河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2086- マーラー6番、山田和樹、日フィル、2016.3.26

2016-03-26 23:17:39 | コンサート

2016年3月26日(土) 3:00pm オーチャードホール

武満徹  ノスタルジア 13′
 ヴァイオリン、扇谷泰朋

Int

マーラー  交響曲第6番イ短調  23′13′18′32′

山田和樹 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


ヤマカズ一連のマーラー初振り。これまでの5番まで一度も聴いてなくて今回の6番、お初で聴きに来ました。
柔らかい演奏で、強固なソナタ形式の副主題の柔らかさはヤマカズ独特のものと思う。半面それ以外のところは対比が今一つ明確に浮き上がってこない。全般にソフトな演奏解釈でした。ドライヴかけるところはかけたほうがソナタ形式のいわゆるフィルムが決まると思うのですが、彼の方針はそうではないのでしょう。緩徐楽章や弱音フレーズでのメロディーラインの美しさなどがよく聴こえてくる。曲想が次々とつながっていくようなところがあまりなくて音楽の積分的ヒート感は無い。ちょっと途切れながら進行するような箇所がありました。

第1楽章のタイムチャートは、提示部(Rあり)9、展開部7、再現部4、コーダ3、
スケルツォ、アンダンテの順番、フィナーレは序奏だけで6、

第1楽章からなにもかも破格な巨大さが際立つソナタ形式。いわゆるソナタ形式で編成やらなにやらこれほどまでに巨大化したものは他にあまりみたことがない。(だから聴きに来たのかと、)
昔、吉田秀和が今の日本では演奏困難といったのがこの曲だったと記憶するが、演奏は当時でも出来たのだが、プロオケでも当時のスキルレベルではまともな演奏がなかなか難しいといった意味合いだとは思いますけれど、確かに当時の国内オケでまともな演奏ができるのはN響だけだったと思います。今はどこでも誰でもする。と思いますがだからといって曲が簡単になったわけでなくてスキル的には相対的な克服感はあるものの作品自体が変容したわけでもない。

いたるところで活躍しなければならないソロホルンはかなり健闘、ノンビブで硬直な雰囲気ありますけれど際どい一本線、この作品には合っていると思います。
トランペット、トロンボーンはもっともっと手前のオーケストラ楽器群に覆いかぶさってくるぐらいの幅広なスケールでの峻烈なソロプレイが欲しいところです。
巨大編成でのインストゥルメント配置的パースペクティヴな奥行き感は出ていたと思います。
それにしても唖然とする巨大さです。GM卒業簡単ではありませんね。


前半の武満は音楽の律動はほぼ皆無で、音楽というよりなにか音が川面の底に澱んで横たわっているよう。音楽に音楽以外の音が響いている感じで、音の律動は消されて、旋律はたまたま音で形成されている、そのように感じます。
おわり


2085- CPEバッハ、熊、ベト1、鈴木秀美、新日フィル、2016.3.26

2016-03-26 22:04:19 | コンサート

2016年3月26日(土) 11:00am トリフォニー

CPE.バッハ 管弦楽のシンフォニアヘ長調Wq.183-3 H.665 5′2′3′
ハイドン  交響曲第82番ハ長調 熊  11′8′4+8′
Int
ベートーヴェン  交響曲第1番ハ長調  9′8′4′4′
(encore)
ハイドン 交響曲第83番ト短調 めんどり、第2楽章 6′

鈴木秀美 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


週末土曜日の午前11時からの演奏会。心身ともにいいものです。
指揮者の振りはやや大きくて明快、余計な踊りとかが無くて必要なことだけをしている、それが必要なことの全てなのだといった振りです。それにおそらくリハでのトレイニングも相応な取り組みと、心得たツボが見えるよう。プログラム全般にわたり引き締まった好演でした。

CPEバッハは殊の外、激しい音楽ですぐ近くにベートーヴェンがいるような気さえします。この最初の曲からオーケストラのサウンドがグッと締まっており、なんでこんなに指揮者によって違う音になるのかとちょっと不思議に思ったり感心したりと忙しい団体ではあります。この指揮者あってのこの音なんだなぁという実感ですね。

ハイドンの熊も同じ印象で、さらに作品の素晴らしさがよくわかるもの。全体バランスがよくて、局部肥大化は皆無、作為無く作品の良さがストレートに伝わってきます。素晴らしい指揮です。

後半のベートーヴェン。ウィンドが素敵な響きで鳴り具合がいい。ホルンの跳ねるような具合もいい。オーケストラのコンディションいいですね。
第1楽章の締めの何個かの打撃音が少し緩みました。こういったあたり、気持ちの改善をするとこのオーケストラもっともっと良くなると思います。

指揮者がコンマスに媚びたり迎合するようなところが皆無で、これも好感。音楽作品の良質な表現に腐心している姿は聴く方としても見習わなければいけないところがたくさんあると実感。
いい演奏会でした、ありがとうございました。
おわり


2084- モーツァルト、ヴァイオリン・ソナタ、イブラギモヴァ&ティベルギアン、2016.3.25

2016-03-25 23:47:29 | リサイタル

2016年3月25日(金) 7:00-9:40 pm 王子ホール

オール・モーツァルト・プログラム

ヴァイオリン・ソナタ第36番変ホ長調K380  10′10′5′
ヴァイオリン・ソナタ第7番イ長調K12  7′2′
ヴァイオリン・ソナタ第6番ト長調K11  3′2′3′
ピアノ・ソナタ第17番変ロ長調K570 (ヴァイオリン付き版)  6′8′4′

Int

ヴァイオリン・ソナタ第26番変ホ長調K302  7′7′
フランスの歌「羊飼いのセリメーヌ」の主題による12の変奏曲ト長調K359 15′
ヴァイオリン・ソナタ第42番イ長調K526  9′9′7′


ヴァイオリン、アリーナ・イブラギモヴァ
ピアノ、セドリック・ティベルギアン


モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏の企画もの。全5回でこの日は最後の5公演目。この5回目のみ聴きに来ました。
休憩1回いれて2時間半オーバーのリサイタル。ひたすら弾きまくるもので、なにか、こう、音楽をする原点に触れたようなひと時でした。

