3月になると、東大寺二月堂のお水取りがあります。
一昨年ちょっと行きました。
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始まる前の場所取り。
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はじまりそうです。
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はじまりました。寒かったです。
写真もふるえてます。
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ふるえっぱなし。
今年も行きたいですね。
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3月になると、東大寺二月堂のお水取りがあります。
一昨年ちょっと行きました。
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始まる前の場所取り。
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はじまりそうです。
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はじまりました。寒かったです。
写真もふるえてます。
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ふるえっぱなし。
今年も行きたいですね。
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777- メトロポリタン100周年記念 (バレエ絡みショー絡み) 1984.5.13メト
1983-1984シーズンの聴いたコンサート観たオペラの続きです。
1983-1984シーズンも5月ともなればそろそろ終わりに近いと思われるかもしれないが、ニューヨーク・フィルハーモニックとかメトロポリタン・オペラのサブスクリプションは終わりに近づいているが、コンサートはそれだけではないのでまだまだ8月終盤まで続く。
今日はメトロポリタン・オペラ100周年記念公演。
といっても巷に有名な1983年10月の公演ではない。あちらはオペラ中心の大公演であったが、こちらはバレエ中心でメトロポリタン・オペラによる100周年記念公演。
当初棒を振る予定だったレヴァインはキャンセル。シャーマーホーンが代振り。
果てしもない4時間半でした。
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1984年5月13日(日) 7:30 pm over night メトロポリタン・オペラハウス
CELEBRATION!
GALA PERFORMANCE CELEBRATING
100 YEARS OF PERFORMING ARTS
AT THE METROPOLITAN OPERA
メトロポリタン・オペラ 100周年記念 ゲイラ・パフォーマンス
ジーン・ハーマン プロデュース
ジェイムズ・レヴァイン ゲイラ・コンダクター
ケネス・シャーマーホーン ゲイラ・コンダクター
ドナルド・サドラー ステージ
ギル・ウエルシャー 照明
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ドヴォルザーク/謝肉祭、序曲
指揮 ケニス・シャーマーホーン
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第1部
ノーマン・デロ・ジョイオ/Diversion of Angels
マルタ・グラハム・ダンス・カンパニー
ブラームス/イサドラ・ダンカン風5つのブラームスのワルツ
イサドラ、リン・シーモア
ピアノ、フィリップ・ガモン
ウェーバー/Le Spectre de la Rose
踊り、パトリック・デュポン
リリアン・ギッシュの案内による
チャイコフスキー/パ・ド・ドゥ
踊り、ゲルシー・カークランド
踊り、ジャン・シャルル・ギル
ホフマン/くるみ割り人形より
踊り、ジャン・シャルル・ギル
オッフェンバック/パリの喜び
踊り、アレクサンドラ・ダニロバ
踊り、フレデリック・フランクリン
ジェローム・ロビンスの案内による
プロコフィエフ/ロメオとジュリエット、
第1幕バルコニー・シーン
ジュリエット、リス・イェペセン
ロメオ、Arne Villumsen
スカルラッティ(クルト・ハインツ・シュトルツ編曲)
/じゃじゃ馬ならし、第2幕パ・ド・ドゥ
カタリーナ、マルシア・ハイデ
ペトルーキオ、リチャード・クラガン
エルガー/愛のあいさつ
チャイコフスキー/眠りの森の美女、
第2幕より
踊り、マーゴット・フォンティーン
踊り、フレデリック・アシュトン
マスネ/マノン、第1幕パ・ド・ドゥ
踊り、アントワネット・シブリー
踊り、デイヴィット・ウォール
アダン/ジゼル、第2幕パ・ド・ドゥ
ジゼル、アリシア・アロンソ
アルブレヒト、Jorge Esquivel
チャイコフスキー/眠りの森の美女、
第3幕パ・ド・ドゥ
オーロラ姫、カレン・ケイン
デジレ王子、ルドルフ・ヌレエフ
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インターミッション
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第2部
ジョン・カンダー/イエス
ジョン・カンダー/ニューヨーク・ニューヨーク
歌、ライザ・ミネリ
指揮、ビル・ラ・ヴォルグナ
鷺娘(さぎむすめ)
踊り、五代目 坂東玉三郎
アシスタント、坂東守若、坂東弥吉
演奏、(10名)
プッチーニ/西部の娘、
