河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

631‐ようやくメータが出てきた。NYP 1983.10.11

2008-06-30 00:12:46 | 音楽

昔聴いたものを書いてます。

19831984シーズンの聴いたもの一覧はこちらのリンクへどうぞ。

1983-1984シーズン

.

1

このシーズン、ニューヨーク・フィルハーモニックはクーベリックの棒で914日に幕を開けたが、肝心のミュージック・ディレクターが登場していなかった。

約一ヶ月して、今晩ようやくタクトを持った。

19831011()7:30pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

nyp10,283

.

メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲

 ヴァイオリン、イツァーク・パールマン

.

マーラー/交響曲第5

 ホルン、フィリップ・マイヤーズ

.

ズービン・メータ指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

.

どんな感じだったのかしら?

今シーズン、ズービン・メータが棒を振る最初のコンサートである。従ってかどうか知らないが、このプログラムの定期は今晩だけ。

この曲はやっぱり難しいと思う。みんなが曲を知りすぎているだけに、ちょっとしたミスにもみんな気がついてしまう。特に、ソロパートは十分練習を積んでも積みすぎるということがないように思う。トロンボーンのトップの調子が悪かった。歯切れが悪く、特にピアニッシモが良くなかった。それに比べてトランペットは実にすばらしいアンサンブルで、またソロも出だしから安定感があり音色もこの曲にマッチしていたように思う。ホルンはトップに関して言えば独特の深みのある音であった。ただセカンド以下があまり良くなかった。

.

演奏は第2楽章と4楽章が素晴らしかった。特に第2楽章の同一楽器毎のアンサンブルが良い。同一楽器毎のハーモニーが他の同一楽器によるハーモニーと完璧に分離して聴こえ、マーラーの特色がよく出ていたように思う。

また、テンポも妥当性を感じさせるものがあり、特にこの楽章の後半のファンファーレからコーダに戻るときのタイミングが絶妙であった。緩みのない素晴らしい第2楽章であり、このように強い主張を感じさせる第2楽章の演奏というのは今まであまり聴いたことがない。

2楽章以上に素晴らしかったのが第4楽章で、メータはこんなに柔軟であったかしら。いやメータの演奏は今まで聴いた中にも柔軟性を感じさせるところがあったが、こんなに柔らかで優しい解釈を第4楽章に与えるとは思ってもみなかったというのが素直な感想。

このようなロマンティックな演奏を聴くのは久しぶりである。

この第4楽章を聴くときいつも頭に浮かんでくるのは昔買った小型スコア。たった2~3ページしかないその第4楽章のページから発する弦楽器の優しい音楽。そしてページ数に逆比例でもしたかのように過ぎ去る時間の長いこと。正確な時間は分からないが、感じではバルビローリがベルリン・フィルを振ったレコードと同じぐらいかかっているような気がした。

ここでまた思い出すのがブルーノ・ワルターが同じニューヨーク・フィルハーモニックを振った古いレコードです。この指揮者に対する一般的なイメージとはまるでかけ離れていて、ものすごいスピードで音楽が進んでいったことを思い出さずにはいられない。

同じニューヨーク・フィルハーモニックでも指揮者が違えばこんなに違うのか。そんなことはわかりきっていることだけれども、実際にこのようなメータの棒による第4楽章を聴いているとつくづくそのようなことを考えてしまう。

かろうじてポルタメントは使わない、といったところまでいった極端にして大胆な演奏であった。フレーズというよりもまるで一音ずつ微妙にコントラストを作っているようであり、その陰影の中、アメリカの中にあって伝統の力といったものが見え隠れする演奏だったように思う。第1ヴァイオリンにはある種の落ち着きがあり、水中で楽器を弾いているような水っぽさがあった。またこの楽章の低弦部にも節度が感じられ、たとえば、シカゴSO.を振ったショルティのごときステージの底をえぐるような音は決して出さない。あくまでも第1ヴァイオリンに追従しているような理性的な音である。そこにはこの大編成のオーケストラのなかにあっても常にバランスを忘れない姿があり、そのような姿勢をもった演奏はやっぱり美しいと思う。

たしかにマーラーの求めていたものはワルターのような演奏であったかもしれないが、今は、メータのような演奏が実に好ましく感じられる。

5楽章にはメータとニューヨーク・フィルハーモニックの息の合ったところがよく出ていて、安定感があり、この一見ごつごつしたところのある音楽がひたすら開放に向かって、明るく輝き、求める喜びの一点に向かって進むその姿は‘音楽の中の幸福’を感じとるのに十分。やっぱり第5番を聴くとき、それはひたすら第5楽章を聴きたいためなんだなあ、とつくづく思う。

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メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。みんな裏も表も全て知っている曲だけに演奏者もあまりやりやすい曲ではないだろう。しかし、さすがパールマンのヴァイオリンは素晴らしく、特に高音のはちきれんばかりの非常に美しい音は緊張感を含みながらも柔らかさを失うことはなく安心して聴いていられる。

.

しかし

メンデルスゾーンのような曲だと、美しさがある一定の方向にしか向いていないので演奏する前から、最高に美しく表現されればどのようになるかということがある程度予測がつきあまりスリルがない。例えばシベリウスなどを演奏した場合には、こちらとしてもまたいろいろと別のことに考えを張り巡らせることができると思うのだが。

この日の演奏は、

WQXR 1984.3.25 , 3:05pm

ブロードキャストされました。

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630‐ヨッフム バンベルク ブル8 カーネギー 1983.10.6 その2

2008-06-29 21:52:14 | 音楽

ヨッフム指揮バンベルクSO.の公演の感想はここです。

627-

.

翌々日ニューヨーク・タイムズにジョン・ロックウェルさんのレビュー記事が載りました。

概ね似たような感想でした。

バンベルクSO.はオペラではなく数少ないコンサート専門のオーケストラであり、そのメリットがよく出ている演奏だと言っているのが印象的だ。

Scan10006

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ヘナハンみたいにやたらと訳しづらいものではないので、そのうち日本語にします。


629‐今週の華金ナイトはニューヨーク・フィルハーモニックのキッドゾーンで清く正しく。。

2008-06-27 00:19:34 | 音楽

A

みなさん、仕事が忙しければ忙しいほど華金の大切さが身にしみます。

土日のお休みを価値あるものにするためには、仕事も遊びも全部含め、月曜から金曜日にやってしまおう。それがサラリーマンの流儀。この気持ち、わかるひとにはわかりますよね。

金曜ぐらいは翌朝のことを考えずちょっぴり深酒をしたくなる。金曜日に大人数で酒を飲んで歩くのはどうかと思いますよ。気心知れた人と二人でお互い自分のペースで、流れる空気のように飲みたいものです。心も体も癒されたい。。

.