締まった響きのホールのなかに、ヴァイオリンのウェットでよくしなったサウンドが敷き詰められる。ピアノは粒立ちが極めてよく、クリアで心地よい。

ヴァイオリン付きのピアノ・ソナタが間に挟まっておりまして、そのピアノの切れ味の鋭い技を聴くまでもなく、一連のヴァイオリン・ソナタ、これはモーツァルトの特色なのかどうかわかりませんけれど、ピアノ・ソナタみたいにピアノの活躍が目立つ。主従関係は感じられなく補完しているような箇所も見あたらない。イーヴンなバランスの音符並びのような気が強くしました。そういった聴き方にさせてくれたのはティベルギアンのピアノがあまりに素晴らしかったおかげかもしれません。弾く楽しみみたいなものが身体全体からにじみ出てくる。もう、いくらでも弾き続けていたいと。
ヴァイオリンのイブラギモヴァはもう少し冷静でしっかりとピアノの音を聞きながら弾いている。と、まるで、ピアノ・ソナタをヴァイオリンの伴奏で聴いているようなところがないでもない。まぁ、両方とも互角に素晴らしい。

モーツァルトもよくもまあ、次から次といろいろ音楽があふれ出てくるものだなあと、全部感心した夕べでした。
ありがとうございました。
おわり


2083- トゥーランガリラ、大友直人、群響、2016.3.20

2016-03-20 19:18:35 | コンサート

2016年3月20日(日) 3:00pm トリフォニー

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲  10′

Int

メシアン トゥーランガリラ  6,7,5,10,11,11,4,11,4,7

オンド・マルトノ、原田節
ピアノ、児玉桃
大友直人 指揮 群馬交響楽団


この作品の演奏は群響にとって初トライとの事。前日地元で、そして今日は東京でと、満を持しての公演と思います。
この曲は、前半フレーム、後半フレームの二枠があって、前半フレームは1と5、そのなかに、2愛の歌、3トゥーランガリラ、4愛の歌、という具合に、トゥーランガリラが愛の歌にサンドウィッチされる。後半フレームは6と10、そのなかに、7トゥーランガリラ、8愛の歌、9トゥーランガリラ、前半フレームと逆で、愛の歌がトゥーランガリラにサンドウィッチされている。
時間配分は、2,4,8の愛の歌が長くて、3,7,9のトゥーランガリラが短い。前半後半のフレームとなる1,5,6,10は概ね縁どり以上の長さですね。後半フレーム開始の6はスローテンポで速めればそこここにあるメロディーラインそのもの、シンプルさを追ったもので、愛のモード表現と言える。

演奏は全体に淡泊、展覧会の絵風な並列陳列物のように聴こえてきたのは、別にわるい話ではないのですが、ここらあたりのフレームワークを少し意識した棒であればさらに引き締まったものになっていたかと思う。例えば、弦の強い弾きを部分スタッカート風にしてメロディーラインを浮かび上がらせるとか、何か押しの技を使えば、メロディーの連関が、より強くわかるものとなっていたと思う。また、3,7,9のトゥーランガリラが弱い。特に7,9はこのオーケストラの初演奏という以上に指揮者の振り具合がまるで世界初演みたいに板についていない。7,9は特にパレットの複雑な光のあやが欲しい。全体にカラーな陰影が無い。単色での陰影はなかなか堪える。
1は不発、5は最良、10は刻みの彫が浅いのとフレーズの息が途切れる。1と10は団体の限界を感じるが、5はちょっと復調してストレートに伸びた。ここで終わりなんだというぐらいの強烈さがあればさらに伸びたと思う。伸縮でいうと全体を上から俯瞰した楽章ごとの伸縮バランスが配慮されていなくて今一つつながりに欠けた。
この指揮者も棒もたずですが、振りが大きく打点合わせは問題ないとしても、なんだか古風な振りですね。この瞬間天才技の作品には閃き型の鋭い棒が似合います。

児玉さんと原田さんは定位置です。児玉さんの8での鍵盤の上でのふさぎ込みもだんだんと見慣れてきました。
おわり


2082- チャイコン、南紫音、ベト7、広上淳一、日フィル、2016.3.19

2016-03-19 23:43:32 | コンサート

2016年3月19日(土) 6:00pm みなとみらいホール

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調  20′6′11′
  ヴァイオリン、南紫音
(encore)
グラジナ・バツェヴィチ  ポーリッシュ・カプリチオ   2′

Int

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調   15′9′10′10′

(encore)
バッハ  G線上のアリア  3′

広上淳一 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


同じ演奏家たちによる別の曲を聴きたいというのが本音。
南さんは太い音で芯があり、ウェットな潤いに富んだ魅惑的な響き。ほかの曲をいろいろと聴きたくなりました。全く自意識過剰なところがなくてむしろあっさりしているようなおもむきで、演奏に集中していますね。素晴らしい弾きてですね。

ベートーヴェンのほうは指揮者とオーケストラのテンポがかみ合わなかったようで、提示部リピートちょっと前ぐらいから落としはじめてうまく整合して、結局45分の長くて濃い演奏となりました。指揮者は踊るので音符があちこち伸縮する。オケはうまくあわせヘビー級な演奏になりました。
この指揮者は、最近は以前のような白鳥のように両腕を大きく広げるアクションがなくなりましたね。替わって、サムアップがやたらと目立つ。第1楽章の序奏だけでも5,6回。くせになっているのかしら。指揮しながらプレイヤーにサムアップするしぐさは不思議な気もします。リハ通りでよかったよね、リハより良かった、自分は満足よ、そんな感じでしょうか。あまり見栄えのいいものではありませんね。
おわり


2081- さまよえるオランダ人、沼尻竜典、神奈川フィル、2016.3.19

2016-03-19 22:58:24 | オペラ

2016年3月19日(土) 2:00-4:40pm 神奈川県民ホール

神奈川県民ホール プレゼンツ
ワーグナー 作曲
ミヒャエル・ハンペ プロダクション

さまよえるオランダ人    138′

キャスト(in order of appearance)
1.ダーラント、斉木健詞(Bs)
2.エリック、樋口達哉(T)
2.舵手、高橋淳(T)
3.オランダ人、ロバート・ボーク(BsBr)
4.マリー、竹本節子(Ms)
4.ゼンタ、横山恵子(S)
合唱、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部