第3幕やがて来る自由の日
テノール、プラシード・ドミンゴ
指揮、ケネス・シャーマーホーン
ジョン・デンバー/緑の風のアニー
ジョン・デンバー/カリプソ
歌、ジョン・デンバー
ジョン・デンバー/たぶん愛
歌、ジョン・デンバー
歌、プラシード・ドミンゴ
ヘルマン・フォン・ロヴィンショルド/
ラ・シルフィード、第2幕パ・ド・ドゥ
シルフィード、カルラ・フラッチ
ジェイムズ、エリック・ブルーン
アダン/海賊よりパ・ド・ドゥ
踊り、森下洋子
踊り、Fernando Bujones
ジャック・プレヴェール作詞
ジョゼフ・コズマ作曲
枯葉
歌、イヴ・モンタン
フランシス・レマルク/パリで
歌、イヴ・モンタン
ピアノ、ボブ・カステラ
アコーディオン、Marce Azzola
チャイコフスキー/白鳥の湖、
第2幕パ・ド・ドゥ
オデット、ナタリアマカロワ
ジークフリート王子、イワン・ナギー
ヴァイオリン、イツァーク・パールマン
チェロ、リン・ハレル
ライオネル・リッチー・ジュニア/ハロー
ライオネル・リッチー・ジュニア/オール・ナイト・ロング
歌、ライオネル・リッチー
アルヴァン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター
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グランド・フィナーレ
指揮 ケネス・シャーマーホーン
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7時半にはじまって0時まで延々4時間半におよぶ大公演であった。
バレエ中心のクラシカルなものからポピュラーまで、アメリカのエンタメの間口の広さ規模大きさをいやというほどみせつけられたプロ集団の大音楽会だった。
この中で、日本から歌舞伎の出し物があったのがうれしかった。なにしろ生まれて初めてみる歌舞伎がアメリカで、というものだから本人にとって大不思議なのであるが、このようなシチュエーションもアメリカならでは、という気がしないでもない。
いずれにしろ100年に1度の機会に接したのだから幸せと言わねばなるまい。
おわり
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2009年2月20日(金)7:15pm
すみだトリフォニーホール
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ハイドン/交響曲第99番
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ハイドン/交響曲第100番 軍隊
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ハイドン/交響曲第101番 時計
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(アンコール)
ハイドン/交響曲第101番の第2楽章
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フランス・ブリュッヘン 指揮
新日フィル
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今年2009年になってから演奏会に出かけるのは2回目。今シーズンは今年になってからこれはという演奏会があまりなく先シーズンほどのにぎわいもない。
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この日は久しぶりに出かけた。
錦糸町のすみだトリフォニーでここのところずっとフランス・ブリュッヘンが居座っている。
ハイドン・プロジェクトと銘打って新日フィル相手に天地創造、それにロンドン・セットの公演を続けているのだ。
今日はロンドン・セット三日目の公演。
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75歳になっただろうかブリュッヘンがカマキリの風貌で、1センチ背中を押したらつんのめって転んでしまいそうな足取りでポーディアムに向かう、その姿はそれ自体妙に真摯な雰囲気を醸し出す。そしてゆっくりと深い椅子に座りこむ。棒をもたない長い腕が聴衆側からはあまり見えないぐらいの動きで音楽を自在に操りはじめた。
果たして出てきた音、音楽というものは、あっ、と思わせるほどの厳格な音のトレーナーを想起させるに十二分過ぎるほどの圧倒的に引き締まったものであった。
今日のオケサイズはだいたい60人規模。小さくも大きくもなくこの響きのよいホールサイズに合わせたと言ったところだと思われるが、きりりと引き締まり研ぎ澄まされた音は練習の成果というよりむしろエクスパートがあるべき姿を示すためには妥協を許さないといった姿勢に貫かれたようなサウンドであり全く評価できるものである。音楽に向かう姿勢はこうでなくてはならない。なにか、オペラに立ち向かう専門指揮者のようなイメージがハイドン・スペシャリストにだぶる。ここにこの専門指揮者がいたといった非常に確信的な心強さを感じた。やっぱりこうでなくてはならない。
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今日はロンドン・セット中核の3曲を並べた。
第1楽章が15分近くかかり、合計35分におよんだ第99番が結果的に一番バランス感覚、緊張度、音楽の出来具合、などとると当夜一番の聴きものになった。
誰一人欠けてはいけないウィンドの響き、ハーモニーよりもかけあいの妙を堪能できる。プレイヤーの自信はブリュッヘンの音楽への確信から伝播したのであろうか。変に窮屈にならず、プレイ・ミュージックしており安心してこちらも楽しめた。
