河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1369- コリリアーノ登場、コリリアーノ、音楽に寄せて、レッドヴァイオリン、グルーバー、フランケンシュタイン!! 下野竜也、読響、2012.6.23

2012-06-27 00:10:00 | コンサート

2012年6月23日(土) 2:00pm オペラシティ、コンサートホール

コリリアーノ 音楽に寄せて(日本初演)

コリリアーノ ヴァイオリン協奏曲第1番レッドヴァイオリン(日本初演)
 ヴァイオリン、ララ・セント・ジョン

グルーバー フランケンシュタイン!!
 バリトン、宮本 益光

下野竜也 指揮 読売日本交響楽団

コリリアーノご本人登場。1938年生まれだから74ぐらいになったのか。時の流れは早い。
2時スタートの演奏会だが冒頭にコリリアーノのミニトーク。下野の紹介に続きコリリアーノがこの日演奏される曲の解説。最初ちょっと下野の話しが長すぎた。これまで演奏してきたコリリアーノの曲のことを話していたが、それはちょっと横に置いて、まずはご本人の話しを聞かなくては、ね。
トータル15分ぐらいのトーク。

コリリアーノの曲はアルタード・ステーツあたりから(この映画どう思います)、割と多く知っているので、一曲目は日本初演らしいがもっとインパクトのある曲をやって欲しかったというのが本音。例えば、このCDにある別の曲をね。
ジョン・コリリアーノの息子はジョン・コリリアーノ

この日の一曲目「音楽に寄せて」はタイトル通り引用の曲、小規模バンダあり。オーケストラに向かって右2階にホルン2、左2階にトロンボーン2、正面は席位置の関係で見えませんでした。トランペットだったのかしら。


レッドヴァイオリンは本当に協奏曲なのかというぐらいオーケストラが強烈な曲。数奇な運命の主役がヴァイオリンだったのでその楽器のコンチェルトにしただけと思えなくもない。シリアスで非常にインパクトのある曲。下野が共感の棒だったのが光る。オーケストラの能力が高く音楽そのものにどっぷりとつかることが出来ました。
コリリアーノの場合、引用の曲の場合も表現がシリアスなものだが、このレッドヴァイオリンも相当深刻というか生真面目な音楽、何事にも面と向かっているコリリアーノの真摯な芸風が心地よい。つんざくサウンドに負けぬソリストはあのくらいの体躯の人が楽器を奏でるというより草木をなぎ倒すような弾きっぷりで合っているのかもしれない。巨人族のような女性でした。
とにかくこの曲はこのような音響だったのかと実感できた。このホールの音響は拡散系だと思うが、聴衆の観る位置の窮屈なところがたくさんあるホールで音響的にも落ち着きがないもの。シリアスな音響はオーソドックスな上野で聴きたいという願望があったのだが、いざこうやって生に接してみると、広がりのある音響音楽はこの拡散系のホールに相応しいような気もした。

プログラム後半のグルーバーのフランケンシュタイン。
こうゆうことは30年前に終わっていたのではなかったのか、でも聴く人たちも違ってくるわけだし悪い話ではない。音楽は明るく、全く尾をひかないあとくされのないフレーズが切れ切れと続く。コリリアーノが同題で作曲したらアルタード・ステーツなみになっていたに違いない。


