河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1289- 無声映画『瀧の白糸』溝口健二、望月京2011.8.27<ミュージックトゥデイ21>サマー・フェスティヴァル2011

2011-08-28 23:21:41 | コンサート

サマーフェスティヴァル2011 <ミュージック・トゥデイ21>


2011年8月27日(土) 4:00pm ブルーローズ、サントリーホール

無声映画のための音楽
無声映画『瀧の白糸』

泉鏡花 原作「義血侠地」
溝口健二 監督 映画(1933年)
望月京 作曲(2007年 日本初演)

尺八、藤原道山
笙、後藤真起子
三味線、辻英明
打楽器、池上英樹
ハープ、篠崎和子
ヴァイオリン、野口千代光
エレクトロニクス、有馬純寿
指揮、杉山洋一


溝口健二の無声映画、水島友(入江たか子)、村越欣弥(岡田時彦)両主演の映画に望月京が音楽をつけた。
映画自体がかなり饒舌、これに音楽がプラスされと饒舌を越えたものすごい迫力。そして圧倒的緊張感、さらに緊張の頂点で音が消える。見事な音楽付けと言わざるを得ない。
ストーリーテーリングとしても原作よりも劇的な肉付けとなっている。あの展開だと二人とも自死しか答えが残されていないだろう。世の中に知られずこのように咲いて散っていくはかなくも悲しい人間模様はたくさんあるはずだ、このように映画になって知られることになるだけでも知られずの人間たちよりは少しだけでも心が慰められるというものかもしれない、もっとも実際の出来事であればの話ではあるが。
とにかく、もしかして声にならない無声の方が観るほうも深くのめり込めるような気がする。発せられる言葉がないので観ている方は全神経を映画の方に集中しなくてはいけない。心地よい緊張感が持続される。
音楽は大変な迫力と微妙な音使いの対比が素晴らしい。駆ける部分でのタララッタラ~という威勢のいいリズムが、別の局面では心臓の鼓動のような緊張感へと位相がダブる。
また、日本の楽器の特色というか、楽器そのものが風景や心情を表しているような色彩感覚、イルミネーションがあり、もはや何も言うべき言葉もみあたらない。

無声映画のフルヴァージョンのようなものは初めて見ました。1時間40分あまりかかる長いものでしたがストーリーの面白さが最後まで観客の心をつかんでいる。空間には望月のうねる音楽だけが響き渡り、心模様はなにかさえざえとしたものさえ感じさせてくれるような脳裏に刻まれる出来事となりました。大変に素晴らしい映画と音楽、ありがとうございました。
おわり


1288- <ミュージックトゥデイ21>サマー・フェスティヴァル2011初日<映像と音楽> シェーンベルク、シュニトケ、ヴァレーズ2011.8.22

2011-08-25 22:15:37 | コンサート
サマーフェスティヴァル2011 <ミュージック・トゥデイ21>
2011年8月22日(月) 7:00pm サントリー

<映像と音楽 Film×Music>

1.
アルノルト・シェーンベルク作曲 映画の一場面への伴奏音楽

2.
フルジャノフスキーのトーク

3.
アンドレイ・フルジャノフスキー監督 映像(1968)
アルフレード・シュニトケ作曲(1968) グラス・ハーモニカ

4.
ヴィオラのトーク(ヴィデオ)