それに弦が隅々まで、それこそ小さなフレーズの最後尾の音まで確実にニュアンス付きで演奏されており、いきとどいた音楽となっている。こういったところは耳のあるトレーナーの響きを感じさせてくれる。
リピートはことごとく行われていたように思うが、退屈になるどころが指揮者の音楽への愛着が繰返しをするごとに増すような趣きであり、こうゆうものこそそれこそ繰り返し聴きたくなる。全く飽きさせない音楽づくり。新鮮な音楽。
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足にガタがきているので99番を終えても、ひっ込んでいくわけでもなくちょこっと立って聴衆に一礼しそのまま座りなおしすぐに100番へ。当たり前の演奏をしたまでだと心の声が聞こえてくる。
ソナタ形式第1主題前の序奏に力を込めたブリュッヘンの音作りは折り目の正しい音楽であり、決して頭でっかちになることはないが序奏で既に一定の解をだしているようでもある。
100番の軍隊では、クレッセント、バスドラ、シンバル、トライアングルが追加される。
軍隊の響きは多少埃っぽっくなるがその分緊張度も少し解き放たれたようになる。99番から延々と折り目正しい音楽が続いてきているのである。いいかな、と。
そして追加された4人は役目を終えたところでそでに退場。と思いきや、第4楽章で上手から歩きながら現れストップモーションならぬサービス精神を魅せ、下手に退場。音楽の変化という意味ではいい味付けになった。
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休憩のあとは101番の時計。
第2楽章がやたらと有名で誰でも知ってしまっているが、ブリュッヘン本人にとってもやりつくしているものだろう。でもこのような音楽にどのように向かうか、それがポイントです。
今日出てきた音楽は昨日とは異なるもの、指揮者はいくら好きでも多くても一日に一回しかその音楽、響きに出会うことがないものなのです。その日の音楽はいつも初めての出会いみたいなもんなんです。と、ブリュッヘンが言ったかどうかは知らないが、そのような新鮮な響きを感じることができ、さらに音楽に対するそのような真摯な誠実な姿勢態度がハイドンにはふさわしいものであるような気がしてならない。
アンコールで第2楽章を丸ごと演奏したブリュッヘンだ。
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ブリュッヘンになじみがあるかと言えば、ハイドンなどと同じぐらいにしか馴染んでなかったというのが本音。CDはハイドン中期のものは全部聴いたことがあるが再度聴いてみたくなった。
その昔は、デイヴィット・マンロウと勘違いすることがあったぐらいでどうも印象があまり濃くなかった。マンロウは昔はリコーダの新譜を結構だしていたと記憶する。マンロウは確か不幸な死を遂げたはずだが、ちょっと記憶がごちゃごちゃしていた時期もこちら側にあった。
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ところでトリフォニーの新日フィルにはごぶさたしており久しぶりとなったが、こんなものが置いてあった。
今日の公演のためだけの出演者・一覧の紙切れ。一枚いただいたが、このようなものは今までどのコンサートでも見かけた記憶がない。あったかもしれないが、珍しいと思ったぐらいだから記憶が飛んでいる。
どこにだれが座って何をしているかが曲ごとに瞬時にわかるすぐれもの。それにメンバー、客演などの区別も出来る。新日フィルファンには欠かせないものだろう。
この日の客演演奏者は6名だろうか。渡部奈津子さんの名前も見える。当日のホルンの響きは非常に引き締まったもので1番2番同じレベルで吹かねばならぬ。ブリュッヘンの意思なのかやりくりの結果なのか一聴衆としては全くあい構わぬことではあるが結果は良質の響きであり指揮者の意思に沿った音楽造りに貢献していた。
おわり
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メータが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルハーモニックは、1983-1984シーズン最後の6週間は大変だった。
メータがひじを痛めてタクトをとれなくなったので代振りの連続。
詳細は1983-1984シーズン聴いた演奏会、観たオペラに書いてます。
今日はラインスドルフ。この前クリーヴランドO.を連れてきたばかり。
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1984年5月12日(土)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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第10,410回定期
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ショスタコーヴィッチ/チェロ協奏曲第1番
チェロ、ヨー・ヨー・マ
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ブルックナー/交響曲第1番
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エーリッヒ・ラインスドルフ 指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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WQXR-FM 1984.12.2 Sun 放送予定