1368- 都響、大野、浄夜、シマノフスキー庄司紗矢香、オケコン2012.6.19

2012-06-26 20:47:47 | インポート

2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2011-2012シーズン
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2012年6月19日(火)7:00pm
東京文化会館
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シェーンベルク 浄められた夜
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シマノフスキー ヴァイオリン協奏曲第1番
 ヴァイオリン、庄司紗矢香
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バルトーク オーケストラのための協奏曲
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大野和士 指揮 東京都交響楽団
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二日続けて東京文化会館に。
少しドライながら芯が明確で響きの美しいホールであるとあらためて認識。最近このホールを使うオーケストラが少なくなってしまったのは残念。
4階席に座ったが見晴らしが非常によく、5階の屋根も被らず、響きが良い。5階席はもっといいはずだ。何しろ上に屋根がなく天井があるだけなのだ。(昔頻繁に通ったのに忘れていた!)
4階席に座ってもNHKホールの場合の3階席とは異なりステージとの距離感をあまり感じさせない。弦楽器だけの曲でもよく通ります。
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ということで、浄夜から始まりました。一言で言って、全くもたれないもので見通しのいい演奏でした。大野はこの春にリヨンでパルジファルを振ったとプログラム冊子に書いてあったからか、この浄夜の響きはまるでパルジファルの後編のように響いてきました。彼はパルを通り過ぎたのかなということは無いと思うが今通過しているのだろうか。肉厚ではなく薄くなりつつある弦、多様性重視の響きのあやがすぐそこかしこにあるような妖しさ。パルジファルでももはや重すぎて、なにかワーグナーの香りはするがもっと軽い。軽いというのは妙な表現だが、これはオーケストラの能力にもかかわっているな、きっと。
重い低音もグイッと持ち上げられて引き締まったサウンドは好調の印ではないのか。昔、カセットテープを鳴らした後で、オープンリールのテープを回すと、低音がスピーカー上部に定位して持ち上げられたように引き締まって聴こえてきたものだ。あの感覚に近い。
ストリングの織り成すあやの美しさは全くもって素晴らしいもので、なぜか作曲年次のあたりにワープしたような錯覚に陥る。大野はスコア無しで振っていたが、どのように記憶してイメージして振っているのかな。フォルムのようなものをまず一番にたたきこんでそこからイメージの増幅をはかっているのかな、それとも「浄夜」の感覚棒なのかな。どっちともとれそうだが、この引き締まり方はやはりフォルムから入っていると思える。このようなスタイルでうならせることをできる演奏を実現できる指揮者はそうはいないと思います。一大イベントのように力で振るのではなく、歴史の転換点にありながら、でもあくまで当時の現場からの声のように端正に鳴る音は美しいものだ。筋肉質でいて憂いを含んだたっぷりの30分でした。
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2曲目のシマノフスキーは響きがユニークで面白かった。この日は3曲並べてあったが前半をどちらか一曲にしてしまっても成り立つプログラミング。カラヤンのあたりから演奏会の時間が短くなってしまい、時間単価のチケットではないのかもしれないがちょっとやりきれないところもある。私の知っている限りの最短は、

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プロコフィエフ 古典交響曲
ベートーヴェン 運命
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル

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正味45分。カミタソのプロローグぐらい。
このような演奏会に比べ、この日の演奏は質・量ともに充実しておりました。
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話しが飛んでしまいました。シマノフスキーの響きはヴァイオリン協奏曲ということを横に置いても、ユニークな響きが多くきらびやかさとドライさがブレンドしている。もっとウェットな音楽をイメージしていたのだがちょっと違った。面白い曲ではある。
比較的長めのプログラムの2曲目として彼女が登場してくるあたり、東京フランチャイズといったところなのかもしれない。ビッグな演奏家の地元における日常性のようなことを少し感じた。
ヴァイオリンと伴奏オケとの兼ね合いについてはよくわからない曲でした。