逆に、金曜日こそは早くうちに帰り自分の趣味などに埋没し至福タイムを楽しむという人もおります。これはこれでよくわかります。

そうですね、外で華金をエンジョイする人もたまには早くうちに帰り、子供たちとニューヨーク・フィルハーモニックのキッドゾーンで遊びましょう。

ここです。

ショックウェーブをインストしていないマシンにはインストのリクエストがきますが、あわてずに行ってくださいね。絵が出ればOK。

それでは、ナイス・ウィークエン。

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627´‐ヨッフム バンベルク ブル8 カーネギー 1983.10.6

2008-06-26 00:28:16 | 音楽

Scan10005

*昨日、ブレイキング・ニュースでこちらのほうのお話が途中になったため、泣き別れのないよう再掲から始めます。

627´‐ヨッフム バンベルク ブル8 カーネギー 1983.10.6

.

1983-1984シーズンについて書いてます。

これまでエイヴリー・フィッシャー・ホールとメトロポリタン・オペラハウスだけでしたが、リンカン・センターから河童ハウスをやりすごし、街中方面に歩いて15分ぐらいのところにあるカーネギー・ホールでもシーズンたけなわ。

.

当時の公演からひとつ。

ダサい文章ですがほぼそのまま。

1983106()8:00pm

カーネギー・ホール

.

ブルックナー/交響曲第8

(1890年版)

.

オイゲン・ヨッフム指揮バンベルクSO.

.

4楽章コーダにおいて、全てのそれまでの主題が全ての楽器によって演奏されるとき、そこにはブルックナーの名とともに、ドイツ形式音楽が全身を震えさせながら迫ってくる圧倒的な威光がある。

また、オーボエによって突然導かれる金管群の5回のアウフタクトからの咆哮。ここにはこのオーケストラと指揮者が俄然一体となった深い同一性を感じとることができる。

この再現部を聴いただけで、この演奏のとりことなってしまう。

.

この組み合わせによる同一のプログラムは約1年前NHKホールで聴いた。こうやってまたすぐに聴けるとは思ってもみなかった。

前に聴いたときは指揮自体すごく柔軟で若々しく観えたのだが、今回こうやって近くで見るとさすがに年齢は隠しようがなく手先などは震えている。

しかし、演奏のほうは以前より若々しいというか、何か感情的な思い入れの強い演奏になっていたような気がする。

たとえば第3楽章。ブルックナーのため息であり、ロマン音楽そのものだと思うのだが、これが素晴らしい。

フレーズが変わる瞬間の呼吸のタイミング。あれは練習により回数を重ねた結果ではなく、練習の回数の多さも一つの要因になっているにすぎないということだと思う。、演奏者ひとりひとりが指揮者とともに完全に曲に没頭している姿そのままなのです。

特に各主題を出した後の変奏曲ともいえる曲想のもつあやの見事な表現。これはバンベルクSO.のもつ弦の一見きらびやかで、なおかつ腰の据わった低弦に起因している。

また、第3楽章唯一の頂点ともいえる全楽器の咆哮。金管の絶叫。ここまで坂をのぼりつめるまでのヨッフムの棒の速かったこと。金管と弦がばらばらになってまでもヨッフムは表現したいものをもっていたのだ。これはフルトヴェングラー的な表現と言えるかもしれない。

そしてこのフォルテッシモの絶叫のあとの音楽はハープの音を残しながらピアニッシモに移る。なんという世界の変わりよう。そしてなんというブルックナーのため息。

そして延々5分にも及ぶ長大なコーダ。ホルンの響きの素晴らしさ。こんなに素晴らしい演奏がかつてあったか。ロマン主義の頂点に音楽が浮遊している。

前の演奏のときもそうであったが、ヨッフムはこの第3楽章が終わった後、すぐに第4楽章に移るようなことはせず、十分に間をとって感動の揺れを抑えているようだった。

.

4楽章の金管群はとりわけ素晴らしく、特に第1主題におけるトランペットの明快な演奏はあいまいさを取り除くのに十分である。

ブルックナーの場合、金管の明快さは必要なものであり、そのアインザッツ、ハーモニー、バランスはひたすら妥当性をもたなければならない。その点、バンベルクSO.の金管の実力は完全にその知名度を越えているように思われる。また全体を包み込むような弦の強力なアンサンブルは金管の咆哮をもおさえる、といった雰囲気があり、これはとりもなおさずオーケストラ全体のバランスの良さを示している。このようなとき、カーネギーホールはその音響効果の素晴らしさをいかんなく発揮する。

この曲は第4楽章のコーダに重大な意味があり、ここをあのように明確なバランスで主要主題を奏すれば、まさにその意味についてたしかに理解できるのである。前述した金管のアウフタクトから始まる5回の咆哮。これはヨッフムが以前指揮をしたことがあるベルリン・フィルとの実況録音()からさえ感じられなかったものだ。見事なアウフタクトとアインザッツの融合。呼吸の一致。

そして最後に3つの打撃音がホールに吸い込まれるとき、なんという深い感動がそこからまた生まれ始めるのであろうか。

おわり

注:

19781111

フィルハーモニー・ザール、ベルリン

ブルックナー/交響曲第8

オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィル

NHKFM1979810

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628‐ ブレイキング・ニュース

2008-06-25 00:39:30 | 音楽

ある地方の巡業公演のあと、街中のアーケード街を歩いていたら後ろから大柄のN響メンバーが歩いてきた。

即座に、持っていた文庫本を開きブランクページにサインをしていただいた。その文庫本が何だったかは河童蔵を探さないとわからないが、とにかく唯一の個人的思い出だ。

カラヤンに認められたとかいったことが先走り、とにかく著名な人ではあったが、トランペットの北村源三と同様、一曲演奏される間にかならず一か所はトチルといった印象が強い。本当にカラヤンにみそめられたのだろうか。カラヤンさん、本当だいじょうぶ?