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ラインスドルフが今度はメータの代役でニューヨーク・フィルハーモニックの定期を振った。プログラムはこうやってみるとなんとなくものすごい重量感があるようにみえるが、なんといってもヨー・ヨー・マのショスタコーヴィッチがすごかった。
第3楽章のカデンツァを聴いていると頭の中に自然にカザルス→ロストロポーヴィッチ→ヨー・ヨー・マの系譜が出来上がってくる。
この曲はショスタコーヴィッチがロストロポーヴィッチに捧げた曲だと思うのだがヨー・ヨー・マはそれをまるで横取りでもするように持っていってしまった。圧倒的なマの名演奏であったように思う。
ホルンとの掛け合いが多い曲なのだがそれにもまして負けじと腕を振るうその姿はやはり若い迫力がにじみ出ている。一聴してわかる技巧の塊みたいな第3、4楽章を何の苦もなく平然と弾いてしまうその姿には驚くほかない。やはりロストロポーヴィッチの次はヨー・ヨー・マだ。
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ブルックナーは実際に生演奏に接する機会がほとんどない曲だけに貴重だとは思うのだが、そんなに2回も3回も繰り返して聴きたいとは思わない。ブルックナーの後の交響曲の素晴らしさを既に知っているものにとってはやはりものたりなくて消化不良の交響曲となってしまう。
おわり
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メータが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルハーモニックは、1983-1984シーズン最後の6週間は大変だった。
メータがひじを痛めてタクトをとれなくなったので代振りの連続。
詳細は1983-1984シーズン聴いた演奏会、観たオペラに書いてます。
この日はヘルヴィッヒの棒。
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1984年5月8日(火)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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ブリテン/セレナーデ
テノール、ペーター・シュライヤー
ホルン、フィリップ・マイヤーズ
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ブルックナー/交響曲第9番
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ギュンター・ヘルヴィッヒ 指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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またしてもメータの代役の登場である。
ギュンター・ヘルヴィッヒ。
いろいろな指揮者をこうやって聴けるのは願ってもないチャンスであり、その意味ではメタのキャンセルも悪くはなかったとさえ思える。
この指揮者もまた私にとってみると名前はよく聞くが実際の姿には接したことのない一人ではあった。
ブルックナーなどが得意ということはある程度は知っていた。しかしブルックナーで安定感のある音楽を作るのは難しい。よほどこなれた指揮者であっても、ましてこのような第9番のような曲になると並みの指揮で人を納得させることはできない。
ヘルヴィッヒは全くオーソドックス、奇をてらうようなところはない。しかし、音楽の盛り上げ方があまりうまくなく性急なところがしばしばみられ本当のブルックナーの音楽にあわないような雰囲気が多々見られた。あまりにもせせこましい音楽作りがブルックナーの音楽の底を浅くしている。もっとブルックナーを正面から見据えて腰の落ち着いた音楽を作るべきであろう。
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ブリテンのセレナーデは美しい音楽となっていた。テノールとホルンという奇妙な組み合わせであるが、それが実にしっくりしていて弦とともに新しい組み合わせの発見みたいな喜びを感じる。
おわり
昨日に続き、1983-1984シーズンに聴いた演奏会から。
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1984年5月6日(日)3:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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ベートーヴェン/交響曲第6番
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ベートーヴェン/交響曲第7番
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エーリッヒ・ラインスドルフ 指揮
クリーヴランド管弦楽団
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たとえば田園の第1、5楽章や第7番の第4楽章にみられる明晰なリズム感はセルが去ってから10数年たつが、今なおなにものにもかえがたい魅力があると思う。
しばしば第7番の第4楽章におけるリズムはかなり優秀なオーケストラでも、もたつくことがあるのだが、クリーヴランドO.の場合にはそのようなことが全くないばかりでなく細かいリズムさえオーケストラ全体として美しく和音を奏でることができるのだ!