5.
ビル・ヴィオラ 監督 映像(1994)
エドガー・ヴァレーズ作曲(1949-1954) 砂漠

秋山和慶 指揮 東京交響楽団
エレクトロニクス、有馬純寿



今年のサマーフェスティヴァルの初日の公演。テーマは、映像と音楽。
冒頭のシェーンベルクは映像無しで演奏のみ。シュニトケとヴァレーズは映像と音楽。それぞれ、映像監督のトークが演奏の前にあり。シュニトケのグラス・ハーモニカの演奏前のトークは監督のフルジャノフスキー本人がステージ上で熱く語った。ヴァレーズの砂漠ではヴィオラの話がヴィデオで18分ほど流れた。
こうやって説明を言葉であらかじめしなければならないというところが致命的であるとするか、まして、映像がついているのに、である。
ある時代の様式感というのがあって、例えばソナタ形式という様式を理解していれば、その時代の音楽については説明などなくても理解して楽しめる、そのような、時代の様式音楽を求めるか、はたまた、いわゆる現代の音楽というものを別の切り口で求めていくのか。
というところなんですが、音楽の多様な広がりを今の時代だから楽しめる、振幅の右端と左端まで見渡せる、これはこれでいいと思う。ただ、両方見渡せるということは双方ともに過去に追いやられてしまっているという感じがなくもない。
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それで、一曲目のシェーンベルクなんですが、12音階のいわゆるわかりにくいものなんですけれど、最初の12個の音列進行を理解すれば(頭の中で)、その後のヴァリエーション作りはかすかに理解可能。シェーンベルク独特なグレーなペイント、厚い曇り空のような音色は避けることはできないし、ましてこれがどうして映画(架空)の伴奏音楽なのだろうというあたりの理解までに到達するには、彼の音楽をもっと好きにならなければいけない。(実は好き)
一体どうすればこのような音楽を作曲できるようになるのだろうというのは、理論を先にしてその理論で作れば出来上がる。音色旋律とかリズムは後発の技のような気がする。
シェーンベルクはたまにたまらなく聴きたくなることがある。(実は昨年購入したCD、2000枚のうち100枚ぐらいはシェーンベルクだったなぁ。ストラヴィンスキーも同じぐらい買っちゃったけど。)
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2曲目のシュニトケ。先に書いたように映像監督のフルジャノフスキーが登場して通訳を介した長々とした話があった。この行為、致命的ととるか、説明責任があるととるか。まして映像があるのに、である。
映像は1968年作のアニメ。アニメといっても今風に滑らかに動くものではなく、漫画雑誌の一コマずつを並べたような感じ。名画を並べたコラージュといったものだから、時代も多岐にわたりその多様性に合うような音楽が求められる。同じく1968年にこの映像のために作曲したシュニトケの音楽が流れる。ロマンティックなもの。
グラス・ハーモニカという魔法の楽器がもたらす浮き沈みを表現。
観て聴いて一番最初に感じたのは、例えばベートーヴェンのエロイカはいつも新鮮でグラス・ハーモニカは既に古臭いということ。面白さとは別の次元で。
その感を強めたのは映像。この映像、まるでロシアのオペラでも見ているようなもので、それもボリスとかホヴァンシチーナといったヘビー級なものではなく、わりと現代に近い方のウィットにとんだオペラ、壁崩壊前の東独のような演劇的な表現の感じもなんとなくあって、1968年当時では先取り感覚はあったのであろうが、現代から見れば取り残された後れてきたもののように見えてしまうこと。つまり、典型的な「時代映像」なのである。
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3曲目はヴァレーズの未完1949-1954作の「砂漠」に、ヴィオラが1994年に映像をつけたもの。ヴァレーズの砂漠にはいわゆるテープ・ミュージックがはいっている。
ちょっと横道にそれますが、テープ・ミュージックいりのもので一番インパクトのあったのはやっぱりヘンツェのトリスタンです。自分の記憶では生演奏は二回聴いたことがあるはずですが、うち一つがこれ。
1984年5月31日のニューヨーク・フィルハーモニックによるもの。ヘンツェの自作自演。
797-Horizon’s 1984 Festival二日目 ヘンツェ ペンデレツキ 両方自作自演1984.5.31 HF-2

