河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

935- フルトヴェングラーの命日に寄せて

2009-11-30 00:10:00 | 日記・エッセイ・コラム

高名な考古学者の息子として1886125日に生まれ、1954年、今から55年前のちょうどこの日1130日に指揮者としては若い68歳の生涯を閉じた。

あのすさまじい棒の振り方を見ていると、よくも68歳まで続いたというのが実感だ。痙攣するような右腕、オーケストラを流れるようにコントロールする左腕。両方が分かちがたい動きをもって音楽を毎日、生成してきた。

エキセントリックをはるかに通り越し、常軌を逸したとんでもない演奏は数々あれど、戦中のベートーヴェンの交響曲第5番に勝る演奏は今後永久にあらわれることはないだろう。あのような演奏は戦争中であろうがなかろうが、人間の外の現象だったのだ。

肺腑をえぐるような心の臓の鼓動。アレグロ・コン・ブリオ運命の動機は常に垂直に彫られる。

決してやさしく微笑みかけることのないアンダンテ・コン・モト。シューベルトの音楽との決定的違いを魅せる。

続くアレグロは驚天動地の地響きであり、これであればこそアタッカで続くしかなかった第5番ではある。崩れかかりそうなベートーヴェンの構造音楽を、逆説的ではあるがフルトヴェングラーの棒が構成美に変えた。極限の演奏芸術。

そして、それまでのすべての上を行くアレグロ・プレスト。第4楽章に入りいきなり音楽は頂点に達し、ハイテンションがずっと続く。何ゆえに、こうもベルリン・フィルは持ちこたえることができたのか。指揮者の魔術としかいいようがない。芸術を熟知したもの達にしか到達することができないエクスタシーがそこにあったのかもしれない。

そして、プレストはコーダに流れ込む。これぞ演奏芸術の極み。この演奏を聴いたことがない人は騙されたと思って一度CDを買って聴いてほしい。とんでもない演奏はすべての楽器を一度に追うことは困難、それであれば例えばトランペットのタンギングに耳を傾けてみよう。解釈は技術の上をいくのだ、そのことを実感できる。腕達者なベルリン・フィルの奏者たちを技術の破たんギリギリまで追い込んだ、そこまでして表現したいもの、技術が追いつかなかったら音楽にならないのではないか、というのが愚問のように響く。

この超高速のコーダは演奏芸術史上、空前絶後、もう成しえることは誰にも不可能だ。そして最後の打撃音に至る圧倒的急ブレーキもこれまた空前絶後。造形演奏の美ここに極まれり。第九のフィナーレさえ吹き飛ぶ。

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戦前戦中戦後で解釈が異なるのではないか。戦中の演奏表現は戦争があったから成しえたのであり、そういう意味では芸術至上主義のフルトヴェングラーの主義主張と違うのではないか、という議論があるが、これも前に述べたことがあるが、戦争は現実にあったわけで、戦争がなかった場合別の表現になっていたかどうかという議論は多くても50パーセント以下の確率でしか当たっていない。個人的には戦争による常軌を逸した演奏ではないと思う。この演奏がなされた1943年は指揮者57歳。

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アップしてある写真は、日本フルトヴェングラー協会の第3回目の会報。創立が196912月だから研究品頒布のテンポもおそかった。河童が会員になったのはこの第3回目からだから19734月頃ということになる。

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今でも会員ではあるのだが、後遺症的微熱状態になっている。

何年か前にフルトヴェングラーのコレクションをほぼ全部(まだ残っているよ)、ヤフーのオークションに出品した。いろいろと話題になったのでまだ記憶にとどめている人もいるかもしれない。レアLPは別にして、CD一枚が6万円を越えるようなものまで出る始末でかなりヒートした。ただ、戻ってきたお金で別のコレクションを始めようという気は全くおこらなかった。

売りさばいたのは卒業したかったから?そんな偉そうなことは言えないが、結果的にひとつだけ確実に言えること、それは自由にフルトヴェングラーを聴けるようになったこと。

だから、たまには聴く。

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演奏芸術は現代ではもはや死語ではないだろうか。意味のない伸縮自在な演奏は数多あれど、指揮者解釈のその前に、演奏家、オーケストラ・プレイヤーの腕が落ちた。これは誤解のある言い方で、昔よりは確実に腕はみんなあがっている。しかし、ボーイングの深さはどうだろう。ウィンドのアンサンブルはオーケストラのものか。ブラスのハーモニーは空虚になっていないか。

演奏芸術とは何か、なぜ必要なのか、という問いが今頃になって現実味を帯びてくるわけで、無くしたものは大きかったということかもしれない。

おわり

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934- 10年前に閉店した六本木ウエイヴRoppongi WAVEの思い出

2009-11-29 11:40:40 | 六本木にて

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●(再掲編)
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ちょうど10年前の11月この時期、一枚の葉書が舞い込んできた。
翌月12月25日で慣れ親しんだ六本木のWAVEがクローズする。12月4日から3週間セールをするので最後の別れをということだった。
1983年の開店当時のことは国外左遷にあっていたので知らない。だからWAVEのことは途中からしか知らないが、当時の六本木で、WAVEは唯一芸術の香りのするオアシスだった。俳優座のことはよく知らなかったし、そもそも三河台の信号の方に足が向いたこともなかった。WAVE以外はもっぱら乃木坂方面での活動が活発ではあったが。