このような箇所における美しさはクリーヴランドO.独特のものであり今でも一種の驚異にして、他にとっては脅威でさえある。
逆に田園の第4楽章などは意見の分かれるところであるかもしれない。嵐がこのようにガラスのように透明な音楽として響くとき、この田園でさえ、クリーヴランドO.のもとではひとつの完成された古典音楽として響いてきてしまう。
どちらのいき方でも好きなのだが、クリーヴランドO.はこのように響かなければ意味がないのだ!クリーヴランドO.はセルが去ってなおセルの意志を継いだ音楽を作り続けていると思える。本当に実感として感じる。
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ラインスドルフは1年前にこのクリーヴランドO.ととも聴いた。指揮姿は全く古風で手をのばしながら指揮し、また誇大な振り付けは全くない。小さな動きの中にたまに表現が少し豊かになった時、音楽も雄弁になるといったところか。
また、細かいビート感覚の棒振りは行わないが、スローな動きが必ずしもスローな音楽を作っていいるわけではなく、そのトレーナーとしての才能はやはりすごいものがあるのだろうということはその動きと出てくる音楽から察しがつく。
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たて続けに、いつもきいているニューヨーク・フィルハーモニック以外にボストンSO.やクリーヴランドO.を聴いているとその多彩な表現力に驚くとともに、それぞれのオーケストラにみられる明確な違いに感心してしまう。ひとえにアメリカのオーケストラとはいっても、ニューヨーク・フィルハーモニックのマンハッタン・サウンドとクリーヴランドO.のセル的古典的感覚サウンドとは天地の差がある。
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クリーヴランドO.はいつも何かを考えさせてくれる。自分にとっては大事なオーケストラだ。
おわり
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今年2009年1月2月は行きたい演奏会があまりない。
国内組の演奏会は魅力的なプログラムにとぼしく、1月15日にシューベルトの冬の旅(管弦楽編曲)にいっただけ。2月中盤だというのに今年はまだ1回しかいっていない。
国外組は今、地元の定期に忙しい時期だから来日公演もあまりぱっとせず。
ハイティンク、シカゴ響が来日したが、音楽監督が固まった段階でのリッカルド・ムーティとの組み合わせの来日公演に期待しよう。
ということで、昔の聴いた演奏会のことを継続します。
1983-1984シーズンの聴いた演奏会から。
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ボストンSO. 第103シーズン
1984年4月27日(金)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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ニコライ/ウィンザーの陽気な女房たち、序曲
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リーバーソン/ピアノ協奏曲
ピアノ、ピーター・ゼルキン
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チャイコフスキー/交響曲第1番
小澤征爾 指揮
ボストン交響楽団
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久しぶりの小澤&ボストンSO.。
相変わらず非常に人気があり、ニューヨークではチケットはいつも早いうちからソールド・アウト。
一般によく言われているとおり、このオーケストラはどちらかというとヨーロッパ的なサウンドをもっており、一曲目のニコライ/ウィンザーなどを聴くとまさしくそのとおりだなぁと思うときがある。音楽がきめ細かく弦は全くしとやかで、しっくりした響きは本当にヨーロッパ的なサウンドだ。
チャイコフスキーの交響曲第1番は生演奏ではたぶん初めて聴くと思う。ある程度は知ってはいるつもりだったが第1楽章などかなり美しく響いている。小澤の作り出す音楽はいつも繊細でしなやかである。音楽のフレーズが切れ目なく、流れるような音楽が湧き出してくる。それにボストン響は個人の名人技よりも全体のアンサンブルに重点を置いていつも演奏しているため音楽がどのようなときでも耳障りになることもなく、オーケストラ全体に対して安定感をもって聴くことができる。このチャイコフスキーはいつになく美しく響いたのではないですか。
リーバーソンのピアノ協奏曲は独奏者がピーター・ゼルキンということで興味がわいたのだが、、。
曲はフル・オーケストラ、大編成のオーケストラの中にピアノが完全に埋もれてしまった。この作曲者はまるでオーケストラ、ピアノともに鳴らない方へ、言い換えるとなるべく聴きばえのしないように作曲したとでも言おうか。失敗作。