沼尻竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

(duration)
序曲 11′
第1場+場面転換 41′
第2場+場面転換 59′
第3場 27′


ひとたび嵐が静まり、見張りが一人残り、眠りこける。彼の分身が起きて、通常通りオペラが進行する。本物の方は最後まで舞台の真ん中で弱めの青いスポットライトを当てられながら寝返りをうったりして眠りこけている。舞台を動き回る登場人物たちに彼の存在は無い。そして大詰め、この悪夢ストーリーはすべて文字通り夢だったと、うなされていた見張りは目が覚め、まわりの人間たちに笑われながら、エンド。
どんでん返し系の演出、舞台中央で一人眠りこけている人物が2時間以上もそこにいれば、観る方としても途中から色々と思いを巡らす時間があって、途中でだいたいわかってくる。

最後まで連続演奏になりますが、冒頭の序曲では最近では珍しく、幕を一切開かず暗闇の中での演奏、そして一旦終わって拍手。このパターン、序曲をじっくり聴ける良さもありますが、なんだか遠い過去のスタイルを思い出させる。
ところが、幕が開くとそこに展開されるのは、プロジェクション・マッピングPMというより精巧なCG映像。立体感がかなりある。
聴衆サイドはダーラントの船に乗っていて舞台奥に向かって、大海の波打つ嵐の中を進んでいる。見張りが眠りこけてから、遠く舞台左中央やや左寄りあたりから幽霊船が近づいてきて、ダーラント船にドスンとぶつかる。幽霊船はマストなどが揺れなびく、精巧なCGで迫力があるし、なによりも、ストーリーを知る上でのそれぞれのシーンでの立ち位置が非常によくわかる。この演出映像は大喝采ものです。
第3場で突如現れるパイレーツ・オブ・カリビアン風味な演出はグロテスクですが、CGと違いリアリスティックで、プロダクションの幅を感じさせてくれなくもない。映像とリアルの妙。このような趣向はオペラならではのものと思います。
映像に関していうと、昨年2015.9.20観たパッパーノ、コヴェントガーデンのドンジョは精巧なPMでした。回り舞台方式で、壁にマッピングされた窓とか模様が、舞台が回っている時も壁に描かれてように固定されていて、つまりシンクロして動いていました。
映像としては突き詰めると同じく昨年2015.8.23の大野、都響のツィンマーマンのレクイエムなんかもそうでしょうし、ちょっと前ならもっと精緻なアルミンク、新日フィルによるペレメリ2010.5.21やトリイゾ2011.7.16など。


ということで序曲のあと幕が開いて、場面が三つ。場面転換も映像切り替えですから楽と言えば楽。リアル舞台は中央の船の上を模したものが横たわるだけで動かす必要もない。
登場人物たちは自分の周りの動きのことにあまり気を回すこともないと思うので歌に集中できる。
合唱はクレジットを見ていると3団体の混成チーム。荒れ狂うオケに負けない強靭で合唱オペラの醍醐味を満喫。聴きごたえありました。
オランダ人のボークは巨人で幽霊のようなお化粧ともども存在感があり過ぎと思うぐらい。歌唱のときあまり口を動かさないように見え、体全体を動かすようなところもなくて、力を込めずともあれだけの力感が出るというのはやはり幽霊の仕業なのかと。極小動きを体現した演出だったのかしら。
ダーラントの斉木さんはオランダ人と体技ともに張り合えそうな感じ。役柄、だんだんと小物風になっていくあたり、むしろ現実的なものを感じさせ、オランダ人との対比で面白い。
ゼンタは一本勝負みたいなところがあり、はずせない、極みの弧を描く歌が必須。輪郭だけの歌のようでもあり作曲家も際どいもの作ったものですね。歌いだしの頭にアクセントがきくとさらによいように思いました。山の尾根というか稜線に立ち、どっちに転んでもアウト、そこでバランスするしか無いような歌唱、そういった雰囲気を味わいたいものです。
エリックの樋口さんはワーグナーのいたるところに現れる素晴らしいテノール、役どころ以上の存在感。今回の演出は役にちょっと紛らわしいところがあってくっきりと浮かび上がってこないもどかしさがあったけれども、歌い始めるとワーグナーです。

大詰め、ゼンタが船上奥に動き身投げ、救済とは、幽霊船の沈没だったのか。


オーケストラは昨年のオテロのときとやや異なり、縦ずれ多発。特にブラス。
この指揮者も他の国内指揮者と同様、指揮棒持たず。以前は持って振っていましたけれど、まぁ、指揮棒持たなくなって何か良い効果が出ればあれこれ言うところではありませんが、なんの効果も感じられない。むしろ大オペラでザッツ問題とか出てしまうのは指揮棒を持たないせいと勘繰りたくもなる。それをカバーしてありあまる何かいいことでもあったのでしょうか、何も感じられない。と言ったところが率直な感想です。
最初の場面転換後の2場のウィンド・ハーモニーは美しくきまっておりました。

それから、このシリーズのプログラム冊子は内容掲載順番が欧米並みで、作品とキャスト等のクレジットの後、出演者プロフィールの前に作品の説明。当然と言えば当然ですが、国内冊子はオペラもオーケストラル演奏会も、逆で、とにかく出演者プロフィールがいきなりでてくる、メインテーマがこれなのは、大昔の巨匠来日の頃の名残かとも思いたくもなる。
今回の冊子では、スタッフ名ぞろぞろ、の前に、キャストの名前があります。これも当たり前の話だと思うのだが、最近はまずスタッフありきの団体が多いですね。

今回は関係ありませんが、練習風景とかの写真をデカデカ載せているプログラム冊子を有料配布している団体もあって、バックステージはいらない、サラリーマンも誰でもみんなバックステージを持っている、陳腐な英雄崇拝の後押しをしているだけではないかと、感じる人がいてもおかしくない。そのページめくらないからどうでもいい、そんなところでしょうか。
おわり




2080- ドヴォルザーク、レクイエム、高関健、シティ・フィル、2016.3.18

2016-03-18 23:37:36 | コンサート

2016年3月18日(金) 7:00pm コンサートホール、オペラシティ、初台

ドヴォルザーク  レクイエム  Ⅰ9,4,2+9,6,7,5,6, Ⅱ12,10,5,5,10

ソプラノ、中江早希
メゾ、相田麻純
テノール、山本耕平
バリトン、大沼徹
合唱、東京シティ・フィル・コーラス

高関健 指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


レア演目お目当てでうかがいました。自分で音源を保有しているかどうかも怪しいので、もしかすると初の、曲聴きかもしれません。
ドヴォルザークの馴染みのあるフシやフレーズが感じられない、プログラムブラインド聴きだと曲はおろか誰の作品かもわからないと思う。貴重な体験でした。
1部2部構成であわせて約90分。高関さんはプレコンサート・トークでリハでは97分、この後の本番でも同じく、と言っていましたけど。インターバルをいれたタイミングだったのでしょうね。