などと逆に思ったりもしたものだが、今にして思えば、曲の全体感に重きをおくプレイヤーだったのかもしれないという思いの方が強くなりつつある。

オーケストラという大所帯の中で、個人の、それもトップのプレイヤーが、全体を見渡しその方向感を決めるような演奏をしていたというのは、やはり、すごかったということなのだろう。

技術的には、今のどのオーケストラのトップでも当時の千葉の上をいっているだろう。でも、曲、指揮者、の示すベクトルをそれらとともに一緒に示してくれるプレイヤーは今は不在。だから千葉馨の存在は大きかった。ご冥福を祈る。


627‐ヨッフム バンベルク ブル8 カーネギー 1983.10.6

2008-06-24 00:45:25 | 音楽

Scan10005

627‐ヨッフム バンベルク ブル8 カーネギー 1983.10.6

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1983-1984シーズンについて書いてます。

これまでエイヴリー・フィッシャー・ホールとメトロポリタン・オペラハウスだけでしたが、リンカン・センターから河童ハウスをやりすごし、街中方面に歩いて15分ぐらいのところにあるカーネギー・ホールでもシーズンたけなわ。

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当時の公演からひとつ。

ダサい文章ですがほぼそのまま。

1983106()8:00pm

カーネギー・ホール

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ブルックナー/交響曲第8

(1890年版)

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オイゲン・ヨッフム指揮バンベルクSO.

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4楽章コーダにおいて、全てのそれまでの主題が全ての楽器によって演奏されるとき、そこにはブルックナーの名とともに、ドイツ形式音楽が全身を震えさせながら迫ってくる圧倒的な威光がある。

また、オーボエによって突然導かれる金管群の5回のアウフタクトからの咆哮。ここにはこのオーケストラと指揮者が俄然一体となった深い同一性を感じとることができる。

この再現部を聴いただけで、この演奏のとりことなってしまう。

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この組み合わせによる同一のプログラムは約1年前NHKホールで聴いた。こうやってまたすぐに聴けるとは思ってもみなかった。

前に聴いたときは指揮自体すごく柔軟で若々しく観えたのだが、今回こうやって近くで見るとさすがに年齢は隠しようがなく手先などは震えている。

しかし、演奏のほうは以前より若々しいというか、何か感情的な思い入れの強い演奏になっていたような気がする。

たとえば第3楽章。ブルックナーのため息であり、ロマン音楽そのものだと思うのだが、これが素晴らしい。

フレーズが変わる瞬間の呼吸のタイミング。あれは練習により回数を重ねた結果ではなく、練習の回数の多さも一つの要因になっているにすぎないということだと思う。、演奏者ひとりひとりが指揮者とともに完全に曲に没頭している姿そのままなのです。

特に各主題を出した後の変奏曲ともいえる曲想のもつあやの見事な表現。これはバンベルクSO.のもつ弦の一見きらびやかで、なおかつ腰の据わった低弦に起因している。

また、第3楽章唯一の頂点ともいえる全楽器の咆哮。金管の絶叫。ここまで坂をのぼりつめるまでのヨッフムの棒の速かったこと。金管と弦がばらばらになってまでもヨッフムは表現したいものをもっていたのだ。これはフルトヴェングラー的な表現と言えるかもしれない。

そしてこのフォルテッシモの絶叫のあとの音楽はハープの音を残しながらピアニッシモに移る。なんという世界の変わりよう。そしてなんというブルックナーのため息。

そして延々5分にも及ぶ長大なコーダ。ホルンの響きの素晴らしさ。こんなに素晴らしい演奏がかつてあったか。ロマン主義の頂点に音楽が浮遊している。

前の演奏のときもそうであったが、ヨッフムはこの第3楽章が終わった後、すぐに第4楽章に移るようなことはせず、十分に間をとって感動の揺れを抑えているようだった。

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4楽章の金管群はとりわけ素晴らしく、特に第1主題におけるトランペットの明快な演奏はあいまいさを取り除くのに十分である。

ブルックナーの場合、金管の明快さは必要なものであり、そのアインザッツ、ハーモニー、バランスはひたすら妥当性をもたなければならない。その点、バンベルクSO.の金管の実力は完全にその知名度を越えているように思われる。また全体を包み込むような弦の強力なアンサンブルは金管の咆哮をもおさえる、といった雰囲気があり、これはとりもなおさずオーケストラ全体のバランスの良さを示している。このようなとき、カーネギーホールはその音響効果の素晴らしさをいかんなく発揮する。

この曲は第4楽章のコーダに重大な意味があり、ここをあのように明確なバランスで主要主題を奏すれば、まさにその意味についてたしかに理解できるのである。前述した金管のアウフタクトから始まる5回の咆哮。これはヨッフムが以前指揮をしたことがあるベルリン・フィルとの実況録音()からさえ感じられなかったものだ。見事なアウフタクトとアインザッツの融合。呼吸の一致。

そして最後に3つの打撃音がホールに吸い込まれるとき、なんという深い感動がそこからまた生まれ始めるのであろうか。

おわり

注:

19781111

フィルハーモニー・ザール、ベルリン

ブルックナー/交響曲第8

オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィル

NHKFM1979810

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626‐ ジョン・サザーランド ショー アルフレッド・クラウス ショー 連隊の娘 メト1983.10.01 その2

2008-06-22 22:37:43 | 音楽

2

前々回のブログで、サザーランドとクラウスによる連隊の娘の公演のことを書きました。

今日はその続きですが、続きと言っても、その日のことではなくオープニングからこの日までの出し物のことです。

メトの1983-1984シーズンは、1983.9.26()にトロイアの人々で開幕しました。

メトは月曜日から土曜日まで毎日、さらに土曜日はマチネーもあるので12回公演。日曜日はお休みですので、結局週7回公演をえんえんとこなしていくわけです。

19831984シーズンは1984.6.2にメトでの長い長いシーズンを終え、64日からはトロントを含むアメリカ国内公演ツアーが616日まで。そのあとニューヨーク・シティー・パーク・シリーズを619日から29日までやってめでたくこのシーズンも終了。

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このシーズンとは関係ありませんが、ちょっと話がそれますが、外国ツアーのこと。

昔はメトが日本に来ると評論家なんかはオケなどボロクソに言ってましたね。なんでこんなあまりうまくないオペラハウスがアメリカ一番なんだ、とか、やっぱりヨーロッパに比べてレベルが低い、みたいなかんじで。。

.