1999年12月25日(土)六本木WAVEは閉店した。
日比谷線六本木駅で降り、端の階段を駆け上がり、六本木通りを渋谷方向に向かうと麻布警察があり、その先に日産のビルがありその先隣りの円筒形のビル。エレベータを4階で降りると、右側がジャズコーナー、左側がクラシックである。何度かレイアウトが変わったが、同じフロアにジャズとクラシックがあるというのは、レイアウト変更前の銀座の山野楽器、渋谷のHMVなども同じスタイルだ。河童はジャズとクラシックは全然違うものだと思うけど、両方好きという人は割と多い。とくにオジサン系に。
フリードリッヒ・グルダは真剣にジャズに取り組んでいたのだろうか。単なる息抜きではなかったのか。そんな気持であったなら別に聴きたいとも思わない。ジャズは内部から湧き出る感情である。全部即興といってもいいし、細部の異常な拡大音楽と言い換えてもいい。とにかくそのような感情の流れをしっかりと受けとめて聴くものだ。やるほうも真剣勝負でなければならない。リコのために、のような甘いメロディーから始めて、その後ジャズを通過しただけだったのでは無いだろうかと感じる。
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それで、左側がクラシックコーナー。そんなに大きなスペースではないが、そんななかにモーツアルト・ハウスがある。少し間仕切りされていて、いい感じであった。そのあとその一角はオペラや歌のコーナーになった。記憶の流れが不確かだが、このようなスタイルがWAVEの特徴だった。
クラシックコーナーは完全に多品種少容量のポリシーとみた。塔のお店みたいに同じ商品をダラダラならべることもなくコアな品が揃っていた。渋谷の東急本店通りのビルの1階のコーナーにつつましくあったHMVなんかもその頃はやはりうぶだった。ついでに、当時東急本店の裏にオーチャード・ホールを含む文化村はなかったので今みたいに、文化村通り、という名前にはなっておらず、東急本店通りと言った。どっちにしろ東急の通りにちがいはないが。
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六本木のWAVEだが、12月になり閉店セールが始まった。日を追うごとにだんだん安くなっていくのである。ある日河童も悪友と禿鷹のごとく漁りにいってみた。でもいいものはもうない。賞味期限が切れてなくて安くできないものや、売れ筋ではない初期のオペラなどがなんとなくならんでいる。これは河童の出番だ。
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河童「このデニス・ブレインのセット物はなんで定価なんだ。」
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店員「はい。まだ賞味期限が切れていませんので。」
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河童「割引してくれたら買う。」
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店員「だめです。」
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河童
「河童の記憶によるとこのなかの1枚は、別のシリーズでも出ていて、そっちのほうは賞味期限が切れているはずだ。だからこのボックスは丸ごと安くしても法律違反ではないはずだ。」
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悪友「おぉ、そうだそうだ。」
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店員「。。。。」

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河童「なぁ。」
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店員「少々お待ちください。」
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店員B
「お河童さま。お待たせしました。お河童様の言う通りでございました。割引対象でした。」
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河童「で、5割オフだろうね。」
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店員B「。。。。。。はい。そうでございます。」
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こうやって河童はデニス・ブレインの12枚セットものを格安で手に入れたのだった。
1954年ルツェルンの第九でフルトヴェングラーのもと,ホルンを吹いていたブレインはフィルハーモニアのオケCDで割と聴くことができる。しかしソロの味はやはり格別である。カラヤン好みと言われる前からやわらかで滑るようなビロードの音、境目のないフレーズ。やはり素晴らしかったのであろう。しかしその夭折は車とともにあっというまにやってきてしまった。今日の割引価格は長年お世話になったWAVEへのお返しだ。

ほかにはグルックやヘンデルのオペラなど売れ筋でないものを買い、ナップサックに入れて帰った。
はずだった。
しかしここは六本木だった。

河童の皿を潤さなければならない。河童用のアルコールで皿を洗い、五臓六腑にしみわたった頃には、CDの割引価格など意味もなくなるぐらい酩酊河童になっていた。

WAVEは、今の六本木駅からバブルヒルズビルへ通る地下通路のあたりに位置していた。
WAVEにCDを買いに行こう」というのは合言葉であり、CD買いは口実。そのあとの一次会は河童好物の〆た鯖がうまい行きつけのおばんざいでおいしいものを食べながら買ってきたCDを悪友と見せっこする。変かもしれないが。
今はその行きつけのおばんざいのお店もなくなってしまった。ミッドタウンのせいだ。
昔は防衛庁の正門には、夜中、自分の番号のタクシーを探し回る河童連中、そのタクシーの山々、見事なバブル状態で、酩酊河童は自分のタクシーが見つからないときは、正門に向かって美声の君が代をはなむけし、さらに悪酔いし、角の公衆トイレの横にいつも立つおでんの屋台で好物の紫蘇巻を全部平らげてほかの客に迷惑をかけたりしていた。
その正門も屋台もミッドタウンや大江戸線の出入り口となり全てが露と消えた。
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バブルヒルズビル、バブルタウンができたせいで、我らの楽しみはひとつひとつ消えていってしまったような気がする。

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933- カプリッチョ 二期会公演 沼尻 2009.11.22

2009-11-23 14:53:17 | インポート

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リヒャルト・シュトラウスのカプリッチョを初めて観た。

感想の前に苦言を一言。

今日のプログラムは非常に問題だ。

曲のことではない。1,000円で買うプログラムのこと。こんなことは今まで記憶がないが、この千円プログラムにはあらすじが載っていない。目次には4,5ページにあらすじ、と書いてあるが正しくない。正しくは5ページ目に英語!の要約があるだけ。

他には、観る前に、とか、楽曲解説などで、ABA形式がどうのこうのとか、いろいろ書いているが、場面を飛ばしたりして書いているので、単なる分析に近い。

曲のあらすじや登場人物のことが全く書かれていない。歌い手の紹介がいきなりでかでかとあり、あちこちでなんとか賞をとったとか、そんなことばかりだ。

誰が作ったんだろう。このプログラム。

一方、この公演がはじまる前に、めったに演奏されないこのオペラを観ないのは文化国日本人の恥さらしみたいな郵便が届いて、売れていない席をAB席という折衷案で安く売るので買ってくれと、それも2回も舞い込んできた。

そこまで入れ込むなら、まず、曲の紹介からはいるべきだと思います。そうでなくても曲のあらすじ紹介からはいるべき。しかし、このプログラムには、上下左右前後四方八方どこをさがしても書いていない。何を考えているのだろうか?

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劇場入り口の花束コーナーに揃った数名のおば女性たち。はいってくる客たちを眺め舐めまわす関係者たち。。どうも、一大イヴェントの雰囲気、まるで、内輪の会、のよう。学芸会的な様相を呈している。

売りさばいているプログラムの内容から場の雰囲気まで、内部関係者用のオペラ発表会みたいだ。企画から興業までのご苦労はある程度分かるが、年に一回もしくは数回のイヴェントにありがちなことで、みせる方向が内向きであり、言葉としてはふさわしくないかもしれないがオペラ公演が常態化した姿を見せてほしい。素人集団ではないんだから。。

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ということで、今回は非常に前味の悪いことがいろいろとあったが、肝心な中身は?