798-Horizon’s 1984 Festivalヘンツェ ペンデレツキ の新聞評 HF-2.1

あのときの薄気味悪さ、ゾクゾクするハートの鼓動、奇妙なヴォイス、忘れられませんね。
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それで、ヴァレーズの方ですけれど、細かい神経が厚く重なり合っている。そんな感じの曲で、雑音のような部分もあります。60年前の流行の先端ですね。テープは3回はいります。
映像自体は具体的なもの(風景といった)。ヴィオラは砂漠に住んでいたことがあって、そこでの生活からクリエートされたもの、一見、音楽とは隔離された世界で想起されるもの、そのような経験が生かされたとヴィデオで語っていたような気がします。偶然映像をつけたのではなく、アンサンブル・モデルンから委嘱されて制作したものと語ってましたね。(たしか)
砂漠という曲ながら映像には、海底、火、砂漠、山、いろいろ出てくる。テープのところは自宅のテーブルでスローモーションでスープをすする男が連続性をもって3回現れ、3回目ではテーブルから床に落としたものが男本人が倒れるという行為も含め、いつの間にか床が水になりそのなかに溶け込むというわりとインパクトがあるもの。
既にある音楽に映像を後でつける行為は、再現芸術としては、結局、既にある映像に生で(実演で)音楽をつけていくしかないのではないかと思う。つまり、既にある音楽に映像をテンポを合わせ映していくのは困難。結局、映像の動きを見ながら音楽をつけていくしかない。実演では必ずそうなる。つまりオペラと同じ。オペラは映像ではなく人の動きを伴った生き物なので映像とは異なり、テンポの伸縮含め音楽に合わせ動かすことはできるのであるが、昨今の電気仕掛けの秒単位までの正確性を持たざるを得ないようなプロダクションでは映像とその特質が似てきてしまっているのではないだろうか。
いわゆる映画音楽のように同時作成されたものでない場合、今回のヴィオラのような堅苦しくて流れない映像に、結果的にならざるをえないのだろう。後で作った映像をまるで先にありきのように再現しないといけない、しなくてもいいがそのようになってしまう、このぎこちなさを拭い去ることはできない。
具体的なストーリー展開をもった内容の映像を先出し音楽につけていくことはできないのだろうか。それは単なる技術のもてあそびに終わってしまう可能性が高いんだろうね。
ただ、ヴァレーズの砂漠の場合、テープ・ミュージックの挿入という新機軸があるため、そそこにひねりを入れた映像構成は比較的簡単に発想、表現できたのだと思われる。むろん、3回挿入されたこの音が、今回の映像のように連続的な内容を求めるものであったのかどうか、そこは考えてみる余地はあるが。解釈を広げるためのヒントとしてはいい出来だとは思うけれど。
多様性とは、ある意味、限界を見せつける行為、そのようにこの日の公演を通して感じました。
おわり


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1286- (再掲) 六本木 ヴィクトリアステーション 1000グラムナイト