おわり
ベルリン・フィルハーモニカーは2009年からオーケストラ・コンサートを高画質カメラ収録で配信を開始したようだ。
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レコ芸2月号の紹介では全てのシンフォニー・コンサートと書いてあるが、実際には月4回程度のようなので、全プログラムということなのだろう。
他のオーケストラでも同じようなことはしている。
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こんなこと、意味の無いことである。
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全部あるというのは何も無きに等しい。
こんな長物は、インターネットの没落とともにいずれ消えてなくなるだろう。
インターネットは情報の全てではない。
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祇園精舎の鐘の音
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
驕れる者久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
猛き人も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
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ぎおんしょうじゃのかねのおと
しょぎょうむじょうのひびきあり
しゃらそうじゅのはなのいろ
じょうじゃひっすいのことわりをあらわす
おごれるものひさしからず
ただはるのよのゆめのごとし
たけきひともついにはほろびぬ
ひとえにかぜのまえのちりにおなじ
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はたして地の果てで水洗式トイレを使える‘文化の平板化’は人間のもとめるものなのか。
ベルリン・フィルは消えなくてもインターネットはいずれ消える。
全てのコンサートを配信するなんて、何も無きに等しい。
いずれ誰も見なくなるだろう。
情報の垂れ流しここに極まれり。
唯一の救いは有料ということか。
有料であれば皮肉なことに無料より長続きはするであろう。
不思議な人間の心情。
おわり
あと3週間ぐらいで新国立の東京リングの再演がスタートします。
最初はラインゴールドですが、この公演日程、毎度ながらマチネー多いですね。
昼3回、夜2回。の計5回。
なんとなく、同じ人が何回も観に来るのではなく、出来るだけだくさんの人に観てもらいたい、そのような意思を感じます。
夜公演も6時半スタートで、昔のN響みたいですが、
いずれにしても、サラリーマンが5回とも全部観るのはちとつらい。
自分の時間をコントロールできるお偉いさんだったら問題ないんですが、
お偉いさんの場合、もう終わってる人が多いので、やはり若い人に観てもらいたいですよね。
というわけで今回の目標は3回。。
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それと、4月のワルキューレですが、これも5回公演のよう。
こちらは、全部マチネーだと思えば気が楽です。
週末公演は1回だけのようですので、サラリーマンは有給休暇を4回とれば、全部観れます。
こちらの目標は2回かな。前回の東京リングで観てますから。
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それでは久しぶりの開放感溢れる華金。に、なりそうな予感。。
その前に仕事が二つ山積みなのでそれをまず崩さないとね。。
●
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769- ロバート・ショウ nyp 1984.4.24
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メータが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルハーモニックは、1983-1984シーズン最後の6週間は大変だった。
メータがひじを痛めてタクトをとれなくなったので代振りの連続。
詳細は1983-1984シーズン聴いた演奏会、観たオペラに書いてます。
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1984年4月24日(火)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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ブラームス/ジャーマン・レクイエム
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ソプラノ、マーヴィス・マーティン
バリトン、トーマス・アレン
ウェストミンスター合唱団
.