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20091122()2:00pm

日生劇場

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シュトラウス/カプリッチョ

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マドレーヌ、佐々木典子

兄、初鹿野剛

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フラマン、望月哲也

オリヴィエ、石崎秀和

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ラ・ロシュ、米谷毅彦

クレロン、加納悦子

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ソプラノ歌手、羽山弘子

テノール歌手、渡邊公威

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プロンプター、大川信之

ジョエル・ローウエルス、プロダクション

沼尻竜典、コンダクティング

東京シティ・フィル

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2部構成で後半の8重唱、そして2度目の出現となる月光の音楽、寄り添う踊り、ロースウエルのプロダクションが自己主張をはじめる。マドレーヌは杖をもったおばあさんであらわれる。舞台となった部屋、居間、客室は、舞台奥に後ずさりし、同時に壁が動き始めその部屋を閉じる。最初で最後の動き。そしてマドレーヌのややかなり長大なモノローグと、これまた長く尾を引く音楽がこれでもかと余韻を残しながら最後はスタッカート気味にちょんと終わる。

そもそもカプリッチョは初めて観るのでどのようなプロダクションがあるのかさえも知らないなか、これがどういう意味かはわからないが、このあといろいろと皆さんのブログを拝見するのが楽しみでもある。

過去はさらに過去に消えていく、しかし、その問いと答えは永久に謎なのか?片方がなければもう一方も残らない。

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詩か歌か。

このオペラの印象としては、どの場面を切り取ってもその切り口から見えてくるものは、詩か歌か、いつもこの問いが発せられているようで、なんだか場が進まない。場は進むのだがそれは副次的要素としての印象が大きい。プロンプターの位置からプロンプターが出てくるので、その二重構造性が見えたりするが、あまりに唐突過ぎて違和感もある。

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そもそもカプリッチョとは?

その昔、キリル・コンドラシンの棒、RCA交響楽団によるチャイコフスキーのイタリア奇想曲というのがあって、これカプリッチョのはず。最初から最後まで破天荒な曲を見事に表現したコンドラシンの棒。音の爆弾と化したチャイコフスキーとは異なるものの、方向性は似ていなくもない。気まぐれなオペラなんだろうか。深層はまたあるに違いないが、初見の感想としてはこんなもんだ。

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シュトラウスの場合、管弦楽もそうなのだが、私のそれまでの作品を知ってて観て聴いて、というものがあり、このオペラの場合もシュトラウスのそれまでの作品スタイルを知っていないとなかなか理解が進まないところがあるように直感的には思える。

さらに最初の六重奏は、プログラムの楽曲解説によると、調のことを少ししつこく書きすぎている面もあるが、ABA三部形式だそうで、僕には、シュトラウス自身の音楽以外の転用、ここではグルックのイフィゲニー序曲冒頭の節がずっと鳴っているように聴こえる。

ちょっと横にそれるが、このプログラム楽曲解説によると、幕が開く前から六重奏が奏され、開いた後もそのまま続くと書いてある。今日のプロダクションは音が鳴る前に幕が開く。そこから音楽がはじまるので、この記述は誤りで、演出により違いがあるのであればそれはコメント等で付記すべき。コメントしている個所もあるので編集者が見逃しただけなのかもしれない。ほかの個所においてもこの楽曲解説全体が、あらすじ、登場人物紹介などが欠落したプログラム冊子では劇中のプロンプター登場と同じぐらい唐突過ぎる。

いずれにしても、シュトラウスのこのオペラを観る前にいろいろと前提を理解していればさらに楽しめるという部分はありそうだ。

登場人物の立ち位置は明確でわかりやすいもの。人物がそれぞれ対になっているので明瞭。また、対のアンサンブルもバランスよく動きもこなれている。

マドレーヌはどうもしゃくりあげる歌が気になる。ほかの登場人物の会話が日本語的で抑揚がない。フラマン、オリヴィエの歌唱は双方ともに響きがあり聴きやすい。みんな自分の役をこなしており、手さばきなども余裕があり、歌がないがしろにならない。

8重唱は非常にバランスのいいもので、今日のいいところの典型的な部分か。アンサンブルが見事であった。

マドレーヌも後半になるとその役柄に重ね合わさった心情が表出されるようになり、歌わずとも存在感が増してくるというオペラならではのだいご味がでてくる。

2部の踊りは動きのない第1部の延長にならないような配慮か。観ているだけで楽しく美しい。最後の月光の音楽とともに踊られるアクセントの妙。

この月光の音楽、ホルンが少し機械的、譜面づらばかり追いかけているせいなのかどうか無機質、テンポをぐっとおとして欲しいところだが、ここであまり落としてしまうと、マドレーヌのエンディングがもたなくなりそうな気配があるので、指揮者の沼尻も前後配分をみているのかもしれない。

シティ・フィルの木管の情感アンサンブルは今一歩だ。楽器によってはブラバンみたいな響きもあったりしたようだ。ブラバンは下のレベルということではなく、ウィンドが弦の代わりをしている部分があるブラバンと同じようなスタンスで吹いているんではないか、といったところがある。オケピットの右にホルン、ウィンドは左ということで一番遠いところに座っていたが、これでは合わせにくいだろう。カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ公演でこけら落しをしたこのホールも時代の波で隔世の感がある。その寸法にあったオーケストラ、歌サイズでちょうどよかったのかもしれない部分はある。その割には大人数のオケではあったが。

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一度の休憩をいれて2時間45分のへヴィーなオペラ。休憩なしで上演されたら聴くほうとしては少し辛いかもしれない。冗長感は否めない。

指揮の沼尻は人生行路的にはオペラの勉学中だと思うが、レパートリーシステムはおろか、オペラ公演そのものが一年に数回のイヴェントでしかないようなところばかりで振ることに満足していないのではないか。

4日連続でレア作品を振れるなんて、一番こやしになっているのはこの人に間違いないところではあるが。

おわり

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932- マルフィージ サンティ N響 2009.11.21

2009-11-22 10:16:21 | インポート

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先週のサンティ&N響はこちら

今日は先週に続いてサンティを聴く。

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20091121()3:00pm

NHKホール

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レスピーギ/ローマの噴水

レスピーギ/森の神々

 ソプラノ、アドリアーナ・マルフィージ

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ヴェルディ/オテロより柳の歌、アヴェ・マリア

 ソプラノ、アドリアーナ・マルフィージ

ストラヴィンスキー/火の鳥、組曲

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ネルロ・サンティ指揮

NHK交響楽団

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年齢、そして体が重そうなサンティではあるが、今日のヴェルディの伴奏はうますぎる。イタオペを全部知っているサンティは譜面などいる必要もなくマルフィージの歌の伴奏を見事に振った。本当に見事であった。オーケストラへの指示はすべて完璧。これで歌いにくいなどという歌い手がいたなら、それは自分の下手さ加減を吐露しているに過ぎない。これ以上の伴奏はあるまい。