2011-08-10 00:08:11 | 六本木にて

昔、といっても10年ぐらい前まで、俳優座の地下あたりに今は居酒屋の土風炉となっているあたりに、プライムリブのステーキ屋ヴィクトリアステーションというのがあって、わりとキラキラした階段を下っていき、赤いカーペットを踏みながらもう2,3段降りると右に大きく店内がみえ、ヴァイキング風なヴェジタブルコーナーや奥の少し薄暗くていい雰囲気のテーブルなどが六本木のスモーキーな夜を演出していたお店がありました。
当時のカパオとカパコはそんな大柄でもないのにだいたい800グラムでした。
800グラムカットして、というと、店員は、お二人で?と、きくので、いや800グラムずつください。といって頼んでおりましたが、それも最初のうちで、だんだん面が割れてくると、言わなくても800グラムずつでるようになりました。
昔は肉ばかりでしたが、そのうちバリエーションが欲しくなり、これも昔の防衛庁正面玄関ではない横向かいあたりにあった焼き肉屋の十里のほうにいくようになり、こちらは焼き肉屋なのにウィスキーボトルをキープし、連日連夜の牛タン22皿というのにはまったこともありました。
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ということで、ヴィクトリアステーションのほうですが、ここは男同志でもわりと言った記憶があります。
ある日、カパオは肉1000グラム食える、といった会話を友達にしたら、信じられないということだったので、それでは善は急げ、ではなく、真実は現場で、という話になり、おりしもカパオの誕生日ということもあり、みんなで一目散に階段を駆け降りたのでした。
それで、みんなが固唾を飲むのを横目にしながら、プライムリブ1000グラム、レアレアで、と声高らかにオーダーしたのでした。高らかな声の二声目は、周辺物は無しで、イモとかヴェジタブルはいらない、それから、肉に味付けしないで、といつも言っていることを繰り返しました。
ワル仲間たちは、ふむふむ、といった目で見ておりました。たぶんあれ以来、彼らはチープな居酒屋でまずい焼き鳥などを喰らうのはやめたと思います。
それで、レアレアのプライムリブというのもちょっと難がありますが、食べ方としては、まず、味付けしていないスの状態のお肉を300グラムほど食べます。これがまたいい味なんです。このときはワインをボトルでオーダーしていたので、赤いワインと、血の滴る赤いレアレアを同時並行的に飲み食べる。
それで300グラムほど進んだら、次におもむろに、背広のポッケに隠し持っていたキッコーマンの醤油をとりだす。瓶だと大きいので携帯用の小型詰め替え醤油。当然自宅からの調達品である。ヴィクトリアステーションのみならず、お店においてあるソイソースはいまいちだ。アメリカのものはいまさんぐらい。だいたいにおいて、瓶に英語で書いてあるあたり論外だ。
それで醤油であるが、回転するふたをはずし、300グラム食べた後の残り700グラムのうちの200グラムにおもむろにたらす。
この、醤油味のステーキ、絶品ですね。肉と豆のコラボ。なんとも言えない感動が舌や鼻を通って脳天に突き抜ける。これであっというまの200グラム。今のところ500グラム。
あと残り500グラムなんですが、あっという間といいながら、頼んだ代物がレアレアであるため、残りの部分は比較的早期に冷たくなりつつあります。そこで、スタッフに声をかけます。
悪いけど、この残り500グラムなんだけど、もう一度火を通してくれないか、と我ままをいうわけです。そうするとスタッフも、変な客だなぁなどと心の中で思ったことがわざと顔に出るような形相で、ホワッ、などとのたうちまわったりするが、もう一度言えばいいだけ。
悪いけどもう一度火を通してくれないか、さっきの感動をもう一度味わいたいんだ、と言えば事は何となくまるくおさまり、火を通しに肉を持ち帰る。まわりの客たちはジロジロみているが、そんなことはどうでもいい。
そして、肉に再度の火を通している間に、ワル連中にしゃべるわけだ。
僕が昔メト座の河童であった頃は、肉はだいたい2パウンドって決まっていたんだ。約900グラムぐらいかな。だから1000グラムっていっても数字的には桁ずれをおこしているけど、900も1000も同じようなわけさ。だからもともと通常食なんだ。ってのたうちまわって、ワル連中が、へぇー、などといっているさなか、先を続ける。