ロバート・ショウ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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メータの代わりに今日はロバート・ショウの指揮。
ショウというとすぐに思い出すのは合唱のことである。ショウはなんというかアメリカの指揮者に似合わないというか、それとも年のせいかよくわからないがとにかく非常に真摯で謙虚な指揮だと思った。
オーケストラに対してよりも合唱の方に指示が多く、そして合唱自体も渋いブラームスが時にうねるように咆哮する。
ブラームスのドイツ・レクイエムを生演奏で聴くことはめったにないが、さすがブラームスとでも言おうか、本当に暗くて渋い曲であるとつくづく思う。一体この曲にメロディーらしいメロディーがいくつあるのだろうか。チャイコフスキーなどと比べたら、というよりも比べる気さえもおこらない。
しかし、ブラームスである。その、時としてあらわれるメロディーがなんと印象的であることか。そしてマンハッタン・サウンドの象徴とでもいうべきニューヨーク・フィルハーモニックの輝きのあるオーケストラからなんと奥深い力強い音が現れてきたことか。
ショウはオーケストラを前面に出すことはせず合唱の迫力のあるサウンドでほとんど押し切った。これはこうっやってこの曲を実際に聴いてみて全く正しいやり方のように思える。
メータのキャンセルにより、またひとり指揮者を知った。ほんの一曲、彼の指揮で聴いただけだがその言わんとしているところはよくわかる。
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●
聴いた演奏会、観たオペラを書いてます。
今日はMETの角隣り、エイヴリー・フィッシャー・ホールの向かいにあるステイト・オペラより。
見事に、知らない名前が並びました。
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1984年4月19日(木)8:00pm
ニューヨーク・ステイト・オペラ
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ヨハン・シュトラウスⅡ/こうもり
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ガブリエル/ピーター・ミニク
ロザリンダ/ヒルデガルト・ウアマッヒャー
フランク/カール・デーンヒ
オルロフスキー/ダグマー・ケッラー
アルフレッド/イゴール・フィリッポヴィック
ファルケ/ロバート・グランツァー
ブラインド/ハインツ・ヘルベルク
アデーレ/アンドレア・シャンドン
イーダ/グッギ・レーヴィンガー
フロッシュ/オッジー・コルマン
.
カール・デンヒ演出
キャスパー・リクター指揮
ウィーン・フィルクスオーパー
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バレー
ポルカ/雷鳴と電光
ワルツ/美しき青きドナウ
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ウィーン・フォルクスオーパーが今アメリカにきているということさえよく知らなかったのだが、同じ仕事場で仕事をしている人に余ったチケットをもらい一緒に行く。
オーケストラ・ピットにはいっているメンバーは40人~50人で編成は大きくない。
最初の例の序曲を聴いたときこの先いったいどうなるのかとこちらが心配になるほどへただった。ウィーンと聴くとどうしてもウィーン・フィルのような超一流なものを思い浮かべてしまうので、このような技術がよくオーストリアで通用しているものだなあと考えてしまった。
しかし、聴き進むにつれてそのような考えはどこか遠い彼方へ飛び去ってしまった。これはオーケストラだけのアンサンブルをどうのこうのいうレベルのものではなく、あくまでも歌、セリフ、バレエ、そしてオーケストラと一体となった姿をトータル的にとらえてこそ初めて意義のあるものになるということがよくわかった。オーケストラはひたすら伴奏になりきってしまうような音楽であり、また実際、音楽さえセリフ(会話)の伴奏になってしまうようなところさえある。
ドイツ語がかくも軽妙に語られるのを聴くのは初めてであり、また、そのバレエのなんと華麗なこと。全く技術を感じさせない。私たちは生まれたときからこのようにうまくできたのだと言わんばかりの身の動きである。
そしてアメリカ人がヨーロッパを見る目。故郷がそこにあったと言っている。
おわり
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メータが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルハーモニックは、1983-1984シーズン最後の6週間は大変だった。メータがひじを痛めてタクトをとれなくなったので代振りの連続。
詳細は1983-1984シーズン聴いた演奏会、観たオペラに書いてます。
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1984年4月14日(土)8:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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ハイドン/交響曲第44番かなしみ
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ブロッホ/シェロモ
チェロ、ローン・マンロー
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ショスタコーヴィッチ/交響曲第5番
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アンドリュー・デイヴィス指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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またしてもメータの代役の登場。