1部の後半から、2部全般はヴェルレクのような響きと盛り上がり。総じてあまり尾をひかない、未練がましくないもので、指揮者もそういうのを感じながらの、各曲さっと切り上げ、あとくされの無いもの。曲の理解にはいいものでした。
響きの純粋さとか清らかさをあえて追うことのない、濁ったといったら語弊がありますが、あまりすっきりしたものではない。歌詞(合唱、ソロ)とオケとの混ざりどころでは、合唱のあたりで伴奏になりきらないオケ、といった雰囲気がありまして、聴いている方としては多少方向感が見えなくなる局面が少なからずありました。

このレア演目でフラ拍という芸当はなかなか勇気のいることと思いますが、真のドヴォレク・クラヲタなんでしょうね。この曲に素人のフライングは困難と思います。クラヲタがクラシックの演奏会の邪魔をしている現象はいたるところに満ち溢れていますね。
おわり


2079- リッカルド・ムーティ 来日公演150回の記録

2016-03-18 11:27:12 | 音楽

2079- リッカルド・ムーティ 来日公演150回の記録

前ブログの2016.3.17東京春祭でのムーティの指揮が、来日150回目の節目の公演だそうです。プログラムに記録が挟んでありました。
これに曲目一覧があるとさらに凄いものになるでしょうが、色々と調べる手がかりとしてはいいものですね。










2078- リッカルド・ムーティ、東京春祭、2016.3.17

2016-03-17 23:38:48 | コンサート・オペラ

2016年3月17日(木) 7:00pm 東京芸術劇場

ヴェルディ ナブッコ、序曲   7′

ヴェルディ ナブッコ第1幕より、「祭りの晴れ着がもみくちゃに」 6′
  合唱、東京オペラシンガーズ

ヴェルディ アッティラ第1幕より、
「ローマの前で私の魂が・・あの境界の向こうで」  6′
  バス、イルダール・アブドラザコフ

ヴェルディ マクベス第3幕より、舞曲  11′

ヴェルディ 運命の力、序曲  8′

ヴェルディ 第1回十字軍のロンバルディア人 
第3幕より、「エルサレムへ、エルサレムへ」  7′
  合唱、東京オペラシンガーズ

Int

ボイト メフィストフェレ、プロローグ  30′
  バス、イルダール・アブドラザコフ
  合唱、東京オペラシンガーズ
  児童合唱、東京少年少女合唱隊
  バンダ


リッカルド・ムーティ 指揮 日伊国交樹立150周年記念オーケストラ
=東京春祭特別オーケストラ + ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団


2016年東京春祭の一環、日本とイタリアの国交樹立150周年記念公演。オーケストラは、日本側は春祭用、イタリアはムーティが2004年に設立した奏者30歳以下のメンバーによるもの。大変に大きな編成です。

東京春祭特別オケ      45名  バンダ 20名
ルイージ・ケルビーニ管   40名
東京オペラシンガーズ    S 36  A 28  T 27  B 29
東京少年少女合唱隊     20名と推測

オケはプログラム前半後半でポジション入れ替えしていました。

また、この日は、リッカルド・ムーティが日本で振る150回目の公演だそうです。その記録パンフも挟んでありました。記録魔にはお宝でしょうね。


前半はオール・ヴェルディ・プログラム。
かなりのヘビー級なラインナップですね。オーケストラのみの演奏は序曲2曲と舞曲。マクベスの舞曲が殊の外、充実していました。前半では一番のロングなもの。序曲は相応な雰囲気を楽しめました。
合唱付きは2曲で、100人越えの圧力と清らかな運びが心地よい。テンポ感もよく、立ち上がりがいい、小気味いいもの。ムーティのオーケストラと合唱の境目のない見事な棒が光ります。極小さな動きでコントロールしていくさまはリハーサルの成果ですね。例の、右手に持った棒を左肩の上に後方に向けて終わる独特のエンディングもよく決まっています。
バス独唱はアッティラから1曲。大柄な人で身体全体が共鳴箱のような雰囲気。ムーティに敬意を払いながらの歌のように見えます。暗い歌、力強く聴かせてくれました。

イタリアオペラ、特にヴェルディは振りつくしていると思われるムーティの棒は、オペラを振っている時のそれぞれのシーンが頭の中にしっかりとあって、そのイメージに近づけようとする振り具合だと思います。経験とイメージ、その集大成を日々行っているのでしょう。たとえプレイヤーがイタオペゼロスタートな人たちであっても、そのゼロからのスタートのための努力をする人ですね。どのような場合でも、彼のオペラのフレージングの見事さ、特にスコア重視と言いますか、サッと切り上げるあたりは昔通りの耽溺しない棒そのままです。
見事なバトンさばきで、ちょっとした動きにプレイヤーがグワーンと反応する。オペラ振り尽くしてきた人の棒というのは、凄いもんですね。

後半のボイトのメフィストフェレのプロローグ。このオペラ、ここだけが凄い編成となる。たぶん。
バンダ・セクションは頭と中間と最後、吹きっぱなしで。派手なプロローグ。
息の長いフレーズのシーンで、指揮者はよっぽどオペラ全体のイメージ、雰囲気を頭の中に入れていないと息切れするというか、緊張感が緩んだ演奏になりかねない。だれた演奏とすぐ隣り合わせみたいなところがありますね。作曲家のイメージが膨らみ過ぎでオペラを美化しすぎたような部分。雰囲気に浸かってからでないとなかなかのめり込めないプロローグ。ムーティはこのオペラに力を入れていたはずで、まぁ、のめり込むというほどではないが、やにっこくて渋い作品を淡々と振り、ツボで大きく鳴らす。オペラの肝をわかっている。あたりまえですが。
バンダは派手、合唱も分厚い圧力で、それでいて混濁しない。ムーティがオケと合唱、シームレスな扱いで滑らか、角の立たない流れで進む。ホールに音が響き渡る。
この日の無料プラグラムには対訳リブレットがついていまして、メフィストフェレは事前に読んでおくと面白さが増しますね。
メフィストフェレのアブドラザコフは途中入場の途中退場で、ほかの部分はソロがいても掻き消えそうな派手な鳴り、オペラで音響を久しぶりに堪能させてもらいました。
ありがとうございました。
それにしてもムーティの髪の量と腰の強さ、凄いね。