日本に来日にするのはいつもだいたい6月頃。

つまり、出がらし、なんです。

9月末から翌年5月末まで毎週7回火の噴くような公演をこなしているわけですから、肉体的精神的に出きった後。

燃え尽き症候群状態で、日本にくるわけです。

まぁ、演奏なんて推して知るべし。

彼らの日本のウエイトなんて、日本人評論家がアメリカの音楽に関心がないのと同じようなレベルなんですね。いいとか悪いとかではなくて、こんなもんだってこと。

1990年代に入りレヴァインがメトを使ってイエローレーベルに録音するようになって、その目の覚めるような演奏に驚いたものでしたが、こっちのほうが実は普通だったんですね。

いつもどおり話が大幅にそれました。

それで、メト19831984シーズン最初の一週間をざっと書いてます。

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1983

9.26()ベルリオーズ/トロイアの人々

9.27()ドニゼッティ/連隊の娘

9.28()ヴェルディ/運命の力

9.29()ベルリオーズ/トロイアの人々

9.30()プッチーニ/ラ・ボエーム

10.1(土マチネー)ヴェルディ/運命の力

10.1()ドニゼッティ/連隊の娘

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おもなキャスト。

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1983

9.26()ベルリオーズ/トロイアの人々

 ジェシー・ノーマン、プラシード・ドミンゴ

 タティアナ・トロヤノス、

 ジェイムズ・レヴァイン指揮

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9.27()ドニゼッティ/連隊の娘

 ジョン・サザーランド、アルフレッド・クラウス

 リチャード・ボニング指揮

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9.28()ヴェルディ/運命の力

 グレイス・バンブリー、ホセ・カレラス

 レナート・ブルソン、ニコライ・ギャウロフ

 ジェイムズ・レヴァイン指揮

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9.29()ベルリオーズ/トロイアの人々

 同9.26

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9.30()プッチーニ/ラ・ボエーム

キャサリン・マルフィターノ、ニール・シコフ

ジェイムズ・モリス、イタロ・ターヨ

ユージン・コーン指揮

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10.1(土マチネー)ヴェルディ/運命の力

 同9.28

10.1()ドニゼッティ/連隊の娘

 同9.27

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このような感じで週7回、8か月、30週以上。

ファミリーサークルでいいから1シーズンまるごと観てみたい衝動にかられる。全てを忘れ毎日オペラ通いをしてみたい。

でも、ニューヨーク・フィルハーモニックのほうが当面メインなので、あまり欲張らずペースを守りながら観て聴いていこう。

.

19831984シーズンに聴いたもの観たものは、ここにまとめてます。

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625‐ 雨季の週末はノールショッピングのブラ・カル1番

2008-06-20 00:15:18 | インポート

華金だ。

でも雨ならどうする。

まっすぐ帰る華金。

うちで聴く曲はこれだ。

.

ブラームス/ピアノ四重奏曲第1番ト短調

オーケストレーション:アーノルド・シェーンベルク

ノールショッピング交響楽団

指揮LU JIA ←読めません。

Scan10005

Scan10006

何と味わい深い曲でしょう。

演奏のほうも薄味ながら、弦がうなじのようなしっとり感で、まるで雨季の水滴でも垂れたかのように。。

さらに、おまけでついている2曲もこれまた噛めば噛むほど、といった雰囲気です。

エーリッヒ・ラインスドルフ!のオーケストレーションです。

.

それで、このCDをゆっくり聴いた後、雨があがったなら、それで深夜の街中を散歩したくなったら、これ。

クラキチのレストランガイド

.

それでは、

グッ・ナイ、

グッ・ウィークエン。

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624‐ ジョン・サザーランド ショー アルフレッド・クラウス ショー 連隊の娘 メト1983.10.01

2008-06-19 00:14:52 | 音楽

1

624 ジョン・サザーランド ショー アルフレッド・クラウス ショー 連隊の娘 メト1983.10.01

また昔話に戻ります。

19831984シーズンです。

エイヴリー・フィッシャー・ホールと角を突き合わせた、歩いて20歩の目と鼻の先にあるメトの1983-1984シーズンは926日にトロイアの人々でオープニングをむかえた。

このシーズンはメトができてから100周年。記念のシーズン。

月曜のオープニング・ナイトからこんな感じで始まった。

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1983

9.26ベルリオーズ/トロイアの人々

9.27ドニゼッティ/連隊の娘

9.28ヴェルディ/運命の力

9.29ベルリオーズ/トロイアの人々

9.30プッチーニ/ラ・ボエーム

10.1ヴェルディ/運命の力

101日は土曜日なので、運命の力はマチネー

夜がこれだった。

10.1ドニゼッティ/連隊の娘

.

926日からの豪華キャストについては次回にでも書くとして、とにかく101日の夜公演

1983101() 8:00-10:25pm

メトロポリタン・オペラハウス

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ドニゼッティ/連隊の娘

(メト47回目公演)

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Sandro Sequi 演出

.

マリー/ジョン・サザーランド

トニオ/アルフレッド・クラウス

ベルケンフィールド公爵夫人/グウィン・コーネル

       (レジーナ・レズニックがキャンセル)

ホルテンシウス/アンドレア・ヴェリス

シュルピス/アラ・バーベリアン

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リチャード・ボニング指揮

メト

アンビリーヴァブル・イヴニング。

出し物のストーリーはほぼ全く関係ない。

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マリー役のジョン・サザーランドが自分の役どころででてきた。

まだ、歌い始めていない。

メト4000人の超絶叫。

嵐のような拍手と絶叫がやまない。

やまなければはじまらない。

でもやまない。

927日公演の布石があったかもしれない、いや、むしろ、メトデビュー以来の見事な活躍を知っている聴衆たちの敬意の見事な表現だろう。

いつやむのだろうか。この超絶叫。

拍手、絶叫、床鳴らし、板叩き。

大変な夜だ。。

サザーランドが長身から下界を睥睨するような雰囲気で第一声を出す。

そのビロードのような柔らかな声。そして正確なスコアの読み。強弱の類を見ない幅。どれもこれも、なにもかもがメトの全聴衆を黙らせる。

土間、ドレスサークル、ファミリーサイクル、オペラハウスの隅々まで、清くてやや太めでシルキーな声が響き渡り、ありとあらゆるものを黙らせる。素晴らしい高音の伸びと安定感。とんでもない歌い手だ。

ウィットにとんだアリアは年齢を忘れさせるキュートさ。ときたま夫君の棒を信頼しきってみるその姿がピュアだ。

そして、だ。

このタイトルロールにぶつけるのはこの人しかいない。超絶ハイC9回を神風のごときすさまじさで歌いきったクラウス。渾身の力を込めて出し切ったトニオ壮絶な表現。

独特な少し鼻にかかったようなそれでいてラテン的透明さを備えたモスグリーンな美しい声、気品そのものといった歌う姿勢。あまりの見事さにのけぞる。

.