マルフィージはN響定期のおじさん連中に人気があるようだ。わからなくもない。その容姿、そして、なによりも、愛想がいい。そして知的。こうゆうのがタイプなんだ。ここのおじさん連中。昔から。。

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operanoyoru風の言い回しだと、マルフィージの声はスピントではなく、ソプラノ・リリコとレッジェロのあいだぐらいか。滑らかで高音から低音まで、強音から弱音まで、声質がかわらない。非常に聴きやすいもの。少しドライなとろこがあるが押しなべて耳ざわりがいい。今日のヴェルディなんかは最もふさわしいものだろう。その情感、シーンを思い起こさせるような流れ、起伏が、均一で滑らかに歌われる。柳の歌の後半はヴェルディ特有のピアニシモ・ブラスがハーモニーされるが、ここまできてしまうとやっぱり全曲を聴いてしまいたくなる。

サンティの伴奏は見事と言うほかない。オペラを知り尽くしたものだけが振れる棒だ。あのような見事な味付け、余裕の表現、いまのところ日本人指揮者には絶対無理。チャラチャラ指揮者に靴の裏の土でも煎じて飲ませてあげたくなる。本当の勉強と経験は何物にも代え難い。N響の奏者たちはそのことを肌で感じ取っているのだろう。ひれ伏す代わりに見事な演奏を。といったところだ。

歌、オーケストラともに実に心のこもった演奏であった。

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前半2曲目の森の神々。これははじめて聴く曲だ。オーケストラの規模が吃驚するほど大きくローマの噴水と同じ規模だ。噴水でのパイプ・オルガンがないぐらいかな。

5曲構成。牧神たち、エグレ、庭園の楽、水、たそがれ。

聴きやすいレスピーギの楽曲。印象的な歌が続く。マルフィージはこの曲を全部知っているらしく譜面は不要。一方、この曲だけはかなりめずらしくもサンティがスコアをめくっていた。5曲とも、編曲されたオーケストラからの入りとなるため、味わい深さがさらに増す。コクのある演奏とはこういうのを言うのであり、境目なくはいってくるマルフィージの声もなにかまろやかなブレンド・ウィスキーのような、そんなに強いものではないがコクがあり、ストレートよりも少しだけ水をたらせばちょうどよくフレーバーが開花するようなそんな趣のすばらしい演奏。

休憩をはさんで前がレスピーギの森の神々、あとがヴェルディ、このプログラム構成も抜群。リサイタルでもないのにドレスを着替える時間があるというものだ。

一曲目のローマン噴水、ドーン、夜明けからたそがれ時までの4曲。うーん。いい。

レスピーギのつぼを心得ているのか、なんかとっても落ち着いていていい。大きい編成なのだがキラキラする様がそういわれてみれば噴水のような気にさせる。

最後の曲は変わって、ロシア物。この組み合わせは不思議と言えなくもない。バレエ音楽なので、音楽によるパレットととらえれば全体プログラム・ビルディングとしてはそれなりに納得するものではある。火の鳥はストラヴィンスキーの複雑系の拍子にまだ達していないが、それでも変拍子が続く場面もある。サンティにとって易しいものだろうが、ここでも余裕すぎる棒。的確な指示とゆるぎない自信。本当に見事な棒であり、いつも通り、エンディングはぼかさないできっちり締め、次に進む。明確な棒である。フレーズ単位でもこの傾向はあるので、サンティの締め、明るさ、などが微妙に全体に連関して独特の音楽の呼吸となっているのがよくわかる。

N響の演奏は指揮者の意をくんだものであり、このような経験豊かな指揮者が振るとN響のプレイヤーはひれ伏す。従順といえるかもしれない。指揮者の望むことを思い通り全部出そうとするのだ。官僚的ではなく、プロジェクト的であり、そのリーダーがあらゆる部分で自分よりも上をいく人だ、と思った時彼らは最善を尽くそうとする。これはこれでいいかもしれない。なにしろいい演奏なんだ。

おわり

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931- ロジェストヴェンスキー 読響 埋もれチャイコ 2009.11.20

2009-11-21 19:23:26 | インポート

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20091120()7:00pm

東京芸術劇場

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オール・チャイコフスキー・プログラム

交響的バラード「ヴォイヴォーダ」OP78

幻想序曲「テンペスト」OP18

組曲第1OP43

戴冠式祝典行進曲

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ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮

読売日本交響楽団

全部譜めくりながら、バトンテクニックは昔と変わらぬ見事なもの。テンポはやや遅くなったような気もするがたいしたもんだ。

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今日のオール・チャイコフスキーはたぶん生演奏で聴くのは全部初めてのような気がする。テンペストはなんとなく聴いた記憶があるような気もするが、いずれにしても、よくもまぁならべたね。

最後の一曲は余計であったが、その前の後半一曲目、組曲第1番の陰影に富んだオーケストラルな響きは素晴らしく魅力的なものであり、ロジェヴェンの棒もひかる。

6曲構成で40分以上かかる大曲。序奏とフーガ、ディヴェルティメント、間奏曲、小行進曲、スケルツォ、ガヴォット、の6曲でその名の通りの理解で十分。自由な音楽が時に明るく、暗く、そしてそれぞれの長さもいいバランスで音楽そのものだ。編成も大きく、振りがいがあるだろう。

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前半の2曲はCDでは余白にはいっていたりするので聴いたことはあるが、メロディーラインのわかりにくさ、チャイコフスキー的な楽器の重ね合わせがあまりなく、おもしろくない。駄作の部類だと思う。

ヴォイヴォーダの最後の銃の一撃はその筋書き通りなんだろうが、そのあとバネが飛んでしまった懐中時計のように閃きゼロの世界で終わる。音符の着想以前のような気がする。調子が悪い時の作曲家とはこんなもんなのかもしれない。チャイコフスキー最後のほうの作品だが、その死が本意かどうかということもあり、後期へ向かう調子の悪い時の作品と理解したほうがいいのではないか。このような作品を聴くと不本意な早死にと腑に落ちる。

テンペストはヴォイヴォーダよりはいい。ロメジュリの響きはないが、ストーリーに重ね合わせた構造がメロディーの流れから伝わってくる。多少。。

それでも長すぎ。ヴォイヴォーダが10分強。このテンペストは20分だ。閃きが薄く持ち堪えられない。

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結局、佳作組曲第1番を発見といったところか。

終わり

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930‐ 台三段 マーラー8番 千人の交響曲 アルミンク 新日フィル2009.11.18

