河童「第1,2幕を昨晩、頭の中でシミュレートしてイメージを作り上げておきました。」

S「そうですね。いきなり第3幕からというのは、ちょっとつらい。」

河童「でも、パルジファル全曲で私が一番強く感じるカタルシスはあすこなんです。つまり第3幕の練習番号252の一小節前から聖金曜日を導くティンパニの5つの音。あんなにシンプルで雄弁な音楽はめったにあるものではない。あすこまでいきつくのにオペラ公演であれば、休憩も含めて4時間半ぐらい我慢しなければなりませんね。」

S「ごもっとも。今日は3幕のみでしたから、30分ぐらいですぐにたどり着きました。それにしても素晴らしい1時間20分でした。N響のヴァイオリンの高音がホール全体にみずみずしく響きました。私は久しぶりにワーグナーの音に感動しました。」

河童「シュタインの足はかなり悪そうだし、棒もほとんど10センチ四方しか動かない。

それでどうやれば合計200人にもおよぶオケと合唱団とソリストたちを圧倒的にコントロールできるのか。何故あんなに素晴らしい音楽を作ることが出来るのか。

聖金曜日が鳴り渡り、オーボエがソロを奏でるあたりで河童の目も皿も、もはや真っ赤。

そして、春になると畑や小川の小さな誰も見えない場所から雪が解け始め、ガサッという音とともに、小さくくず折れた雪の下には既に早春の草花が芽をだしている。

地面からは春の陽射しとともに、湯気のようなものがたちこめ、小さな草や花がめでてくる。

少年は学校の行き帰りその目線で、そのような変化を感じ取り、一日一日の違いを走り抜けていた。そのような決して戻りこぬ昔の懐かしい思い出。それは夢か現実か。我々は救われるのか。。。。。私の体は終結部にむかって固まってしまった。

そして、歌いきったパルジファルのポール・エルミングはパルジファルその人となり、終わっても頭を抱え込んだままいすに座って動かない。

なにもかも本当に聖金曜日の不思議だ。

あぁ、全ての苦悩は取り払われてもシュタインの足は癒えないのか。」

S「ままぁ、ままぁ、河童さん、酔いのせいか少し舌が饒舌になってきましたね。」

河童「はっ。」

S「河童さん。正気に戻りましたか。私も今日のパルシファルには心から感銘を受けました。シュタインがそこに存在するだけで音楽は生き返りました。やはり圧倒的アルチザンでした。私も同じく泣けました。」

河童とS「今日は泣き上戸に乾杯。」

河童「ところでSさんはバイロイトやメトまでわざわざワーグナーを聴きに行くほどの猛者だとうかがいましたが。」

S「ワグネリアンというほどではないですが、そこそこかなり好きです。」

河童「リングの公演はバイロイトで見ましたか。」

S「バレンボイムのを見ました。メトにも行きました。日本での初リング・サイクルも見ました。」

河童「それはすごい。Sさんはワグネリアンと呼ばれるのを嫌がってるみたいだし、日本のワーグナー協会にもはいってないでしょう。孤高の趣味、といったところでしょうか。」

S「そうですね。あまり縛られたくないし、あくまでも個人的なものです。」

河童「なるほど。メト座の河童はメトのリングサイクルのうち最初の年のワルキューレしか見てないのですが、もう少し長く棲息していれば、一緒に見れたかもしれませんね。」

S「そうでしたか。」

河童「私は明日もこのパルジファル見る予定です。」

S「私は今日ので精魂尽きてしまいました。明日は仕事に精を出します。

ところで、ここはいいお店ですね。渋谷からタクシーできた甲斐がありました。特にこの〆鯖。」

河童「はい。〆鯖は河童の好物で、ここのはとくにいけるんです。」

N響定期1998218()19()

ワーグナー

舞台神聖祭典劇「パルジファル」第3(演奏会形式)

ホルスト・シュタイン指揮

3幕のみ演奏会形式で行われたパルジファルの公演は両日とも聴いたが、今まで聴いたことも無いような圧倒的な演奏であった。特に2日目は神がかり。

初日はいつも通りNHK-FMライブがあったはずだが、あの音は現場でしかわからない音だと本当に思った。

両日の内容についてはあらためて書きたいと思う。

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ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演-3-

2006-08-07 00:05:00 | 音楽

3_1 .

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ニューヨーク・タイムズはヘナハンではなく、EDWARD ROTHSTEINが評を書いている。

THE NEW YORK TIMES,

MONDAY, JANUARY 9,1984

By EDWARD ROTHSTEIN

ブルックナーの交響曲第9番のフィナーレを完成させることは、音楽学者によって不完全なスケッチに手を加えて完成させるよりも、もう少し根気のいることだ。

ブルックナーの9番は神話的な意味合いに覆われている作品である。既に出来上がっている最初の3楽章は、苦悩した作曲家の生涯の総決算、初期の自身の音楽の想起、間近な死への音楽的試みや宗教的な疑念、といったまさに精神的自叙伝に他ならないものとして聴かれる。

しかし、その作品の完全版の世界初演は昨日の午後、カーネギー・ホールでモーシェ・アッツモン指揮アメリカ交響楽団により行われた。(イダ・レヴィンのソロでモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番の生ぬるい演奏が先立って行われた。)

ウィリアム・キャラガンが完成させたこの版は、実際ブルックナーの音楽スケッチによるという意味だけではなく、作品の精神的広がりまで内包している。ブルックナーは第3楽章を生への別れとよんだ。そのような別れにふさわしく続くことが出来る楽章はどのようなものか。ほぼ全部トラウマの音であり、苦難、超越、を想起させるような音楽に先立ってどのようなものに奮い立つことが出来るのか。