レズニックはキャンセルとなったが、とにかくこの二人さえそろえばなにも言うことはない。ストーリーなんてどうでもいい。

メトの天井からつるされたシャンデリアが光を少しずつ失いながらその天井にすいこまれるとき、ホールは全くの暗闇となり、序曲の始まる前から別世界に連れ去る。

オーケストラの弦がすごく重みのある音でホールをつつむとき、本当に中世ヨーロッパの雰囲気がありその世界へ浸れば良いのだろう。

金管でもそうなのだが、このオーケストラは全体のバランスがよく、ものすごい強奏といった曲想があるような曲でもないのだがホールが素晴らしくよく鳴る。

このまえのパルジファル(*これは前シーズンの話。別の機会に。)の時に多く感じたが、ステージのセットの奥行きは特筆すべきものであり、さらにステージ席から上まで上下の広がりも大きく立体感がリアル。

このなかで、華やかな衣装を着た人々がまるで中世のごときふるまうその姿をみていると、たとえば、この音楽はたいして興味のあるものではないとか、ポピュラリティーをもつにはいたらない理由がよくわかったとか、そのようなことはどうでもよくなってしまう。

ここには音楽があり、素晴らしい視界がある。ただそれだけでよくなってしまう。オペラは全く現実離れした夢のような世界だ。

聴衆の幸せそうな顔。ここには有り余るものがある。一番印象に残ったことかもしれない。

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623- メロディーの枯渇とひらめきの欠如 エルガー 交響曲第3番 2008.6.17

2008-06-18 00:46:12 | 音楽

そして、もうひとつ、付け加えるならば、形式感のわざとらしさ。

.

昨晩、TMSO東京都交響楽団の演奏する似非エルガーの交響曲第3番を聴きに行った。

(TMSO:TOKYO METROPOLITAN SYMPHONY ORCHESTRA)

.

1

.

2008617()7:00pm

サントリーホール

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シューマン/ピアノ協奏曲

 ピアノ、中野翔太

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エルガー/交響曲第3

 (アンソニー・ペイン補筆による完成版)

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ポール・ワトキンス指揮

東京都響

まず、オーケストラに苦言を一言。

音合わせぐらいもう少し丁寧にやって。。

オーボエがなんとなく音を出して、そのあと金管が、ただ、ブゥァアー、と一回鳴らすだけ。他の楽器も推して知るべし。すこし粗末すぎるぜ。

いくら、うまい楽団ほどチューニング時間が短い、とは言え、短ければ全部うまい楽団だ、というわけでもない。

大丈夫かい。TMSOさん。

最近のプログラム・ビルディングがいいのとは裏腹に一抹の不安を感じる。

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というわけで、超問題作エルガーの交響曲第3番を生で聴く機会はめったになく、これも行くしかない。

結果的には似非エルガーさんが作ったシンフォニーという思いが強くなった。

だって、第1楽章の第12主題がまともにあるぐらいで、あと4楽章までほぼ断片のみ。

エルガーの作曲とはとてもいえない。

一言、三言で言うならば、

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メロディーの枯渇とひらめきの欠如、そして、形式感のわざとらしさ。

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たとえば、最近の例でいえば、尾高さんの振ったエルガーと比べればあまりの駄作に耳をおおいたくなる。

尾高エルガーNO.1

尾高エルガーNO.2

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それで、この第3番ですが、

1楽章の落とし所のない不安定でうるさすぎの第1主題、か弱すぎて輪郭不明瞭な第2主題。

そのあとのさえない展開部。

終結部はまるで第2番第1楽章のように登りつめるが、唯一違うのは、最後、調和音のロングトーンで終わることか。なんだか音合わせを思い出した。ここだけ聴けばピッチはよく合っている。

2楽章、スケルツォ - トリオ。で、またスケルツォに回帰する雰囲気はない。なんと中途半端な曲だろう。

ロンド形式とするにはちょっと難がある。対比感がないので。。

3楽章、アダージョ楽章だが、あまりに形式感が明白すぎ、いままでエルガーはこんな感じで交響曲を作っていないので、このような明白さは第12番のあとの第3番ではなく、第1番の前の第0番というか、習作のように聴こえてくる。

4楽章、これもソナタ形式がわかりすぎで時代逆行の雰囲気。

ここ、とくにオーケストラのバランス悪し。ブラス意味なく強すぎ。うるさすぎるわ。

ただ、音の強さに比例して曲が盛り上がるわけではなく、最後のピアニシモは効果なし、というか作為的であり、曲のドラマ性がいま一つ浮かび上がってこない。

結局、第1楽章から第4楽章まで、もう一度聴いてもいいが、今聴いたものをなんにも覚えていない。ひとつぐらいわかる節だせや。。この点、ひらめきゼロだなぁ。。

やっぱり、本人の曲ではない。

これはこれで有意義ではあった。

前半のシューマンですが、オーケストラとピアニストが別方向をみているのでは?

息が合っていないというよりも、異質。

違う方向みて仕事しているのでは?

オーケストラの伴奏は歌わず、ルーチンワーク。

ピアノは、歌に無理がある。こなれていない。

指揮のワトキンスは良かったと思いますよ。わりとオーバーアクションだが、動きに無理がなく不自然さを伴わない。音楽をひっぱていく姿勢に好感がもてる。彼だからこの似非エルガーをここまで構築できたのかもしれない。共感がなければ、きっと、隙間だらけの音楽となっていたかもしれない。

おわり

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622- 蔵にある ファウスト交響曲

2008-06-16 23:21:30 | 音楽

昨日のブログでエッティンガーのファウスト交響曲の感想を書いた。

それで、あまり縁のない曲ではあるがどのくらい蔵にあるのか調べてみた。

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リスト/ファウスト交響曲

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(合唱団の記載は省略)

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エリアフ・インバル/フランクフルト放送SO.