2009-11-20 00:11:56 | インポート

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20091118()7:15pm

サントリー・ホール

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マーラー 交響曲第8番 千人の交響曲

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ソプラノ、

マヌエラ・ウール、宮平真希子、安井陽子

アルト、

アレクサンドラ・ペーターザマー、清水華澄

テノール、ジョン・ヴィラーズ(マリア崇拝の博士)

バリトン、ユルゲン・リン

バス、ロベルト・ホルツァー

合唱、武蔵野音楽大学室内合唱団、栗友会合唱団

児童合唱、東京少年少女合唱隊

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クリスティアン・アルミンク指揮

新日本フィルハーモニー交響楽団

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ブラスの巨大な咆哮に続いて、最後のちょっと遅れ気味のバスドラは完全につぼにはまっていて見事な締めではあったけれど、でも、やっぱり、

ジョン・ヴィラーズ

に尽きるなぁ。

ちょっと伏せて口を曲げながらの熱唱は、オペラの世界に駆りたてられる。

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この曲を交響曲として聴きに来てしまうと、最初と最後だけ目覚めていて残りは寝ているだけという聴衆も少なからずいる。千人というのはやはり合唱に重きをおいた、聴衆の実感したサブタイトルということになる。第1部はソナタ形式と言われるけれど、巨大な音響構築物として聴く分にはいいが構成感には少し難がある。第2部に至ってはファウストのテクストの理解が必須。内容を知らないで聴いていても意味はほぼ無い。字幕がほしい。

前回聴いたのはいつだったのかしら。20年前のシノポリの棒、フィルハーモニア管弦楽団だったかなぁ。そのあと聴いた記憶はちょっと調べないとわからない。

アルミングは、かつてこの曲を振った小澤征爾&ベルリン・フィルのような天才肌的峻烈さはなく、観れば観るほど聴けば聴くほどオペラとの相似性を強く感じさせるもの。その体躯に似合わず職人肌的棒ふりのように思える。第2部は曲想がオペラオラトリオ的であり、アルミングは形式ではなく、流れを感じさせる、というよりも断片のつながりのようなものでしかないものをうまく連続性に富んだ音楽に変える。8人の歌い手が次々と独唱、重唱を連続させるさまは本当にオペラの世界にはいって行ってしまったようだった。

合唱に対する棒はあまりアクションの大きなものではなく(普通の指揮台を3段重ねにしているのでオーバーアクションは不要!)練習の成果をそれなりに感じさせるが、少年少女のほうはズレズレで、旗振り役がもう一人必要だろう。

結局、マリア崇拝の博士役のヴィラーズの独壇場であり、張りつめたテノール、高音がやや苦しいながらその絶唱は見事だ。このままオペラの世界にシフトしてほしいと思ってしまうぐらい吸引力がものすごい。

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拍手は15分ほど続いたが、ホルン・トップのスタンディングではオヴェイションならぬブーイングがでた。コントラバスと同数の8本揃っていたが、トップはソロ・パートだけに集中していればよかったかもしれない。音楽の核となるホルンだけに、はだか部分でのポロポロが多すぎた。

合唱は70+70+40+40220人ぐらい。

少年少女は30人ぐらい。

オーケストラは100人ぐらいなので巨大ということはない。いわゆる4管編成。ホルンは8

オルガン1、ソリスト8

バンダはたぶん8人で、2階席通路で第1部、第2部の最後に吹奏。

合計で1000人に及ばず、370人ぐらいだと思う。

おわり

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929- 巨大な室内楽 サンティ N響2009.11.14

2009-11-16 22:11:00 | インポート

ジークハルトは日フィルと金土、サンティはN響と土日、両方の棒を観れるということで、ならば土曜日のはしごでも悪くない。

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2090-2010シーズン観たオペラ聴いたコンサートはこちら

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20091114()6:00pm

NHKホール

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ウェーバー オベロン序曲

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シューベルト 未完成

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ブラームス 交響曲第1

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ネルロ・サンティ指揮

NHK交響楽団

サンティの今日の喜びようは尋常でなかった。かなり満足したのだろう。

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メトの昨年のデータベースによると、メトロポリタン・オペラハウスで棒を振ったランキングのトップはもちろんジミーで2345回。2位のボダンツキー1088回。クレヴァの961回も神棚に置くとしても、サンティが401回で、シッパース341回の上をいってなんと16位だ。1962年の1月から20007月まで38年の積み重ね。

もちろんスカラ座やそのほかの劇場でも多量に振っているに違いないし、イタオペの権威で、全部暗譜でオペラを振るなんて人間業とも思えないが。20年ぐらい前になくなったジュゼッペ・パタネみたいな存在なんだろう。

でも、オペラは卒業とでもいうか、今は自在に棒を振っているようだ。基本的にオペラ振りにとってオーケストラ曲の棒なんて簡単なもんだろうと思う。行きつく先はどのようなものであれ深いとは思うが、棒さばき、音楽構成、目配り等、オペラに比べて全然、簡単だろう。

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日本では読響を振っていたと記憶するが、最近(2001年頃から)は、N響との相性がいいのか、ほぼ毎年振っている。N響の聴衆はこのような指揮者とはすぐに同化する。古典をきっちり聴かせてくれる指揮者には反応する。好評なのもよくわかる。アシュケナージがなんで桂冠指揮者になっているかいまだにわからないが、同じようにわからない聴衆も多いと思う。アシュケナージはオペラは決して振らない。オペラに否定的でだまっていればいいものを、否定論のようなことをいうもんだからたちが悪い。

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それで、今日のサンティ、当然譜面はいらない。あんなもの台と同じくらい邪魔になるだけだ。

オーケストラは、お昼に聴いたジークハルトと同じ対向配置。ブラスは、センター一番奥がホルン・セクション、右一番奥がトロンボーンでその前にトランペットという配置。

座った席のせいか、トロンボーンとトランペットの音がむき出しでそのまま聴こえてくる。別に強すぎるわけではないがスコアの線がそのまま聴こえてくる。輪郭が明確。これも指揮者の思うところあってのものだろう。妙に明るい感じではあるのだ。たしかに。