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後半のオケコンは個人的には食傷気味の曲。もう聴かなくていいというぐらい聴いているわけではないが、それでももういい。弦チェレとかマンダリンだったらやる気(聴く気)もでてくるのだが。
オケコンというぐらいだから、メンバーも指揮者も腕まくりに違いないと思います。あらためてこうやって4階席からみているとオーケストラの為の協奏曲という割にはブラスの休みが少し多いかな。大野は浄夜と同じく譜無しで振ってましたがちょっとどこだったか忘れましたけど第1ヴァイオリンパートへの空振り指示があったような気がしましたが。
演奏は低弦パートが上に押し上げられたような音(ミュンシュ&ボストン響のような響きの軽さ、といったら古すぎるか)で引き締まっており、好調なオーケストラであるとの実感は浄夜で感じたものと同じ。
オケコン食傷気味については個人的なものです。この日のプログラミングはバランスのとれた充実したものであったと思います。指揮者の意欲的な気概も感じました。
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指揮者の方向感、日本国内だけで振っていたらずっと定まらない、そんな気がいつもします。ある特定の作曲家を継続して振ることのできる指揮者は幸せですが、そのようなことと方向性とは必ずしも一致するものではないような気もします。一般にプログラミングは総花的で指揮者の意思とは少し違うかなと感じたり、はたまたオーケストラビルダーの日本人指揮者は国内で活躍しているのかななどとも思います。
指揮者が集中的に勉強して曲をかみ砕き再創造する、そのときは。
でもみていると指揮者の上を曲が通過しているだけなのかなとも思います。また、オーケストラの上をいろんな指揮者が通り過ぎて行っただけ。
ちょっとむなしさがあります。踊りたくはないが、踊らされている。そんな感じ。
大野は、そうはみえません。
おわり

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1367- エド・デ・ワールト ポール・ワトキンス ロイヤル・フランダース・フィル シューマン チェ