作品が1903年に初めて演奏されて以来、そのような作業のことを推し量るのは困難であり、いろいろな他の試みは不十分であった。テ・デウムがこの別れへの精神的な解決策としてしばしば演奏されている。それゆえ、ベートーベンの第9との合唱の相似性を形作っている。最終楽章の提示部は1940年に完成していた。1970年代に完成した他の試みは演奏されないままだった。

ニューヨーク州トロイのハドソン・ヴァレー・コミュニティー大学の医業の教授であったキャラガンは1979年、そのスケッチに注目した。多方面にわたる音楽学の経験も持っていたキャラガンは、ブルックナーが残したスケッチは実際のところ明快であると主張した。5回もの改訂のパッセージとともに、前楽章や他作品からの主題の関係や引用を示している数百のページが残っていた。その楽章のほぼ70%が完成せずにあった。無い部分はスコアでは空白であり、まるでページが失われてしまっているようだと主張した。

キャラガンはこれらの空白はハーモニーとテーマの変化の分析を通して補填できると感じていた。しかし、その作品の精神的な広がりにも明らかに動かされていた。最後の方の小節は、ブルックナーのテ・デウム”We praise thee,O God.”からのメロディーの自由な引用である。

昨日スコアなしで聴いた結果は、第一に、やや方向感覚を失わせるようなものであった。アッツモンは精神的自叙伝的なこの作品を、制御された劇的な演奏でブルックナーの別れとした。忠実な試みの第1楽章。のどかで気晴らしの考え込む人間のふざけた様の第2楽章。積もり積もった後悔と記憶の第3楽章。これらは全て伝統的で、平静さをもって、まるで別れが平和を見つけたかのように結論づけられるようだ。

しかしながら、完成されたフィナーレは、まるで、かさぶたが熱にうかれて引っかかれたようで、問題・論点・版を再び論じているように思える。キャラガンの再構築においては、第一に、音楽的なサウンドが神経質である。ブルックナー魂(spirit)を失ってはいないが、彼の精神性(spirituality)を置き去りにしている。

付点の繰り返しは、金管の繰り返すコラールのテーマと混合する。解決策は差し迫ったものではない。しかしそうなったとき、解決策は明白でもあった。キャラガンにとって、死の床での信頼の許容ではなく、定められた勝利を勝ち取った運命の支配を、ブルックナーの生への別れにするという解決策。

音楽は、この精神的自叙伝の結果を変えるような力を伴い勝ち誇って終わる。ブルックナーの交響曲は大聖堂と比較され続けている。この新たな解決は私たちに、前近代的なものに確信を持って別れを告げる。

おしまい

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ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演-2-

2006-08-06 21:25:00 | 音楽

世界初演ではあったが、河童のレビューはいつになく、かなりきつめの評となっている。

さていよいよブルックナーの第9番であります。当然、第1楽章から始まるわけですが、まあ、なんとオーケストラのよく見える席であり、素晴らしい眺めではあった。

ホルンが9(うちワグナーチューバ持ち替え4)。左から右へずうっとならび、その見た目の派手さ。因みにこのホルン9人というのは、コントラバスの人数と同じなのであります。

オーケストラはうまくなく、ニューヨーク・フィルなどと比べたら完璧におちる。興ざめするほどではないのだが、たまに音楽が隙間だらけになり穴だらけになるときがある。

これは全く指揮者についても言えていて、彼はこの曲をこなしていない。普通には振れるのだが、その筋の専門家のような安定感を得ることが出来ない。

ブルックナーなどの場合、オーケストラ自身を安心させるような包容力がなければならないのだが、彼は振るのが精一杯のように見受けられる。逆に言うと今まで聴いたことのない第4楽章が一番安心して聴いていられた。

あの寂しさが漂う第3楽章のあと、第4楽章が出てくるというのはなんとなく変な感じであるが、彼自身は基本的に第4楽章が完成して、ひとつのシンフォニーの世界と考えていたわけであるから、本当は第3楽章が終わって寂しげに拍手をしてはいけないのである。途中で終わってしまうこと自体が何か感傷的なものにつながっていたわけだ。そのような意味においては、この版を完成させたキャラガンという人はブルックナーの意志をついでくれたといえる。

さてその第4楽章なのであるが、まず、最初に感じたことは、メロディーが無さ過ぎるということです。前の1~3楽章の豊かさに比べて、あまりにもメロディーが無さ過ぎる。まるで伴奏部分を聴いているようだ。素材に発展性がなくあまり美しくない。従って、自然に次に感じることは、3つの主題が全く明確性を欠き、構成がよくわからない。どこから展開部になるのかわからず、また、どこにあったものがここに現れるのかよくわからないのです。

再現部はさすがに第1楽章の主題らしきものが現れたりして、なんとなくクライマックスをむかえているようだというのはわかるのだが、これではあまりにもありきたりのような気がする。一度聴いただけではわからない面もたくさんあると思うが、この版は成功とは言えないと思う。世界で初めて、ということに意義を見出すべきなのかもしれない。それにブルックナーの意志を継いだということは大切なことです。

レヴィンの弾いたモーツアルトは代役のせいもあるかもしれないが、このごろの若い人には珍しく技術的にだめで、聴いていられなかった。

おしまい

かなりボロクソに書いてしまっているが、実際のところこうだったのだ。

指揮とオケの出来が悪く、曲も足を引っ張られたというところか。やはり、何事も最初が肝心で、白熱の演奏を繰り広げていれば、このあとの演奏史にも別の光があたっていたかもしれない。それと当時と違って今は、このような編曲版に対しても聴く方の間口が広がってきている。

宙に浮いたような独特の二短調が、最後に解決する音響を聴きたいものだ。

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