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未完成でわかるようにサンティの棒は明確だ。ぼかさない。アタックも鋭い。きっちり前フレーズに未練を残さず、次の展開にはいっていく。叩きつけるような極端な感じではないが力強く次の局面に向かう。また、曲のエンディングも未練を残さず、きっちり切る。棒さばきとして能動的にそうする。

輪郭もブラスにみられるように際どいが明確に彫る。だから不明瞭なところがなく妙に明るいサウンドとなる。イタリア的と言えば言えるかもしれない。

未完成の極致の演奏はムラヴィンスキーだと思うが、方針がほぼ正反対ながら結果が同じような方向感をもっている。

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オベロンも未完成も素晴らしい演奏であったが、やっぱりブラームスだろう。第1番はオーケストラの編成としてはそれなりだが、それでもトロンボーンが出てくるまで3楽章待たなければならない。

サンティの解釈、演奏表現はこの第1番を巨大な室内楽として聴かせることではなかったか。この1番にブラスの出番は無いんだ、結局は。

2楽章の美しすぎる寂寥感と細やかなニュアンス。曲尾のヴァイオリンソロの音楽の核。第1楽章のティンパニをも包み込んでしまう弦楽器の強烈なビロードのうねり。圧倒的だ。

各楽章の弦の響きを凌駕する世界有数のウィンド・アンサンブルはこれはもはやN響の伝統だ。

4楽章の決然として明瞭に進む音楽は未完成以上に重心を上げ、各楽器群が自在に動き回りブラームスの自然ヒートな音楽がさらに熱くなる。響きのあやを見事に表現した素晴らしい演奏となった。

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そこに一人ぽつんと立って棒を振るだけで、音楽がこうも活き返る。N響はこのような指揮者に敏感に反応できる。自分たちより力が上と思われる人が振ると従順に振舞うべきだと心得ているのかもしれない。優等生的な演奏をいとも簡単にやれてしまうのは彼らの力なのだがその能力をうまく引き出すのは指揮者。それも技術で引き出すのではなく、築き上げてきた実力を感じることが出来るメンバーが自然に反応する。

優等生的な演奏に飽き足らないサンティのような指揮者はさらに上を求める。従順な表現ではなくもっと主張のこもった自由な発散を促す。

あえてイタリア的と言うが線の輪郭の明瞭な響きと濃いドイツの響きのあやが融合した素晴らしい演奏の一夜となったことは間違いない。

おわり

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928- 脂肪も栄養 ジークハルト 日フィル2009.11.14

2009-11-15 16:28:27 | コンサート

2009年11月14日(土) 2:00pm サントリーホール

オール・ベートーヴェン・プログラム

序曲コリオラン
交響曲第4番
交響曲第5番

マルティン・ジークハルト 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

オバマ大統領が演説を終えた3時間半後、そのポーディアムでジークハルトが最初の一音を振りおろした。
脂肪も栄養になる。
肉厚の一瞬くらくらするような時代戻りのように聴こえたのは席が前過ぎて音が強烈にでかかったせいだけとも思えぬ。
ジークハルトは2年ぐらい前にアーネム・フィルを振ってマーラーの10番の全曲をエクストンにSACD2枚組でいれた。サマーレ&マツッカ補筆完成版での演奏は素晴らしくも豊潤、ブラームスなども同じ組み合わせで入れており、今日のベートーヴェンはどうなんだろうと、あまりのプログラム・ビルディングの大胆さにつられて興味津津、約8分の道のりを経てサントリーホールまでたどり着いた。
ウィーン生まれ、ウィーン交響楽団のソロチェリスト、指揮に転向、リンツ・ブルックナー管弦楽団、リンツ・オペラ座、アーネム・フィル、グラーツ芸術大学の指揮科教授。コテコテ・アカデミックなんだろうと思う。マーラーの10番もきっと思うところがあって入れたに違いない。旬のような棒を聴いてみたい。こちらとしてもそう思う。

対向配置で弦を思いっきり鳴らす。古色とはいわないがかなり蒼然と物々しい。へヴィー級のベートーヴェンで胃の底に響く演奏、これはこれでいたく感激。しばらく聴いていなかったズシーン系のサウンドが改めて血肉を沸き躍らせる。血管中の血液もフツフツと。
しかしこのような音と言うのは、棒をある程度不明瞭というか細部を振らないというか、大振りと言うか、いや大振りではないが、縦の線に無頓着と言ったディテールではなくフレーズそのものがパートごとずれてしまってもいたしかたがない、頓着しない、そういったことから生まれ出てくるものであるはずもない。まして音楽大学の指揮科教授がすることでもない。
オーケストラ側の問題が大きい。名曲コンサートでやりつくされてしまっている曲なのかもしれないが、気がつくと、原点がどこにあったのかそのような思考を忘れてしまっているただのルーチンワーク、もしくはその延長の演奏。体が揺れない第2ヴァイオリンの表情は対向配置ではよくわかる。ベートーヴェンが伝統になっていない、身についていない、単なるルーチン演奏になっている、そのようなものと、ジークハルトのような棒とはミスマッチと言うか、ジークハルトには理解できないオーケストラパートの動きがあったとしてもいたしかたない。二日三日でかわるような代物でもない。
ジークハルトもベートーヴェンの伝統を日本に移植しにきたという風でもないし、その力もない、いや思うところのそとの出来事なんだろう。
ジークハルトとしてはバーの頭一振りでその小節のオタマジャクシが南京玉すだれのように自律的に弾かれる、奏されるのを期待しているはずだ。
ジークハルトの意思がひとつ明確に感じられるところはある。始終ドツキ鳴りのベートーヴェンではあるか、細切れの音符、スフォルツァンドのスタッカート・オタマジャクシの連続にあって、ポイントはこの音符というのを事前に定めている。その強調、アクセントは明白であり、そこで音楽は合うし、それをすることによって爆進の推進力がより明確になる。やっぱりはずせないところもあるわけだ。

やや平面的ではあるが三角錐のような安定感はコントラバス、チェロの頑張りによるところが大きい。昔のオーケストラのようなモタモタ感はなく、弾きこなしている。ウィンドを含めたアンサンブルにピアニシモが無いのは残念だが、これもオーケストラの限界を知ってのジークハルトの許容範囲とするところなのだろうと思う。巨大なオーケストラサウンドがピアニシモになることもなく最初から最後までごり押しで進んでくる、これはこれで。
脂肪も栄養だ。