2012-06-21 19:53:22 | インポート

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2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2011-2012シーズン
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2012年6月18日(月)7:00pm 東京文化会館
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シューマン チェロ協奏曲
 チェロ、ポール・ワトキンス
(アンコール)
バッハ サラバンド
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マーラー 交響曲第5番
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エド・デ・ワールト 指揮
ロイヤル・フランダース・フィル
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席位置のおかげもあるかもしれないが、サントリーホールとは比べ物にならないほど質のいいチェロサウンドの響きがしっくりと終わって、後半のマーラー。
一言で言うと、弦のオケですね、ブラスとウィンドはこれから、機を待つことにしたい。
管の切れ味が今一つ、また全体的にしっくりと尾をひかない。一流どころであれば、切れ味鋭く、また一見背反的ではあるが、しっとりと艶やかな髪のように尾をひく様な余韻があるもの。ちょっとボテ系サウンドでした。管のメリハリが求められます。どっちにしても、今の日本のマーラークラヲタ連中が満足する響きまでには至らなかった。女性のホルンソロは頑張っておりましたが。このかたどなたでしょうか。都民劇場主催公演のプログラム冊子はチープなもので来日オーケストラのメンバー表もない。見開きの最初のページには古色蒼然たる團伊玖麿によるマーラー紹介みたいな文章が載っていて、明らかにあまりにも古すぎるこの文を見開きに使う意味のあたりを書いてればまだ懐かしがる向きもあれ、だまっていたら、なにがしかの書物に載せるものの差し替えミスか、みたいな妙なプログラム冊子ではあった。ということで誰が誰だかさっぱりわからない、それでもいいのではないか。という意見もありましょうがリストはあるに越したことは無い。イメージのふくらみが違いますしね。
オンステージで名前のわかった人は結局、チェリストのワトキンスと棒のワールトのみ。
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それでまずはGM5のタイミング。
Ⅰ:13分
Ⅱ:15分
Ⅲ:18分
Ⅳ:9分
Ⅴ:14分
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ワールトは現代棒振りとは異なりディテールに耽溺しない。最近の例で言うと例えば上岡のGM4のようにディテールへのこだわりの表現」の為のこだわり表現、みたいなことにはならない。こだわりのない演奏です。そうならざるをえない面が今のこのオーケストラにあったという側面もありますが。
一言、上岡に関していえば形式感への造形美学的深い理解がまず最初にあってそれから崩しにかかるならわかるが、そうなってはいないと思う。GM4では変形し過ぎて今どこにいるのかわからなくなるぐらいの個所もありましたし、物珍しさを聴けて良かったというならそれはそれで別に悪い話ではないが、とにもかくにも、今のままなら一流どころのオケを手中におさめることはできない。形式感の理解が必要と思います。まず普通の演奏で聴衆をうならせるのが先です。西洋音楽への理解に関して非常な疑問を持ちました。
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ところで、ワールト。
結構隙のある棒で、例えば折り目正しい演奏が演奏評価を決めるなんて思っていない。かといって、サウンド表現、響き、音色のバランス等に極度にこだわりがあるわけでもない。ですから濃厚な演奏では、もともとない。
70を越えて、顔つきはクナッパーツブッシュとスヴェトラーノフを混ぜ合わせたような雰囲気になってきましたけれど、音楽の表現はあくまで自然体であるかなと思います。若いときに振ったいわゆる現代音楽のCDをたまに聴いたりしますが、あの時代、演奏できるだけでしあわせだった。聴けるだけでしあわせだった。今は違う。
オーケストラ団員の信頼度は高いと思いました。今のところ、この人についていけば間違いはない、そんな顔がたくさんありました。以前ゲルギエフのもと、キーロフ・オペラのオーケストラ演奏で見た団員の顔を思い出しました。
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それでマーラーなんですが、第1楽章からサウンド的には、管の切れ味が今一つ、尾をひかない流れ。換言するとシャープさと香りがない。
下降線を描く主題は管も弦も骨太でかなり濃く表現しておりました。きっちり主題を出していく本来の路線。
第2楽章の第1主題は結構な爆速。激しい演奏ながら踏み外している感覚はない。長い楽章ながら最後のファンファーレまで緩めることなく進行するあたり、やっぱりワールトの腕が光る。
第3楽章
ホルンソロ頑張りました。肩の力を抜いた軽快な雰囲気が出てくればもっとうきうきしたものになったと思います。全員で一人、みたいなこの楽章のホルンたちですから、まぁ、良しとしましょう。
問題はやっぱり管、ウィンドとブラスで、なんといえばいいのかわからないが、アインザッツは合っているんですけれど、転換するフレーズの節目のところで(前後で)、モヤモヤっとしてて音楽がしゃくりあがらない。うまく言葉で表現できないのですが、例えば第5楽章結尾のブラスの遊びの前のウィンド全奏によるトリルのところでもしゃくりあげるような輝ける遊びのような響きが今一つ伝わってこない。爆発的な明るさがうまく表現できていない。同じです。
この楽章は終楽章のように突き進む音楽ではないけれど、鳴らしきらないといけないので、管は非常に難しいと思います。裸の音が楽器を変えて次から次と大変だと思います。一流どころだと何事もなかったかのように、インストゥルメント毎の音色変化の旋律を聴けますよね。
結局、オケ全奏でもモゴモゴ、アンサンブルでもモゴモゴ。ワールトはトレーナーの棒ではないと思うのでオーケストラがステップアップするには相応の棒振りが必要でしょう。それか高スキルメンバーに衣替えするか。衣替えにしてしまうと急にインターナショナル化し、即、文化の平板化の罠にはまる。つまり、ヒマラヤの山頂の小屋で「なんで、ウォシュレットがないんだ」という、どこに行っても同じ音が鳴り響く、文化の平板化に陥ってしまうだけなら、わざわざ外国からオーケストラが公演をしに来る必要性もなくなる。濃度の高い演奏は難しいと思うが努力し甲斐がある。今後に期待。
ここまででだいたい第4楽章の雰囲気はつかめます。粘らず溺れず停滞せず、意識してどうのこうということもない、力まず、あっさりとしたものです。むしろ、よく9分もかけたなという感じです。ここでは弦の力強さと響きのまとまりを聴くことが出来ました。大変に素晴らしい演奏だと思いました。気持ちがはいっている。
因みに最近の演奏スタイルのはやりは、粘って溺れて停滞する。です。このこと自体に意味をみいだそうとすると、奇を衒うだけの、造形がバラバラな演奏となってしまうと思うのだが、なぜか拍手が多いのは、時代の流れなのか?みんな聴きこみ上手?
第5楽章、
吹っ切れた遊びの軽やかさは今一つ表現できておりませんでしたが、それは既述したようなことだから突き抜けたような喜びの表現は途中からあまり期するものではありませんでした。プレイヤーは肩の力を抜けばいいと思うのですが、みんな結構、気張っていてサウンドはでかいがちょっと押しつぶされたような感じになってしまいストリング以外、響きの美しさがあまり感じられない。ウィンドの跳ねるような感覚を味わいたかったですね。
ただ、ワールトの主題を明確にする演奏は好感が持てます。第4楽章の節がそのままこの終楽章にあらわれてくるあたり、つながりの感動のようなものをより強く感じることができました。一貫した表現でした。
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前半のチェロ協奏曲は、自席がだいぶ前だったせいもありますが深くて潤いのあるチェロサンドを満喫できました。濃い表現で上から下まで押しなべて均一的であり非常に正確で丁寧、そして豊かな膨らみの表現は予期されたものとはいえあらためてこの楽器の魅力を伝えるのに十分な演奏であったように思えます。
問題は曲自体にあり、形式感をもっとメリハリがきく様な形で作り上げていればこのように単調な曲にはならなかったと思う。色が最初から最後まで同じ、モノトーン風。二三十分同じ調子の伴奏が続くので、聴く方もポイントを予めきっちり決めて聴かないと、辛い部分がある。
ワトキンスは幅の広い温かみのある魅惑的なサウンドで上野のホールによく響いておりました。アンコールも良かったです。
終わり
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1366- 昔聴いた演奏会より ロリン・マゼール、クリーヴランド、シベリウス5番 1982.2.11