  (T)ホルヴェーク

  1976.9.17ヘッセン放送大ホール

  NHKFM1977.7.28

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ヴォルフガンク・サヴァリッシュ/NHKSO.

  (T)ウィンクラー

  1981.5.6東京文化会館

  NHKFM1981.5.6生中継

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ゲオルグ・ショルティ/シカゴSO.

  (T)エルサレム

  1986.1オーケストラ・ホール

  LONDON 417 399-2

.

ゲオルグ・ショルティ/シカゴSO.

  (T)エルサレム

  1986.1オーケストラ・ホール

  WNCN1987.1.25

.

ピンカス・スタインバーク/オーストリア放送SO.

  (T)コップ

  1991.10.16ウィーン楽友協会

  NHKFM1992.8.30

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ダニエル・バレンボイム/ベルリン・フィル

  (T)ドミンゴ

    1998.36.フィルハーモニー

  TELDEC 3984-22948-2

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レナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィル

  (T)ブレッスラー

  1960.11.7マンハッタンセンター

  SONY SMK47570

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ジャナンドレア・ノセダ/BBCフィル

  2005.8.31, 9.1

ニュー・ブロードキャスティング・ハウス

CHANDOS CHAN10375

テープのものは今すぐに取り出すということはできない。

なにしろ、有形文化財のDATだ。

ちなみに録音済みDAT1500本ぐらいあるから、最低300万円ぐらいなら放出してもいいかな。やっぱり駄目だ。内容的には商売始めれば1000万円ぐらいにはなるなぁ。

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蔵の録音ではバーンスタイン/ニューヨーク・フィルのものが意外性がある。

この曲の解釈としては昨日のエッティンガーのように急きたてる演奏と、どっしり構える演奏があるように思える。どっちがいいとかわるいとかではなくて。。

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有形文化財のDATDATデッキの配線を今はしていないだけなので、これを機にうどん配線をしてフランクフルト放送SO.でも聴いてみるか。昔のインバルはいろんな曲を振っているので、これも面白いかもしれない。

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621‐ 2万パーセント・バレンボイム エッティンガー ファウスト交響曲 2008.6.13

2008-06-15 19:00:44 | 音楽

 





1983-1984シーズンの演奏会通いの模様を書きはじめたところでしたが、ちょっと中断して、先週の演奏会の模様からひとつ。

2008年6月13日(金) 7:00pm サントリーホール

ワーグナー タンホイザー序曲
シューベルト(リスト編) さすらい人幻想曲
 ピアノ、小川典子
(アンコール)リスト/カンパネルラ

Int

リスト/ファウスト交響曲
テノール、成田勝美
 新国立劇場合唱団

ダン・エッティンガー 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


長いコンサートだった。
バレンボイムの棒は、ピットのときは棒は見えないがそれもいれて、とにかく山のように観ている。
エッティンガーの振り姿は2万パーセント、バレンボイムそっくりだ。モノマネを越えた異常なほどのうり二つ。いくらバレンボイムの助手とはいえここまでそっくりになってしまったのも珍しい。ゴルフの尾崎そっくりになってしまった丸山どころの比でない。
右手左手右足左足しぐさアクション、要するに体全部がバレンボイムそのものだ。
バレンボイムの影響力の凄さもさることながら、日本人でもないのにこんなに真似しちゃっていいのかな。

それでは演奏の中身はどうかというと、ワーグナーがタンホイザー序曲だけでは具合は分からないが、今日のメイン、リストのファウスト交響曲を聴く限り、4万パーセント・バレンボイムだ。何がそっくりかというと、劇的なものをものの見事に表現するあたり。
後ろ姿と演奏はそこにバレンボイムがいる。

リストのファウスト交響曲を生で観聴き出来る機会はめったにない。
やっぱり行くしかない。
タイミングはこんな感じ。(実測)
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第1楽章ファウスト 33分
第2楽章グレートヒェン 20分
第3楽章メフィヅトフェーレス 17分
終結部 神秘の合唱 7分

ポーズもいれて約80分の大曲となってしまった。
楽章が進むにつれてかかる時間は短くなり、音楽の充実度は逆に高まっていく。だから音楽はいらないところもいるところも、うまく補てんされているわけだ。
第2楽章が少し弱い気もするが、リスト特有のドライなロマンティシズムがそれなりに味わい深い。
第3楽章の駆り立てる表現、終結部の大きなふちどりにもっていくあたり、バレンボイムの陶酔のトラップにはまったエッティンガーの真骨頂なのだろう。これはこれで大変にエキサイティングにして劇的、見事な表現であった。

曲の解説は解説者に任せるとして、それにしても第1楽章の無調的、12音的進行はそれまでのリスト(のことなんて知らないが)とはだいぶ様相が異なる。音階の進行は面白いが、ソナタ形式のほうは耳が探しているあいだに終わってしまう。こっちは面白くない、というわけではないので、だから第1楽章が30分以上かかっているのにそんなに長い気がしない。
なじみやすいがゴツゴツした不器用な主題であり、お世辞にも流麗とは言い難い音楽が続くが、ここらへん聴きこむしかない。第1楽章が終わったとたんに10名ほどの聴衆が退場した。わけがわからなかったのだろう。標題音楽ならば、その模様をステージ右左に字幕として映し出すといった荒技も必要なのかもしれない。
第2楽章はリスト特有のウェットではない乾いた音楽表現となっているあたり、馴染めないというか感情移入が出来ないというか、そのせいだけでもないと思うが、少し長く感じる。エッティンガーのほうは逆にかなり込めた音楽を作っている。聴衆に理解を促すこういった姿勢は指揮者にはとても大切なことだとあらためて実感。音楽のまとめは次の楽章を予感させる見事なものだ。
第3楽章は必要以上の盛り上がりというか、第2楽章もそうだが、結局、第1楽章の展開であり、主題が1個しかないような状況下で、急きたてるように盛り上げていかなければならないのもつらいところではある。この楽章の盛り上がりは異常であり加速する音楽、オーケストラはかなり乱れたものの、音楽表現としては正解。この加熱する音楽がフィナーレでないことは、テノールと合唱がまだ声を発していないからわかるだけではなく、安定、調和がいまだ解決していないと自然に感じることができる。のでわかるというものだ。
終結部になってはじめて、第2楽章が終わったポーズのところで入場してきたテノールの成田さん、新国立劇場の男声合唱団20人ほどの声を聴くことができる。
テノールのソロはかなりのハイトーン連発。ちょっとひっくり返り気味のところもあったが彼でなければファルセットで歌われてもしょうがないのではないか。2月に行われたワルキューレの熱演を思い出す。
男声合唱はエッティンガーの解釈についていっていない。
それやこれやであったが、吹き上げるような大団円を見事に作り、明確な構成感を鳴りきった音楽で示した演奏であった。聴衆のブラボーコールはいつもどおり早すぎて余韻を楽しむ空白がなかったのが非常に残念。日本人の悪い癖はいつでもどこにでも顔を出す。