東京春祭の全プログラム掲載の冊子、今年は216ページ。昨年から500円に有料化。これを買っても買わなくても当日のプログラムは別配布される。ちなみに今日のプログラムには対訳もついている。また、ムーティ150回来日記録も挟んである。ので、わりと、至れり尽くせりです。

おわり




2077- シュベ1、マーラー1、上岡敏之、新日本フィル、2016.3.16

2016-03-16 23:50:33 | コンサート

2016年3月16日(水) 7:15pm サントリー

シューベルト 交響曲第1番ニ長調  8′7′3′6′

Int

マーラー 交響曲第1番ニ長調  15′7′12′19′

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


この9月からこのオーケストラの音楽監督に就任する上岡の前振りとでもいえそうな定期公演。プログラムはいずれもニ長調で第1番。相応しいプログラムだと思います。

後半のマーラーの第1,2,3楽章は自然に静寂から音がいつの間にか現れてくる。境目がわからない。この自然さが作為に見えるのはなぜだろう。
第1楽章のチェロの大胆な下降グリサンド強調。かなりの高速な第2楽章、ヴィオラの上昇グリサンドの強調。第3楽章の聴こえないティンパニとベースソロ、中間部も合わせ極弱音に彩られた進行。終楽章の停滞と前進。
全部作為と言えば作為。効果のための効果でないとすれば、何なのかと。作為に疲れる。

良く動く。意識された過度な動きは少々目障り。時として突然どつくような棒、プレイヤーとしてはやりにくいだろう。音楽の滑らかな進行を阻害しているオーバーアクションに見える。

オーケストラは指揮者の意に限りなく沿っていて、ドライブコントロールが効いて、ほぼ指揮者の思い通りの表現になっていたと思います。これは新音楽監督を迎える意思表明みたいなもので、上記色々あるが、これまでとは少し違う、トップの変わり目にみられる新鮮な気持ちを感じました。新興勢力になりそうな気配がありますね。
ドライブコントロールは良くされているが、音の歯切れよさとか、ハーモニーの美しさは取り立てて無く、よく動かすのはそれはそれとしても、こちらのようなことにもっとトレーニング結果を出してほしかったとは思います。これからの大テーマだと思います。オーケストラをブラッシュアップしていくのを期待しています。

指揮者の経歴は素晴らしいものですけれども、この日のマーラーに見られるような解釈には、以前同じく4番で見せた変態解釈を思い出させるようなところもあり、またシューベルトにおける形式感が無意味に崩れていると思うのは、早い話がベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーのような様式音楽を知り尽くし、振りつくしてきた経験の累積の果実としての独自解釈とは聴こえてこないのである。いきなりマーラーで、前提のない棒となっている。それが作為というか、効果のための効果のように感じるところなわけです。
突き詰めて言いますと、例えば、形式ガチなシューベルトを見事なソナタ形式バランスで屈服させて、そのあとのこのマーラー解釈なら、相応な説得力になるのではないのか。一度だけなら音楽の新鮮味を表すものとしてその効果はあるとは思いますが。

収録マイク乱立、小型のカメラもはいっていましたので、後日メディアなどで観たり聴いたりできそうですね。
おわり


2076- ライリー、トーキー、カーター、タワー、ライヒ、2016.3.15

2016-03-15 23:12:07 | コンサート

2016年3月15日(火) 7:00-8:05pm ミューザ川崎

テリー・ライリー  トレッド・オン・ザ・トレイル  11′

マイケル・トーキー  7月   7′

エリオット・カーター  カノン組曲   7′

ジョアン・タワー(サクソフォンカルテット版編曲(佐藤尚美))  翼   11′

スティーヴ・ライヒ  ニューヨーク・カウンターポイント  11′

演奏
サクソフォン、大石将紀、江川良子、富岡裕子、田中拓也
エレクトロニクス、有馬純寿


このホールの企画もの、ラインチタイムコンサートが約40分、ナイトコンサートが約60分。このうちあまりにも興味深過ぎるプログラムの夜の部にお初でうかがいました。

1時間ロングで休憩無し、一律千円の自由席。スペシャルシートで聴きました。レアプログラム5曲、間に大石さんの説明が入ったりしますが、ほぼびっしりの演奏です。

1曲目のライリーのトレッド・オン・ザ・トレイルは大石さんが予め複数人数分録音していたものと生での演奏との組み合わせで。
あるワンフレーズが繰り返される。リズムの繰り返しとはちょっと違う。フレーズがミニマルの最小単位、この場合、パターン化された音型というのがこの単位なのかと思う。フレーズが進むにつれて重なりの度合いが増してきて、なにやら、揺れ動き、スウィングするような波、波形が出来上がる。ミニマル効果ですね。
大石さんの音はきれいで遠くまで響く。音の均質性もミニマルにはいいもので、正確性が折り重なりファジーになるような錯覚。あっという間に過ぎました。

トーキーの7月。これはサクソフォン4人でのプレイ。ソプラノサックス、アルト、テノール、バリトン、たぶんですけれど。
大石さんが高音域ソプラノのプレイです。4人とも、もの凄く速いパッセージがずーーっと続きます。息する間もありません。これは大変な作品。
いわゆるポストミニマリズムの作曲家トーキーの作品で、たしかにミニマルやジャジーな部分は、活用、利用という風に聴こえます。見事な消化と言えます。調性も感じます。

カーターのカノン組曲は3曲。4人ともアルトサクソフォンに持ち替えて、ステージを広く使います。結構な距離でみなさん散らばります。よくアンサンブルがとれるもんですね。このように距離を置く意味はよく分かりませんけれど、空いた空間にも音が張りつめられるようで、ゆるい空間はない。彼らの腕の見事さによるところも大いにあるかと思います。大きい空間を感じることができますね。
曲はカノンの追っかけていく感じがよく出ています。

タワーの翼はこれもアルト4人で、カーターのカノン組曲のときよりもっとみなさん離れます。ステージ奥の台まで使って、高さの違いもだします。真ん中手前に大石さん、右左は台にあがり、中央奥でもっと高い台上で。
センター手前の大石さんのピアニシモから始まり、盛り上がりを見せ、最後ピアニシモ終わる。この日の作品では一番クラシックに感じた。ちょっと言い方が変でした。一番、いわゆる現代音楽的にしっくりとする響きでした、でもそれは、既にクラシックなものとなっているという話です。