それは肉の話なんだけど、海老、ロブスターの話もあって、5パウンドロブスターってぇのを食ったことあるよ。っていったらワル連中はびっくりしていたけど。
5パウンドっていっても、ロブスターの場合、武装していて殻だらけだから実際においしく食えるところはそんなにないんだ。それに、スチーム、ベイクド、ボイルド、どれでもいいけど調理すると何だか知らないけどかなり軽くなるしね。と、うそぶいた。
実のところは、5パウンド、ネットで2.5パウンドぐらいだと思うが、殻にへばりついている部分の肉は食えないので、2から2.5といったところか。
ボイルしたロブスターもとてもおいしいが、それを食って翌日会社に出たら、カパオさん、あまり寄らないで、って2メートル先の切れ者女リズコに言われたことがある。こんなとき男は言わないが女はズケズケというからね。それにしてもよっぽど臭かったんだ。
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というわけで、火を再度通したお肉が出てきた。レアレアというわけにはいかない。ミディアムレアでもない、限りなくミディアムに近い。このような食べ方をなんというか知らないが、好きなものを食べるときは我ままをいっていいのではないか、などと反省のいろは全く見せず再度食べ始めた。
このミディアムな残り500グラムのポイントは、グレイヴィーだと思います。プライムリブに肉汁をマッチさせるケースは本来的なものなのかどうかわかりません。それにリブの場合、肉汁が溜まっているところに肉を漬けておくのでしょうか。漬けておいたとしても、なんだかあんまりおいしいグレイヴィーは望めそうもありません。
ここは比較的調理しまくったグレイヴィーのほうがいいのかもしれません。とにかく熱い肉に飴のような粘度のグレイヴィーをたらし、食すリブの味は何物にも代えがいたいものがありました。
その500を終われば合計1000グラムとなります。ソーホワットですよね。みなさん。
記憶では、ヴィクトリアステーションに1000グラムのメニューはない。勝手にカットしてもらっただけ。最初からわがままな客だったわけだ。
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今は、渋谷にもあるアウトバックなどでもいい肉が食えるときがあります。スタッフが変に気をまわして、きいてもいないのに、うちの店はアウトバック、オーストラリアが謳い文句ですけど、肉はアメリカ製なんです。などといったりしていたが、うまければどこの肉でもいい。
ここの肉は、肉だけでなく、何事も量が多く、また安い。ビール一本と、ステーキ300~400グラムとあとなにか一品頼むと、一人当たり五千円ぐらい。最近の収縮モードの胃には大変にこたえる量ながら、値段的にも満足のいくものがある。
そもそも、日本料理屋で食べるステーキというのは、調理しすぎで、他の料理と同じぐらい手間暇かけている。それをどうこういうつもりはないが、そこまでして食いたいとは思わない。
あらかじめこってりと味付けされた肉、選択肢のない調理、果ては、何とかショーみたいな感じで鉄板焼きで肉を細かく切り刻んで出したりする。あんなもののどこがいいのだろうか。
そのようなことばかりしている人間は、だまされたと思ってヴィクトリアステーションへいけ。もうないからアウトバックへ行け。
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すぐに脱線してしまいますが、その六本木のヴィクトリアステーションで、みんなでお肉を食べた後、今日はカパオの誕生日です。と、厚かましくスタッフにしゃべったら、ケーキをだしてくれた。
普通ならうれしさも半分で、もう食えない。といったところだろうが当時のカパオは特に問題もなく、デコを三分の一ほどいただいた。ただ、ケーキの後のワインはこたえる。
それで、重いおなかをおさえて、階段をのぼり、六本木の外の空気を吸う。みんなおなかがいっぱいの割には気持ちが快調だ。やっぱりここで肉食ってそのまま帰るなんてバカな真似は出来ないし、誰もそんなことはゆめゆめ考えたこともない。
肉ってぇのは、何でも消化がいいらしくて、4~5時間でまた腹減ってくるらしいじゃないか。などとまたまたうそぶき、六本木の細い通りのほうに身をうずめ、好きなウィスキーを飲みながら肉の消化を待つ。
花より団子、肉よりウィスキー、てなことにはならないが、肉あれば酒あり。朝になれば腹がグーっと共鳴していたので、当時のエネルギーは果てしもなかった。
おわり