前半のさすらい人幻想曲は例の無骨な節まわしがリストっぽい。本日のプログラムビルディング、ストーリー性という点では、全体の流れをとらえたいい選曲。
表面づらへこびない小川さんの演奏態度には好感がもてる。硬さではなく真摯さが演奏表現にあらわれる。
通路を隔てた隣に座っていたおじさんが小川さんが出てくるなり曲が終わるまで固まっており、演奏後かなり叫んでいたがそうとうなファンなのだろう。
アンコール・ピースが絶品で、コンツェルトよりもこちらのソロのほうがうったえかける力、表現の幅がより明確。リサイタルで思いっきり力が出る実力派。聴衆が喜ぶのも無理はない。思わぬアンコールであった。

最初の曲のワーグナーでエッティンガーのワーグナー実力を確かめることはできないが、既に日本も含めかなりオペラ公演を積んでいるので、余裕の選曲なのだろう。縦の線よりも全体の流れにポイントを置いた劇場型の棒だ。
この最初のワーグナーから、さすらい人、アンコール、休憩、ファウスト交響曲まで、3時間に迫ろうという演奏会。最近では珍しい。
ファウスト交響曲だけで一晩もたせてもおかしくない時代ではあるが、たまにこのような長丁場もいい。
なによりも指揮者が長いのを苦にしていないのが見てとれるし、手ごたえ十分の演奏会であった。
おわり

 

 


620‐ラッパ吹きがタバコを吸っていいのか。NYP 1983.9.20 その2

2008-06-10 00:02:24 | 音楽

620‐ラッパ吹きがタバコを吸っていいのか。NYP 1983.9.20 その2

2_19830920

前回、1983920日のニューヨーク・フィルハーモニックの模様を書きました。

そのときのプログラムの見開きにある広告が、たばこ。

なんというか、なんとも言えない香りの広告です。

この時すでに、健康のために吸いすぎに注意しましょう、という文字が見えるので、やっぱり進んでますね。

この時代、日本だと、サラリーマンは、まだ、自分の机でタバコを吸えた時代ではないでしょうか。

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肺を酷使する管楽器の連中でもタバコを吸う人間がいるが、あれは体に良くない、というか音楽演奏に良くない。昔はブラバンの管楽器高校生も吸ってる人間がいたりしたもんだが、あれは表現音楽に悪影響をもたらす。清い音楽表現には透き通った肺が必要だ。

タバコを吸う歌手もいるが、あの超絶テノールのヴォルフガンク・シュミットってヘヴィー・スモーカーじゃなかったかしら。。こうなると手に負えない。

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ということでその昔から、マガジンや小冊子にはよくタバコの広告がでていたんですね。

いくら悪くても、その誘惑には勝てないということか。

下の写真は、1934113日のニューヨーク・フィルハーモニック公演プログラムの裏表紙。

3_19340113

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619‐NYP クーベリック エロイカ 1983.9.20

2008-06-08 23:09:21 | コンサート
前回までのブログでニューヨーク・フィルハーモニックの1983-1984シーズン・オープニング・コンサートのことを書きました。
ということは、またこのシーズンもはじまりです。
オープニング・コンサートは単発公演ですが、翌日からはいつものように週4回の公演となります。

1983年9月15日(木)8:00pm 第10268回
1983年9月16日(金)2:00pm 第10269回
1983年9月17日(土)8:00pm 第10270回
1983年9月20日(火)7:30pm 第10271回 出席
エイヴリー・フィッシャー・ホール