2012-06-03 10:41:26 | インポート

昔聴いた演奏会より。
1981年分はこちら
ブログの左側に年別一覧あります。

1


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1982年2月11日(木)7:00pm
東京文化会館
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レスピーギ  ローマの噴水
シベリウス 交響曲第5番
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ドヴォルザーク  交響曲第8番
(アンコール)
ブラームス ハンガリア舞曲第5番
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ロリン・マゼール 指揮 クリーヴランド管弦楽団
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マゼールのクリーヴランド任期最後の来日。この時は日本5回公演。今となってみればお得意のシベリウスの5番がいつまでも耳に残っているのだが。
例によって当時の感想メモから。

クリーヴランドを去るにあたりマゼールはその楽器をセルに返した。
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最初、マゼールにしては力感が不足しているのではないかとふと思った。しかし、その曲目およびオーケストラのフラットな配置に思いをめぐらしてみると明らかに思考したあとがみられた。リズミックな激しさはなく、マゼールはいつになく静かであり、クリーヴランドのガラスのような透徹したアンサンブルのみがただひたすらあるのみであった。
それにしても、誰が何と言おうと、シベリウスは驚異的な室内楽的名演だ。弦楽器群がシベリウスの精神的高揚に流されることなく、ただひたすらアンサンブルバランスに重点を置き、ただひたすらそれに固執することが逆に音楽自体に炎の核を与えてくるというパラドックス的な現象が成立した。
金管群が弦楽器群と同等の緻密なアンサンブルと表現を持つということは一体どういうことであろうか。これはまさにシベリウスのフレーズの長い、それでいて精神的含みを多分に兼ね備えた音楽によく合う。これは間延びしてしまってはいけない音楽なのだ。ベートヴェンの後期の室内楽と相通じるところがある。
低音にシンフォニックな重力感がなく浮遊しているようなシベリウスの暗く透徹した響き、第1楽章における金管の完璧なアタック、第2楽章における中間部の息の長い微妙なハーモニック、そして第3楽章において、完璧な室内楽オーケストラと化したクリーヴランドは最後の打撃音の正確さに、そのクリーヴランドの証拠をマゼールに示したと言える。
また、マゼールはドヴォルザークの8番を演奏することにより、セルにその楽器を返した。それも、元に戻して返したと言ったらあまりにも劇的か。
おわり

といった感想メモでした。
響きで全てを表現できる。だから頂点のスキルが必要。マゼールはそれを天才技で表現しきる。方向性が一体化した素晴らしい演奏会でした。
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2

セヴェランス・ホール

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3_2
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4

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