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1285- (再々掲) 1999年に閉店した六本木ウエイヴRoppongi WAVEの思い出

2011-08-09 00:10:00 | 六本木にて

1
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1999年11月、一枚の葉書が舞い込んできた。
翌月12月25日で慣れ親しんだ六本木のWAVEがクローズする。12月4日から3週間セールをするので最後の別れをしにこい、ということだった。
1983年の開店当時のことは国外左遷にあっていたので知らない。だからWAVEのことは途中からしか知らないが、当時の六本木で、WAVEは唯一芸術の香りのするオアシスだった。俳優座のことはよく知らなかったし、そもそも三河台の信号の方に足が向いたこともなかった。WAVE以外はもっぱら乃木坂方面での活動が活発ではあったが。

1999年12月25日(土)六本木WAVEは閉店した。
日比谷線六本木駅で降り、端の階段を駆け上がり、六本木通りを渋谷方向に向かうと麻布警察があり、その先に日産のビルがありその先隣りの円筒形のビル。エレベータを4階で降りると、右側がジャズコーナー、左側がクラシックである。何度かレイアウトが変わったが、同じフロアにジャズとクラシックがあるというのは、レイアウト変更前の銀座の山野楽器、渋谷のHMVなども同じスタイルだ。河童はジャズとクラシックは全然違うものだと思うけど、両方好きという人は割と多い。とくにオジサン系に。
フリードリッヒ・グルダは真剣にジャズに取り組んでいたのだろうか。単なる息抜きではなかったのか。そんな気持であったなら別に聴きたいとも思わない。ジャズは内部から湧き出る感情である。全部即興といってもいいし、細部の異常な拡大音楽と言い換えてもいい。とにかくそのような感情の流れをしっかりと受けとめて聴くものだ。やるほうも真剣勝負でなければならない。リコのために、のような甘いメロディーから始めて、その後ジャズを通過しただけだったのでは無いだろうかと感じる。
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それで、左側がクラシックコーナー。そんなに大きなスペースではないが、そんななかにモーツアルト・ハウスがある。少し間仕切りされていて、いい感じであった。そのあとその一角はオペラや歌のコーナーになった。記憶の流れが不確かだが、このようなスタイルがWAVEの特徴だった。
クラシックコーナーは完全に多品種少容量のポリシーとみた。塔のお店みたいに同じ商品をダラダラならべることもなくコアな品が揃っていた。渋谷の東急本店通りのビルの1階のコーナーにつつましくあったHMVなんかもその頃はやはりうぶだった。ついでに、当時東急本店の裏にオーチャード・ホールを含む文化村はなかったので今みたいに、文化村通り、という名前にはなっておらず、東急本店通りと言った。どっちにしろ東急の通りにちがいはないが。
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六本木のWAVEだが、12月になり閉店セールが始まった。日を追うごとにだんだん安くなっていくのである。ある日河童も悪友と禿鷹のごとく漁りにいってみた。でもいいものはもうない。賞味期限が切れてなくて安くできないものや、売れ筋ではない初期のオペラなどがなんとなくならんでいる。これは河童の出番だ。
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河童「このデニス・ブレインのセット物はなんで定価なんだ。」
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店員「はい。まだ賞味期限が切れていませんので。」
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河童「割引してくれたら買う。」
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店員「だめです。」
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河童
「河童の記憶によるとこのなかの1枚は、別のシリーズでも出ていて、そっちのほうは賞味期限が切れているはずだ。だからこのボックスは丸ごと安くしても法律違反ではないはずだ。」
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悪友「おぉ、そうだそうだ。」
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店員「。。。。」
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河童「なぁ。」
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店員「少々お待ちください。」
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店員B
「お河童さま。お待たせしました。お河童様の言う通りでございました。割引対象でした。」
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河童「で、5割オフだろうね。」
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店員B「。。。。。。はい。そうでございます。」
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こうやって河童はデニス・ブレインの12枚セットものを格安で手に入れたのだった。
1954年ルツェルンの第九でフルトヴェングラーのもと,ホルンを吹いていたブレインはフィルハーモニアのオケCDで割と聴くことができる。しかしソロの味はやはり格別である。カラヤン好みと言われる前からやわらかで滑るようなビロードの音、境目のないフレーズ。やはり素晴らしかったのであろう。しかしその夭折は車とともにあっというまにやってきてしまった。今日の割引価格は長年お世話になったWAVEへのお返しだ。