ウィリアム・シューマン 交響曲第10番アメリカン・ミューズ

ベートーヴェン/交響曲第3番 エロイカ

ラファエル・クーベリック 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
週4回というのは、こんな感じ。
木曜日8:00pm
金曜日2:00pm
土曜日8:00pm
火曜日7:30pm
これが、ほぼ毎週繰り返されます。
同じ曲を4回演奏しなければならないが、いつまでもそのフレッシュさを感じさせてくれるのも指揮者の技量なのだろう。
河童のシーズンチケットは4回目のものなので9月20日の公演ということになる。
その4回目の演奏はどうだったの?
エロイカ第1楽章再現部における楽員の音楽への、のり。
本当に乗りにのった素晴らしい演奏であった。ラファエル・クーベリックとともに。
クーベリックの容姿とくに左手の動きは全くフルトヴェングラーそのものである。まさにドイツ音楽、フルトヴェングラーの精神的後継者ともいえるクーベリックの指揮によるエロイカを聴いたといえる。
第1楽章再現部における溢れ出るような音楽、流れ出るような音楽。生を感じさせる。本当に素晴らしく即興性にあふれた生きた音楽であった。
最初の二つの強打から始まった音楽はもうすでにその時点で生き生きしていた。第1主題とその背後で小刻みに震える弦の生き生きした表現。この時点でただひたすら快調。言葉ではあらわせない。とにかく聴いてくれと言いたい。
そしてこの第1主題の快調なテンポが第2主題に移った時の急激なテンポの変化。こんな落差のあるエロイカなんて、第1主題と第2主題のテンポの差がこんなに大きい演奏なんて、ほかにあっただろうか。フルトヴェングラーの第2主題はもっとおそいかもしれないが、第1主題は第2主題に限りなく近くおそい。
いずれにしろ、このように極端に第1主題と第2主題のテンポが異なるのに何故、音楽はひたすら流れるのであろうか。
クーベリックにはこのように前進する音楽はよく合っているのではないか。アウフタクトよりもどちらかというと、欲しいその音に対して非常な力点があり、特別に強烈なアタックがその音にのしかかっているわけではないが、みんなその音に集中するため、ひたすら前進する力強さを感じる。そして、のってくるとその左手がフルトヴェングラー的としかいいようのない動きとなる。
この第1楽章は本当に素晴らしい演奏でした。出だしからホルンはフォルテシモは全て破裂音であり、それは第4楽章の例のコーダまで全く変わらず、本当に迫力がありドイツのいたるところにある馬に乗った中世騎士のような勇壮な姿が目前に浮かんでくる。このニューヨーク・フィル相手に、というか、へんなきらびやかさと軽さがまるで感じられないのがまたよい。
それは次の第2楽章のしっとりとした音楽にもよくあらわれてた。指揮者がかわると音楽ばかりではなく音そのものまで変化する。
この暗くて迫力に満ちた音楽性。これをきいて瞬時に思い出すのは、同じくクーベリックがベルリン・フィルを指揮した録音。ここには暗く流れる音楽がある。ここでどうしてもフルトヴェングラーとの音楽の違いを感じないわけにはいかない。
フルトヴェングラーはもっとテンポがおそく、ひとつひとつの音をかみしめながら歩いている。彼の場合、歩いていると言ったほうがふさわしい。従って第2主題が現れた時や、中間部など前と変わらないテンポであり、その音色の持つ劇的なものの変化で聴衆を魅了する。このようなことを考えるとき、フルトヴェングラーは全く葬送行進曲にふさわしい音楽作りをしていたといえる。
クーベリックはその点ちょっと異なっていて言葉ではうまく表せないが、一言で言うとフルトヴェングラー風の悲劇性を感じさせない。どちらかというとアンサンブルのあやの方に興味がいく。ついドヴォルザークのような音楽と歌を感じてしまう。
この感触は言葉ではうまく言い表せないが別の例をひきだすと、バルビローリ/ベルリン・フィルによるあのマーラーの9番の第1楽章を聴くとき、実にすばらしい音楽に浸れる幸せは感じさせてくれるが、これがクーベリックで聴くとその上に何か非常に現代的なものに近づこうとするマーラーの姿が明晰に浮かんでくる。例は良くないかもしれないがとにかくこの葬送行進曲を聴いているとこのようなことを強く感じる。実演でなお一層その感を深くしたのだから、あながち今まで考えていたことがそんなに間違っているようなこととも思えない。クーベリックの音楽はレコードで聴く場合とはそんなに極端な差異はなく、逆に自分で感じていた認識を深める方向に持っていってくれる。従ってこれがマーラーなどのように、より大胆な表現が許容されるような音楽にいたるにつれて、さらに説得力を持つのはよくわかる。
大胆さの持つ説得力。これは一つ間違うと表面的なものに終わってしまう場合がえてしてあるものなのだが、そのような演奏では大局的に曲をみた場合、不自然な造形を持つものなのだ。彼の場合にはそのようなことはないので、局部的なはったりではなく、全体に与えるその一部分の必然性をいやがおうでも感じてしまう。
第3楽章で強く思うのは、あの第1楽章と同じようにアウフタクトよりも、ひたすら次の小節の一拍目にかかる音の集中力。弦などは次のリズムに移る前の小節などは不揃いになり音が濁ったりするのだが、これは彼らが出来ないからなのではない。それならばなぜ次の小節からかくのごとき集中力のあるまるでトーンクラスターのような音楽が発生するのか。ホルンの強奏はあいかわらず音を全て割って吹いている。オーケストラ全体の上にひたすらさんぜんと光り輝いている。ものすごい迫力だ。
第4楽章の流れるような変奏曲。まるで第1楽章の再現部から続いてでもいたかのように。ここにきて我々はただひたすらこの二拍子の変奏曲の音のあやに身を任せていればよいのです。手をちょっと下げ気味にしてひたすら二拍子を振る姿。あのような単純さがしばしば深い感動をもたらす。それにのりにのったニューヨーク・フィルに対しても拍手を惜しんではいけない。俗に言われているあまりよい意味ではないアメリカ的なもの、それがここには全くない。ここにあるのはひたすら力点に向かうその集中力だけなのです。このような姿はやっぱり美しいものだと思う。集中力の持つ美しさ。それを引き出すクーベリック。実にすばらしい。
そして最後のゆっくりした変奏曲。ここで音楽は少し休み、そしてあいかわらずホルンは素晴らしく光り輝き、そのままコーダへと移る。ここは完全にホルンの独壇場。何かに取りつかれた迫力。ド迫力。そしてほかのすべての楽器が、それにまとわりつくように前進するその姿。本当にエロイカにふさわしい音楽である。
.
さて、最初に演奏されたウィリアム・シューマンのシンフォニー。
とにかく初めて聴く曲。予備知識‘ゼロ’。
しかしその構成といい長さといい全く現代にアピールする曲だと思う。現代という時代音楽において、その歴史的価値を判断することほどばかげていることはないと思う。素朴に、与えられた曲について考えてみることだ。
第1楽章は、なぜかマーラーの交響曲第8番の第1楽章を思い出してしまった。まるでなにかの前奏曲のようなひたすら明るく輝く音楽。たまに異常に澄んだハーモニーが出てくるのも印象的であった。とにかく対位法的なものが明晰でそれぞれの楽器が異なったメロディーをかなでる姿は味わい深い。これだけの大編成でこれだけはっきりした音楽を作ることができるということは、やっぱり何かうったえかけるものを素直に感じとるべきだろう。第1ヴァイオリンは1プルトが多くて、これはこの曲についてだけかなと思ったら、次のエロイカでもそのままであった。
曲全体は3楽章形式のようなのだが、第3楽章の最初はスケルツォみたいな雰囲気であり、実質4楽章形式である。その第4楽章にあたる最後の部分は光り輝くオーケストラが対位法的な説得力をもって迫ってくる。
シンフォニーにおいてこの4楽章形式はひたすら崩れる必要はないと感じる。メロディーは、ハーモニーは失ったかもしれない。しかしこの形式がまだ続いているというのは興味深い。
最後に、ニューヨーク在住のウィリアム・シューマンがステージに現れて拍手にこたえていた。

以上、全く稚拙な文章だが、妙にリアルだ。その時そう感じたのだろう。などと他人事みたいなことをいってもしょうがない。
なお、この4回定期は、WQXRでオンエアーされた。
WQXR
1984年1月8日(日) 3:05pm

このときはエアチェックをしていなかった。
どこでどうさまよっていたのだろう。
真冬なので、週末のチャリジョギングはしていないはずだし。
別の河童日記をひらくのは別の機会だ。。
おわり