最後のとっておき、ライヒのニューヨーク・カウンターポイント。クラリネットではなくサクソフォンで。これも最初のライリー同様、予め収録しておいたものと生演奏を重ねていくもので、観る限りにおいては録音の方のウエイトが高そう。11個の録音でも成り立つかもしれないがその場合、演奏会行為なのかという疑問が残る。11人のサクソフォン奏者によるライブなら間違いなく演奏会ということだと思うが。
パルス、ピチカート風なパルスが空間を占める。徐々にずれて出てくるパルス。このパルス音と遠くから近くに向かう鼓動は、健康診断のときの聴覚検査の音によく似ている。遠くから近くに鳴るピピピサウンドですね。遠近感とズレ、この双方が音楽の振幅を大きく感じさせてくれる。それと、中間部のウエットな流れ。マンハッタンの雑踏の波というにはあまりに美しい大石さんの音、それにパルスのユニークさは、もっと洗練されたものを感じさせてくれた。満足。


このような素晴らしい企画ものは誰にも教えたくないと言ったらアレですが、あまり騒がずほどほどの人数の聴衆で楽しみたい。それを実現してくれた。
楽しめました、満足です。
今回は完全に企画の勝利。また同種の企画をお願いしたいものです。アメリカものもっとたくさん聴きたいと思います。オーケストラ編成のアメリカものはだいたい雰囲気分かりますが、今回のようなコンパクトな編成の作品はやっぱりライブで聴くと色々なものが見えてきますね。
良かったと思います。
ありがとうございました。
おわり


2075- カスタム・ブラス・クインテット、2016.3.14

2016-03-14 23:39:11 | コンサート

2016年3月14日(月) 7:00pm ヤマハホール

ヘンデル シバの女王の入場  4′
メンデルスゾーン アンダンテ・トランクィロ  2′
グリーグ  忠誠行進曲  3′
ウィルク・レンウィック  ダンス  2′
ヨゼフ・ホロヴィッツ  フォークソング・ファンタジー  2′
ヤン・クーツィール  叙情的五重奏曲  3′4′6′

Int

モーリー・カルヴァート  組曲「モンテレジャン・ヒルズ」より  2′3′3′2′
デューク・エリントン(ジャック・ゲイル編曲)
  In a sentimental mood  3′
      Take the a train     3′
      Satin doll        4′
ルーサー・ヘンダーソン編曲 ザ・セインツ・ハレルヤ  4′

(encore)
ファッツ・ウォーラー(ルーサー・ヘンダーソン編曲) HANDFUL OF KEYS  3′


カスタム・ブラス・クインテット
 トランペット、福田善亮
   トランペット、辻本憲一
 ホルン、松崎裕
 トロンボーン、くわた晃
 チューバ、渡辺功
 

松崎さんのソロ吹きはありませんでしたが、基本的にあの日のリベンジで聴きに来ました。
あのときは松崎さんがキャンセルしたとはいえ、当時自分はあまり知らなかった日橋さんが代わりで吹いて、まぁ、結果的にはまるくおさまった。


それで今日はブラス・クインテット、名前はヤマハのインストゥルメントからとったので、カスタム・ブラス・クインテットという名で。みなさんヤマハを吹いていると書いてある。

あいにくの天気でしたけれど、これから巣立つ若者たちを中心に盛況なクインテット・コンサートとなりました。
プレイヤーのみなさんは、言わずもがなの名うての実力者、勢ぞろい。1999年デビューとありますが、多忙なのでしょう最近は2年に1回のレギュラーコンサートだけのようですね。スポット的な集合といったところでしょうが、ものともせず、実力に物言わせ。
とにかく音がきれい。有名どころのオケでも100人の大集団だとたまに混濁する音を味わうことができますが、この日のプレイは研ぎ澄まされた5人の音がきれいなこと。それと立ち上がりが鋭い、ぶれずにストレートにバシンと揃う。もう、こうなると曲ありきといういつもの口上はやめたくなる。彼らのために、その能力を示すための作品群、そんなクラクラするような錯覚に陥いっていくのもたまにはいいですね。

福田さんの軽妙なトークを挟みながら進行。A列車のトークはややあやしげでしたが、自分が通勤で使っていたのはRR(ダボアール)でした、関係ありませんけど線路は近いところもあります。

ブラス・セクションですから、持続的する長い曲はなかなか簡単ではない。そんな中、クーツィールの叙情的五重奏曲、それに、カルヴァートのモンテレジャン・ヒルズ、聴きごたえありました。ほかの曲もおしなべて素晴らしい曲それに凄い演奏、十分楽しむことができました。

ヤマハのこのホールは初めてきました。ブラスサウンドが引き締まった響きになる良好なホールですね。帰り際混雑するのが難点でしょうか。

色々と楽しめました。
ありがとうございました。
おわり

    


2074- サロメ、新国立劇場、エッティンガー、東響、2016.3.12

2016-03-12 23:12:01 | オペラ

2016年3月12日(土) 2:00-3:55pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場プレゼンツ
シュトラウス 作曲
アウグスト・エヴァーディンク プロダクション

サロメ   98′

キャスト(in order of appearance)
1.ナラボート、 望月哲也(T)
1.ヘロディアスの小姓、 加納悦子(S)
2.サロメ、 カミッラ・ニールント(S)
3.ヨハナーン、 グリア・グリムスレイ(BsBr)
4.ヘロデ、 クリスティアン・フランツ(T)
4.ヘロディアス、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)

ダン・エッティンガー 指揮 東京交響楽団


概ね初日2016.3.6と同じ感想で、素晴らしいものは何度見ても素晴らしい。素晴らしいというより凄いという実感ですね。

ニールントがセヴン・ヴェールであれだけ踊り動き、息を切らずに次の歌に移る。そしてピアニシモの歌を最後まで歌いきる。これは凄いとしか言いようがありません。人間の芸術表現の極みを魅せつけてくれます。凄いもんです。