アンドリュー・デイヴィスはあいかわらず表現過多。あまり格好良くないのだから、動きすぎるとみっともない。但し、(いつものファースト・ティアではなく)サード・ティアからみていると指揮台まで遠いのでその姿がデフォルメされてしまうので少しは気が落ち着く。
前半の2曲は生では初めて聴く曲。
後半は言わずと知れたバーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックのベスト・コンビで有名なショスタコ。これにアンドリュー・デイヴィスが挑戦するとでもいうのだろうか。
日本にいたときに名古屋で聴いたバーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックのコンビによるこの曲の演奏は非常に素晴らしかった。特に第3楽章のベールをかぶったような弦の表現は今でも忘れられない。
それに比べると、というわけでもないのだが、フレーズに締りがなく、フォルテのみ強調され妙に中ぶくれの雰囲気となる。代役ということでしかたがない面もあるとは思うのだが、ノイマンが代役であれだけ素晴らしい演奏を行うのだから、彼も一指揮者としてもっと自己主張をもった表現ができたはずである。その指揮姿から自己主張は人一倍あるのだから。
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ケルテスの芸術全10タイトルを全部聴き終えた。
2006年5月の発売だから全部聴き終えるのに3年近くかかってしまったが、これはそうではなくて、この10タイトルはとっくに聴き終えていたが彼のCDは他にもたくさん出ているのでそれらをひと通り聴くのに時間がかかったため。
DECCAだけでもほかにロッシーニのスタバート・マーテルなどいろいろでているし、DENONからはバンベルク響とのCDがでている。
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20世紀の巨匠シリーズ第7回
2006年5月24日発売
イシュトヴァン・ケルテス
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全10タイトルであるが、このなかにシューベルトの交響曲全集4枚組がはいっているのが大きな特色。ウィーン・フィルとのこの組み合わせの演奏は最高。
個人的にはなじみの薄いケルテスだが、残り9タイトルについてもあらためて聴いてみると味わい深い。ウィーン・フィルとのモーツァルトもいいが、ロンドン響とのドヴォルザークはなんというかつぼを心得ているというか十八番だったんだろうね。きっと。
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死んでも
お前を
離しはしない」
そんな
男の約束を
嘘と
知らずに
信じてた
あぁあぁ
夜が
夜が
夜が泣いてる
あぁあぁ
女のためいき
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女の慟哭の声が聴こえてきます。
森進一のデビュー曲は騙された女が悪いと言っているのかもしれない。
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でも、男にとっても同じようなケースがある。
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死んでも
あなたから
離れはしない」
そんな
女の約束を
嘘と
知らずに
信じてた
あぁあぁ
夜が
夜が
夜が泣いてる
あぁあぁ
男のためいき
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むしろこっちのケースが多いのではないかしら。
女なんていつでもずらかれるよう身を明かさない。
それが普通のお付き合い。
気持ちはわかるが信じ合うことも置き去り。
そして一度置き去りにしたら、
二度とあらわれることはない。
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1983-1984シーズン
今日もズービン・メータがキャンセルしたため代役の登場です。
1984年4月10日(火) 7:30pm エイヴリー・フィッシャー・ホール
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番
ピアノ、ブリジッテ・エンゲラー
フランク/交響曲
ヴァツラフ・ノイマン 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
WQXR1984-12-9、3:05pm放送
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例のメータのキャンセルで思いもかけない指揮者の登場となった。
ノイマンはニューヨーク・フィルハーモニック・デビューということらしいが、なにしろチェコ・フィルの指揮者であるため、みんなよく知っているものと思われる。
何度か聴いたことがあるが、久しぶりにこうやって指揮姿をよく見ていると、ひじを伸ばしたいわゆる昔風のスタイルに見えるが、全体に気品があり、派手さがなく、アメリカでアクション風にきたえられたスタイルとはひと味違うと思う。カラヤンの振り方と似ているところもある。
フランクから出てくるスケールの大きな音楽。スケールが非常に雄大でフランクの音楽に特有な気品のある音楽となっていた。
第1楽章からして非常なスローテンポでなおかつ重厚。
ニューヨーク・フィルハーモニックの表現の豊かさが音楽を大きくし、このスローテンポにもかかわらず、ふちどりがくまなく一点の曇りもなく表現されていく姿はまるでヨーロッパのどまんなかで音楽を聴いているような錯覚に陥っていくようでもある。
第3楽章のトランペット・フィナーレが光輝いて曲は終わるとき、いくら明るすぎてもなんとなく重厚さが尾をひいているようでもあり、このオーケストラの表現能力の大きさに驚くとともに、それよりもなによりもノイマンがこのようにスケールの大きくて落ち着いた音楽を作る指揮者であったことの発見に対する驚き。
前半のピアノ協奏曲。
エンゲラーは男勝りの超馬力。機関車の如き演奏もチャイコフスキーなれば許されるものと心得よう。但し、ノイマンのテンポ感覚は今、スローなものと思われ、微妙に呼吸が異なっていたように思う。また馬力が表現のクリアさを失うときそれは現代にはマッチしがたいもののような気がする。
おわり