ほかにはグルックやヘンデルのオペラなど売れ筋でないものを買い、ナップサックに入れて帰った。
はずだった。
しかしここは六本木だった。

河童の皿を潤さなければならない。河童用のアルコールで皿を洗い、五臓六腑にしみわたった頃には、CDの割引価格など意味もなくなるぐらい酩酊河童になっていた。

WAVEは、今の六本木駅からバブルヒルズビルへ通る地下通路のあたりに位置していた。
WAVEにCDを買いに行こう」というのは合言葉であり、CD買いは口実。そのあとの一次会は河童好物の〆た鯖がうまい行きつけのおばんざいでおいしいものを食べながら買ってきたCDを悪友と見せっこする。変かもしれないが。
今はその行きつけのおばんざいのお店もなくなってしまった。ミッドタウンのせいだ。
昔は防衛庁の正門には、夜中、自分の番号のタクシーを探し回る河童連中、そのタクシーの山々、見事なバブル状態で、酩酊河童は自分のタクシーが見つからないときは、正門に向かって美声の君が代をはなむけし、さらに悪酔いし、角の公衆トイレの横にいつも立つおでんの屋台で好物の紫蘇巻を全部平らげてほかの客に迷惑をかけたりしていた。
その正門も屋台もミッドタウンや大江戸線の出入り口となり全てが露と消えた。
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バブルヒルズビル、バブルタウンができたせいで、我らの楽しみはひとつひとつ消えていってしまったような気がする。

 

 

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1284- COLONIAL DIVERSIONS ティントナー&ノヴァ・スコシア、グレインジャー

2011-08-08 00:10:00 | また聴きたくなるCD

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また聴きたくなるCD9
Scan10077

Scan10078

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ティントナーが亡くなって10年以上経つ。なんといってもブルックナー全集のインパクトが強いが、ほかのCDもほとんどがドイツ、オーストラリアの古典ものからそれこそブルックナーあたりまで。出ているCDはみんないい味がしていて、だいたい満足のいくものばかり。そんななかに紛れ込むようにこんなCDがある。
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グレインジャー 田園風舞曲
グレインジャー 東洋風間奏曲
グレインジャー コロニアル・ソング
グレインジャー 陽気な、しかしもの悲しそうな組曲
グレインジャー ガム=サッカーズ・マーチ
リルバーン 弦楽のための気晴らし
ドライフース 小管弦楽のためのセレナード
ベンジャミン ノース・アメリカン・スクエア・ダンス
クルサード バレエ組曲エクスカーション
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ゲオルグ・ティントナー指揮
シンフォニー・ノヴァ・スコシア
NAXOS 8.557244
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大陸を渡り歩いたティントナーらしい選曲。非ドイツヨーロッパ系で、かつ、真似ではなく自分というものをもっている作曲家のショート・ピースを、カナダのオケを振って、鮮やかな演奏を展開。ノヴァスコシアのややデッドな響きが曲をさらに引き締めて爽快でさわやか、ウィットにとんだ演奏となっている。何度も取り出して聴いてます。
どれも素晴らしいですね。
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NAXOSレーベルはイエローレーベルのようなビックなレーベルではありませんが、値段以上の価値が大有りです。特に昨今アメリカの作曲家ものが多量に出ており、のどの渇きを潤してくれますね、DELOSのダラスとかシュワルのシアトルものなど、バンバン出してくれてうれしい限り。昔はウィリアム・シューマンとか手に入れるのに結構苦労したものですが、NAXOSのおかげですっきりしました。それに加えて作曲家や曲の掘りおこしも半端ではなく、アメリカものの偉大な独立独歩の音楽を目の当たりにすることができこんな幸せなことはない。
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このCDの作曲家はアメリカ編ではないのですが、渡り歩いたティントナーにとってその地で共感できた作曲家をピックアップしているのだと思いますね。いい選曲、いい演奏、サウンドもややデッドながらコンパクトにまとまってます。うるさい曲が一つもなく珠玉のような小品が並んでます。。絶対のおすすめです。
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1282- クライツベルク この一枚!

2011-08-02 22:52:42 | インポート

クライツベルクが今年亡くなっていたのを今日まで知りませんでした。ツイッターを見ていたら塔レコの宣伝がでていてそれで初めて知りました。
亡くなったのは3.11の数日後のようで、グチャグチャになった家の中の整理整頓に集中していた頃だったので、見逃していたのでしょう。
もう5か月近く経ってしまいましたが合掌します。
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クライツベルクのSACDはわりと持っていて、といっても9枚だけなんですが、全部お気に入り。
買うきっかけになったのは演奏会を聴いたからだと思いますがそれがなんだったのか今は思い出せません。直に思い出すと思います。
それで、以前書いたSACDの紹介をリンクしておきますので興味ある方はご覧くださいませ。
タコ5です。

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339- 超スローなヤコブのタコ5をSACDで

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