ヨハナーンは井戸から出てきて歌い切ると井戸の中に戻るのだが、そのとき手にかけられていた鎖を自らはずし井戸に戻る。自分ではずせるのならそのまま逃げればいいような気もするのだが、そうはならない。
エヴァーディンクは随分前に亡くなっていますし、まぁ、生きていたとしても演出家は多くを語らず、語るべきでないとは思います。観る方にある程度思考をゆだねるもの。その思考の可能性というのは演出家が色々と巧みに考えたもののうちにあるべきものだろうとは思いますが。
演出家の考えた可能性を越えたような思考もあるのかもしれないが、それは概して演出や演出家を過度に美化したようなことになりかねない。演出家本人が生きていて、そうではないと否定するような場合は、その通りなのだろう。まわりが考えた一つの解はたしかにそういう含みも考えられるということがあっても、それはじゃぁ、そのあたりのことを全部説明してくれと言われてもできないわけで、はい、と言ってしまえば整合性のある回答を後で作らなければならなくなるかもしれない。済んだ後の暗中模索は前向きな話でもない。作品の一人歩きは魅力的なものではあるのだが。
演出家は高度な知能をもともと求められるものなのだろう。

グリムスレイは威厳のある預言者に相応しい体躯で、その堂々たる身の丈に共鳴したような深い声は魅力的で、その動きともども圧倒的な存在感。
潔癖さが招いた自らの死なのか、それともヨハネとして考えをめぐらしたほうがいいのだろうか。この歌い手の存在感は大きく、小さな動き、例えばサロメの頭に手をやる仕草などまで、色々と目立つので意味合いを考えたくなるようなところはありますね。
それにしても、井戸から出てきたナーマンが持っていた皿の首はヨハナーンだったのだろうか。

肩パットのきいたドレスのシュヴァルツ扮するヘロディアス、魔法使いのような服のキャラクター濃いフランツ扮するヘロデ、片方ずつでも十分にエキセントリック、二人合わせるとさらにその度合いが増す。ワーグナーの主役歌い手が二人同時にこうやって観られるというのはうれしい驚きですね。シュヴァルツの大きくて柔らかい声は今でも昔通り魅力的。フランツのテノールはジークフリートを聴いたものにとっては、朝飯前に見えるが、様変わりしたキャラクターロール、これもいいもの。

自刃して地面に転がっているナラボートをまたいで井戸に歩くサロメ、ナラボートの存在の薄さとサロメの狂気の夢中さを同時に表していて興味深いシーン。
ナラボートを歌った望月は役の存在の薄さに反してなかなか味のある歌と動き。しっくりくるものでした。
慕う小姓の加納はシュヴァルツに負けない声量。身動きが軽く役どころでも一番正常でまともで機敏さが印象的。サロメ狂気の長丁場で、ヘロディアスに連れられ彼女の椅子に座らせられるあたり、何を意味するのか。後編があってもいいのかもしれない。

オーケストラ編成は巨大、ピットにぎっしり。
ピアニシモ、特にトリルは正確で、心の不安定要素みたいなものを巧みに表現している。素晴らしいスキルです。
ビッグなサウンドでも全く濁らずドライヴとコントロールにたけたエッティンガーの棒のもと、ドラマチックな演奏を繰り広げてくれました。
満足です。ありがとうございました。
おわり


2073- 悲劇的序曲、メタモルフォーゼン、ブラ1、ツァグロゼク、読響、2016.3.10

2016-03-10 23:25:12 | コンサート

2016年3月10日(木) 7:00pm サントリー

ブラームス 悲劇的序曲  14′

シュトラウス メタモルフォーゼン  25′

Int

ブラームス 交響曲第1番ハ短調  13′10′5′16′

ローター・ツァグロゼク 指揮 読売日本交響楽団


シュトラウスをブラームスでサンドイッチにした構成。
ブラ1を聴くとよくわかるのですが、ツァグロゼクのスタイルというのは、経過句や主題の準備句、主題のクロージング句、これらの味わいが深い。非常に注意深く指示を与えていて、あまりテンポを落とすことは無い中、丁寧さが光るもの。それでいてメインテーマは切り込み鋭く、突き刺さるように先へ先へと進んでいく。この響きと構成感の対比が普段聴いている指揮者のスタイルと違っていて興味深い。

プログラムに舩木さんの解説があって、メタモルフォーゼンは、逆さ変奏曲、最初にエロイカの対旋律が疑似テーマ、等々、最後にエロイカの本テーマ、といったお話し。なるほどそういう心構えで聴くと面白さが倍増しますね。
演奏は峻烈なもので相当な猛速でこれまた切れ味が鋭い。テンポを緩めないものだが、時折、弦のふくらみをキラリと感じさせてくれる。印象深い演奏でした。
ツァグロゼクは1942年生まれでバレンボイムと同年生まれだが、作る音楽は随分と異なりますね。

退廃音楽が流行り始めたのは、かれこれ15年ぐらい前のことか。最初の頃デッカから多く発売があったと記憶します。当時、友はすっかりはまって、なんと、ものによっては口ずさむほど。ツァグロゼクの棒による音源も色々と発売されたかと思います。
今日のブラ1を聴いているとフィナーレ楽章の緩めないホルンのスーゥと退いていくような感覚というのは、なんだか面目躍如といった雰囲気で、現代もののオーソリティを感じさせてくれます。研ぎ澄まされた棒はお見事ですね。

見た目の棒の振り具合はアバドみたいなところもあります。音場の重心が下がらないあたりも似ていると思います。
日本に来る回数をもっと重ねてほしい指揮者です。
おわり


2072- サロメ、新国立劇場、エッティンガー、東響、2016.3.6

2016-03-06 23:39:33 | オペラ

2016年3月6日(日) 2:00-3:50pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場プレゼンツ
シュトラウス 作曲
アウグスト・エヴァーディンク プロダクション

サロメ   96′

キャスト(in order of appearance)
1.ナラボート、 望月哲也(T)
1.ヘロディアスの小姓、 加納悦子(S)
2.サロメ、 カミッラ・ニールント(S)
3.ヨハナーン、 グリア・グリムスレイ(BsBr)
4.ヘロデ、 クリスティアン・フランツ(T)
4.ヘロディアス、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)

ダン・エッティンガー 指揮 東京交響楽団


凄惨さと美しさ、狂気と正気、発端と末路、こういった両極端なものが行きつくところまで行ってしまってしまったものを一切合切同時に表現し尽くすという名状し難いもの凄い上演となりました。振幅マックスの両極端さ、そしてはたと気づく。それらはもしかして紙一重かもしれないと。
ハイレベル、ハイテンションの歌い手たち、そしてこれまた凄まじかったエッティンガー、東響の精緻極致と鬼気迫るうねりのボルテージ。
あまりのものすごさに戸惑ったか、パーフェクト真空エンド。声にならないといった雰囲気。