全部リピートしたと思うが、構成強固な第5番ではあるが繰り返しの中に全体バランスそして構成感があらためて見えてくる。
第4楽章へのアタッカは、ブリッジのパッセージを前提としているため、その第3楽章そのものが構築物として完成しない。また、第4楽章中間部に明確な第3楽章回帰が入るため、ソナタ形式の揺らぎを感じる。これは第3楽章のホルンの動機が第1楽章第1主題と同じだという話とは異なる。
ベートーヴェンにおいて形式感をどうのこうのいうつもりはない。そんなことを思い浮かべることさえあまりない完璧な構造物なのだが、今日のようにのっぺりやられるとそのようなこともふと思ったりする。
ただし、今日の演奏、コーダまでの運び、突入後の急き込み方など、バランスを保ちながらもエンディングに向かってバイアスをかけていっており劇的でなかなか良かったと思う。
フルトヴェングラーのように破天荒というかエキセントリックというか、あのような極端な演奏は今の時代ありえないが、トスカニーニよりではなくまぎれもなく形容詞としてのフルトヴェングラー的演奏のほうに向かっていたのは確かだ。
ジークハルトはもう少し聴いてみないとわからない。
おわり


927- プーランク 人間の声 & オッフェンバック チュリパタン島 愛の賛歌 2009.11.7

2009-11-08 17:41:35 | インポート

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2009-2010シーズン聴いたコンサートより

2009117()14:00-16:20

浜離宮朝日大ホール

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2009モーツァルト劇場公演>

プーランク モノオペラ≪人間の声≫

      (日本語公演)

ソプラノ、高橋照美

ピアノ、徳田敏子

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オッフェンバック

 ≪チュリパタン島 愛の賛歌≫

 (日本初演) (日本語公演)

カカトワ公爵22世 蔵田雅之

息子アレクシス 鵜木絵里

家老ロンボイダール 鹿又透

妻テオドリーヌ 押見朋子

娘エルモーザ 小貫岩夫

女中 磯辺絢子 光村舞

召使 栗原光太郎 田中研 松井永太郎

カカトワのお付き 土居愛実 山田文子

カカトワの従卒 佐々木典

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指揮 時任康文

モーツァルト劇場管弦楽団(5人)

レアなオペラ2題。シリアスなオペラと喜歌劇。

後半のチュリパタンが1時間を越える喜歌劇で、乗ってくるにつれ、前半のシリアスな人間の声は前座みたいなものだったなぁと思えたりもしたのだが、舞台が跳ね、近くにある築地場外を散歩し、寿司屋に寄り、こんな場所なのに酷いまがい物を喰らったあとに、今日のオペラのことを改めて思い出してみると、やはり人間の声のほうのレベルが格段に高かったのだなぁと思わずにはいられない。

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歌い手は前半後半ともに性格的表現も含め非常に秀逸。特に後半は曲を凌駕していた。

ということで。

前半。

ジャン・コクトー原作、フランシス・プーランク作曲

モノオペラ人間の声。

総監督そして訳詞を行っている高橋英郎さんの説明によると、「この作品をオーケストラでなく、ピアノで演奏しようという意見に私は賛成である。オーケストラの厚い音が死の恐怖をかり立て、デリケートな会話を消してしまう。」

とある。

プーランクはこんな誰にでもわかるような話を知らないでオーケストラ伴奏をつけてしまったのだろうか?

どうしてこんな簡単な話になってしまうのだろうか?非常に簡単にすぎる疑問だ。今日のピアノでも十分うるさかったと思うのだが、オケ伴でやってから言って欲しいものだ。

このモーツァルト劇場というのは1983年に始まっているようで、その演奏曲目を見ると多彩。そして人間の声も1999年と2002年に上演されており、今日のはそれに続くもののようだ。前2回については接していないので全く知らない。オケ伴だったのかもしれない。試行錯誤の結果なのかなぁ。

日本語公演であるため、日本語に訳した場合、ピアノ伴奏のほうがいいというのかもしれない。

とにかくオーケストラ伴奏のような多彩な響きが無いため、モノトーンのモノオペラになってしまったといえなくもない。

【あらすじ】

5年間も愛し合った末に棄てられた女が、睡眠薬自殺をはかる。1ダースも飲んだが死ねなくて、目覚めたあと、相手の男からかかってきた電話で、次第に現実が蘇る。愛されるあてもなく、悶え、笑い、嘆き、いたわり、偽り、虚勢を張ったりするが、いよいよ別れの時が来て、電話のコードを首に巻いて相手の声を聞きながら「好きよ、好きよ」と思いのたけを叫んでこと切れる。

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といった筋で、昔の交換手のいるころの話、混線、断線、など日常的、そのような味付けの中で電話の先の男を思い、そして最後は電話線を首に巻いて死んでしまう。

このようなシチュエーションにもかかわらず、今日のソプラノは指輪をしており、これはどうゆうことなのだろうか?非常に邪魔。不倫の話に置き換えてしまったのだろうか。緻密で濃厚な語り、歌いなのに、たった一つのことが気にかかってしまう。

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日本語訳のオペラはあまり聴くことは無いが、外国語のイントネーションはそのままにして日本語で歌われる違和感は語りも含めてあまりなかった。抵抗なく受け入れることが出来た。

40分以上かかるオペラを、全く自分のものとして滑らかに歌いきれる素晴らしさ、安心して聴いていられる分、オペラそのものに集中することが出来る。ピアノ伴奏も含め非常に技術レベルの高いものであり、その先にあるシリアスな劇に踏み込んでいる。

電話の先の相手の男が見えるようなこちらのモノローグ。

言葉の表現は原語と字幕ではあまりうまくいかないのかもしれない。日本語で微妙なニュアンスをやりつくすというのは必然で自然。

歌はドラマティックなものであり、表現、ニュアンスもよく、一人で歌っているのに相手がいるような立体感、奥行き、深堀りされた劇、こなれた表現。現実離れしているが、共感をよぶ。深いものであった。

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オーケストラ伴奏のCDこれで

後半。

オッフェンバック作曲

チュリパタン島 愛の賛歌

【あらすじ】

公爵の娘。息子として育つ。

家老の息子。娘として育つ。

この息子と娘。最終的には娘と息子に戻ってハッピーエンド。

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日本初演。日本語公演。

性格的な歌と演技が完全にきまっている。

まるで何度もこのメンバーで上演したことがあるような非常にこなれた舞台だった。

大がかりな舞台装置はなく、500人程の室内楽ホールで5人のオーケストラが客席右前方でつつましく鳴らしながらの舞台。その上で自由自在に動き回り歌いつくす。

歌いくちが一番気に入ったのが家老ロンボイダール役の鹿又透。指揮者のほうに目をやる回数が一番多いながら、歌の正確性が極めて良好で喜歌劇にありながら、要所をきっちり引き締めていたと思う。その妻役の押見朋子さん。この人がこのオペラで最初に現れ声を発するわけだが、存在感十分で、歌う前から喜劇と分かる。