照明を落とした中、緞帳が上がりいつのまにかポーディアムに構えた指揮者の棒で開始。
4場構成ながら、エヴァーディンクの演出では最初からだいたい全部出し。ヨハナーン井戸の蓋が閉じている、奥の宴会場にはカーテンが下りている。蓋とかカーテンが閉じたり開いたりする。100分物で、余計な小細工は不要といったところか。最初から全部出し、序奏前奏無しの凝縮オペラに相応しいものでしょう。
この新国立でこれまで何度も上演されています人気演目で手慣れたものと思います。自分としてはお初で観るプロダクションです。上演シーズン毎にソリストをリフレッシュして色々と観ることができるのはオペラ観劇の醍醐味でしょうね。

シンプルなストーリーな中、サロメが首を欲しがるのはお母さんのヘロディアスが求めているからではなく自分が求めている、と割としつこく言っている。逆なことを想像してしまう。実はヘロディアスがサロメに言いつけた。聖書は読みませんので詳しいところはわかりませんが、サロメは言いつけを言われたとおりにした。こう見てくると、サロメの人物像はそんな大きなものではなかった。サロメはこのあとも生き続ける。
ここでオスカー・ワイルドの作、これまた不勉強で読んだことがないのですけれど、ウエイトの高くないあたりを肥大化させドラマチックなストーリーに膨らませた。まぁ、物語の見えない起点がこういったあたりにあるのでしょうか。そのような膨らませの時代背景も興味深いものです。今回の千円プログラムにはそこらあたりのことを色々書いていますので、不勉強な自分にとってはちょうどよい読み物となっていますね。

サロメ、ヨハナーン、ヘロデ、ヘロディアス、みんなワーグナーの歌い手たちで、特にフランツはジークフリート役などで日本でもかなり活躍。今回ヘロデをどちらかというとキャラクター風味満載な役でうまくこなしているあたりをみるとその芸の幅を感じる。聴き手役に回ったり歌いだしのタイミングをはかったりとなかなかいい感じで動き回っておりました。舞台に溶け込んだ動きでした。きれいなテノールは変わりありません。ヘルデン風味を封殺しながら。
1943年生まれのシュヴァルツは相変わらず大きな声でして聴衆を魅了する。動きやしぐさも年齢を感じさせないものでさすがです。前日この劇場でイェヌーファのおばあさん役を歌ったばかりですね。一応、ヘロディアスは本来の歌い手がキャンセルしてその代役ということになってはおりますが、この千円プログラムに既にシュヴァルツが刷り込まれておりますので、確信犯的な変更ストーリーが予め準備されていたのでしょう。この代役は全く悪い話ではありませんし、シュヴァルツのメッゾの存在感は生半可ではないですね。
フランツはシュヴァルツの子供年齢なのですけれど、この夫婦役なかなか息の合ったところを魅せてくれました。ヘロディアスのほうがずっとエキセントリックだなぁと納得。ヘロデはストレートな役でキャラクター要素も素直に受け入れられる。
それから、夫婦のやり取りのシーンでは奥の宴会場の方から、ベッドのようなソファーも持ち出されて、その悪趣味ピンクレッド系な雰囲気が、彼らのコスチュームともども、クレイジーさを増長させている。この妙な色彩効果も抜群。
長身のグリムスレイの深いバスバリトンは聴きごたえありました。役どころは前半だけになりますが、まぁ、諭すようなところもこの音域、説得力ありますね。王様との微妙な関係、非難の間接的なもの言いなど、相応な味が出ておりました。井戸から出てきてもチェーンにつながれたまま、舞台映えした姿と歌、圧巻でした。井戸に引き返すときに、なぜ、自ら腕のチェーンをはずして戻るのか、よくわからないところもありました。潔さを表しているのでしょうか。
タイトルロールのニールントは没我という感じがだんだんとでてくる。最初は普通で最後は狂ってしまうまでの流れが自然、観て聴いているといつの間にかチリチリとヒートしていっている。観ているこちら側もだんだんと、いつの間にか、ですね。
井戸の中でヨハナーンの首カットを上からその音を聞くサロメ、コントラバスの超高音表現、深い淵をのぞき込むようなシュトラウスの見事な表現。ニールントの真骨頂はダイナミックな歌、やや細みの強烈に突き刺すような強靭な声、それと、あまりにデリケートで神経が透けて見えるようなピアニシモまで、振幅が大きい。ドラマチックな歌い手です。最後の調性帰結のピアニシモでの歌は野原に花が咲いていくさまをみているような錯覚に陥りました。おぞましさはすぐ隣にあるのに。
セヴン・ヴェールの踊りは最初、カーテンの向こうでシルエット風に、途中からご本人が現れて赤いヴェールを1枚ずつ。比較的重い踊りでしたが、踊り切りました。ニールントはおそらく若い時からこの役どころで踊っていて、本人は今でもそのイメージで踊っているのだと思う。ところが観ている方にとっては、縦にしか見れない。つまり時の流れなど関係なくて今ここにいるシンガーがスポット的に歌って踊っている、といった見方になる。聴衆は冷たいものだというのはこういったあたりで、自分の前を通り過ぎるだけの点としてのプレイヤーの存在をみながらの話になってしまう。ファンクラブ的な追っかけをしていれば別だが結局、歌い手の活躍の流れや歴史を知らない。どうしようもないところではあります。これ一点ですよと、踊りを披露しに来たのではないですから。
ちょっと話は違うが、エンタメでもなんでもパフォーマーは自分がどんなときでも、観客を毎晩ハッピーにするようなプレイをしなければならない。それは自分が落ち込んでいる時も同じ。厳しいのは毎晩のお客は毎晩別の人たちであるということ。プロの技はたいしたものだという思いの方が先にくる。

エッティンガーの棒、東響は歌い手の素晴らしさをさらに引き立てる見事な演奏。オペラ特有の埃っぽさというものがなくて、まず、正確。
正確な演奏でシュトラウスの曲がギザギザ刻みまできれいに響く。美しい響きでした。
それとフルのオーケストラサウンドが中空を漂うような雰囲気が醸しだされ、なにかこう、生き物のような動きで歌い手たちと別に歌い手がいるような流れ具合で、何に例えていいのかわからない、大海を漂うクジラがたまに噴水しながら泳いでいるようなそんな大きな流れ。また、ダイナミックな表現はエッティンガーのツボで大胆で切れ込み鋭い。オーケストラ能力を満喫できた演奏でした。

ありがとうございました。
おわり