カカトワ公爵22世は、饒舌が饒舌を生み、あたしゃ歌よりも喋りだよ、みたいにものの見事に流暢に場が進んでいく。この3人極めて性格的で、当たり役というにふさわしい。楽しめた。

娘役の小貫岩夫、息子役の鵜木絵里。体格があまりにも男然女然としていて、特に娘役のほうはノリが過ぎ、女をはるかに越えている。でもまぁ、歌のみならず動きも流れつくすのでこれはこれでお見事。

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オッフェンバックはこの種のオペラのようなものがたくさんあると思うが、それこそこのようにしてみなければわからないし、ドタバタで字幕では追い切れないような個所も多そうで日本語の上演は成功だろう。劇の内容が明白なので歌の部分より科白のほうが重要でポイント。歌の聴かせどころは特にない。

次から次と音楽が走り続け、暗さなどまるでなく、軽快な音楽がリズミカルに駆け巡る。その瞬間瞬間の面白さは大変結構なものだ。

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今日の2題を同じ日に見たいとはあまり思わないが、双方再度上演があれば必ず観に行くだろうと思う。

おわり

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926- 予習 人間の声

2009-11-03 22:41:43 | インポート

今週週末2009.11.7に、モーツァルト劇場の公演があります。

プーランク&コクトーによる

「人間の声」

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交換手が回線をつないでいたころの電話機の向こうとこちら、こちらにいる女性の一人芝居というか歌。

どんな公演になるのかしら。

観に行く人は予習必須ですね。

これなんかどうですか。

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昔、飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃のジュリア・ミゲネス・ジョンソン。つんとそったあごと胸で、怖いものなんかないのよ、と舞台に出てきたそのなんともいえない魅力的な立ち振る舞い。あれはあれですばらしかった。このCD1990年の録音。まだまだ絶頂期。映画のように顔を露出しなくてもこのCDで十分魅力的だゎ。

このCDは歌だけでなくオーケストラのサウンドもかなり本格的で大変に魅力的。大編成のオーケストラによるサウンドが、昔のパリのキャバレーの土間のようなサウンドを醸し出す。

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テキスト/ジャン・コクトー

音楽/フランシス・プーランク

「人間の声」

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ソプラノ、ジュリア・ミゲネス

ジョルジュ・プレートル指揮

フランス国立管弦楽団

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このサウンドを聴いたら、プーランクを全部聴きたくなること間違いなし。

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925- 今年の全日本吹奏楽コンクール

2009-11-01 10:43:18 | インポート

去年2008年は普門館まで出かけて、アップしたブログもたくさんのアクセスをいただきました。

今年は都合がつかず断念。

全日本吹奏楽コンクール

イコール

高校の部

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といったような感のある高校の部ですけれど、全国大会は前半後半で、指定席がそれぞれ2500円ずつ。両方買っても5000円。

人気度からいっても破格の安さだが、これが、5000人はいる普門館でも、入手困難。

ヤフオクを見ていて知る限り一番値をつけたのが、前半一枚で約22,000円。開催日が近づくにつれてどんどんエスカレート。

コンクールなので一発勝負。オーケストラのコンサートとは異なる。高校の部の人気はすさまじいというところだろう。

2009

これをご覧くだされば、高校野球の上をいく、また、合唱の全国学校音楽コンクール約2200団体のはるか上をいく加盟団体数。加盟団体が全部当年に参加するわけではないと思われるが、とにかく、小中などベース、基盤があっての高校の部のハイレベルがあるのは一目瞭然。

全国大会高校の部出場校は29校。3700校あまりのうち全国大会に出場できるのは29校だけ。1パーセント以下の選度。

こんなに熱の入れようなのに、世間一般にあまり知れ渡らない。合唱はNHKが放送するし、高校野球もNHKそれに朝日のタイアップが完全強固。吹奏楽コンクールも朝日新聞が連盟と一緒になって開催しているのに、当の朝日もこっちのほうはさっぱり。地上波も新聞でもほぼ露出なし。

どうしたことかなと思うが、逆にいえばこれだけ団体があるということは、あまりに一般的すぎて、あたりまえすぎて、いまさらわざわざ宣伝するもんでもないのかもしれない。皆さんの身近でいつもだれかがどこかでラッパを吹いている。。

これだけ出場校が多いと精鋭29校の結果は、金賞銀賞銅賞の三賞のみ、頑張った割には一位が6校あるといった感じで異論がないわけではない。高校野球並みに白黒つけてほしいところもある。高校野球も優勝準優勝以外は、複数校の玉虫色になってしまうところもあるが。。

昔は順位をつけていた時代もあった。金賞とったよ、というのと、全国大会で3位だよ。どっちの響きがいいか思いはそれぞれなのだろうが。

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普門館に出るまでの練習はだいたい想像がつくが、12分以内で2曲で終わり。オーバーしたら失格。アドリブも即興もへったくれもなく、ただ、練習の成果だけがでる。

前にこのブログでもたびたび書いているが、金賞をとった6校が翌日、チャンピオンフラグを目指して再度戦うというのはどうだろう。金賞校があらためて演奏を行い、白黒をつけてもらう。1位から6位までだ。

スポーツのように自らの手で点数を客観的にだせるようなものではないので、ここは審査員がマジになって聴いてほしい。演奏は非常に高レベルのものではあるが、三賞の括りはある程度聴きこんでいる連中にとってはすみ分けは比較的楽なものであり、当の高校生でも普段休みなく練習をしている連中にとっては、まぁ、あんまり外れることは無いだろうと思う。

そこで、金賞が決まった翌日、審査員にもマジになってもらい、点をつけていただく。技術点、表現力、など多々の角度から聴いてほしい。普段吹奏楽をあまり聴きこんでいないと思われる審査員もいるが、そういった角度も必要は必要なので、ここは純粋に聴いてもらう。どうだろうか。

吹奏楽ファンお薦めの本。

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一音入魂!

全日本吹奏楽コンクール名曲・名演50

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一音入魂!

全日本吹奏楽コンクール名曲・名演50part2

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